著者
倉島 哲
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.98, pp.81-116, 2009

身体技法の習得は,身体が社会的位置の刻印を受けることで,社会構造の再生産の媒体として形成されることであると一般的に考えられている。このような理解は,身体技法の概念を最初に提出したマルセル・モースの議論にも,身体をめぐる現代的状況を考えるうえで欠かせない二人の思想家,ピエール・ブルデューとミシェル・フーコーの議論にも認めることができる。しかしながら,身体は,社会的位置の刻印を一方的に受けるだけの,可塑的な素材ではないように思われる。というのも,どのような身体技法であれ,それを身に付けようとするときに,身体が自分の思うままにならない場合があることを,われわれは経験的に知っているからである。このような,意思に対する身体の抵抗(以下,「身体の抵抗」と略記)を認めたならば,身体技法の習得を,身体に対する社会的位置の一方的な刻印として捉えることはできないのではないだろうか。本稿では,身体の抵抗を捉えることで,身体技法の習得と社会的再生産の一見して必然的な関係を解体することを目指す。その方法として,最初に,身体技法の習得と社会的再生産をめぐる理論のうち主要なものを検討し,身体の抵抗を認めることで両者の結び付きを解けることを示したい。次に,イギリスはマンチェスターにおける太極拳教室であるC太極拳センターを考察することで,身体技法の習得過程における身体の抵抗のありようを具体的に描き出すことにしたい。調査の方法としては,16ヶ月間(2006年1月~3月, 2007年1月~2008年3月)にわたって週に二回(火曜日と木曜日)の練習の参与観察を行ったほか,指導員と上級クラスの生徒の大部分(指導員2名,生徒12名)の個別インタビューを行った。The purpose of this paper is to propose a new way to understand the acquisition of body techniques, by way of identifying 'corporal resistance' in the course of the acquisition of Tai Chi techniques in a class in Manchester, UK. Conventionally, acquisition was pictured as the embodiment of the social position occupied by the agent, with the implication that the body is an infinitely plastic object that can be given any form that society demands. This picture can be identified in the theories of Marcel Mauss, Pierre Bourdieu, and Michel Foucault. Contrary to the common understanding, participant observation on the Tai Chi class has shown that agents experience their own bodies resisting their will to acquire certain techniques, and that this resistance plays a key role in the formation of motivation, cognition, and the subject. In order to gather data, I have done participant observation held at the main centre building for 16 months (January 2006 to March 2006, and January 2007 to March 2008), by joining in twice weekly evening classes on Tuesdays and Thursdays. In addition to participating in the training, I have also conducted personal interviews on most of the instructors and the regular students (2 instructors, 12 students).
著者
松尾 尊兌
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.98, pp.117-142, 2009

佐々木惣一は憲法学者として大正デモクラシー運動の先頭に立ち,とくに学問の自由,大学自治確立のため奮闘した。一方,近衛文麿は首相として日中戦争を全面化し,日独伊三国同盟を結び,国内の戦争体制を整備した責任者である。権力と反権力を象徴するこの二人は敗戦直後,ともに内大臣府御用掛として明治憲法の改正作業を行った。この関係はどうして生まれたのか。近衛は京大学生時代,佐々木の講義は聞いたが,親しい関係はなかった。二人の接触が証明されるのは,1939年,近衛が首相を平沼騏一郎に譲り,無任所大臣に就任したときである。このとき近衛は枢密院議長を兼任したが,憲法違反の疑いをかけられ,京都の佐々木を訪問して教えを乞うた。その後佐々木は近衛の企てた大政翼賛会は違憲だと非難したが,太平洋戦争末期には近衛を中心とする反東条内閣,早期和平実現計画の一員に加わる。敗戦直後,マッカーサーは近衛に憲法改正を行うよう指示する。近衛が相談相手に佐々木を選んだのは,戦争末期の協力関係によるものである。佐々木は大正天皇の即位のときから憲法改正を念願としていたのでこれに応じた。佐々木はこの作業を東大や同志社大出身者を交えて行う計画であったが実現しなかった。内大臣府廃止により,憲法改正作業は打切られ,近衛は要綱だけを,佐々木は全文を天皇に報告したが,これは二人の問に意見の対立があったからではない。二人はともに,天皇主権という帝国憲法の形式(国体)を維持したままに,内容を民主主義的自由主義的に改めることを意図した。国体を維持するためには,昭和天皇は戦争責任を負って退位すべきだとの暗黙の合意も,二人の間には存在した。近衛が戦争犯罪者に指名されて自殺したあと,その遺志をつぐように佐々木は貴族院議員として主権在民の日本国憲法に反対する一方,皇室典範を天皇退位を可能にするよう改正せよと主張した。ただし新憲法の内容のデモクラシーには賛成し,新憲法が成立すると,国民は新憲法を尊重して,これを守るよう説いた。Sasaki Soichi was a constitutionalist, who stood at the forefront of the "Taisho Democracy" movement. He struggled in particular to establish academic freedom and university autonomy, The fact is not well-know, however, that this leading constitutionalist established some cooperative relationship with Konoe Fumimaro, who led Japan to a full-scale war with China, and entered into the Tripartite Pact with Nazi Germany and Italy. Their relations dated back to 1939, when Konoe visited Sasaki in Kyoto to consult on the issue of unconstitutionality of his nomination as a minister without portfolio, Some frictions notwithstanding, the cooperative relationship between these two figures developed during the war years, In 1944 Sasaki supported Konoe's plans to bring down the Tojo cabinet, and to bring a quick end to World War II. After the war, they worked together in the Office of the Lord Keeper of the Privy Seal (Naidaijin-fu) on revision of the Meiji Constitution. When General MacArthur requested Konoe to revise the Constitution, he chose Sasaki as his consultant. They both agreed on introducing democracy and liberalism to the constitution, while keeping its existing framework of the "national polity" (kokutai), and the imperial sovereignty. They also opted for the Emperor's abdication on the ground of his was responsibility. Their work came to end with the dissolution of Naidaijin-fu.After Konoe's suhcide, Sasaki insisted on a revision of the Imperial Household Law to make the Emperor's abdication possible. While critical of the concept of popular sovereignty in the new Constitution of Japan, he supported its democratic contents and calle on the nation to respect it.
著者
宮下 良子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.108, pp.49-63, 2015-12-30

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第I部 :帝国日本と民間信仰≫
著者
辛島 理人
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.1-33, 2014-06-30

本稿は,板垣與一ら経済学者たちの1950年代における活動を中心に検証し,アジア経済研究所の設立過程に焦点をあてながら,戦後日本のアジア研究の制度化を議論するものである。それを通じて,戦時期に生まれた「新しいアジア学」や「新しいアジア主義」が戦後に結びついて日本の経済再建とアジア復帰の中で学知を再編したことを明らかにしたい。日本の地域研究が,有望な市場ないし天然資源の供給先,を重点的に研究しようとする経済主義によって整備されたことについても議論する。一九四〇年代前半に植民政策学の担い手であった板垣與一ら経済学者は,一九五〇年代後半にアジア経済研究所の設立にこぎつけ,念願であった東南アジア研究の拠点を獲得することとなった。これには通産省や財界といった日本経済の再建とアジアへの再進出を主導した機関や岸信介ら政治指導者の後援が不可欠であった。板垣らは,通産省や財界の支持を得るまで,試行錯誤を繰り返した。アジア政経学会,アジア問題調査会,アジア協会といった団体への参加を通じて中国研究者や外務省と協働し,その経験から人脈を築いて中国以外の地域を対象とするアジア研究を制度化していったのである。アジア研究が制度化された背景には,一九五〇年代後半に「経済協力」が日本の政策的「ハイライト」となり「発展期」を迎えたことにあった。これは,日本経済が東南アジアとの連携を強めながら発展していく過程で生じたものである。その流れの中で,「満州人脈」ともいうべき岸ら経済主義的アジア主義者と「新しいアジア学」の担い手である板垣らが連結し,アジア経済研究所が設立されることとなった。両者は,戦間期以降に生じる反帝国・反植民主義に対処する方策として,民族自決 (ナショナリズム) と経済発展 (開発) という問題の重要性に帝国日本の中でいち早く気づき,悪化する戦局の中で政策形成に関わろうとした人びとである。アジア経済研究所の設置は,そのような様々な集団が「アジア研究」を境界オブジェクトとして各々の利害を持って結集したことにより実現した。
著者
倉島 哲
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.81-116, 2009-12-30

身体技法の習得は,身体が社会的位置の刻印を受けることで,社会構造の再生産の媒体として形成されることであると一般的に考えられている。このような理解は,身体技法の概念を最初に提出したマルセル・モースの議論にも,身体をめぐる現代的状況を考えるうえで欠かせない二人の思想家,ピエール・ブルデューとミシェル・フーコーの議論にも認めることができる。しかしながら,身体は,社会的位置の刻印を一方的に受けるだけの,可塑的な素材ではないように思われる。というのも,どのような身体技法であれ,それを身に付けようとするときに,身体が自分の思うままにならない場合があることを,われわれは経験的に知っているからである。このような,意思に対する身体の抵抗(以下,「身体の抵抗」と略記)を認めたならば,身体技法の習得を,身体に対する社会的位置の一方的な刻印として捉えることはできないのではないだろうか。本稿では,身体の抵抗を捉えることで,身体技法の習得と社会的再生産の一見して必然的な関係を解体することを目指す。その方法として,最初に,身体技法の習得と社会的再生産をめぐる理論のうち主要なものを検討し,身体の抵抗を認めることで両者の結び付きを解けることを示したい。次に,イギリスはマンチェスターにおける太極拳教室であるC太極拳センターを考察することで,身体技法の習得過程における身体の抵抗のありようを具体的に描き出すことにしたい。調査の方法としては,16ヶ月間(2006年1月~3月, 2007年1月~2008年3月)にわたって週に二回(火曜日と木曜日)の練習の参与観察を行ったほか,指導員と上級クラスの生徒の大部分(指導員2名,生徒12名)の個別インタビューを行った。
著者
小股 憲明
出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.73, pp.p201-241, 1994-01

英文目次誤植修正済. (原文) An Lese Magesty Affair in 1898 : The Speech of Republic by the Minister for Education Ozaki Yukio
著者
柴田 陽一
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.69-116, 2014-06-30

「大東亜戦争」期 (1941-1945年),京都帝国大学地理学教授であった小牧実繁は,「日本地政学」を標榜し,著書・雑誌・新聞・講演・ラジオなどさまざまなメディアを駆使したプロパガンダ活動をおこなった。けれども,国民の啓蒙を意図しておこなわれた彼の活動を可能にしたネットワークの存在,活動の社会的影響,プロパガンダの内容については,これまでほとんど検討されていない。本稿は,彼の著作をひろく利用することにより,彼のプロパガンダ活動の特徴と,その思想戦における役割を検討した。その結果,つぎの三点が明らかになった。すなわち,(1) 彼がプロパガンダ活動を多方面で展開できた理由に,当時の言論界で大きな力をもっていた情報機関 (内閣情報部・陸軍省情報部) や,スメラ学塾,大日本言論報国会,国民精神文化研究所とのネットワークが存在したことである。(2) 世界観というレベルの問題をとりあつかい,精神的側面を重視した彼のプロパガンダ活動は,全体としては当時の思想戦の動向と軌を一にしたものだが,単なる御用学者という言葉だけでかたづけられない側面ももちあわせていたことである。地政学的地誌を通じて彼が提示した独自の世界観に,この点がよく表れている。(3) 彼のプロパガンダ活動が当時の社会に影響を及ぼしたことは,おびただしい数の出版物や旺盛な講演活動などから間違いないが,活動の実質的効果については大いに疑問の余地が残ることである。
著者
井上 勝生
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.111, pp.67-91, 2018-03-30

特集 : 日清戦争と東学農民戦争Special Issue: the Shino-Japanese War and the Donghak Peasant War本史料は, 日清戦争中, 第五師団後備第19大隊に従軍した一兵卒の従軍日誌である。同大隊は, 当時も「東学党討滅大隊」と呼ばれていた東学農民軍殲滅部隊である。筆者の兵士は, 1894年7月23日, 召集令状を受取り, 松山市で後備第19大隊へ入り, 最初, 下関守備隊に就く。ついで10月28日, 東学党討滅のために, 渡韓を命令され, 11月12日, 龍山を出発, 東学農民軍に対する「3路包囲殲滅作戦」に従軍した。兵士は, 同大隊の第1中隊に配属され, 東側の道を進軍する。京畿道利川から忠清道忠州, 鳥嶺を越えて, 慶尚道聞慶へ入り, 全羅道南原へ, さらに南部の長興戦争などに参戦。討滅は, 出発の3日後, 利川で, 指導者の子息を投獄, 銃殺するところから始められる。以後, 東学農民軍の集結する村落を襲撃し, 指導者らを銃殺。途中, 大隊本部・第3中隊へ軍資金を運搬する任務にあたっては, 文義・沃川戦争直後の村々の惨状を目撃, 慶尚道から全羅道へと討伐に従軍した。南原以後, 討伐は, 拷問・銃殺・焼殺, 村の焼き払いなども激化する。討伐作戦最前線の戦場の状況が記されている学術的に貴重な歴史史料である。This is the full text of the "campaign journal" kept by one of the soldiers participating in the Japanese offensive against the Donhak Peasant Army in Korea, during the Sino-Japanese War. It describes the total annihilation campaign carried out by the Japanese, including shooting captured members of the Peasant Army, burning their villages, and direct gunfights between the two sides. The detailed account of the situation on the battlefront makes it an extremely valuable historical resource.
著者
菊地 暁
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.117, pp.157-158, 2021-05-31

<書評特集>菊地暁・佐藤守弘編『学校で地域を紡ぐ --『北白川こども風土記』から--』本特集の書評者は,2020年6月25日から7月16日に4週連続で開催されたオンライントークイベント『学校で地域を紡ぐ --『北白川こども風土記』から--』にコメンテイターとして御登壇いただいた諸氏に若干名を加えたものである。