著者
籠谷 直人
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.183-214, 2017-07-31

本稿の課題は, 1930年代のイギリス領インド(以下, 英領インドと略す)市場における日本の「綿製品」(以下, 「綿布」と表記する)を通して, 日本と英領インド, そしてイギリス本国との通商関係について分析することにある。とくに英領インド市場を舞台にした, 日本と英領インドの政府間間交渉であった「日印会商」(1933年9月−34年1月)を改めて取り上げたい。既存の研究は, 日印会商を通商摩擦の舞台とみなし, 日本の世界経済からの孤立の側面から議論してきた。しかしながら, 本稿では, 30年代の日本の綿布は, インド政庁にとっては輸入関税収入を確保するためには必要であった。輸入関税収入額は, 1930年度<「イギリス製品」から2000万ルピー, 「日本製品」から1800万ルピー>, 31年度<1700万ルピー, 2000万ルピー>, 32年度<3000万ルピー, 3600万ルピー>, 33年<2100万ルピー, 2500万ルピー>, 34年度<2900万ルピー, 2600万ルピー>, 35年<2300万ルピー, 3300万ルピー>, 36年度<1700万ルピー, 3000万ルピー>であった。輸入綿布への従価税率は, 1934年以降には日本綿布に50%, イギリス製品に25%という税率であったが, 関税収入額の側面からみると日本とイギリスの綿布は, インド政庁にとっては, ほぼ同額の関税収入を稼ぎ出していた。そして日本にいるインド人貿易商にとっても取引機会を提供した点で重要であった。そして, 「インド棉花」にとっても日本市場は重要であり続けた。30年代の日本の孤立ではなく, むしろ協調的関係を模索していた。もっともこうした通商関係の協調の模索は, イギリスから「満洲国」の承認をとりつけるねらいがあった。協調姿勢も「満洲問題の解決は予想外の好調に進み, 英米等の理解ある態度」を確保するためであったことにも留意したい。つまり広田広毅外務大臣は「満洲問題の完逐を図るために(中略)イギリスとの関係は, シムラ会議を纏めて, 両国の関係をよくするやうにして行くより方法がない」と述べていた。本稿では, 日印会商における日本政府側の代表のインド政庁にたいする通商的譲歩姿勢に注目しているが, こうした1930年代の日本の協調的経済外交は, 32年3月の「満洲国」の建国を対外的に承認させようとする政治的含意があった。33年3月に日本は国際連盟から脱退するが, イギリス領における政府間交渉の協調的外交は, そうした日本の対中国膨張策を補うことに狙いがあったことを看過してはならない。
著者
川口 朋子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.104, pp.113-136, 2013-03-29

本研究は,戦後京都を事例とし,戦時下に防空事業として執行された建物疎開の戦後処理状況を明らかにしたものである。戦後を迎えた京都は,空襲被災が微少という点において東京や大阪など五大都市とは異質な立場にあり,防空事業の爪痕を戦後都市がどのように吸収,処理していったのか,その過程を解明するために最適な都市である。内務省国土局では,1945年8月以降疎開跡地を都市計画の空地と読み替え,工場周辺の小空地や消防道路,空地帯の跡地を中心に都市計画決定を進めた。都市計画決定に向けた一連の動きのなかで,京都市へは罹災都市借地借家臨時処理法を適用し,特別都市計画法を非適用とした。防空法廃止後も疎開跡地を京都市が賃借し続けることを法的に規定した一方で,戦災復興事業の対象外に位置づけた。戦直後の市街地には,疎開者と非疎開者の差,疎開跡地を利用した都市計画施設など建物疎開の痕跡が際立つ空間が存在した。聞き取り調査では,疎開者が非疎開者に対して抱く感情として不平等意識があることを確認した。その背景には,疎開者の多くが元の居住地から極めて近場に移動した結果,取り壊された自宅跡地を見る機会が多く非疎開者との生活環境の差を強く感じたためと考察した。戦後になって周知の事実となった,京都市が「非戦災都市」であるという現実も,疎開者に心理的葛藤を抱かせた。建物疎開に対する国の規定概念を罹災都市借地借家臨時処理法と戦時補償特別措置法の審議過程から検討した結果,建物疎開を受けた者と民間空襲被災者の借地権を区別し,疎開地と戦災地は同等ではないと規定したことが明らかになった。
著者
長 志珠桧
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.114, pp.171-186, 2019

特集 : 人種主義と反人種主義の越境と転換歴史研究としての「国際結婚」は, 近代国家への帰属問題として考えられ, 19世紀日本における身分制の解体と近代化, 概念と現実の乖離を論じてきた。では「人種化」という構築主義的枠組みと「国際結婚」の関係を検討することで, どのような議論が可能だろうか。文化研究では近年, 「人種」概念と「民族」概念との交差を「混血児」をめぐる言説分析に見出し, 「国民化」の歴史性を描く。しかし戦後・占領期に集中するため帝国日本が抜け落ちる。本稿では試みとしてタイムスパンを長く取り, 方法としての「国際結婚」という立場をとることで「人種」論が「国際結婚」をめぐる言説に役割を果たす歴史性に注目した。この観点はまず, 近代国家の国民化にとって重要な戦略としての「性差」という問題系を浮上させる。19世紀半ばの「国際結婚」論は, あいまいながらも人種論の用語によって, 異性愛主義による近代家族の導入という規範を強い, 日本の社会的慣習でもある「養子」を批判した。同様に, 近代法は「血の論理」を導入することで, ヘテロセクシズムによる家族像を規範としたジェンダー化された論理を持ち, 誰が「国民(「臣民」)の範囲(「分限」)」になるのか, 定義を伴った。次に帝国内部でのインターマリッジとして位置付けられることの多い「婚姻」は, 植民者と被植民者間の境界設定の政治であり, 本国と植民地, あるいは本国と占領地や満洲移民集団も含め, それぞれの社会秩序の柱としての家父長制間での独身の女の交換としての要素を持っていた。第三に, 1930年代以降, 「人種主義」は重要な政治性を帯びた。言説としての「人種」論の本格的な展開は「異民族」支配の過程で新たに必要とされ, 同時に, 従来の東アジアの植民地支配においても再発見され, 組み替えられた。「帝国」の範囲が変化することで, 言説の政治としての「人種論」の緻密さや方法論は変容するが, 「婚姻」という枠組みはそれが「国際結婚」とみなされるのか否かも含め, 歴史性を伴うとともに家父長制下の個々の人々の, 特に制度的には女性の生にその矛盾が集約される構造を伴った。This paper examines the formation and change of discourse on race and racialization theory, focusing on that of "international marriage, " in the Japanese empire. By setting the time period from the middle of the 19th century to the downfall of the empire in the middle of the 20th century, I will depict various contradictions especially concentrated on womenʼs body located both in empire and colonies. The racialization theory during the middle of the 19th century criticized the "adoption" of children, which had been a long-term social custom in Japanese society, in order to establish the norms of the heterogeneous modern family. In a similar manner, modern law introduced "blood logic" based on the heterosexual and ideally gendered family. Such racialization theory had transformed when Japan extended its imperial territory in East Asia. So called "intermarriage" had been practiced between colonizer and colonized. The politics of boundary, such as between empire and colony, home and migrant community or occupied territory, emerged and was contested by the increasing number of intermarriages. In particular, intermarriage under the Japanese empire was regarded as an exchange of single women in East Asia where a patriarchal system had been dominant in the region. During the 1930s when Japan attempted to attain hegemony in Asia, racial theory had become a crucial political issue. The theory had been eagerly studied in order to meet the demand for ruling the different ethnic groups (iminzoku) in East Asia. In other words, Japanese discourse on race and its racialization theory changed when it expanded its imperial territory. However, the discursive framework of marriage, including intermarriage, remained to play the same role for controlling womenʼs bodies under the patriarchal system in the region.
著者
エッセルストロム エリック
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.106, pp.81-96, 2015

特集 : 領事館警察の研究本稿が考察するのは,日本と欧米列強の狭間で起こった日本領事館警察に関連しての外交的紛争の本質である。朝鮮と南満州のいくつかの事例を考慮しつつ,1919年の天津租界での日米衝突事件に対しより深い分析をして,最終的に1930年代の日本領事館警察の正当性について日本 と欧米学者間で行われた国際法的論争に注目する。特に論じたいのは,欧米各国も不平等条約 体制による利権を得たから日本領事館警察に対しての欧米批判は,中国側のその体制による国 家主権が被害された主張と同情心によって生まれたものではなく,欧米各国の権利が侵された 時だけに起こるという事である。その他,1930年代の日中関係の悪化は日本領事館警察の活動 が一つの原因であると信じてた欧米評論家が確かに数人いたが,領事館警察の正当性と必要性 を完全に認められなかった者は非常に少なかった。一方で日本人評論家は,中国本土や世界中 の植民地で欧米列強によって敷かれた治外法権体制こそが日本領事館警察制度の正当性を示す ものであるとよく論じた事。
著者
藤井 正人
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.115, pp.51-105, 2020

ウパニシャッドは, 古代インドの宗教儀礼文献であるヴェーダの中に現れた一群の哲学書である。その最古のものと考えられるのが, 本稿で取り上げる『ジャイミニーヤ・ウパニシャッド・ブラーフマナ』(Jaiminīya-Upanisad-Brāhmana [JUB])である。ヴェーダ祭式の歌詠部門(サーマ・ヴェーダ)に所属するジャイミニーヤ派の文献として, 祭式歌詠(サーマン)に関する哲学的な思弁を主な内容としている。JUBは, 先行するブラーフマナ文献のように個々の祭式や歌詠を具体的に記述することはほとんどなく, 祭式や歌詠をめぐって, あるいはそれらを離れて, 再生説を含むさまざまな哲学的思弁を展開している。同じくサーマ・ヴェーダ所属のカウトゥマ・ラーナーヤニーヤ派の『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と, テキストと内容において近い関係にある。ジャイミニイヤ派内ではウパニシャッドとして扱われているが, ヴェーダの学派伝統の外にあってウパニシャッドを聖典として奉じる後世のヴェーダーンタ学派からは, 『ケーナ・ウパニシャッド』の部分(JUB 4.10.1–4 [4.18–21])を除いてウパニシャッドとは見なされなかった。この文献がヴェーダの文献成立史の中で最初のウパニシャッドとしてどのように生まれてきたか, その誕生の全体像を描くことが本稿の目的である。そのために, 以下の論点について順に考察していく。1. この文献は何を中心テーマとしているのか。2. それ以前の文献ではその中心テーマは扱われていたのか, いなかったのか。3. この文献がそれを中心テーマとする背景はなにか。4. この文献はその中心テーマからどのような思想を展開したのか。5. この文献を作り出したのがなぜこの学派(ジャイミニーヤ派)であったのか。6. この文献を最初のウパニシャッドと見なしうる根拠は何か。The Upanis. ads are philosophical texts produced in the Veda, a huge complex of ancient Indian ritual texts. The Jaiminīya-Upanis. ad-Brāhman. a [JUB] is the earliest of the texts which were produced as Upanis. ads in the history of Vedic literature. The JUB as a text belonging to the Jaiminīya school of the Sāmaveda, `the knowledge (veda) of sacred ritual chants (sāman)' has philosophical speculations about the ritual chants as its main contents. Unlike the preceding Brāhman. a texts, this text does not describe the details of the rituals and chants, but extends various philosophies including rebirth theories, in connection with, or apart from, the ritual and chants. It has a close relationship in texts and contents with the Chāndogya-Upanis. ad belonging to the Kauthuma-Rān. āyanīya school of the Sāmaveda. Though the JUB has been treated as an Upanis. ad inside the Jaiminīya school, it has not been acknowledged to be an Upanis. ad proper by the Vedāntins who, being outside the Vedic schools, worship the Upanis. ads as their highest authority, with the exception of the Kena-Upanis. ad portion (JUB 4.10.1–4 [4.18–21]). The purpose of this article is to elucidate the overall picture of the birth of the JUB as the first Upanis. ad in the history of Vedic texts. For this purpose, the following points will be discussed: 1. What is the main theme of the JUB? 2. Is the main theme of the JUB treated in its proceeding texts or not? 3. What is the background for the main theme of the JUB? 4. What kind of philosophies does the JUB develop from the main theme? 5. Why did the Jaiminīya school, not other schools, produce the JUB? 6. What are the gounds and criteria for judging the JUB as the first Upanis. ad?
著者
黛 友明
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.113, pp.71-90, 2019-04-25

本稿では, 高取正男の思想のなかでも, 村落共同体に対する認識と「ワタクシ」という概念に注目し検討した。高取のいう「ワタクシ」とは, 「近代的自我の成立する以前に存在した個人意識」のことである。ヨーロッパの個人主義が, 個室に代表されるのに対して, 私の茶碗, 私の枕というように, 日本においてはモノとの関係において顕著にみられるとともに, 禁忌(タブー)や儀礼という形でしか現れてこないものという点に特徴があるという。高取は, 1950年代から, 村落共同体を, 狩猟採集民や村を訪れる人(神)と関連させることで, 歴史的展開をつかむ枠組みを模索していた。その特徴は, 村落共同体の脆弱性という認識をベースとして, 災害や飢饉があった時は共同体自体を維持するために弱者を切り捨てる, 非情なシステムをも有していると見なしたことにある。このような村落共同体に対する冷徹な認識は, 岩波講座『日本歴史』に収録された「日本史研究と民俗学」(1976年)以降, 「米作り」が, 自立した農民を登場させる一方で, 半定住にとどまらざるを得ない「農業補助者」を再生産する「二重構造」(「本源的二重構造」)を持つと総括されはじめる。そして, これが, 差別をはじめとする日本という社会の諸問題の根源だと位置付けた。しかし, 高取は村落共同体の不安定性を単に封建制度の残存で克服されるべき悪弊と批判する姿勢とは明確に距離を置いていた。「ワタクシ」への注目はそのことを端的に示している。盆の無縁仏や門付けへの施しを, 飢饉における加害の経験と結びつけ, 生き残ったものの「贖罪」行為として理解し, また, 村落共同体から離脱していく人びとを, 「ワタクシ」の暴発と捉え, 丹念にその心性に分け入ることも忘れなかったのである。
著者
山下 正男
出版者
京都大学人文科学研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.66, pp.p133-156, 1990-03

英文目次誤植修正済. (原文)The Tenno (The Emperor) in the Present Constitusion of Japan