著者
高階 絵里加
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.100, pp.13-32, 2011

現在,自然科学の分野においては,可視的な身体的特徴にもとづく人間の分類に大きな疑問が投げかけられている。いっぽうで,一般社会においては,とりわけ肌の色の違いをもとにした「白色・黄色・黒色」の三分類がひとつの典型的な人種カテゴライズの方法として根強く定着している。本小論では,視覚的伝統における人種の三区分の一つの例として,<東方三博士の礼拝〉の図像をとりあげる。〈東方三博士の礼拝〉は,西洋美術の中で最も数多く絵画や彫刻に制作され,親しまれている図像のひとつであるが,造形美術において「肌の色による人間の三分類」が典型的にあらわれる例でもある。その背景には「異邦人を含む全人類を包括する普遍的宗教としてのユダヤ=キリスト教」の思想が存在し,とくに肌の色の描き分けによって三人の博土が人類の三つの民族を表すという美術上の表現は十四世紀から十五世紀にかけてまず北ヨーロッパにおいて,ついでイタリアや他の国々で定着する。とくに十五世紀には三人の中の一人が黒人主として描かれる例が増えはじめ,西洋社会において一般にネガティブな価値を与えられてきた「黒い肌」が<東方三博士>においては<高貴な異邦人>の象徴となっている点は興味深い。ここから近代的「人種」概念以前の時代の異邦人表現としての<東方三博士の礼拝>図像の特徴を考える。The categorization of race by visible distinctions is approached with skepticism by scholars in the field of natural sciences, However, society generally and stereotypically categorizes race into three different skin colours- white, yellow and black- and this view is still quite widespread, This paper describes and analyzes the Adoration of The Three Magi, a subject very frequently represented in Western paintings and sculptures, as typical examples of such visual representation that clearly emphasize the different skin colours of the three subjects, According to the Judeo- Christian universalist tradition, the three magi represent all people- races- on earth, including the Gentiles, During the fourteenth and fifteenth centuries, the three magi were a common expression used to symbolize all mankind, first in northern Europe, then later in Italy and other countries, In the fifteenth century, one of the magi was represented as a black prince. Although the colour black and black skin have been given negative connotations in the European tradition, the black prince in the Adoration of The Three Magi is symbolized as a noble Gentile, If the race conception is seen as essentially modern, the Adoration of The Three Magi then represents the expression of the various world races in the pre- modern era.
著者
籠谷 直人
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.110, pp.183-214, 2017

本稿の課題は, 1930年代のイギリス領インド(以下, 英領インドと略す)市場における日本の「綿製品」(以下, 「綿布」と表記する)を通して, 日本と英領インド, そしてイギリス本国との通商関係について分析することにある。とくに英領インド市場を舞台にした, 日本と英領インドの政府間間交渉であった「日印会商」(1933年9月−34年1月)を改めて取り上げたい。既存の研究は, 日印会商を通商摩擦の舞台とみなし, 日本の世界経済からの孤立の側面から議論してきた。しかしながら, 本稿では, 30年代の日本の綿布は, インド政庁にとっては輸入関税収入を確保するためには必要であった。輸入関税収入額は, 1930年度<「イギリス製品」から2000万ルピー, 「日本製品」から1800万ルピー>, 31年度<1700万ルピー, 2000万ルピー>, 32年度<3000万ルピー, 3600万ルピー>, 33年<2100万ルピー, 2500万ルピー>, 34年度<2900万ルピー, 2600万ルピー>, 35年<2300万ルピー, 3300万ルピー>, 36年度<1700万ルピー, 3000万ルピー>であった。輸入綿布への従価税率は, 1934年以降には日本綿布に50%, イギリス製品に25%という税率であったが, 関税収入額の側面からみると日本とイギリスの綿布は, インド政庁にとっては, ほぼ同額の関税収入を稼ぎ出していた。そして日本にいるインド人貿易商にとっても取引機会を提供した点で重要であった。そして, 「インド棉花」にとっても日本市場は重要であり続けた。30年代の日本の孤立ではなく, むしろ協調的関係を模索していた。もっともこうした通商関係の協調の模索は, イギリスから「満洲国」の承認をとりつけるねらいがあった。協調姿勢も「満洲問題の解決は予想外の好調に進み, 英米等の理解ある態度」を確保するためであったことにも留意したい。つまり広田広毅外務大臣は「満洲問題の完逐を図るために(中略)イギリスとの関係は, シムラ会議を纏めて, 両国の関係をよくするやうにして行くより方法がない」と述べていた。本稿では, 日印会商における日本政府側の代表のインド政庁にたいする通商的譲歩姿勢に注目しているが, こうした1930年代の日本の協調的経済外交は, 32年3月の「満洲国」の建国を対外的に承認させようとする政治的含意があった。33年3月に日本は国際連盟から脱退するが, イギリス領における政府間交渉の協調的外交は, そうした日本の対中国膨張策を補うことに狙いがあったことを看過してはならない。The purpose of this paper is to analyze Indo-Japanese commercial relations during the 1930s, focusing on the problem of the international rivalry between the cotton industries and the important commercial role of Asian merchants in the Asian markets. The major trade friction between Britain, British India and Japan was over cotton textile markets, as a result of bitter commercial rivalry between the Lancashire and Osaka cotton industries in British India. This paper is made based on the historical material, collected by Toyo Menka Co. (東洋棉花) that was, after independent from the Department of Row Cotton, Mitsui Bussan Co. (三井物産棉花部) in 1920, the Japanese biggest trading company in pre-war time, dealing with raw cotton imports and cotton textiles exports. After abandoning the gold standard in December 1931 and devaluing the Japanese yen, Japan decided to link its currency, the yen, to sterling in 1932. The fact, that the yen was linked to sterling at a heavily devalued rate, enabled Japan to shift her exports from East Asia to other Asian countries. The increase in exports of Japanese textiles became a central conflict in Anglo and Indo --Japanese commercial relations, and prompted Japan to hold trade negotiations with the Government of India in 1933 under the control of the Home country. The common understanding is that this isolation of Japan was intensified after the Indo --Japanese trade negotiations in 1933. This paper is to consider some conditions that maintained the level of Japanʼs exports to South Asia, focusing the Asian merchantsʼ Network. The Japanese share in the imports of British India did not decrease, immediately after the trade negotiations with Britain and India in 1933. Chinese, and Indian merchants especially during the 1930s, had a tendency to continue to deal with Japanese cotton textiles, though British merchants attempted to block Japanese goods, and tried to give preference to the goods produced within the Empire.
著者
北村 直子
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.103, pp.101-126, 2013

本稿では,「リアリズム」と呼ぶものの最低限の必要条件を,その換喩的性格,とりわけ作品の舞台 (作中世界,テクストの指示対象世界) の設定のしかたに求め,それが物語読解の本来的傾向によるものであることについて論じる。まず (小説の) 「リアリズム」という用語は,「物語の情報にたいする読者の期待を現実世界との地続き感として形成する言葉の振る舞い」といったん規定しうる。作中世界が「われわれの世界というより大きな世界のなかに明確に連続的に根を下ろすこと」 (クリストファー・ナッシュ) がリアリズム小説の必須条件なのである。そのさい,作中世界を現実世界につなぎ止めるのは,テクストに明記された既存 (現実) の固有名の機能である。このように考えるならば,リアリズム小説の作中世界の設定は一種の約束事として記述することができる。現実世界と作中世界とは「全体」と「部分」という換喩的な関係にあり,この関係を読者が認めることによって「換喩契約」が成立する。また物語論でいう「物語価値性」の観点から,この「換喩契約」が物語読解の本来的傾向に則ったものであることも指摘できる。小説においては,ほんとうにありそうなことだと思わせることが,その物語を語る理由となることがある。同じ性質のできごとでも,それが現実世界とかけ離れたお伽話世界の住人の身に起こるより,リアリズム小説の登場人物の身に起こったほうが身近であり,物語る理由がより強化される。実際,19世紀以降の読者が,社交界,暗黒街,貧困社会といった特定の社会環境 (milieu) の記述としての物語価値を小説に対して期待してきたのである。リアリズム小説ではまた,テクストの構成原理自体も換喩的傾向を持つ。ロマン・ヤコブソン,エーリヒ・アウエルバッハ,ロラン・バルトらが強調したその原理もまた,現実世界と作中世界との換喩的関係を強化している。本稿ではリアリズム小説のこの二重の換喩性をめぐるものである。Quelles sont les conditions n?cessaires de ce que l'on appelle le "r?alisme" du roman? Dans notre article, nous proposons de les d?finir ? partir de son caract?re m?tonymique, que nous appliquons surtout aux propri?t?s du monde auquel se rapporte le texte fictif. Ce caract?re m?tonymique d?termine le mode de lecture du r?cit. Le "r?alisme" romanesque pourra d?s lors ?tre d?fini comme une conduite verbale qui mod?le l'attente du lecteur sur une sensation de contigu?t? du monde fictif et du monde r?el. Dans le roman r?aliste, le monde fictif "s'enracine [...] dans un plus grand monde qui est le n?tre" (Christopher Nash). Tel est le sch?ma de la relation m?tonymique entre les deux mondes, op?r?e en particulier par le fonctionnement des noms propres r?els dans le texte de fiction. Cet appariement des mondes dessine une relation pars pro toto, et le lecteur, en y consentant, noue un "pacte m?tonymique" avec le texte. Ce pacte r?pond aussi ? la nature de la lecture du r?cit en g?n?ral. Du point de vue de la dicibilit? ( tellability ), un ?v?nement est plus vraisemblable quand il arrive ? un personnage du roman r?aliste qu'? un personnage d'un conte de f?e. Notre article traite aussi de la tendance m?tonymique de la composition textuelle du roman r?aliste, dans la lign?e des analyses de Roman Jakobson, Erich Auerbach et Roland Barthes.
著者
瀧本 哲哉
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.115, pp.193-222, 2020

戦間期の京都には花街(貸座敷免許地)が16か所あり, 京都府内外から大勢の遊客が花街を訪れていた。全国的にみた京都花街の特異性は, 人口や工業生産額との対比でみて娼妓数が他府県と比べて際立って多いことである。当時の京都は「繊維の街」であったが, 「遊廓の街」でもあったのである。1920年代前半に芸娼妓数が急増し, 遊客数や遊興費も増加して, 花街はおおいに賑わった。その背景としては, 府内の繊維産業の業況回復に伴って遊客の遊興費支出額が増加したこと, 1928年(昭和3年)の昭和の大礼による観光客の増加が遊客数の増大につながったことが挙げられる。戦間期の京都府内の花街は, 芸妓主体の花街と娼妓主体の花街(遊廓)に分化していく過程にあった。芸妓主体の花街は, 1930年代に入ってから芸妓数が減少し, 遊興費も落ち込んで地盤沈下していった。一方, 娼妓主体の花街(遊廓)では, 1930年代前半も郡部を中心に娼妓数や遊客数の増加が続いた。京都花街の経済的な位置付けをみると, 芸娼妓は毎月多額の賦金や雑種税を京都府に納付していた。その金額規模は, 商工業者等に課される京都府税の3割前後にまで達しており, 不況期には芸娼妓の税額が府税落ち込みの下支えの役割を果たした。そして, この恩恵を享受していたのは専ら京都府民である。また, 花街が吸い上げた遊興費は, 1920年代前半には京都府歳入総額にほぼ匹敵する規模にまで達していた。さらに, 花街では数多くの芸娼妓が稼業を営んでおり, 衣装代などの多額の支出を行っていたことから, 呉服商など関連業界は大きな恩恵を受けていた。このように, 花街は消費経済の主要な事業体として京都経済に組み込まれており, 地域経済の循環の一翼を担っていた。芸娼妓は賤業と蔑まれながらも, 納税などを通じて京都経済の発展に寄与していた。京都府民も間接的に芸娼妓から搾取していたのである。
著者
日向 伸介
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.115, pp.107-130, 2020

タイ中部チョンブリー県の海岸沿いに位置する特別市パッタヤーは, 世界でも有数のビーチリゾートとして知られている。本稿は, その黎明期において, ホテル・飲食店・性風俗店・エンターテイメント施設の開業に関わった人々の記録から, パッタヤー歓楽街の形成史を素描することを試みた。パッタヤーの開発は, バンコクの官僚・実業家であるパリンヤー・チャワリットタムロンによって1940年代後半に着手され, 1950年代にバンコク在住のエリート向けマリーンスポーツ地として知られるようになった。ベトナム戦争期に入るとタイ東北部に駐留していた米軍がR&R休暇のためにパッタヤーを訪れるようになり, 1960年代には米軍の保養地として宿泊施設や飲食店が増加したが, 1970年代に入ると米軍の撤退とともに観光客の多様化と大衆化が進んだ。しかし歓楽街に限ってみれば, 米軍向けの場所は基地近辺に別に存在しており, 1970年代初頭までのパッタヤーには静かなビーチの雰囲気が残されていた。その後, ビル・ジョーンズがパッタヤー初のパブBJ Barを開業し, ウィチャイ・ルートリットルアンシンがトランスジェンダーの女性によるキャバレーショーを始めたのが同じ1974年であることから, パッタヤー歓楽街の萌芽期は1970年代中頃と推測される。1980年代に入ると, 両替業で成功していたスッタム・パントゥサックが, ウィチャイの経営するキャバレーショーに投資をおこない, Tiffany's Showとして1980年に開業した。また, 後にゲイタウンBoyztownの中心人物となるマイケル・バーチャルがゲイ男性向けのゴーゴーバーCockpit Barの権利を買い取って1985年に再開業した。両者は性的マイノリティという点で共通していただけではなく, キャバレーショーを通して人的交流がおこなわれていた。劇作家のテネシー・ウィリアムズと親交のあったエディ・ウッズは, 1970年代のバンコクはゲイ男性にとって自分らしくいられる場所であり, ホテルや飲食業を営む西洋人の多くもゲイ男性であったと指摘している。バンコクの資本・人脈のもとで発展を遂げたパッタヤーの歓楽街も, 性的多様性を内包しながら形成されてきたのである。
著者
福家 崇洋
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.104, pp.167-206, 2013

本論文は,1950年前後における京都民主戦線の軌跡を再検討した。京都民主戦線は敗戦後の日本で「革新」的な首長を次々に誕生させた統一戦線として知られている。本稿では,京都民主戦線を一地域の事象に限定せず,海外公文書所蔵資料を用いながら日本共産党の動きや国外共産党との関係まで視野に入れて捉えなおしている。1章は東アジア共産圏の構築を中国共産党の台頭と「極東コミンフォルム」構想に焦点をあてて論じた。2章は東アジア共産主義運動の再編にともなう中ソ両共産党から日本共産党への影響を明らかにした。具体的には日本共産党とソ連共産党の水面下の交渉と「コミンフォルム批判」にいたる経緯である。3,4章は京都民主戦線の軌跡を京都市長選から府知事選まで追いかけつつ,民主戦線勝利の背景や,日本共産党の民主民族戦線の変化 (「植民地 (日本)」「民族」の解放や「愛国」の強調) とその京都民主戦線への影響を明らかにした。市長,府知事の当選という京都民主戦線の成功は,従事者たちの意図とは別に,路線変更後の日本共産党の功績として位置付けられていった。5章は4章における日本共産党の民主民族戦線変化の要因をソ中両共産党の影響に探り,日本に後方基地攪乱の働きを求めるソ中両共産党からの指示を海外公文書館所蔵資料から跡づけている。6章は「志賀意見書」の波紋や国外共産党からの不信と警告,パージの影響を論じながら,日本共産党がしだいに党内部の亀裂を深めていく様を論じた。最後の7章では改めて参院選挙における京都民主戦線の動きに着目し,日本共産党の民主「民族」路線と急進化の影響がついにはイデオロギー対立による京都民主戦線の分裂にまでいたる過程を明らかにした。This paper describes the track of Kyoto Democratic Front (KDF) around 1950, and reconsiders the meanings of KDF by using materials which teach us the new aspects of the communist movement in Japan and the relationships between JCP and other Communist parties. Chapter 1 describes the organization of the Communist bloc in East Asia with a focus on the concept to create 'Far Eastern Cominform'. Chapter 2 explains some of the influences that CCP and CPSU have had on JCP as part of the reorganization of Communist movements in East Asia. Chapter 3 and 4 is dealing with the trace of KDF from the Kyoto mayoral election to its gubernatorial one. The reason KDF won, the shift in JCP policy on National Democratic Front and the way it affected KDF are illustrated here. It is suggested in chapter 5 that the shift in JCP policy was due to the influence of CCP and CPSU, which directed JCP to disturb American rear base. Chapter 6 shows how and why a rift within JCP was widen. In chapter 7, it can be also concluded by an analysis of KDF's campaign in the Upper House election that the shift in JCP policy to 'National' Democratic Front and to radicalism created an ideological conflict and KDFwas finally disunited.
著者
高津 茂
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.108, pp.127-141, 2015

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第III部 :神の声を聴く --カオダイ教, 道院, 大本教の神託比較研究--≫ヴェトナムの新宗教カオダイ教は, 四種類の神意をうかがう法がある。(1) 扶機(Phò co)もしくは扶鸞(Phò loan) と称されるもので, 中国における扶乩に当たる。カオダイの扶機は, ゴ・ヴァン・チュウ(Ngo Van Chieu) に始まるとされるが, 神意を伺う方法としては, メコンデルタにおける五支明道(Ngu Chi Minh Dao) 等の影響によると思われる。(2) ヴェトナム語でテーブルターニングを意味するサイ・バン(Xây bàn) で, これは19 世紀にアラン・カルデックにより体系化されたフランスのスピリティスム(Spiritism) の中の叩音通信(typtologie)がヴェトナムに伝わったものである。(3) シン・サム(Xin Xăm) は, 日本の御神籤に当たり, 竹のくじ札を振り出して運勢を占う方法である。(4) チャップ・ブット(chắp bút 執筆)は, 一種の自動筆記で, 童子が白紙の上に筆記用具の柄を置き, 神が腕に入って字を書き出すのを待つ方法である。本稿ではカオダイ教の形成過程を中心に上述した4 つの神意を伺う方法の中でも(1)扶機もしくは扶鸞と(2)サイ・バンを中心に, カオダイ教の中での意義を比較する。ゴォ・ヴァン・チュウを始祖として, フォ・ロアンによる神託を得る内教心伝(Nôi Giáo Tâm truyện) グループと, サイ・バンによる神託に始まる外教公伝(Ngoȧi Giáo Công Truyện) 派は政治的立場も異なる。タイニン派は「外教公伝」として始まり, 1925 年から1927 年ごろの最初の時期ファム・コン・タックPham Công Tac, カオ・ホアイ・サンCao Hoài Sang, カオ・クゥイン・クゥCao Quynh Cu, らは機筆を知らず, ただフランスからの神霊学Thân Linh Hoc の各書に依るのみであった。ただ, サイ・バンによりこの3 氏達は, 1925 年9 月には瑶池宮の七娘等と接触することができ, その後七娘が初めてこの3 氏達に九天玄女や瑶池金母といった神聖な方々の教えを請うていくためには機筆を用いた方がサイ・バンよりも速くて便利であることを案内した。そのため1927年から1928 年頃からタイニン派でも機筆(扶鸞) を用いるようになったと思われる。Caodai, a Vietnamese new religious movement, has four ways of reading divine will. (1) Phò co /Phò loan , which corresponds to Fuji in China. It is said to have been first used by Ngo Van Chieu in 1917 under the influence of the Mekong Delta's Ngu Chi Minh Dao. (2) Xây bàn". Table turning" in English, this is a way to communicate with dead spirits and was transmitted to Vietnam from France as a part of Alan Kardec's spiritism. (3) Xin Xăm, a divination method that uses bamboo sticks. (4) Châp bút, a kind of automatic writing (psychography) by a small child whose arm is thought to be controlled b y adivinity. In this paper, I compare the meanings of Phò co'/Phòloan and Xây bàn, and conclude that the Nôi Giáo Tâm Truyện group, which was founded by Ngô Văn Chiêu, and the Ngoai Giáo Công Truyện group differed in their political opinions. The Tay Ninh sect began as "Ngoai Giáo Công Truyện", and during its initial period (around 1925-1927), Pham Công Tac, Cao Hoài Sang, Cao Quynh Cu', etc. did not know about Phòco' [LD1], relying only on the books of Thân Linh Hoc from France. However, in September 1925, for the first time these three founders of the Tay Ninh sect met Thât Nuong Diêu Trì Cung, Cuu Thiên Huyên Nu, and Diêu Trì Kim Mâu, who told them that Phòco' is a considerably more convenient and faster method than Xây bàn for requesting teachings from holy people such as Diêu Trì Kim Mâu. It appears that for this reason Phòco' was adopted in Tay Ninh sect around 1927 or 1928.
著者
鈴木 栄樹
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.104, pp.1-36, 2013

幕末安政期に,日本海側の敦賀と琵琶湖北部の塩津など3カ村との間に通船路の開鑿と道路の整備とからなる事業 (以下,湖北通線路開鑿事業) が計画,実施された。極秘裡に進められたこの湖北通船路開鑿事業についての従来の研究は,主として「井伊家史料」中の「堀割一件」史料にもとづいて,次のような通説を作りあげてきた。それは,(1) この事業が,表面上「京都御備」を理由にしてはいるものの,実際は,小浜藩主で元京都所司代の酒井忠義が敦賀 (敦賀藩は小浜藩の支藩) の繁栄を意図したものであるとみなし,様々な点で自藩に不利になるとしてあくまでその阻止を企てながらも果たしえなかった彦根藩・井伊直弼側との対立構図を描き,(2) これを安政の大獄の前史として位置づけるというものである。しかしながら,この通説 (1) については,小浜藩側の関連史料をほとんど欠き,その実態があいまいであり,通説 (2) についても,彦根藩・井伊直弼側と対立した酒井忠義が,通船路完成の翌安政5年,大老に就任した井伊直弼のもとで京都所司代に再任され,安政の大獄の指揮をとったことと整合性をなさない。本稿では,「井伊家史料」を読みなおすとともに,新たな史料に基づいて次のことを明らかにした。すなわち,従来の研究が彦根藩・井伊直弼側の誤解・邪推に囚われたものであること,通船路開鑿事業が,内陸部に位置する京都の米穀運送の便を改善することで,米価高に苦しむことの多い京都の賑恤と繁栄を図るとともに,その公式の理由どおり,当時の対外的な危機のもとでの「京都御備 (米)」を目的とした国防的な意味をもつものであり,朝廷側の意向を受けたものであるとした。また,それを計画・実施した真の主体が,嘉永5年に西町奉行に就任した浅野長祚とすでに天保期に通船路事業を構想した元京都町奉行与力平塚飄斎であり,中央では老中阿部正弘と勘定奉行川路聖謨らが,当時の朝幕関係が重要視されるなかで,彦根藩側からの妨害を警戒しつつその事業を推進したことも明らかにした。さらに,彦根藩・井伊直弼側の誤解・邪推の背景として,通船路事業が彦根藩の財政的窮迫からする危機感を刺激したこと,嘉永7年に命じられた京都守護についての過剰な自負心,それにともなう在京陣屋地問題,所司代や町奉行ほか他の諸藩も含めた京都警衛問題などがあり,そうしたなかで小浜藩・酒井忠義側への疑心暗鬼が強められたが,徐々に真相を理解するに至ったとした。
著者
原田 敬一
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.111, pp.163-207, 2018

特集 : 日清戦争と東学農民戦争Special Issue: the Shino-Japanese War and the Donghak Peasant War1894年の東学農民運動は, 現代韓国では朴孟洙氏の研究に見られるように, 李朝末期の政治改革運動の中で捉えなおし, 東学農民戦争とも東学農民革命ともいう。現代日本では, 日清戦争研究の深まりとともに実態の解明が進み, 中塚明・井上勝生両氏により「もう一つの日清戦争」と呼ばれる。本稿では, 日本のメディアが東学農民運動をどのように伝えていたのかを究明した。戦争は国家による内外への機密情報排除をもって進められる。大本営の設置も, 帝国議会にもメディアにも秘匿されたまま行われた。日本政府は, 戦争の大義名分を得るため, 「遅れた朝鮮の政治を改革する」といい, 協力しない清国を武力で朝鮮半島から駆逐するという筋に従って外交交渉を進め, 朝鮮王宮占領作戦も成し遂げた(7月23日戦争)。日本メディアは, 日本政府の筋書きに沿う「遅れた朝鮮政治」という報道を展開したが, その報道は, 朝鮮政府を批判して起った東学農民運動に対する「期待」を生んだ。日本メディアには幕臣が多いという出自から「反政府」色があり, さらに日本近代のジャーナリストには「アジア主義」の影響が強いという特色があった。日本近代の有力新聞である『東京朝日新聞』, 発行部数はそれに劣るもののオピニオン・リーダーとしての有力紙『日本』(主筆 : 陸羯南), 日本の雑誌ジャーナリズムを形成していった有力雑誌『日清戦争実記』(博文館)の3紙誌をとりあげ, 3紙誌の「東学農民運動報道」を総て採集して分析した。その結果, 当初「改革派東学党」というイメージでの取材・報道であった『東京朝日』と『日本』が, しだいに「暴徒東学党」に傾いていったことが辿れた。この変化は, 東学農民運動が抗日運動として有力になることと並行している。日本と同伴する「改革派」というイメージを棄てた2紙は, 独自取材を減少させ, 大本営発表を転載するように変化した。雑誌ジャーナリズムの嚆矢と言われる『日清戦争実記』は当初より東学農民運動を大本営発表の転載のみだったことも明らかになった。This paper explores how Japanese mass media communicated the Donghak Peasant Movement. Generally, war involves confidential information control by the state. Installation of the imperial general headquarters was proceeded secretly to mass media and the imperial diet. To present a just cause, the Japanese government claimed that they would reform the premodern politics of Korea. Japan proceeded diplomatic negotiation to expel uncooperating Qing China and planned military occupation of the Korean palace. This paper analyzes all the reports on the Donghak Peasant Movement by the major journalistic magazine "Nisshin Senso Jikki" and two of the most influential newspapers "Tokyo Asahi Shinbun" and "Nippon". The analysis shows that although "Tokyo Asahi" and "Nippon" saw the Donghak Peasant Revolution as reformists, they gradually reported it as rioters. This change parallels the transition of the Donghak Peasant Movement to a major anti-Japanese resistance. The two newspapers which renounced reformist image of the Donghak Peasant Movement reduced their own coverage and began to reprint the announcement of the imperial general headquarters. It is demonstrated that although sometimes seen as the first journalist magazine, "Nisshin Sensou Jikki" had only reprinted the anouncements of the imperial general headquarters from the beginning.
著者
近藤 俊太郎
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.108, pp.117-121, 2015

特集 : 日本宗教史像の再構築 --トランスナショナルヒストリーを中心として-- ≪第II部 :近代日本宗教史における〈皇道〉のポリティクス≫