著者
西田 かほる 井上 智勝 岩城 卓二 梅田 千尋 志村 洋 中川 すがね 幡鎌 一弘 東谷 智 山崎 善弘 引野 亨輔 松本 和明
出版者
静岡文化芸術大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2013-04-01

夷信仰の拠点である西宮神社(現兵庫県西宮市)が所蔵する江戸時代の日記や神社文書、宮司家文書を翻刻することにより、西宮神社の活動と神社に付属する宗教者の実態を明らかにすることができた。同時に、全国の夷社人関係の史料を調査することにより、その地域分布と差異を明確にすることができた。このほか、西宮神社が所蔵する近代の日誌のデジタル撮影を行うことによって、今後の研究の体制を整えた。
著者
松本 和明
出版者
京都産業大学マネジメント研究会
雑誌
京都マネジメント・レビュー = Kyoto Management Review (ISSN:13475304)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.85-102, 2021-03-31

渋沢栄一の絶大なる信頼を受けてビジネスパートナーの一人として活躍し,「渋沢の股肱」(実業之世界社編輯・発行『財界物故傑物伝』1936 年)と評された,長岡出身の梅浦精一の足跡と活動について考察していきたい.梅浦は長岡藩医の脩介の長男として生まれた.脩介は長岡藩の藩医を務め,東洋,西洋医学ともに長ずる,先進的でかつ優れた漢蘭折衷医であった.梅浦は漢学にも造詣が深かった脩介の影響を強く受けて幼少期から学問への興味を抱き,刈羽郡南条村で藍沢南城が主宰していた三余堂で漢学を学び始めた.続いて,長岡藩の代表的な儒学者である山田愛之助に師事してオランダ語を学んだ.周知のとおり,山田は崇徳館の教授・都講として,小林雄七郎さらには外山脩造も指導した.雄七郎と外山は梅浦の生涯に大きな影響を与えたが,彼らとの関係構築は山田の門人となったことが大きなきっかけであった.その後,江戸に出て西洋医学を学ぶものの,学費が続かなくなり,洋学に転じた.1872 年に大蔵省に入り,A・シャンドの指導のもとで,小林雄七郎などとともに,近代複式簿記の翻訳を『銀行簿記精法』として完成させた.これの普及に尽力した1 人が外山である.1873 年には新潟県令の楠本正隆から招かれて一等訳官に着任した.あわせて楠本の主導により創設された洋学校である新潟学校の責任者を担い,学生に加えて教員にも英語を講じた.同校は新潟県の中等教育機関の嚆矢である.さらに,長岡洋学校の後継である新潟学校第一分校でも教????をとっている.
著者
松本 和明
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.126, no.3, pp.1-38, 2017

本稿は近世畿内近国における大坂町奉行所による寺社支配について、京都・大坂両町奉行所間での元禄五年(一六九二)寺社改めの意図・方式の差異を確認し、従来の理解に対して再考を促すとともに、その差異をふまえ近世中後期における奉行所寺社支配の実態を追究することを目的とした。<br>第一章では、京都・大坂両町奉行所における寺社改めの意図・方式を確認した。その結果、京都町奉行所支配国においては「一宗之寺社本末由緒」改めを目的に、主に本末関係に依拠した方式で作成が指示された結果、多くの場合本末関係の把握にとどまったこと、対して大坂町奉行所支配国においては「寺社敷地境内間数」改めを目的に、個別領主・町在・寺社人が関与する方式で作成され、すべての寺社の詳細が把握されるというように、両奉行所間において目的・方式・結果いずれも差異が生じたことを明らかにした。<br>第二章では、まず摂津国武庫郡西宮社に即して寺社改帳と寺社支配との関係を編年的に分析し、そのうえで支配国内における他寺社の公事訴訟と寺社改帳との関係を追究した。さらに、寺社改めのあり方と関連づけて享保七年(一七二二)の国分けや、寺法・社法出入の再評価を試みた。その結果、①寺社改帳は公事訴訟や諸届けに奉行所が判断を下すための台帳であるが、②大坂町奉行所支配国では幕末期まで元禄寺社改帳が寺社台帳として機能し続けるいっぽう、京都町奉行所支配国ではかかる事例を追跡しがたい、③寺社支配のあり方は寺社改めの意図・方式に規定されており、国分けの際の寺社支配権分割や、寺法・社法出入など寺社改めでは把握できない案件もそれとの関係のなかで理解する必要がある、とした。<br>以上の分析から、元禄五年寺社改めの歴史的意義は畿内近国固有の施策として把握されるべきであること、そして大坂町奉行所寺社支配のあり方は寺社改めの方式に規定されたものであり、かかる視座は寺社支配の実態・全体像の把握にもつながる、と結論づけた。