著者
森 修一 石井 則久
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.76, no.1, pp.29-65, 2007-02-01 (Released:2010-03-12)
参考文献数
135
被引用文献数
1

ハンセン病政策と医学の関わりに焦点を当て、特に隔離政策について、日本の隔離政策の独自性と世界の政策との共通性を考察した。世界のハンセン病史、欧州の隔離の歴史を考証し、近代医学が隔離を提唱する背景と日本の隔離に与えた影響を歴史的、医学史的に検討した。また、絶対隔離政策進展の経過とその背景、プロミン以降の世界の隔離、日本に於ける隔離継続の要因を考察した。
著者
森 修一
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.73-90, 2018 (Released:2018-12-05)
参考文献数
56

Isolation of leprosy patients beginning in the Middle Ages of Europe was a religious isolation based on the doctrine of Christianity. It was terminal care with compassion for the purpose of protecting the patient, but the patient had to finish his life in Lazaretto. This aspect deeply engulfed people the image of leprosy as diseases isolated, diseases of fear, dark and dusky. A plague epidemic starting in the 14th century became the greatest tragedy in European history, and one third of the population died out. Pest epidemic continued until the 18th century, and cholera also became popular from the 19th century. In the epidemic of plague and cholera, in Europe, developed public health policies mainly against measures against infectious diseases and opposed it. As a result, the European public health policy was forced to sacrifice minorities with the aim of maximizing maximum happiness, and was established in the 19th century with the development of bacteriology.   Leprosy was prevalent in the 19th century in Canada, Hawaii, Norway and Germany. It began with management as a genetic disease at the beginning, became to be considered as an infection eventually, Mycobacterium leprae (Lepidoptera) was discovered by Hansen in 1873, and then overcome by overcrowding as a public health policy I was tried. Isolation was strict, but protection was also secured by Christian missions and isolation aimed at terminal care was also done. The former strongly aimed at transition from religion to science mainly in the United States, scientific measures were taken based on the “International Conference”. The latter was centered on British Christianity mission, with the dignity and compassion of human being the center of its activities. Two isolation became the tide of the world in the modern age, eventually leading to the trial of the isolation policy based on science and compassion.   Chemotherapy starting with Promine in 1943 changed Hansen’s disease from incurable disease to diseased disease, science learned from the spirit of religion, changed the isolation as public health policy, religion was a remedy for patients who respect scientism , Aiming to escape from the concept of isolation in the Middle Ages. Eventually, this result fruited as WHO’s measures against leprosy, isolation policy shifted to outpatient treatment, and WHO policy of multidrug therapy (MDT) began in 1981. With the progress of this policy, the number of leprosy patients worldwide has drastically decreased, and in 2010 only one country where leprosy is a public health problem became one country. It was also the end of the history of the tragedy of leprosy for thousands of years.   The history of leprosy gave humanity a number of tragedies, but the way to overcome it has given us a lot of lessons. Today, utilizing what we learn from the history of leprosy to the future will be our mission living in the era when leprosy is about to be overcome. In this paper, while examining the process of religion and science overcoming leprosy, I will clarify the history of leprosy and I would like to think about the significance of telling the history as archives as a history.
著者
森 修一 加藤 三郎 横山 秀夫 田中 梅吉 兼田 繁
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.72, no.3, pp.217-237, 2003 (Released:2007-11-30)
参考文献数
76
被引用文献数
1

本研究は戦前、日本に唯一存在したハンセン病患者の自由療養地である群馬県吾妻郡草津町湯の沢部落の社会科学的分析の中から、何がハンセン病患者の隔離の二つの側面である「迫害されている患者の社会の圧力からの保護」と「感染源である患者からの社会の防衛」のダイナミズムを後者への優位に導いていったのかを明らかにすることを目的とするものである。その過程は湯の沢部落の実態の解明(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究1、II」)、自由療養地議論の展開と消滅の過程の検証と湯の沢部落の関わり(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究III」)、湯の沢部落消滅後にその精神が日本の隔離政策に与えた影響(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究IV」)などの研究の総体である。本稿では自由療養地構想から絶対隔離政策への変遷過程を国会での議論、内務省の政策およびその意思決定過程、自由療養地議論の中の湯の沢の役割、などから描いた。加えて、自由療養地を望む患者たちの意見とその背景を示すと共に世界の隔離政策と日本の隔離政策をその歴史的過程を含みながら対比、考察した。
著者
森 修一 加藤 三郎 横山 秀夫 田中 梅吉 兼田 繁
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.27-44, 2003 (Released:2007-11-30)
参考文献数
22
被引用文献数
1

本研究は戦前、日本に唯一存在したハンセン病患者の自由療養地である群馬県吾妻郡草津町湯の沢部落の社会科学的分析の中から、何がハンセン病患者の隔離の二つの側面である「迫害されている患者の社会の圧力からの保護」と「感染源である患者からの社会の防衛」のダイナミズムを後者への優位に導いていったのかを明らかにすることを目的とするものである。その過程は湯の沢部落の実態の解明(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究1、II」)、自由療養地議論の展開と消滅の過程の検証と湯の沢部落の関わり(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究III」)、湯の沢部落消滅後にその精神が日本の隔離政策に与えた影響(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究IV」)などの研究の総体である。本稿では湯の沢部落の歴史を描き、その変遷の過程における住民たちの努力、キリスト教者たちの活躍を描くと共に、国家によるハンセン病政策の変遷、特に明治期からの隔離政策と湯の沢の関係が密接である点を示した。またここに、逆境下でも人間はいかに生きようとするのか、何を望むのかを描き、自由療養地の価値をそこに示した。
著者
森 修一 加藤 三郎 横山 秀夫 田中 梅吉 兼田 繁
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.73, no.1, pp.47-63, 2004 (Released:2007-11-30)
参考文献数
26

本研究は戦前、日本に唯一存在したハンセン病患者の自由療養地である群馬県吾妻郡草津町湯の沢部落の社会科学的分析の中から、何がハンセン病患者の隔離の二つの側面である「迫害されている患者の社会の圧力からの保護」と「感染源である患者からの社会の防衛」のダイナミズムを後者への優位に導いていったのかを明らかにすることを目的とするものである。その過程は湯の沢部落の実態の解明(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究I、II」)、自由療養地議論の展開と消滅の過程の検証と湯の沢部落の関わり(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究III」)、湯の沢部落消滅後にその精神が日本の隔離政策に与えた影響(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究IV」)などの研究の総体である。本稿では戦後、栗生楽泉園から始まる患者運動を通して、湯の沢で培われた精神は楽泉園内でも生き続け、患者運動の戦端を開き、「特別病室」を廃止、職員の不正を暴き、やがて多磨全生園と共闘し、「全国癩療養所患者協議会」を生み、絶対隔離政策と対峙する力を形成する様相を描いた。併せて、「特別病室」設置の背景、戦中を中心としての療養所内の混乱の様相とその要因を述べた。
著者
森 修一 加藤 三郎 横山 秀夫 田中 梅吉 兼田 繁
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.11-25, 2003 (Released:2007-11-30)
参考文献数
15
被引用文献数
2 1

本研究は戦前、日本に唯一存在したハンセン病患者の自由療養地である群馬県吾妻郡草津町湯の沢部落の社会科学的分析の中から、何がハンセン病患者の隔離の二つの側面である「迫害されている患者の社会の圧力からの保護」と「感染源である患者からの社会の防衛」のダイナミズムを後者への優位に導いていったのかを明らかにすることを目的とするものである。その過程は湯の沢部落の実態の解明(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究I、II」)、自由療養地議論の展開と消滅の過程の検証と湯の沢部落の関わり(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究III」)、湯の沢部落消滅後にその精神が日本の隔離政策に与えた影響(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究IV」)などの研究の総体である。本稿では湯の沢部落がどのようなコミュニティーであったのかを概説した。ここで見る湯の沢部落は、病者の集団というイメージではなく、一般人のコミュニティー以上に活気があり、自治のシステム、施設等が完備された先進的なコミュニティーであった。
著者
川村 慎一 木村 剛生 大森 修一 奈良林 直
出版者
一般社団法人 日本原子力学会
雑誌
日本原子力学会和文論文誌 (ISSN:13472879)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.12-20, 2016 (Released:2016-02-15)
参考文献数
9
被引用文献数
4

A filtered containment venting system was developed for nuclear power plants. In the Fukushima Dai-ichi Nuclear Accident, widespread land contamination was caused by cesium-137. This system was developed to filter aerosol particles and reduce the amount of radioactive particle release, while protecting the primary containment vessel from over pressure by venting gas from the vessel. Performance tests were conducted under various vent gas flow rate conditions to ascertain decontamination factors for aerosol particles with various diameters. It was observed through the tests that aerodynamic diameter was a good index for characterizing various aerosol particles for the filtered containment venting system. Test results showed that the decontamination factors were well over 1,000 for aerosol particles with aerodynamic diameters larger than 0.4 μm. For aerosol particles with aerodynamic diameters larger than 0.2 μm, the decontamination factors significantly increased with the diameter. This suggested that inertial deposition was the governing mechanism for filtering aerosols in this system. The decontamination factor of the water scrubber section of the filter increased with the increase in Stokes number.
著者
森 修一 石井 則久
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.69-90, 2017 (Released:2017-08-18)
参考文献数
52
被引用文献数
1

日本のハンセン病政策は1907年の 「癩 (らい) 予防ニ関スル件」 の施行に始まるが、患者隔離は1909年の連合府県立 (国立) ハンセン病療養所 (以下、療養所) の開設からであった。本政策は1996年の 「らい予防法」 廃止まで継続され、約35,000人 (実数、推測値) が隔離を受けたが、その入退所動向の全容は未だ明らかではない。本研究では国立療養所の入退所動向を解析し、日本のハンセン病政策の実態を明らかとすることを目的とし、1909年から2010年まで102年間の入退所者数とその内訳を各国立療養所の年報や内部資料を収集し、内容を検討し、項目などを統一した上で、年次ごと、ハンセン病に関するそれぞれの法律の施行されている期間ごとにその内訳を集計した。その結果、102年間の総入所者数 (入所、再入所、転入を延べ数として集計した) 56,575人、総退所者数 (転所、軽快退所、自己退所、ハンセン病でない、その他を延べ数として集計し、死亡者数を加えた数) 54,047人 (死亡 : 25,200人、転所 : 4,350人、軽快退所 : 7,124人、自己退所 : 12,378人、ハンセン病でない : 310人、その他 : 4,685人) であった。法律ごとの内訳は、 「癩予防ニ関スル件」 (1907年―1931年) では総入所者数12,673人、総退所者数9,070人 (死亡 : 3,496人、転所 : 197人、軽快退所 : 79人、自己退所 : 4,824人、ハンセン病でない : 55人、その他 : 419人) 、 「癩予防法」 (1931年―1953年) では総入所者数31,232人、総退所者数23,354人 (死亡 : 11,559人、転所 : 488人、軽快退所 : 2,087人、自己退所 : 5,848人、ハンセン病でない : 247人、その他 : 3,125人)、 「らい予防法」 (1953年―1996年) では総入所者数12,098人、総退所者数18,159人 (死亡 : 7,654人、転所 : 3,450人、軽快退所 : 4,412人、自己退所 : 1,558人、ハンセン病でない : 8人、その他 : 1,077人)、 「らい予防法廃止に関する法律」 (1996年―2009年) では総入所者数572人、総退所者数3,464人 (死亡 : 2,491人、転所 : 215人、軽快退所 : 546人、自己退所 : 148人、ハンセン病でない : 0人、その他 : 64人) であった。今回の研究から日本の隔離政策下での入退所動向の全容がはじめて明らかとなった。
著者
森 修一
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.86, no.3, pp.189-211, 2018 (Released:2018-08-29)
参考文献数
20

ハワイでは19世紀半ばからハンセン病の蔓延が始まった。これに対してハワイ王国政府は1865年に公衆衛生政策としての隔離を決定、モロカイ島のカラワオを療養地とし、患者移送を始めた。患者の発見は密告と逮捕により行われ、容赦なくモロカイ島に送られた。政府は当初、カラワオで患者が自給自足する農業コロニーを目指したが、地理的特性や予算不足などが要因となり、農業コロニー構想は失敗し、カラワオは無法地帯となり、多くの混乱が生じた。1873年にはダミアン神父がカラワオに赴き、患者の救済を開始、政府との交渉にも務め、混乱は収拾された。その後、ハンセン病対策費の増加、治安システムの整備などによりカラワオには治安が確保され、療養地は近接するカラウパパへ拡がり、その拡充と制度の整備の過程とアメリカ合衆国の関与の中でハワイでは隔離政策が進展していった。
著者
橋口 浩之 山本 真之 森 修一 高橋 幸弘
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2011-04-01

降水メカニズムの解明には、降水量だけでなく、雨滴粒径分布(DSD)の計測による降水物理量の定量的把握が重要である。東西5000kmにわたり多様な地形を持つインドネシア海洋大陸では、インドネシア全体に跨る観測網が不可欠である。本研究では、コトタバン(スマトラ島)・ポンティアナ(カリマンタン島)・マナド(スラウェシ島)・ビアク(ニューギニア島近傍の小島)にディスドロメータを整備し、DSDの連続観測を実施した。経度・降水雲タイプ・MJO・雷活動などとDSD特性との関連について明らかにした。
著者
石井 則久 四津 里英 森 修一
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.261-268, 2011-09-01 (Released:2012-09-28)
参考文献数
10
被引用文献数
2

愛知県において、1963(昭和38)年かららい予防法が廃止になる前年の1995(平成7)年まで33 年間、ハンセン病の外来診療が行われていた。藤楓協会愛知県支部と愛知県衛生部、国立駿河療養所が協力して、延人数で療養所退所者3,877 人、在宅者614 人、患者家族など486 人の計4,977 人の診療が行われた。外来診療で発見された新規患者については、療養所入所をさせることなく外来診療を行った例もあった。 1996(平成8)年からは退所者に対する療養相談を行っており、2010(平成22)年までの15 年間に延349 人が相談に訪れた。
著者
木庭 愛 森 修一 石井 則久
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.11-16, 2011-02-01 (Released:2012-02-02)
参考文献数
14
被引用文献数
1 2

We aimed to elucidate the patterns and trends of autochthonous leprosy in Japan from 1964 to 2009, to compare them with the findings from other studies of leprosy in decline. Data on registered leprosy cases in Japan in the period 1964-2009 were analysed with reference to trends in case detection, geographical distribution, age at diagnosis, sex, classification and family history. A consistent decline in leprosy case detection was observed in all areas of the country over the period 1964-2009. Highest incidence was consistently in Okinawa. Autochthonous leprosy has not been reported in anyone born in Japan since 1980. Increasing average age and a shift towards lower latitudes were demonstrated throughout the period. Analyses of data on autochthonous cases revealed patterns similar to those reported in other countries with declining leprosy.   Okinawa has had the highest incidence of leprosy in all of Japan since the first national survey in 1900. Several possible explanations include the difference of leprosy control history between Okinawa and the rest of Japan, Okinawa's unique geographical condition, large-scale problem of stigma and discrimination against leprosy patients and delayed improvement of socio-economic conditions.
著者
森 修一 加藤 三郎 横山 秀夫 田中 梅吉 兼田 繁
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 = Japanese journal of leprosy (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.73, no.1, pp.47-63, 2004-02-28
参考文献数
24
被引用文献数
1

本研究は戦前、日本に唯一存在したハンセン病患者の自由療養地である群馬県吾妻郡草津町湯の沢部落の社会科学的分析の中から、何がハンセン病患者の隔離の二つの側面である「迫害されている患者の社会の圧力からの保護」と「感染源である患者からの社会の防衛」のダイナミズムを後者への優位に導いていったのかを明らかにすることを目的とするものである。その過程は湯の沢部落の実態の解明(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究I、II」)、自由療養地議論の展開と消滅の過程の検証と湯の沢部落の関わり(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究III」)、湯の沢部落消滅後にその精神が日本の隔離政策に与えた影響(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究IV」)などの研究の総体である。<BR>本稿では戦後、栗生楽泉園から始まる患者運動を通して、湯の沢で培われた精神は楽泉園内でも生き続け、患者運動の戦端を開き、「特別病室」を廃止、職員の不正を暴き、やがて多磨全生園と共闘し、「全国癩療養所患者協議会」を生み、絶対隔離政策と対峙する力を形成する様相を描いた。併せて、「特別病室」設置の背景、戦中を中心としての療養所内の混乱の様相とその要因を述べた。
著者
森 修一 加藤 三郎 横山 秀夫 田中 梅吉 兼田 繁
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 = Japanese journal of leprosy (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.72, no.3, pp.217-237, 2003-08-30
参考文献数
59
被引用文献数
1

本研究は戦前、日本に唯一存在したハンセン病患者の自由療養地である群馬県吾妻郡草津町湯の沢部落の社会科学的分析の中から、何がハンセン病患者の隔離の二つの側面である「迫害されている患者の社会の圧力からの保護」と「感染源である患者からの社会の防衛」のダイナミズムを後者への優位に導いていったのかを明らかにすることを目的とするものである。その過程は湯の沢部落の実態の解明(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究1、II」)、自由療養地議論の展開と消滅の過程の検証と湯の沢部落の関わり(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究III」)、湯の沢部落消滅後にその精神が日本の隔離政策に与えた影響(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究IV」)などの研究の総体である。<BR>本稿では自由療養地構想から絶対隔離政策への変遷過程を国会での議論、内務省の政策およびその意思決定過程、自由療養地議論の中の湯の沢の役割、などから描いた。加えて、自由療養地を望む患者たちの意見とその背景を示すと共に世界の隔離政策と日本の隔離政策をその歴史的過程を含みながら対比、考察した。
著者
森 修一
出版者
東京医科歯科大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2011

ヒストンメチル化酵素(HMT)は各種生命現象に関わっており、その阻害剤は薬剤候補分子として期待されている。当研究ではHMT阻害剤開発に有用な、安価で簡便なHMT活性の評価手法を開発した。HMTはヒストン蛋白質のリジン残基をメチル化するが、我々はリジンとメチル化リジンの化学的性質の違いを識別することで、メチル化リジンの量を測定することに成功した。さらに、より感度の高いメチル化リジン定量法の開発を目指し、この化学的性質の違いを蛍光応答によって検出することを試みた。