1 0 0 0 OA 書評

出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.261-291, 2015 (Released:2017-08-25)
著者
中岡 哲郎
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.76, no.3, pp.329-351, 2010-11-25 (Released:2017-07-18)

明治の工業化と共に急成長した若松-大阪間の石炭輸送では,政府の汽船奨励にも拘らず,初期は在来帆船が主流,中期は小汽船で複数帆船を曳く曳船方式,後期は発動機付き帆船(機帆船)と,帆船の流れをくむ輸送法が,沿岸や島嶼地帯の帆船船主にも支えられ,優勢だった。この背後には,遠浅の在来河口港に,汽船が入港出来なかった問題がある。その代表が大阪港であり,汽船は沖泊まり・沖荷役を要求された。このため,水深の深い神戸港を外航船用港湾とし,阪神間は艀船曳船で乗客貨物を輸送する体制をとりつつ,大規模な河川の浚渫・改修と築港建設事業を強行し,江戸時代に発展した堀川と外航船入港可能な新築港とが,河川曳船による港内輸送で結合された,特異な港湾が完成する。この堀川を石油発動機付き巡航船が走ったことが,発動機船への関心を高め,当時の漁民や帆船業者に使い易く,町工場にも作り易い焼玉機関が一時期ブームとなり,機帆船の発展も支えたのである。その日本近代技術にとっての意味と,内海地帯の歴史地理や社会経済との関係を探りつつ,産業技術史学と社会経済史学の関連が考察される。
著者
下斗米 秀之
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.15-35, 2014

本稿では,アメリカ移民政策を画期する1924年移民法について,有力な経営者団体である全国産業協議委員会(NICB)が1923年12月に開催した移民会議に焦点を当て,企業経営者らの移民政策への取り組みを検討し,彼らが移民法策定における重要な担い手であったことを明らかにする。NICBは,移民に関する詳細かつ広範な実地調査を通じて,労働省(移民局)と国務省(領事館)との連携不足を,移民行政の弱点として指摘した。移民制限の本格的導入を進めるアメリカ連邦議会に対して,NICBはビジネス界以外の諸利害の主張を調整し,恒久的な移民政策案を進言することを目的として移民会議を開催した。移民会議には,移民制限に賛否両論の立場をとる,各種の経営者団体や労働組合,社会諸団体,政府関係者など多様な移民利害関係者が参加した。会議を受けてNICBが採択した決議案は,連邦議会の公聴会において,ビジネス界に限定されない公的な影響力を獲得していった。その結果,NICBが提案した在外アメリカ領事発行の査証に基づく移民管理制度は,1924年移民法の柱の1つとして結実したのである。
著者
兒玉 州平
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.349-371, 2014-11-25 (Released:2017-06-03)

日本政府は,ドイツ企業の特許「ハーバー・ボッシュ法」を1917年,敵国財産として接収し複数の企業からなる組合に払い下げた。先行研究は,その後組合が設立した東洋窒素工業株式会社(以下,東洋窒素)は結局合成硫安製造を行わず,唯一の業務は,ドイツ硫安の輸入に際して,自身の持つハーバー・ボッシュ法特許権侵害を理由にロイヤルティーを徴収することだったとしてきた。しかし,東洋窒素のロイヤルティー徴収は1932年に中止されており,ここに東洋窒素は敗戦に至るまで存続したという事実との矛盾がある。本稿は,東洋窒素の存在意義は,1930年以前は,ドイツ硫安の需給調整によって国内企業を守ることにあったとした。1930年以降は硫安の輸入が許可制となり,また既存企業が明示的なカルテルである硫安配給組合を結成する中で,需給調整を行うことはなくなったものの,東洋窒素は配給組合の中で,配給組合に対するアウトサイダーが出現したとき,特許権侵害を仄めかし,さらには内部留保したロイヤルティーで株式を取得して直接経営に関与することで協調的な関係を築くことを可能にしたと結論づけた。
著者
佐藤 政則
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.50, no.5, pp.562-584,653-65, 1985

In the 1890s, the Bank of Japan played an important role in providing funds to the silk industry, the cotton mill industry, the foreign trade sector, etc., and accelerated the growth of these important industries. With the establishment of the gold standard, however, such a positive lending policy became difficult. The purpose of this paper is to elucidate how the lending policy changed in 1900-1901 under the Japanese gold standard. Particularly, it focuses on the policy directed by Korekiyo Takahashi, who was the Vice-Governor of the Bank at that time, and clarifies the difference between his policy and monetary policy carried out under the classical gold standard by Governor Tatsuo Yamamoto. The main points of Takahashi's were as follows: (1) He tried to balance trade deficit not by an increase in the official discount rate, but by an export promotion. Therefore, he tried to strengthen the export industries through aiding customers of the Bank to provide them with funds. (2) In order to do this, he adopted a managerial technique of deposit bank, and attempted to change long-term and rigid loans of the Bank into short-term and liquid ones. He succeeded in it to a considerable extent, so that he made the turnover of funds of the Bank quicker. (3) Moreover, not only did he systematize that policy in the Bank, but he demanded that customers of the Bank, that is, major commercial banks, should follow it. Thus, the change in lending policy had an important influence on managerial technique of her customers, and promoted the reorganization of financial institutions.
著者
高柳 友彦
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.505-525, 2012

産業化の進展に伴う鉱物資源開発によって,地域社会における資源利用がどのような影響を受けたのか。本稿では,温泉地でかつ産炭地であった常磐湯本温泉を事例に,資源利用の主体間の契約や行政機構による調停のあり様を通して,近代日本における資源利用の特質とその限界について明らかにした。石炭資源開発の進展によって引き起こされた温泉と石炭資源との相克問題では,当初,県知事が被害を受けた住民側と企業側との交渉を斡旋し,企業側の見舞金という恩恵的な賠償慣行が行われた。第一次大戦以降,鉱害の激化によって,行政機構の関与のあり方が変容した。県行政が積極的に両者の交渉に介入するとともに,鉱山監督局や行政裁判所などの行政機構が,鉱区拡大など地域住民との対立を惹起する鉱山開発を事前に規制することで,住民との対立や紛争を回避した。ただ,鉱害賠償制度の成立や政策変化に伴って,開発への事前の規制は,事後の金銭賠償などに転換した。鉱害問題の事前の対応が事実上行われなくなった我が国では,鉱害問題を事後的に処理,補償することで地域住民の資源利用は大きな犠牲を強いられた。
著者
山口 明日香
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.73, no.5, pp.485-508, 2008-01-25 (Released:2017-06-09)

近代日本の産業化の過程において,エネルギーあるいは資材としての木材は,需要の変化や供給不足が顕著になるにつれて産業の制約条件となり,各産業にとって木材の安定的確保は重要な課題となった。本稿の目的は,主要産炭地であった九州地域に焦点をあて,炭鉱業における坑木の調達及び利用方法について検討し,産業化の一側面を明らかにすることにある。九州の諸炭鉱では,1890年代以降の筑豊炭田の開発を契機として坑木の入手競争が激化し,さらに第一次大戦期にいっそう拡大した坑木需要に対応するため,炭鉱各社は資材調達の集中化を図り,炭鉱会社間で資材問題の討議機関を組織した。1920年代以降,炭鉱各社において合理化が推進されるようになると,安価な小径木や鉄製支柱の利用などにより坑木の節約が図られた。しかし,1933年以降,出炭量が急増すると,新坑開発や乱掘の進行,鉄鋼材の不足,他産業との木材入手競争の激化などにより坑木難は深刻化した。国内の木材市場が逼迫する状況下で,新たな対応策が模索されるようになったが,坑木難は解消されず,坑木の確保は依然として炭鉱業の重要な制約条件であった。
著者
鳥羽 正雄
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.3, no.9, pp.1201-1213, 1934-01-15 (Released:2017-09-25)