著者
吉村 智博
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.113-127, 2011-03

本稿は,社会的差別というテーマを博物館が展示する際に生起する表象をめぐる課題について考察する。博物館論を念頭に置きつつ,人権問題を扱う地域博物館の学芸員としてわたくしが経験したことにそくして考えてみたい。本稿では,差異の表象に関する諸問題を中心に検討する。従来の研究では,そのような問題は主にテクスト分析を通してなされてきたが,学芸員自身の日常的な営為については,十分に探求の眼差しが向けられてきたとは言い難い。しかし,博物館展示のもつ広い社会的影響力を考慮すると,社会的差別のような抽象的なテーマに取り組む学芸員の日常的な営為を取り上げることに意義が見出せる。わたくしの場合は,近代日本社会において「部落民」として差別を受けてきた人びとをめぐる展示を通して,いわゆるタブーに挑戦したのであるが,そこから博物館と学芸員にとっての新たな役割と任務が明らかになった。それは,博物館展示においては観覧者(来館者)と常に情報交換と意思疎通や交渉をすること,当事者,研究者,教育関係者,観覧者(来館者)と協同すること,そして差別被差別の二項対立概念を超えること,さらに「当事者」という概念を問うことである。博物館展示が,社会的差別に対抗する思考を発展させる契機をつくりだすのに有効であるとするならば,博物館と学芸員は展示主体として自己の立場と立ち位置を表明すべきである。「中立性」や「客観性」を追求しようとすると,むしろ被差別当事者(あるいは集団)に対する誤解を再生産させかねないからである。ゆえに,博物館展示では歴史的資料を元の文脈から切断して現代の文脈に置換する際,それについて固有の位置づけや解釈を示すことが必要とされるのである。そのことは,私たちが博物館展示に対して,より再帰的な方法と実践をひらくことを可能にするだろう。
著者
山室 信一
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.63-80, 2011-03

1895年から1945年の敗戦に至るまでの日本は, 日本列島弧だけによって成立していたわけではない。それは本国といくっかの植民地をそれぞれに異なった法域として結合するという国制を採ることによって形成されていったが, そこでは権利と義務が差異化されることで統合が図られていった。こうした日本帝国の特質を明確化するために, 国民帝国という概念を提起する。国民帝国という概念には, 第1に国民国家と植民地帝国という二つの次元があり, それが一体化されたものであること, しかしながら, 第2にまさにそうした異なった二つの次元から成り立っているという理由において, 国民帝国は複雑に絡み合った法的状態にならざるをえず, そのために国民国家としても植民地帝国としてもそれぞれが矛盾し, 拮抗する事態から逃れられなかった事実の諸相を摘出した。その考察を通じて, 総体としての国民帝国・日本の歴史的特質の一面を明らかにする。 The Meiji state's experience of forming a nation state affected its possession of colonies and also the changes that accompanied the Meiji state's becoming a colonial empire. In this paper, I will employ the concept of nation—empire for the purpose of clarifying the character of Japanese total empire. To do so, I wish first to emphasize that the concept of nation—empire has two dimensions, for it is meant to incorporate both the nation state and the colonial empire. But my second point is that for precisely that reason, it contains tendencies that contradict the nation—empire itself.
著者
高階 絵里加
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.19-35, 2011-03

明治期の洋画家である高橋由一の油彩作品にっいては, 近年, その革新性のみならず, 江戸美術とのつながりにみられるような伝統的側面も研究されてきている。由一の風景画のなかでも, 明治14-5年ごろの制作とされる《山形市街図》は, 同構図の写真との影響関係から, 従来, 伝統的風景表現を脱した写実的絵画とみなされてきた。本小論では, この《山形市街図》が, 写真にもとづきながらも, 遠近法の消失点に中心モティーフを置く独特の手法において, 江戸名所絵の伝統を踏襲していることを指摘する。また, 群童にはない空の表現や点景人物の加筆などの点においても, 広重のような江戸の浮世絵風景版画の描き方とのっながりが見られることを考察する。