著者
小菅 健一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.43-57, 1995-12-10

本稿は、「美しい日本の私-その序説」というノーベル文学賞の受賞記念講演を、新しい"小説論"のためのマニフェストとして論じた昨年度の紀要に掲載した「『美しい日本の私-その序説』論- 説論としての読みをめぐって-」をネガとして考えて、実践としてのポジにあたる作品としての「美の存在と発見」というコンセプトで論じていったものである。本来、理論書的なイメージとは、ほど遠いという印象が強い「美の存在と発見」を、作品に内在されている可能性や有効性を好意的に評価して分析を加えたものである。様々な具体例の背景にある論理性の部分を考察した結果、表現者が固定観念や先入観を排除して表現対象と無為自然に向かい合うことによって、そこに既に存在しているもの=<有>の中に内包されている様々な<美>を(再)発見することで、それらを一つの作品=<有>として構成していくことに、新たな創作行為としての意義が十分にあるのだという主張を導き出すことで、既存の<ことば>の持っている潜在的な力を明らかにしている。そして、川端康成の創作意識における「源氏物語」の存在の大きさに言及して、理論書としての限界も明確にしている。
著者
小菅 健一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.53-66, 1994-12-10

本稿は、日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成の記念講演である「美しい日本の私」という小品の存在を、日本の伝統的な文化や自分の作品などを紹介するための単なるエッセイとしてではなく、既成の小説の概念に対して疑義を呈して、新たな小説論を展開していくためのマニフェストの役割を果たす作品として位置づけて、考察を繰り広げたものである。内容の構成としては、表現対象(小説素材)にあたる四季を代表する自然景物の指摘をめぐる"一対一"対応的な<ことば>の存在の問題を前提にして、表現主体と表現対象の問に横たわっている、本来ならば、絶対に乗り越えることのできない距離(優劣関係)を完全に無化して同一の地平に等置することによって、より豊かな表現(作品)を目指していこうとする、<万物一如思想>の理論体系に裏付けられた堅固な創作意識の確立の問題へと論を進めて、実際の作品構築において、選択された表現対象に必然的に付与される<ことば>の"象徴"作用に、表現主体がすべて身を委ねていく創作行為の提唱へと結びつけていくことを意図した作品であると捉えて、理論書として読み解いていくことの必要性を述べたものである。
著者
小菅 健一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.1-16, 2001-06-30

物語作家としての力量に定評のある井伏鱒二にとっては、戦後の代表作の一つに挙げられる「遥拝隊長」という、第二次世界大戦を題材にした小説を、現代の客観的な視点から、精緻に読解・分析していくことで、この作品に込められた井伏の人生観や社会観の問題点を考察していった論文である。当時、偏狭な軍国主義に支配されていた日本が、国民一人一人の利益や幸福などをいっさい考慮することなく、勝手に起こしてしまった〈戦争)という圧倒的な暴力行為が持っている、愚かさや悲惨さ、そして、理不尽さといった非人道的な側面を、戦場で偶然に引き起こされた悲劇的な事故が原因になって、足が不自由になってしまうとともに精神に異常をきたしてしまった、主人公の"遥拝隊長"という浮名のついた熱烈な愛国主義者である岡崎悠一という一般庶民が、自分の生まれ故郷の笹山部落において、他の住民たちを巻き込んで繰り広げた様々な行動がもたらす喜劇的な事件やエビソードを、一つ一つじっくりと見ていきながら、作品全体を通して、それらに形象化されている〈運命〉というキーワードを抽出することで、現代の生活においても十分に通用する普遍的なテーマであることを確認したものである。
著者
稲垣 伸一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.140-129, 1998-12-10

ハリニット・ビーチャー・ストウは『妻と私』の中で、女性が家庭で担う役割の重要性を説き、スビリチュアリストでフリーラヴ思想を持っていたヴィクトリア・ウッドハルを嘲笑的に描いた。一方『妻と私』出版の翌年ウッドハルは、ストウの実弟ヘンリー・ウォード・ビーチャーの密通事件を自ら発行する雑誌で暴露し、結婚制度の欺瞞性とフリー・ラヴ思想の正当性を主張した。本稿では、家庭における女性の役割の重要性と結婚制度不要論という表面上対立する主張を、19世紀後半のアメリカにおける女性読者層の増加とそれに伴う出版市場の拡大という現象と、カルヴィニズムに対して不安を抱いた人々の意識という二つの点から検討する。そして二つの主張がいずれもフェミニズム的社会改革を志向しながら、一方は穏健な、他方は急進的思想へ発展していった事情を考察する。
著者
住谷 雄幸
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.115-128, 1996-12-10

わが国では、多くの名山・高山は修験者によって開山された。江戸時代に入り、講社がつくられ、信仰登山は庶民の間に広まった。宗教的な登拝だけでなく、高山に登り、その霊気にふれ、雄大な眺望を楽しむ風潮が、一部の文人・墨客の間に起ってきた。俳聖松尾芭蕉は、『奥の細道』の旅の途中で月山に登拝し、俳人大淀三千風は、富士山・白山・立山の三山を含めて多くの高山に登り、『日本行脚文集』を著した。南画の大家池大雅は三山を登り、三岳道老と号し、多くの富士の絵を描いている。山水画の巨匠谷文晃は、三山を含めて山岳名画集『日本名山圖會』を上梓し、山好きの人々に愛されてきた。また、本草学者の植村政勝は、全国の山野を跋渉して、薬草を採集し、見聞したことを『諸州採薬記抄』として書き記した。文人・墨客の山旅紀行文とことなり、一尾張藩士が記した『三の山巡』は、文政六年(一八二三)に、三十五日間をかけて三山に登った紀行文である。これは江戸時代の登山の様子を知ることができるだけでなく、道中の町や村の風俗や生活様式などについて貴重な記述が多く、興味ある文献である。
著者
荒井 直
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.81-94, 1992-12-10

アリストパネスの喜劇『雲』を、その主人公がどういう意味で愚かなのかを中心に、検討する。(一)まず、主人公ストレプシアデスは、(1)物覚えが悪く、(2)現実的・実用的なこと以外には興味がなく、(3)多分にアルカイックな心性を保存し・考え方が旧弊であるという点で、またソクラテス以下「学校」関係者との対比で、一見愚かであるかに描かれていることを明らかにする。(二)次に、「学校」関係者は、(1)仲間うちだけで結社をつくり、(2)主として「自然科学」関係と「弁論術」関係の研究と教育に従事するが、現実的・実用的な主人公のニーズに応じられないことのうらがえしとして、ポリスの現実から遊離・隔絶していることが指摘される。(三)さらに、「落ちこぼれ」と「優等生」の父子の違いに注目することで、(1)ソクラテスの「学校」の教育は、必賞必罰の神々の存在を否定し、(2)そのことで、父祖伝来の神々、ノモス(法・慣習)に根ざすオイコス(家)を破壊するものであること、『雲』は、(3)主人公が、痛い目に会わなければ、(1)と(2)を分らなかったという点で愚かであるとする喜劇であると解釈した。
著者
仲佐 秀雄
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.114-102, 1995-12-10

前号所載の「情報・通信メディアの規制とルール」に引き続き、その各論の一つとして、情報発信の「真実性」確保を採り上げた。この点について新聞では自律的倫理に委ねられているが、放送では「報道は事実をまげないですること」などの法規制があること。過去の誤報事例や最近のオウム報道における捜査中間情報の「確認」のありようなどを通じ、報道組織体の中の「コンプアメーション」のシステムについて検討を行った。
著者
川井 良介
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.96-68, 1999-12-10
著者
仲佐 秀雄
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.260-249, 1996-12-10

放送と通信の「融合」といわれる電気通信規制の状況の下で、編集責任を標榜するジャーナリズムと、内容を事実上無検証で「搬送」する通信事業(キャリヤー)とが、同じ制度上で混在する事態が広がりつつある。その場合、重要となる原初報道の「事実性」 「妥当性」 「真実性」の3点について、文体上、形式上のあり方の検証を試行的に行い、「直接認知」と「伝聞構成」の関係を考察した。
著者
山田 吉郎
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.35-46, 1992-12-10

川端康成は大正十三年の大学卒業後、伊豆湯ヶ島に引きこもり、孤独な文学修業時代を送るが、とくに大正十四年は一年の大半を湯ヶ島に滞在し、彼の人生観、文学観の形成の上に大きな影響を与えたと推測される。本稿においてはその若き川端の魂の軌跡を、とくに彼の書いた随筆作品に焦点をおいて考察した。大正十四年の随筆群を概観すると、人間と自然との境界を暈して自然自己一如的な境地に立脚した死生観や、そこから導き出されてきた自然観、さらに旅の意識の三点が主要な要素として指摘できる。そして、これらがこののちの川端文学の基底を形づくってゆくわけであり、その随筆作品の文学的意義はたいへんに重いものをはらんでいると言える。また、この時期の随筆作品の所々に、『伊豆の踊子』や『春景色』など川端文学の主要作品の表現に直接つながるような部分が見られ、川端小説の表現の形成過程を探る上でも、当時の随筆には看過しがたいものが存すると考えられるのである。如上の考察をふまえた上で、大正十四年の随筆活動の位置づけを展望し、まとめとした。
著者
小菅 健一
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.89-101, 1996-12-10

川端康成には本人が処女作と規定している作品が、「十六歳の日記」・「ちよ」・「招魂祭一景」の三つある。それぞれの特徴や作品相互の関係、さらには、<処女作群>としての存在意義を考察していきたいのだが、本稿では、純粋な創作活動の上で最も早い時期に書かれていて、表出(表現)行為における川端康成の問題意識が顕著に表われた、「十六歳の日記」を取り上げて、"日記"や"小説"という表現形態や作品構成の問題、その延長線上にある、《作品》概念の問題などを論じていくことによって、人間が自己の体験した様々な出来事を書いていくという行為自体を考察したものである。特に、焦点を絞って分析したことは、印象深い体験を作品化したにもかかわらず、まったく記憶に残らないということが、どういうことを意味しているのかを、表現主体である<私>という存在の内部世界において繰り広げられる、対象物の受容と定着、描出に関する基本的なメカニズムの問題である。
著者
斎藤 信平
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.70-60, 1998-12-10

本研究は、まず、十七世紀ロンドンにおけるコヴェント・ガーデン・ピアッツァの成立過程を考察し、その後ピアッツァの形式が継承されない理由を、清教徒革命に絡む美意識の変化として捕える。次に、ブルームズベリー・スクエアーの開発を、庭園史の中における「芝」の持つ意味と関係づけ、「スクエアー」開発における方位の問題を考察する。
著者
白倉 一由
出版者
山梨英和大学
雑誌
山梨英和短期大学紀要 (ISSN:02862360)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.31-43, 1993-12-10

『世間胸算用』は元禄五年(一六九二)正月、『日本永代蔵』『甚認記』『世の人心』『万の文反古』等に続いて刊行された。この作品は従来の作品とは異なり、作品中のキーワードによって分類すると金銭に疎外されて生活していかざるを得ない中・下層階級の町人を直視し、如何に生きているか、如何に生きなければならないかを問題にしようとした。西鶴は現実の商業資本主義の社会構造の本質を認識し、その中で悲しい運命を強いられる中・下層町人大衆に対し、その生活を肯定的に捉え、貧しく厳しい現実を生きていく人間の力、人間の可能性を描こうとしている。西鶴の文芸意識は内容面ばかりではなく、その内容を表現する形態面を考えた。如何に書かなければならないかを考え、形象化の方法を熟慮したのである。小説をどのように書くかを考えたのであり、造形的文芸意識である。構成において、全編大晦日という時の設定を初めとして、場所、登場人物等特種的形象化の配慮を行っている。形象性を重視したのである。『世間胸算用』の執筆意図は内容・形式両面における小説創作における文芸意識である。これは近代小説の造型意識であり、『世間胸算用』は近代小説の萌芽といってよいと思う。