著者
柴田 正良 三浦 俊彦 長滝 祥司 金野 武司 柏端 達也 大平 英樹 橋本 敬 久保田 進一
出版者
金沢大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2015-04-01

本研究の目的は、その核心のみを述べれば、(1)ロボットと人をインタラクションさせることによって、来るべき「ロボットと人間の共生社会」において重要となる「個性」がロボットにとってなぜ必要となるのかを認知哲学的に解明し、また、(2)その結果を「個性」に関する哲学的なテーゼとして提示するとともに、(3)そのテーゼに経験的な支持を与えることを目的とした、人とロボットのインタラクション実験を設計・実施することである。まず、われわれが今年度に到達した個性概念テーゼは、「ロボットが<個性>をもつとは、それが<道徳的な行為主体 moral agent>だということであり、道徳的行為主体であるとは、他の何者も代替できない責任を引き受けるということであり、そのためにロボットは、他者が経験しえない(クオリア世界のような)内面世界をもたねばならない」、ということである。われわれは、このテーゼを、本研究の最も重要な哲学的成果だと考える。このテーゼはロボットに適用可能であるばかりか、「道徳」、「責任」、「クオリア」、「内面世界」、「主観性」といった従来の道徳哲学や心の哲学、ひいては認知心理学全般に大きな視点の転換をもたらすものと考えている。このテーゼを経験科学的に「確証」するために、われわれは、今年度、人とロボットをメインとするインタラクション実験を設計し、このテーゼと実験の「概要」を、平成29年7月にロンドンで開催された国際認知科学会(CogSci2017)で発表した。この実験に関しては、今年度においては数回の予備実験と、それによる実験手順の調整をおこなったにすぎないが、来年度の本格実験のためのほぼ完璧な準備を終えることができた。この実験は、最近、心理学や認知科学の分野で頻繁に取り上げられている「トロッコ問題」などの道徳的ジレンマに、まったく新しい光を投げかけるものとなるだろう。

14 0 0 0 OA 感情と身体

著者
長滝 祥司
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.52, no.2, pp.41-60, 2020-03-30 (Released:2020-07-03)
参考文献数
52

In this paper, I examine the relationship between emotion and body. First, I briefly survey the history of the concept of emotion with referring to the concept of reason. Second, I explain three ways to access the mind and consider the controversy of nature vs culture about emotion from a viewpoint of the intersubjective body. I argue that the controversy depends on what aspects of the body we focus, suggesting that nature and culture in this context are not necessarily exclusive. Finally, I introduce the experiment we have conducted and confirm that the body involved in emotion is social and intersubjective even at the physical level.
著者
長滝 祥司
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.22, no.1, pp.47-52, 1994-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
9

フッサールが指摘したように(1), ガリレイ以来発展してきた自然科学によって, われわれは世界や事物を数量化して把握することに馴染んできた。こうした数量化によって, 事物把握が間主観的になり科学的客観性が生じてくる。科学的客観性とは, 個人的で一回的な事物経験が数量化され, 間主観的, 全時間的になることによって成立してきたものである。またそれと相即的に, 知覚され経験される事物は因果的連関のうちにあり, 自然科学が発見した精密な因果的法則に支配されていると見なされる。そこでは, 主観性は因果連関のなかに組み込まれるか, あるいは無視されている。しかし, こうした事態は世界についての客観的, 因果的把握も, 直接的に経験された知覚世界 (フッサールの用語に従えば, 生世界 [Lebenswelt] に基づく認識方法の一つであるということが忘却された結果である。言い換えれば, 人間の生と自然科学とが完全に切り離された結果といえよう。近代の自然科学に範をとる実験心理学も, こうした忘却の上に成立していた。では, 知覚世界と科学とはいかなる関係にあるのか。フッサールに従えば, そもそも知覚世界とは科学的世界 (科学によって規定される世界) の出発点であり, その基底にあって科学に素材を提供し, その根拠となるものである。つまり, 精密な科学も知覚経験から出発して得られたものである。そうならば, 知覚経験のなかに科学へと繋がる萌芽が看取できるであろう。換言すれば, 知覚経験のなかに科学的客観性の起源が見出されるはずである(2)。われわれの知覚経験が, まったく秩序を持たずきわめて不安定なものであったなら, それは精密科学に素材を提供することなどできなかったと考えられるからである。したがって, その素材とは知覚経験におけるある種の安定性であるともいえる。もちろん知覚経験とは, 身体の運動などによってつねに変動し, 人によって異なることもあるなど, 不安定なものである。しかし, それでもわれわれは, ある事物の見え方が様々に変異するなかでそれを同一のものとして把握し, 身体を同じ場所に置くことによって緩い意味での間主観性も成立する。つまり数量化して把握する以前に, われわれは事物についての安定的な経験を持っているのである。本稿ではこの安定性を“知覚的客観性”と名づける。本稿の目的は, 心理学の知覚研究において知覚と実在の関係, 知覚における安定性, 客観性の問題がどのように取り扱われてきたかを整理し, 現象学的知覚論との対比をつけることである。心理学からは, 実験心理学の始祖であるヴントと, 彼への批判から始まったゲシュタルト心理学, そして後者の継承者であるギブソンを扱う。また, 現象学ではメルロ=ポンティの知覚論を主題的に論じていくことにする。そして, 知覚的客観性をめぐって, ギブソンとメルロ=ポンティの議論を比較してみたい。もちろん, この二人のあいだに直接的な影響関係があったわけではない。しかし, ゲシュタルト心理学が要素主義を克服したことに対する彼らの強い共感を考えると, 両者を比較することはあながち不毛なこととは思われない。そして, 両者の対比を通じてあらためて知覚的客観性の問題を考察することにより, 知覚と科学の結び目を確認したい。
著者
村田 純一 河野 哲也 染谷 昌義 池上 高志 長滝 祥司 吉澤 望 石原 孝二 柳澤 田実 佐々木 正人 三嶋 博之 工藤 和俊 柴田 崇 丸山 慎
出版者
立正大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

わたしたちの生活はつねに多様な人工環境によって支えられている。この「人工環境・内・存在」のあり方を生態学的現象学、技術哲学、生態学的心理学、さらには、認知科学や建築学などの知見を利用して解明すること、これが第一に取り組んだことである。第二に、この知見に基づいて、バリアフリーデザイン、ユニバーサルデザイン、そして、人間中心設計などの設計観の意義を明らかにし、具体的な人工物の製作過程への応用可能性を検討した。
著者
長滝 祥司
出版者
一般社団法人 日本発達心理学会
雑誌
発達心理学研究 (ISSN:09159029)
巻号頁・発行日
vol.31, no.4, pp.171-182, 2020 (Released:2022-12-20)
参考文献数
39

本論の最初のテーゼは,「世界やそのなかの出来事,事物などに関するわれわれの認識はすべて媒介されている」というものである。哲学の歴史を振り返ると,世界や事物を認識するさいにそれを媒介するメディアは,志向的形質や心的表象,言語や数学など,多くのものがあった。とくに,ガリレオが世界を捉えるメディアを数学としたことで,近代の科学的世界像が登場することとなった。また,科学技術が重要な認識のメディアとなったのは,ガリレオが望遠鏡を手にしたときである。現代のディジタル・デバイスも,人間の認識や行動を形成するメディアであるという意味でガリレオの望遠鏡の末裔である。本論の目的は,人間の認識と行動をメディアという観点から捉え,その文脈のなかにディジタル革命を位置づけること,ディジタル革命が社会にもたらしつつある事態について哲学的観点をふまえて分析したうえで,「傷つきやすさ」という概念に依拠して道徳の起源に解明の光をあてること,である。以上の作業をつうじて,ディジタル・メディアの今後のあり方について,ささやかな提言を行う。
著者
長滝 祥司 三浦 俊彦 浅野 樹里 柴田 正良 金野 武司 柏端 達也 大平 英樹 橋本 敬
出版者
中京大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2019-04-01

人間は己の存在形態を正当化するために神話や宗教などを創造してきた。道徳において先鋭化するこれらは、人間を取り巻く自然条件によって偶然に枠組みが定められたものであり、条件が変容すればその内容は根底的に変わりうる。現在、様々な技術が人間の心理的身体的能力を拡張し始めると伴に、人間を凌駕する知的ロボットが創造されつつある。我々はこうした事態を自然条件の大きな変容の始まりと捉え、未来に向けた提言が必要と考える。そこで本研究は、ロボット工学や心理学などの経験的手法を取り入れつつ、ロボットのような新たな存在を道徳的行為者として受容できる社会にむけた新たな道徳理論の主要テーゼを導出することを目的とする。
著者
長滝 祥司
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.83, pp.47-52, 1994

フッサールが指摘したように(1), ガリレイ以来発展してきた自然科学によって, われわれは世界や事物を数量化して把握することに馴染んできた。こうした数量化によって, 事物把握が間主観的になり科学的客観性が生じてくる。科学的客観性とは, 個人的で一回的な事物経験が数量化され, 間主観的, 全時間的になることによって成立してきたものである。またそれと相即的に, 知覚され経験される事物は因果的連関のうちにあり, 自然科学が発見した精密な因果的法則に支配されていると見なされる。そこでは, 主観性は因果連関のなかに組み込まれるか, あるいは無視されている。しかし, こうした事態は世界についての客観的, 因果的把握も, 直接的に経験された知覚世界 (フッサールの用語に従えば, 生世界 [Lebenswelt] に基づく認識方法の一つであるということが忘却された結果である。言い換えれば, 人間の生と自然科学とが完全に切り離された結果といえよう。近代の自然科学に範をとる実験心理学も, こうした忘却の上に成立していた。<BR>では, 知覚世界と科学とはいかなる関係にあるのか。フッサールに従えば, そもそも知覚世界とは科学的世界 (科学によって規定される世界) の出発点であり, その基底にあって科学に素材を提供し, その根拠となるものである。つまり, 精密な科学も知覚経験から出発して得られたものである。そうならば, 知覚経験のなかに科学へと繋がる萌芽が看取できるであろう。換言すれば, 知覚経験のなかに科学的客観性の起源が見出されるはずである(2)。われわれの知覚経験が, まったく秩序を持たずきわめて不安定なものであったなら, それは精密科学に素材を提供することなどできなかったと考えられるからである。したがって, その素材とは知覚経験におけるある種の安定性であるともいえる。もちろん知覚経験とは, 身体の運動などによってつねに変動し, 人によって異なることもあるなど, 不安定なものである。しかし, それでもわれわれは, ある事物の見え方が様々に変異するなかでそれを同一のものとして把握し, 身体を同じ場所に置くことによって緩い意味での間主観性も成立する。つまり数量化して把握する以前に, われわれは事物についての安定的な経験を持っているのである。本稿ではこの安定性を"知覚的客観性"と名づける。<BR>本稿の目的は, 心理学の知覚研究において知覚と実在の関係, 知覚における安定性, 客観性の問題がどのように取り扱われてきたかを整理し, 現象学的知覚論との対比をつけることである。心理学からは, 実験心理学の始祖であるヴントと, 彼への批判から始まったゲシュタルト心理学, そして後者の継承者であるギブソンを扱う。また, 現象学ではメルロ=ポンティの知覚論を主題的に論じていくことにする。そして, 知覚的客観性をめぐって, ギブソンとメルロ=ポンティの議論を比較してみたい。もちろん, この二人のあいだに直接的な影響関係があったわけではない。しかし, ゲシュタルト心理学が要素主義を克服したことに対する彼らの強い共感を考えると, 両者を比較することはあながち不毛なこととは思われない。そして, 両者の対比を通じてあらためて知覚的客観性の問題を考察することにより, 知覚と科学の結び目を確認したい。