著者
嶋田 義仁
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.4, pp.585-612, 2010-03-31

本稿は、長年続けてきたアフリカのサハラ南縁の乾燥地文化の研究を出発点にした、人類文明史の再構築の試みの一端を示すことを目的としている。アフリカ大陸とユーラシア大陸を一連のアフロ・ユーラシア大陸として理解すると、その中央に巨大な乾燥地域が存在する。そこには、古来様々な国家や都市が形成され、ヨーロッパ中心の近代文明が世界に広がる以前、人類文明の中心はこの地域にあった。本稿では、この地域に形成された文明を「アフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明」と呼び、その原動力として牧畜文化の文明形成力に注目する。従来、乾燥地に都市や巨大国家が形成された理由として、灌漑の重要性が指摘されてきたが、ここでは、牧畜のエネルギーに注目する。なぜなら、家畜は化石燃料が人類のエネルギー源となる以前の時代において、人間が利用しうる最大のエネルギー源であり、なかんずく長距離にわたる人と物資の移動(商業都市文化の基盤)と軍事力(巨大国家形成の原動力)にすぐれていた。筆者は、このことにアフリカのサハラ南縁イスラーム文明の研究をすすめるなかで気付かされた。しかし、「アフロ・ユーラシア内陸乾燥地」の自然条件も牧畜様態も多様である。その「文明」的表現となるとさらに多様である。イスラーム文明もあれば、モンゴルのように仏教やシャーマニズムの色濃い文明もある。こうした多様性も考慮した「アフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明」全体像理解の糸口を、本稿では、次のような4類型化の可能性を提案することで探る。アフロ・ユーラシア内陸乾燥地は、自然環境条件から、(1)モンゴル・中央アジアの冷帯草原型、(2)サハラの熱帯砂漠型、(3)サハラの南の熱帯サヴァンナ型、(4)中東山地地帯のオアシス型の4類型に空間区分することができ、ウマ、ラクダ、ウシ、羊・ヤギが、それぞれの類型に特有な家畜として認められる。モンゴル人の言う5畜がおよそどの地域でも飼育されているが、ウマ中心の牧畜文化、ラクダ中心の牧畜文化、ウシ中心の牧畜文化、羊・ヤギ中心の牧畜文化がある。こうした仮説により、アフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明を一連の牧畜文化複合体ととらえ、この地域の人間-家畜-自然の関係を多角的にかつ詳細に分析することにより、乾燥地としての共通性を有しながらもさまざまに発展していった乾燥地文明の多様性を構造的に整理して理解することが、アフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論の課題となることを示す。アフリカ、中近東、中央アジアと分断して研究されてきた旧大陸文明史を統一的に理解しようというこのような試みが、人類文明史理解のパラダイム変換を目指すような研究への寄与に些少とでもなりうること願う。
著者
西 真如
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.76, no.3, pp.267-287, 2011-12-31
被引用文献数
1

HIV/AIDS対策は、さまざまな知識や制度を動員した包括的な取り組みとして実施されるが、そこで中核的な役割を果たす技術のひとつとして、HIV検査を挙げることができる。サハラ以南アフリカでは近年、特別な設備がなくてもHIV検査を実施できる簡易検査キットの普及が著しい。検査キットは、あらゆる場所で「疫学的な他者」をつくりだす道具である。本稿では、エチオピアのグラゲ社会におけるHIV予防介入の展開と、HIV不一致カップル(一方がHIVに感染しており、他方が感染していないカップル)の経験について検討する。そしてHIV予防介入がつくりだす生政治的な過程の中で、疫学的な他者との共存を拒絶する政治が進行しているように見えるときにも、人びとが不一致を受容し、肯定的な関係を取り結ぶ可能性があることを明らかにする。不一致を生きる人びとの倫理的な関係を問う過程を、本稿では「生きられた身体の政治」として把握しようとする。生きられた身体の政治は、疫学的な知識を否定したり、公衆衛生介入を拒絶する過程ではない。むしろそれは、他者の身体が疫学的に危険であることを受け容れた上で、そのような身体を生きる者たちが、互いの健康と人格への配慮にもとづいて肯定的な関係を取り結ぶ可能性を開いてゆく実践である。
著者
鳥塚 あゆち
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.1, pp.1-25, 2009-06-30

本稿は、アンデス牧民社会が変容の過渡期にある現状を、牧民が伝統的に行ってきた農作物獲得方法の変化に着目し、変化の要因と過程をペルー南部高地のワイリャワイリャ村の具体的な事例を示すことによって明らかにすることを目的としている。高地に適したラクダ科動物の牧畜を専業的に行っているワイリャワイリャの人々は、耕作地を持たず主食である農作物を自給できない。また、家畜の乳を利用することもないため、作物の収穫期にリャマの雄のキャラバンを伴って農村に赴き、物々交換あるいは荷役用としてリャマを使うことによって農作物を獲得する旅を伝統的に行ってきた。しかし、筆者が調査を行った2004-06年の時点ではすでに旅は行われておらず、定期市や都市で作物を購入している状況にあった。この変化は約10年前から起こったものであり、そこには、道路網の整備と定期市の発達という外的要因や、市場価値のあるアルパカを改良するために取られた土地区分政策という内的要因と呼べるものがある。このような中、農作物獲得の旅において重要な役割を果たしていたリャマの雄が手放されていったが、これをめぐる言説は、変化に対しての村人の位置の取り方によって異なるものであった。本稿では、ワイリャワイリャ村を事例として、農作物獲得の旅が行われなくなった事態を、複雑に絡み合う多数の要因を識別しつつ、ミクロな視点から明らかにするとともに、村内の変化の影響や都市との関わりによって村内に層化が促される中、村人が既存の人間関係とは異なるアルパカの改良を中心とした新たな社会関係を築き、自らアイデンティティを選びとろうとしつつある現状を明らかにした。
著者
與那覇 潤
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.451-472, 2006-03-31

本稿は、1879年に琉球王国を「沖縄県」として日本国家に併合した所謂「琉球処分」の政治過程とそれをめぐる同時代の様々な「語り」の検討によって、近代西洋との遭遇以降もナショナリズムの発生を抑制してきた東アジア世界の歴史的諸条件を明らかにしつつ、同時に現地住民の「民族性」を領土問題の正当化に動員するような政治体制の、東アジアにおける起源について再考することを目的とする。人類学における民族論の展開は、民族とは「差異の政治学」を通じて不断に構築されるプロセス-たとえばある社会問題が「A民族対B民族」の「民族間対立」として問題構成され続けることによって、「A民族」「B民族」が相互に排他的な実体的集団として人々に意識されるようになるという過程-であることを明らかにしている。そうであれば、国境画定作業において現地住民の集団的アイデンティティが政治的に資源化されるような議論の「場」が出現する時期を見定めることは、例えば当該地域におけるナショナリズムの発生を考察する上で肝要となる。従来、「琉球処分」において日本政府は日本住民と琉球住民との人種的・民族的同一性を併合の根拠にしたとされてきたが、一次史料から見るとそのようなイメージは必ずしも事実でなく、日本内地や中国の新聞記事からも琉球の一般住民の性格によって領土帰属を論じた議論は観察されない。さらに注目されるのは、同時代の欧米系メディア(米国人の著作や横浜居留地の英国系新聞など)には「日琉同祖論」に通ずる民族誌的知識や、生物学的純粋性・混淆性に立脚して人種間の優劣を議論する言説が見られるにも関わらず、日本・琉球・中国という東アジアのアクター諸国はそれを政治的な道具として動員していないことであり、その背景には国民形成以前の状態にあった東アジアの表象システム-「民族問題」を構成しないような論理と世界観の体系-が存在した。本稿はその歴史的実態を明らかにするとともに、そのような作業を通じて、研究領域として自己完結しがちな民族論や国民国家論をより普遍的な視野へと開くことを目指すものである。
著者
大村 敬一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.101-119, 2010-06-30

本稿では、極北の先住民であるカナダ・イヌイトの側からグローバリゼーションを考えることを通して、グローバリゼーションという歴史的現象の特質を明らかにし、その現象の中で人類学が果たすべき役割を考察する。そのために、本稿ではまず、ラトゥールが「近代」の問題を検討することで示したグローバルな環境の現状分析に基づいて、イヌイトが直面しているグローバルな環境の現状を整理する。そのうえで、イヌイトが闘ってきた先住民運動をグローバリゼーションという歴史的現象の中に位置づけることによって、その運動を通してイヌイトがグローバルな環境に対して何を守ろうとしているのかを明らかにする。そして、そのイヌイトの闘いを考察することによって、グローバリゼーションと呼ばれる歴史的現象によって引きおこされている問題の根底には、「文化」と「自然」に分離することのできない人間と非人間(モノ)の複合体を構築して維持する異なるシステムの相克があることを明らかにする。そのうえで、今日、求められているのは、「一つの自然」を基盤とする「文化相対主義」ではなく、多様な人間と非人間の複合体の間の「自然=文化相対主義」であり、真に共生すべきなのは「一つの自然」の上に築かれる様々な「文化」ではなく、多様なあり方で構築される人間と非人間の様々な複合体であることを示す。最後に、この「自然=文化相対主義」において人類学が果たす役割について考える。
著者
和崎 聖日
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.71, no.4, pp.458-482, 2007-03-31

本稿は、首都タシュケントの「乞食」自身の体験を記述・分析・考察することにより、ペレストロイカとソ連解体(以下、体制転換)というウズベキスタン社会全体における大きな構造転換と都市民衆の微細な生活営為とを結んで論じることを目的とする。体制転換後のウズベキスタンでは、主に資本主義市場経済への移行に伴うマクロな構造的変化によって、「新しいウズベク人」と呼ばれる富裕層が誕生する一方、数多くの人々が突然の貧困と生活水準の低下を経験している。そうしたなか、人々は、主に親族や近隣住民たちとの間で、互助講や私的譲渡など相互扶助の網の目を維持・形成・拡大することによって、現金を決定的に欠いた厳しい現実に対処している。しかしながら、そうした生活営為の網の目から漏れた存在として、現実に「乞食」は存在する。加えて「乞食」は、ソヴィエト時代には社会主義政策のもと原則として禁止され、時に逮捕対象とさえなっていた存在であったが、現在では体制転換に伴うイデオロギー転換によって解禁された資本と宗教の接点に位置する存在として登場している。なぜなら「乞食」は、時代的な諸変化に適応できなかった経済的「敗者」だが、1989年の公式な「反イスラーム政策の停止」を大きな契機として広範に再生した宗教により、その正当性を補うことを可能としている存在だからである。本稿は、タシュケントの「乞食」の生活世界を検討することにより、ウズベキスタンにおける現在の貧困と都市社会におけるイスラーム再生の関わりを示し、都市下層の人々にとってのより日常的な共同世界のあり方を検討する。
著者
川田 順造
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.71, no.3, pp.311-346, 2006-12-31

本稿は日本文化人類学会第40回研究大会(東京大学駒場キャンパス)で2006年6月3日に、同じ題名で行なった同学会の第1回学会賞受賞記念講演の内容を、大幅に補って文字化したものである。始めに、文化人類学、それも自然人類学、先史学、言語学なども含む総合人類学の教育を日本の大学で受けた第一世代であり、その後自然史の一部としての人類学・民族学の伝統の強いフランスで学んだ筆者の体験を基に、文化人類学者形成のあり方、自然史の一部としてのヒトの科学の位置についての考察を行なった。このような研究基盤と日本、アフリカ、フランスでの長期のフィールド・ワーク体験とから、筆者は文化人類学が他の学問と異なる特徴として、(a)専門化された一研究分野であるよりは、一種のメタ・サイエンスであること、(b)ヒトについての極大のパラダイム知と長期の異文化体験によって得られる個人的な体験知との結合、(C)マイナーなものへの注目と定性分析、(d)自然史の一過程としてヒトとその文化を捉える視野、等を挙げた。こうした基本性格をもつ文化人類学は、(イ)直接の形では現実の社会に役立たない非実学であるが、広い視野で現実を捉え位置づけるという、すぐには役立たないことによって役に立つ学問であるべきこと、(ロ)その意味でヨーロッパでのルネッサンス以来の「ユマニスム」の精神を現代に受け継ぐものであること、(ハ)そのために文化人類学者は、現実の社会に起こっていることに対して常に強い関心をもつべきであること、(ニ)かつてのヨーロッパの「人間中心主義」のユマニスムではなく、人類学は自然史の中にヒトを位置づけ種間倫理の探求を志向する、現代のユマニスムであるべきこと、等を述べた。現代社会との関わりにおける筆者自身の実践として、靖国神社・遊就館、千鳥ケ淵墓苑、東京都慰霊堂などへの中・韓・米などからの留学生も含めた、友人学生との毎年8月15日のフィールド・ワーク、ユネスコの有形・無形文化財の保護活動への参加、消滅しかけている日本の無形文化遺産の調査、「開発」問題とのかかわり等を挙げた。また集合的記憶の場、文化的意味を担う動態的な場としての「地域」の視点から、擬制としての近代国民国家を相対化する研究計画や、日本の事例も含めた市民社会論の可能性に触れた。文化認識に不可避の主観性を相対化し、対象化する方法の一つとして、研究者の文化、人類学の視点を生み出した文化、その方法によって研究対象とした文化の3者を、「断絶における比較」から相互に参照点とする、筆者の提唱する「文化の三角測量」について述べ、それに基づいた研究成果のいくつかを挙げた。
著者
桑山 敬己
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.243-265, 2006-09-30

ネイティヴの人類学の登場は、植民地的状況下で強者が弱者を描くという従来の人類学的図式に大幅な見直しを迫った。これまで単なる研究対象にすぎなかった非西欧のネイティヴは、「もの言わぬ土人」から「もの言う文士」へと変身し、自らの視点と言葉で自らの文化を語るようになった。しかし、英米仏が中心を占める「人類学の世界システム」にあって、周辺に置かれたネイティヴの語りは蔑ろにされがちである。本稿では、非西欧世界における唯一の宗主国・近代日本を敢えて旧植民地のネイティヴと同列に扱い、日本人が英語で自文化を語るときの問題点を探る。第1章では、「書く者」と「描かれる者」と「読む者」から構成される「民族誌の三者構造」について説明し、想定された読者の心を読む力が民族誌的表象にとって決定的に重要であることを述べる。第2章では、描かれる者にとっての意味より、読む者にとっての意味を意図的に優先させたという意味で、ベネディクトの『菊と刀』はオリエンタリズム的描写の古典であることを示す。第3章では、著者の11年間に及ぶアメリカ体験(特に文化人類学の教師としての体験)を事例に、アメリカ人に英語で日本を説明するときのポイントを明らかにする。第4章では、アメリカに帰化したハワイ大学名誉教授Takie Sugiyama LEBRAの著作を検討し、日本の語り部としてのLEBRAの戦略について考える。そして結論部では、世界システムにおける現在の力関係を考えると、たとえ英語で書いても日本人による日本の語りが世界的に流通することは難しいことを示す一方で、その困難を克服するための具体策を提案する。
著者
安渓 遊地
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.528-542, 2006-03-31

In this paper, I narrate my experience of ethical difficulties during my three decades of field surveys on Iriomote Island. one of the southernmost islands of Japan, in the prefecture of Okinawa. Although the island is famous for its well-preserved nature such as the Iriomote wild cat and coral reefs, its islanders have suffered from various adversities: severe capital tax systems (1636-1902), tropical fever malaria (until the 1960s) and underpopulation after WWII. When I first visited the island at the age of 23, some islanders told me that they were tired of so-called "researchers," who came to the islands by dozens. Since then, they have continued to tell me, "Researchers, go home! Only those who agree to be our friends are welcome." Then, the question was how a researcher could be a friend of the islanders, while continuing to conduct field surveys among them. Episode 1 in my paper describes a perilous encounter with a drunken islander. He criticized me about my research on ethnoarcheology. He suspected that I stole artifacts buried in the tombs of abandoned villages. I failed to explain him what my research was, but angrily demanded some apologies from him. In reply, he seized a bottle and aimed it at my head so as to strike me down... However, thanks to that quite frank encounter, we became very good friends afterwards, and he helped me in my research of placenames in abandoned villages. Episode 2 deals with my trials to publish ethnographies in the name of local speakers rather than researchers. Former inhabitants of abandoned villages had prepared manuscripts, and my wife and I helped to compile them for publication in three volumes. Then we planned to help an inhabitant of an existing village to do a similar thing with us, and he tried to put some oral traditions of his own family in a manuscript. That caused misunderstanding and frustration among the other villagers, however, because they felt that his manuscript contained non-authentic versions of songs sung during their solemn festivals. They convened a general assembly of the villagers, and I was summoned to explain to them which tradition was more authentic and right. Episode 3 is a record of the endeavors to establish an agricultural cooperative of organic rice farmers in Iriomote. Since the 1980s, the local government forced the rice cultivators of Okinawa to initiate insecticide use in their rice fields. In the 70's, I had studied traditional rice cultivation in Iriomote, and found that its traditional rice varieties and their cultivation systems came from southern islands and Taiwan, and seldom from northern islands, including mainland Japan. I was also afraid of the side-effects of insecticide in Iriomote paddy fields, not just for human beings, but also for endangered species such as the wildcats that feed on the smaller animals living around the paddy fields. In collaboration with a local leader, Kinsei Ishigaki, I held a symposium in Iriomote, inviting some 200 local people, and told them of the dangers of insecticide and the possibilities of commercializing organic rice. The following year, when they organized a cooperative and tried to sell their organic rice directly to consumers, I could not help but become an advisor to them and a voluntary salesman for their rice. Many obstacles surrounded us: hostile public servants, debt collectors, rice dealers, and fraudsters. Business was far more difficult than doing field surveys, and I even made sales pitches for the rice at the annual meeting of the Ethnological Society of Japan when invited to give a speech on research ethics. It took about 15 years until the cooperative finally managed to pay back the rest of their debts. Now some of the islanders regard my family as their relatives. We can learn from these exercises that it is, as a rule, better to refrain from doing business with the persons we study, but also that if we do start collaborating with them, we should continue to do so for life.