著者
末次 忠司 大槻 順朗
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.141-156, 2021-08-01 (Released:2022-11-04)
参考文献数
12

近年各地で水害が発生しているが,防災・減災のためには,従来の堤防やダムによる整備以外に流域対応の施設や対応が必要となる。令和2(2020)年7月に国土交通省は審議会の分科会答申を踏まえて,「流域治水」への転換を進めることとした。今後これを着実に推進するにあたっては,総合治水の反省の下に,課題を踏まえながら,施策を実施していくことが必要である。また,その際,治水行政や河道・施設計画を分析・評価した水害裁判の判決にも着目して、流域治水手法の位置付けや適否などについて考慮しなければならない。
著者
阿部 宣人
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.58, no.5, pp.27-42, 2014-12-01 (Released:2017-06-02)
参考文献数
2
著者
今村 隆正
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.62, no.5, pp.19-34, 2018-12-01 (Released:2020-02-28)
参考文献数
21

奈良県は土砂災害の年間発生件数からみると,土砂災害が少ないと認識されがちであるが,夏から秋にかけての台風などによる豪雨を誘因とした大規模な土砂災害が数十年置きに発生している。本稿は,歴史資料(古文書,奈良県史,市町村誌)調査,ヒアリング調査,現地調査を基に,江戸時代以降に奈良県で発生した大規模な土砂災害の事例を調査した結果を整理したものである。 古くは享保六年(1721)の「三子抜け」をはじめ,明治22年(1889)の「十津川災害」,昭和34年(1959)の伊勢湾台風による「高原の山津波」,そして平成23年(2011)には「紀伊半島大水害」と繰り返し発生している。そしてこれらの誘因は全て降雨であり,地震を誘因とした大規模な土砂災害の記録は今のところ確認されていない。
著者
和田 一範
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.1-52, 2019-04-01 (Released:2020-06-05)
参考文献数
22

アミガサ事件(大正3年⟨1914年⟩9月16日)の三日後の9月19日,橘樹郡の関係11ケ町村のメンバーが川崎町の橘樹郡役所に集まり,9月29日,「多摩川築堤期成同盟會」が正式に結成された。この期成同盟会は,これまでの陳情が県知事宛であったのに対し,多摩川改修のキーパーソンが内務大臣であることを理解するや,早速内部大臣宛の多摩川新堤塘築造陳情書をまとめあげ,10月29日,神奈川県選出の小泉,井上代議士とともに内務省を訪問,下岡次官に陳情書を手渡し,事情を説明している。アミガサ事件と有吉堤,多摩川直轄改修への道の一連の事件の顚末初期にあたるこの時期,「多摩川築堤期成同盟會」の活動は,多摩川新堤塘築造陳情書をまとめて内務大臣に提出した以降は,川崎市史や多摩川誌をはじめ既往の文献には明確な記述が見られない。 この時期は,アミガサ事件に際して対応した石原健三知事の任期中であり,アミガサ事件から約一年後の大正4年(1915年)9月に有吉忠一知事が赴任をするまでの期間である。期成同盟会のこの時期の活動は,自助・共助の取り組みとして大変重要な意味を持つ。 このたび,神奈川県公文書館に所蔵する武蔵国橘樹郡北綱島村の飯田家文書のなかに,「多摩川築堤期成同盟會報告書」と,「大正4年5月5日付決議録」など,多摩川築堤期成同盟會の奮闘の記録を見いだしたので,ここに活字にして報告する。 防災の主役,自助・共助として,地域住民の様々な代表たちが,多摩川の改修に向けて奮闘する模様が明確に記され,現代の防災に与える大きな教訓が見いだされる。
著者
特定非営利活動法人 日本水フォーラム
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.53, no.3, pp.1-17, 2009

第5回世界水フォーラムは、2009年3月16日から22日の日程でトルコ・イスタンブールのボスポラス海峡の入り江である金角湾を挟む「ストゥルジェ」と「フェスハネ」両会場において開催された。世界水フォーラムは、フランス・マルセイユに本部がある世界水会議とホスト国が主催し、3年に1度、国連の定める「世界水の日」である3月22日を含む約1週間の日程で開催される世界最大の水に関する国際会議である。第1回世界水フォーラムは1997年にモロッコ・マラケシュ、第2回世界水フォーラムは2000年にオランダ・ハーグ、第3回世界水フォーラムは2003年に京都・滋賀・大阪の琵琶湖・淀川流域、そして第4回世界水フォーラムは2006年にメキシコシティで開催された。第5回世界水フォーラムの全体テーマは、アジアとヨーロッパの架け橋に位置するイスタンブールで開催されることに掛け、「水問題解決のための架け橋」とされ、様々な水問題の解決を阻む問題(ギャップ)と、その解決策(架け橋)は何かという観点からの議論が行われた。
著者
河崎 則秋
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.123-135, 2016

田上山は,滋賀県南部に位置する田上山系と金勝山系の山々の総称であり,一丈野国有林(大津市)と金勝山国有林(栗東市)は,この田上山に属し,水系は淀川流域の上流部になる。(図1,2)田上山は,「うっそうたる大森林」であったと奈良朝時代の古文書により推定されている。しかし,690年代に藤原宮の造営に要する木材の伐出や,740年代には石山院(現在の石山寺)造営に際し木材が伐出したとされ,そういった長期乱伐の結果,桃山時代(1600年頃)には既に荒廃の一歩手前にあり,江戸期(1640年頃)に入ると燃料としての盗掘や戦禍による焼失を重ねた結果,荒廃が進行したうえに,地質が風化の進んだ花崗岩であったことから,降雨のたびに土砂流出が発生して下流の人々を苦しめてきた。荒涼とした山は,その姿から「田上のはげ」として全国に知られることとなった。慶長13年(1608年),17年(1612年),19年(1614年)に淀川流域一帯に大水害が発生し,承応2年(1653年)には,野洲川が決壊し約50町歩の田畑が荒地となった。幕府は万治3年(1660年)に,大和,伊賀,山城の国に対し「木根掘取禁止,禿山に苗木植付,土砂留の施工」を命じている。寛文の時代に入り,2年(1662年)と5年(1665年)には栗太郡も災害を受け,翌6年(1666年)には幕府が「諸国山川の掟」を発令し,草木の根を掘り取ることを停止し,川上の樹木なき所に苗木を植付,焼畑および河辺の開こんを禁止している。9年(1669年)に幕府は主要な役人に畿内の被災状況を実地検分させ,淀川の浚渫費を各大名に課している。翌10年(1670年)には瀬田川の浚渫が施工されている。このように江戸時代は治山治水対策が組織的な事業として行われたが,安永・天明年間(1772年~1788年)の飢饉等で農村が不況に陥って以降,幕府の監督体制もゆるみ,設計・施工技術の低下をはじめ,山腹工事の施工自体が衰退した。当時の主な工種は,山腹工では,鎧留(別添図1),築留(図2),石垣留(図3),石篭留(蛇篭留)(図4),井堰留(図5),掻上堤工(図6),杭柵留(図7),逆松留(図8),蒔わら工(葺わら留)(図9),筋粗朶工(図10),雑木苗植込,筋芝植込(図11),飛芝植込(図12),飛松留(図13),実蒔留など,渓間工では,鎧留,築留,石垣留(図14),砂留(図15,16),流路工などである。江戸時代最後(慶応4年)の淀川大水害に見舞われた明治政府は,淀川の船運確保対策を考え,木津川の付替工事を始めるとともに,土砂留調査に着手し,治水(船運)のためには,山林の整理に併せて砂防(治山)事業の緊急性を痛感した。なお,森林の所有については,明治2年(1869年)に官林制度が定まり,翌3年(1870年)には社寺有林の上地命令がなされており,大津国有林の母体(所有形態)が形成されたと思われる。ただし,管理は県に委託されている。明治4年(1871年)になり,政府は5畿内(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国)および伊賀国に対し「砂防5カ条」を布達し,木津川水源土砂留工事費を当分官費をもって支払う旨を通告している。翌5年(1872年)には,施行対象地として,大戸川,草津川及び野洲川の水源禿赭地(はげ山)と記録され,工事費は全額国費で賄われた。明治29年(1896年),河川法が制定され,翌30年(1897年)には,森林法及び砂防法が制定され,国有林野事業として治山事業が開始された。
著者
内嶋 善兵衛
出版者
一般社団法人 日本治山治水協会
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.15, no.4, pp.62-85, 1971-10-01 (Released:2020-07-24)
参考文献数
26