著者
柴田 正良 長滝 祥司 金野 武司 大平 英樹 橋本 敬 柏端 達也 三浦 俊彦 久保田 進一
出版者
金沢大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2015-04-01 (Released:2015-04-16)

われわれのプロジェクトは、身体動作をある程度こなすことのできる人型ロボットに<個性>を付与することによって、(1)「個性」の認知哲学的基盤を解明し、また、(2)現在流行しつつある人型ロボットの性質と能力を「個性」の観点から評価し、それによって(3)将来における人間とロボットの「個性をベースにした共生」のあり方を探求することである。今年度は、4回にわたる「研究打合せ」を行い、第2回目からは、実際の人型ロボット(ソフトバンク社製のペッパー)の動作確認と、会話を中心としたインタラクションの準備を行った。第1回は中京大学豊田キャンパスで開催し、今年度の研究方針と各分担者の役割分担を決定した(5月3日~4日)。第2回は琉球大学及び沖縄高専で「複雑系科学×応用哲学 第2回沖縄研究会」として開催し、各分担者の研究発表と、沖縄高専で購入しているペッパーの身体動作能力を具体的にチェックした(8月19日~8月21日)。第3回は、金沢大学サテライトプラザ武蔵及び北陸先端大で開催し、10月に自分たちで購入したペッパーを主に会話機能の面でチェックし、どのような対人コミュニケーションが可能かを検討した(12月27日~29日)。第4回も金沢大学サテライトプラザ武蔵及び北陸先端大で開催し、ペッパーに会話の中で与えるべき「個性」を実装するためのプログラムを開発するため、その「個性」の具体例として当面、2タイプの性格(頑固・強引型と迎合・優柔不断型)を会話のプロットとして作成した(平成28年3月6日~8日)。なお、これらの研究打合せの詳細は、当科研費研究ウェブサイト:http://siva.w3.kanazawa-u.ac.jp/katsudo-h27.htmlを参照されたい)。今年度全体として、会話に見られる性格としての「個性」をプログラムに落とし込む準備が整った、と言える段階である。
著者
村田 純一 河野 哲也 染谷 昌義 池上 高志 長滝 祥司 吉澤 望 石原 孝二 柳澤 田実 佐々木 正人 三嶋 博之 工藤 和俊 丸山 慎
巻号頁・発行日
2009 (Released:2009-04-01)

わたしたちの生活はつねに多様な人工環境によって支えられている。この「人工環境・内・存在」のあり方を生態学的現象学、技術哲学、生態学的心理学、さらには、認知科学や建築学などの知見を利用して解明すること、これが第一に取り組んだことである。第二に、この知見に基づいて、バリアフリーデザイン、ユニバーサルデザイン、そして、人間中心設計などの設計観の意義を明らかにし、具体的な人工物の製作過程への応用可能性を検討した。
著者
長滝 祥司
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.47-52, 1994-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
9

フッサールが指摘したように(1), ガリレイ以来発展してきた自然科学によって, われわれは世界や事物を数量化して把握することに馴染んできた。こうした数量化によって, 事物把握が間主観的になり科学的客観性が生じてくる。科学的客観性とは, 個人的で一回的な事物経験が数量化され, 間主観的, 全時間的になることによって成立してきたものである。またそれと相即的に, 知覚され経験される事物は因果的連関のうちにあり, 自然科学が発見した精密な因果的法則に支配されていると見なされる。そこでは, 主観性は因果連関のなかに組み込まれるか, あるいは無視されている。しかし, こうした事態は世界についての客観的, 因果的把握も, 直接的に経験された知覚世界 (フッサールの用語に従えば, 生世界 [Lebenswelt] に基づく認識方法の一つであるということが忘却された結果である。言い換えれば, 人間の生と自然科学とが完全に切り離された結果といえよう。近代の自然科学に範をとる実験心理学も, こうした忘却の上に成立していた。では, 知覚世界と科学とはいかなる関係にあるのか。フッサールに従えば, そもそも知覚世界とは科学的世界 (科学によって規定される世界) の出発点であり, その基底にあって科学に素材を提供し, その根拠となるものである。つまり, 精密な科学も知覚経験から出発して得られたものである。そうならば, 知覚経験のなかに科学へと繋がる萌芽が看取できるであろう。換言すれば, 知覚経験のなかに科学的客観性の起源が見出されるはずである(2)。われわれの知覚経験が, まったく秩序を持たずきわめて不安定なものであったなら, それは精密科学に素材を提供することなどできなかったと考えられるからである。したがって, その素材とは知覚経験におけるある種の安定性であるともいえる。もちろん知覚経験とは, 身体の運動などによってつねに変動し, 人によって異なることもあるなど, 不安定なものである。しかし, それでもわれわれは, ある事物の見え方が様々に変異するなかでそれを同一のものとして把握し, 身体を同じ場所に置くことによって緩い意味での間主観性も成立する。つまり数量化して把握する以前に, われわれは事物についての安定的な経験を持っているのである。本稿ではこの安定性を“知覚的客観性”と名づける。本稿の目的は, 心理学の知覚研究において知覚と実在の関係, 知覚における安定性, 客観性の問題がどのように取り扱われてきたかを整理し, 現象学的知覚論との対比をつけることである。心理学からは, 実験心理学の始祖であるヴントと, 彼への批判から始まったゲシュタルト心理学, そして後者の継承者であるギブソンを扱う。また, 現象学ではメルロ=ポンティの知覚論を主題的に論じていくことにする。そして, 知覚的客観性をめぐって, ギブソンとメルロ=ポンティの議論を比較してみたい。もちろん, この二人のあいだに直接的な影響関係があったわけではない。しかし, ゲシュタルト心理学が要素主義を克服したことに対する彼らの強い共感を考えると, 両者を比較することはあながち不毛なこととは思われない。そして, 両者の対比を通じてあらためて知覚的客観性の問題を考察することにより, 知覚と科学の結び目を確認したい。
著者
長滝 祥司
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.83, pp.47-52, 1994

フッサールが指摘したように(1), ガリレイ以来発展してきた自然科学によって, われわれは世界や事物を数量化して把握することに馴染んできた。こうした数量化によって, 事物把握が間主観的になり科学的客観性が生じてくる。科学的客観性とは, 個人的で一回的な事物経験が数量化され, 間主観的, 全時間的になることによって成立してきたものである。またそれと相即的に, 知覚され経験される事物は因果的連関のうちにあり, 自然科学が発見した精密な因果的法則に支配されていると見なされる。そこでは, 主観性は因果連関のなかに組み込まれるか, あるいは無視されている。しかし, こうした事態は世界についての客観的, 因果的把握も, 直接的に経験された知覚世界 (フッサールの用語に従えば, 生世界 [Lebenswelt] に基づく認識方法の一つであるということが忘却された結果である。言い換えれば, 人間の生と自然科学とが完全に切り離された結果といえよう。近代の自然科学に範をとる実験心理学も, こうした忘却の上に成立していた。<BR>では, 知覚世界と科学とはいかなる関係にあるのか。フッサールに従えば, そもそも知覚世界とは科学的世界 (科学によって規定される世界) の出発点であり, その基底にあって科学に素材を提供し, その根拠となるものである。つまり, 精密な科学も知覚経験から出発して得られたものである。そうならば, 知覚経験のなかに科学へと繋がる萌芽が看取できるであろう。換言すれば, 知覚経験のなかに科学的客観性の起源が見出されるはずである(2)。われわれの知覚経験が, まったく秩序を持たずきわめて不安定なものであったなら, それは精密科学に素材を提供することなどできなかったと考えられるからである。したがって, その素材とは知覚経験におけるある種の安定性であるともいえる。もちろん知覚経験とは, 身体の運動などによってつねに変動し, 人によって異なることもあるなど, 不安定なものである。しかし, それでもわれわれは, ある事物の見え方が様々に変異するなかでそれを同一のものとして把握し, 身体を同じ場所に置くことによって緩い意味での間主観性も成立する。つまり数量化して把握する以前に, われわれは事物についての安定的な経験を持っているのである。本稿ではこの安定性を"知覚的客観性"と名づける。<BR>本稿の目的は, 心理学の知覚研究において知覚と実在の関係, 知覚における安定性, 客観性の問題がどのように取り扱われてきたかを整理し, 現象学的知覚論との対比をつけることである。心理学からは, 実験心理学の始祖であるヴントと, 彼への批判から始まったゲシュタルト心理学, そして後者の継承者であるギブソンを扱う。また, 現象学ではメルロ=ポンティの知覚論を主題的に論じていくことにする。そして, 知覚的客観性をめぐって, ギブソンとメルロ=ポンティの議論を比較してみたい。もちろん, この二人のあいだに直接的な影響関係があったわけではない。しかし, ゲシュタルト心理学が要素主義を克服したことに対する彼らの強い共感を考えると, 両者を比較することはあながち不毛なこととは思われない。そして, 両者の対比を通じてあらためて知覚的客観性の問題を考察することにより, 知覚と科学の結び目を確認したい。