著者
上尾 真道
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.102, pp.65-87, 2012-03

本論は, フロイトにおける人間と必然性の関係をめぐる問題を, フロイトの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」論の読解に基づき考察したものである。フロイトは, 人間に否応なく立ちはだかる必然性について, しばしばアナンケーという言葉で論じながら, 人間は宗教的錯覚を捨てて, それに対峙していかなければならないと述べ, その態度を科学的態度としている。本論は, 晩年の文化論に見られるこうした問題系をフロイトが先取りしていたものとして, 彼の論文「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期の思い出」を取り上げる。レオナルドは, 第一に, 宗教的錯覚を排し, 自然のアナンケーに知性を通じて対峙した人物として描かれている。しかし, レオナルド論を丹念に読むならば, 父性的影響を排することで可能となった知的な自然探求は, すぐさま, 常に幼年期の母との強い情動的関係に裏付けられた神経症的な思考強迫と境を接するものであることがわかってくる。知的探求と自然崇拝が結び付くようなこの母性的影響について, フロイトのほかのいくつかのテクストを参考にするならば, それは, 偶然的な現実を覆い隠そうとする錯覚のひとつであるという見方が可能となる。そこで, レオナルド論のうちに, この母性的錯覚に裂け目をもたらすものとしての偶然をめぐる主題を探すと, 自然に湛えられた潜在的な原因の闊入として構想された偶然の概念を見出すことができる。この偶然は, 必然性のうちに主体を埋没させる強迫的探求に対して, 主体が自らをひとつの作用因として世界へ介入させる行為と創造の側面から理解されるだろう。こうした必然性に参与する偶然への配慮こそがフロイトの科学的世界観の鍵であり, アナンケーを人間の変容の舞台として理解するための鍵である。 This paper deals with the problem of the relationship between necessity and humanity in Freud's thought, based on a close reading of his article "Leonardo Da Vinci and A Memory of His Childhood". Freud often argues about the inevitable necessity confronted by all humanity in terms of Ananke, insists that humanity should face it by abandoning all religious illusions, and classifies this attitude as that of Science. This problematic which is treated mainly in his late cultural essays, can be already found in the article on Leonardo. In this article, Leonardo is described as person who possesses a scientific attitude without any religious illusion. However, this attitude reveals itself as close to neurotic symptoms, fairly influenced by the mother's affect. This maternal influence, according to Freud's other articles, can be thought of as an illusion which conceals the contingent real. In fact, the problem of contingency is easily found in the article on Leonardo, where contingency is seen as the intrusion of potential causes inside the nature. This consideration about contingency is essential to Freud's conception of Science, and might enable us to understand Ananke as a stage of the transformation of humanity.
著者
竹沢 泰子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.100, pp.1-11, 2011

この小論は,人種表象に関する共同研究の成果である『人種の表象と社会的リアリティ』(2009)およびRacial Representations in Asia(2011)で展開した人種表象についての議論をさらに深化させるために,その準備作業として今後の課題をいくつかを素描するものである。最初に,日本の「見えない人種」の表象との接点を見出すために,海外の事例をいくつか紹介しつつ,表象のプロセスにおいて注目すべき点を指摘する。ここで取り上げるのは,南北戦争前のアメリカ南部で「白人」「黒人」の境界領域にいた人々や,現代のオーストラリア社会に存在する,「白い肌」をもつアボリジニの人々などである。「白人」との集団間結婚の繰り返しにより,身体的可視性を失い「見えない人種」となったこれらの人々を, コミュニティやメディアはどのように同定し,表象するのかが明らかにされる。次に,人種表象,とくに視覚表象と非視覚表象の相互作用がもたらすいくつかの興味深い現象に目を向ける。最後に,これまでの共同研究会における議論を踏まえて,検討を要する課題のいくつかを記すことにより,今後の発展につなげたい。This essay sketches our next steps to further elaborate on the discussions on racial representations developed in Racial Representations and Social Realities (2009) and Racial Representations in Asia (2011) as the results of our collaborative research project. First, I point out some pronounced representational processes taken from overseas examples in order to find the nexus with Japan's representations on "invisible races." The cases include the people in the borderlands between "white" and "black" in the antebellum American South and "white skinned" aborigines in contemporary Australia. I attempt to clarify the ways in which communities and media identify and represent those people who have become "invisible races" due to repeated inter- group marriage with "whites" over generations. After moving to the curious phenomena derived from the mutual effects of both visual and non- visual representations, the essay concludes by noting issues in need of further discussion. It is my hope that our research, built on past dialogue among our collaborators, will continue to develop.

1 0 0 0 人文學報

著者
京都大學人文科學研究所 [編]
出版者
永末書店
巻号頁・発行日
1950
著者
テーウェン マーク
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.115, pp.223-237, 2020-06-30

1970年代以来, 一時相当さびれていた都市祭礼は日本文化の宝物と見なされるようになった。この都市祭礼の再発見には, 京都の祇園祭がはたした役割が大きい。本稿は, 未公開の記録に基づいて山鉾巡行の戦時・占領期の歴史を山鉾連合会の視点から詳しく紹介し, その1941年から1948年までの劇的な変動を分析する。1943年の巡行中止をめぐる事情, そして1946年以降の復興方法についても, この記録が多くの新しい情報を提供するだけでなく, 山鉾巡行の意味づけの変遷も読み取れる。戦争中には武運長久を祈る「神事」として規定されていた巡行は, 戦後に神社から切り離され, 京都市観光連盟主催の観光行事に変身した。この動きのなかで, 京都市による祇園祭復興が一つの模範になり, のちに日本中の祭礼に転用されたと思われる。
著者
川口 朋子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.113-136, 2013-03-29

本研究は,戦後京都を事例とし,戦時下に防空事業として執行された建物疎開の戦後処理状況を明らかにしたものである。戦後を迎えた京都は,空襲被災が微少という点において東京や大阪など五大都市とは異質な立場にあり,防空事業の爪痕を戦後都市がどのように吸収,処理していったのか,その過程を解明するために最適な都市である。内務省国土局では,1945年8月以降疎開跡地を都市計画の空地と読み替え,工場周辺の小空地や消防道路,空地帯の跡地を中心に都市計画決定を進めた。都市計画決定に向けた一連の動きのなかで,京都市へは罹災都市借地借家臨時処理法を適用し,特別都市計画法を非適用とした。防空法廃止後も疎開跡地を京都市が賃借し続けることを法的に規定した一方で,戦災復興事業の対象外に位置づけた。戦直後の市街地には,疎開者と非疎開者の差,疎開跡地を利用した都市計画施設など建物疎開の痕跡が際立つ空間が存在した。聞き取り調査では,疎開者が非疎開者に対して抱く感情として不平等意識があることを確認した。その背景には,疎開者の多くが元の居住地から極めて近場に移動した結果,取り壊された自宅跡地を見る機会が多く非疎開者との生活環境の差を強く感じたためと考察した。戦後になって周知の事実となった,京都市が「非戦災都市」であるという現実も,疎開者に心理的葛藤を抱かせた。建物疎開に対する国の規定概念を罹災都市借地借家臨時処理法と戦時補償特別措置法の審議過程から検討した結果,建物疎開を受けた者と民間空襲被災者の借地権を区別し,疎開地と戦災地は同等ではないと規定したことが明らかになった。