著者
近藤 有希子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.58-77, 2019

<p>本論では、虐殺後のルワンダにおいて、和解し統合されたシティズンシップを創り出す装置として、虐殺記念週間におこなわれる集会や虐殺生存者基金に着目して、そのなかで方向づけられる人びとの倫理的な応答のあり方を検討する。それらの装置は、凄惨な紛争によって分断された人びとを等しく「ルワンダ人」として包摂する試みのもとに適用されてきた。他方で、そのとき形成される「国家の歴史」においては、トゥチだけを「生存者」、つまり「真のシティズン」として認定し、フトゥを一様に「加害者」、つまり「二級のシティズン」として位置づける効果を孕んでいる。そこでは愛する者の死を悼み、自身の壮絶な体験を嘆くことができるか否かという点で、格差をともなう承認の配置がおこなわれており、人びとの感情が規律化される事態が生じていた。</p><p>このような状況下にあって、村のなかには「トゥチの生存者」というカテゴリーに依拠して、その生存を確保させる者もいる。彼女たちの哀悼は、公的な場においてしばしば「国家の歴史」に一致した、およそ流暢な語りのなかに見出される。他方で、村に暮らす大半の人びとが虐殺時にはなんらかの脅威に曝されており、善悪に二分できない「灰色の領域」にあった。このような「国家の歴史」にはあてはまらない経験を生きる者たちの、決して語り慣れることのない発話は、かれらが代替不可能な個別の記憶とともに生き延びようとするときに現出している。</p><p>このとき地域社会のモラリティは、多くの者がみずからの経験に対して「言葉をもたない」ことにおいて開示されていた。なぜなら、統制されえない身体化された記憶、「語りえなさ」の発露としての情動こそが、体験の一般化を拒否する沈黙の作用とも重なりながら、個々人のかけがえのない経験を感知して、それに付随する痛みへの想像力の回路を開くからである。ここに、避けがたくともに生きる人びとの倫理的な応答性が導かれていた。</p>
著者
藤井 真一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.4, pp.509-525, 2018 (Released:2018-10-18)
参考文献数
31

本稿の目的は、ソロモン諸島真実和解委員会の活動とガダルカナル島における在来の紛争処理に 注目して、ソロモン諸島における「エスニック・テンション」後の社会再構築過程にみられる課題、 とりわけ紛争経験の証言聴取をめぐって生じた緊張関係を解明することである。 冷戦終結後に世界各地で頻発・長期化するようになった地域紛争への対応として、真実委員会に よる修復的な紛争処理が増加している。1998年から2003年に「エスニック・テンション」と呼ばれ る地域紛争を経験したソロモン諸島国でも、2010年から2012年にかけて真実和解委員会による社 会再構築の試みがみられた。本稿では、ソロモン諸島真実和解委員会が世界的な紛争処理の動向を 受けながら外部から導入された紛争処理としての側面があることを示す。次に、ソロモン諸島ガダ ルカナル島においてみられる在来の紛争処理について述べ、真実和解委員会の証言聴取活動との競 合関係を指摘する。最後に、真実和解委員会が公聴会の場面に伝統的な贈与儀礼を導入したことを 踏まえ、在来の紛争処理について考察する。 本稿の考察から明らかになることは、以下の三点である。第一に、ソロモン諸島真実和解委員会 の中心的活動であった証言聴取について、ソロモン諸島の文化的規範と競合する問題があったこと。 第二に、証言聴取と文化的規範との競合を乗り越えるために、公聴会において贈与儀礼が執り行なわ れたこと。第三に、在来の紛争処理であるコンペンセーションを損失した財に対する補償や知識・情 報への対価として捉えるのではなく、継続的な関係構築のための手続きとして捉えるべきであること。 ソロモン諸島において真実和解委員会が証言聴取をしたことは、ローカルな規範に則った紛争処理と の間で葛藤を生じさせつつも、平和へと向かうポテンシャルを創発するものであったのだ。
著者
浅井 優一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.4, pp.482-502, 2020 (Released:2020-05-28)
参考文献数
45

現代人類学を特徴づける知的動向が存在論的転回として論じられ、主体と客体、表象と事物、文化と自然などの二項対立を自明とする認識論ではなく、そうした「対」が生起する過程や創発する現実を捉える存在論への転換が希求されるようになった。そのような問題意識を背景とし、本稿では、フィジーにおいて「氏族」や「土地の民」という範疇が生起した過程、そしてオセアニア人類学の理論的変遷を言語の次元に降り立って分析し、存在論的転回および現代人類学における民族誌記述の問題系に言語人類学の視角を接合することを目的とする。その上で本稿は、三段構えをとる。はじめに、1)ヤコブソンがパース記号論を基礎にして展開した詩的言語に関する洞察、それを敷衍したシルヴァスティンの儀礼論を概観し、詩や儀礼が指標的類像化(ダイアグラム化)という記号過程として理解できることを確認する。次に、2)筆者が調査を行ってきたフィジー諸島ダワサム地域での出来事を事例に、フィジー人の民族意識の根幹にある「土地の民」という範疇が、植民地期に遡る「氏族」の文書を通じたダイアグラム化を経て生起したことを指摘し、それが氏族のルーツを辿り、始祖のマナを讃える儀礼的実践を通じて前景化した過程を詳らかにする。最後に、3)ワグナーの比喩論に端を発し、ストラザーンの人格論の基調をなす「図と地の反転」という視座がヤコブソン詩学に類比することを示唆し、連続性を切断して驚異、斬新、潜在を回帰的に実現するメラネシア社会の生成原理が、韻文の生起が伴う詩的効果として理解できることを指摘する。さらに、サーリンズの構造歴史人類学からストラザーンのメラネシア人格論へというオセアニア人類学の推移自体が、同様に記号過程として記述し得ることを示す。以上を通じて、閉じた象徴体系として認識論の中核に布置され、存在論的転回では正面から扱われなかった言語という視角を文化人類学の問題系へ接続し、言語事象を基点にした記述分析に存在論的転回以後の民族誌記述の一所在を見出したい。
著者
寺戸 宏嗣
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.75, no.2, pp.238-260, 2010-09-30 (Released:2017-08-14)

本論文は、ベトナム社会主義共和国ハノイ市におけるバスインターチェンジ建設事業を事例に、都市開発を巡る行政的意思決定過程での技術、政治、理念の錯綜と分節を記述・分析することを目的とする。公共交通体系の発展を目的とした或る国際共同プロジェクトによる同事業は、現地の都市状況だけでなく同市交通局の行政機構にも深く埋め込まれており、その中でドイツ人専門家の発案になるバスインターチェンジのコンセプトは一連の成長と転換の過程を経た。中でも、その設計がほぼ完成し着工目前と思われていたプロジェクト終盤に、新交通局長の着任を契機とする設計の大幅変更が起きた。本論文はこれら一連の過程から、行政機構での一種の技術論争のメカニズムと、それに応じた技術、政治、理念の錯綜と分節のあり方を見出す。インターチェンジというコンセプトを、周囲の人と交通の流れや未来の交通施設といった脈絡や諸要素に関係づけ、それらを織り込んで捉える中で具体的かつ理念的に成長させていったプロジェクトチーム(III章)に対して、新局長らはそれを単体の施設として捉え、周囲の交通の流れとの軋轢を問題視する観点から設計案の変更を迫った(IV章)。ここには、インターチェンジを周囲の事物や流れといかに関係づけ/切り取るかを巡る異なる視点のスケールが「技術的」次元で衝突するようになる一方、プロジェクトチーム(とりわけ外国人専門家)がそれを「技術/政治」もしくは「(技術的)細部/理念」といった異なる次元に分節化しようとする(徹底困難な)試みが見出される。社会的に拡張するのではなく技術的に細密化したこの論争過程には、異なる理念や論理が衝突し合う交渉過程ではなく、それらが不分明になるとともに、それらに訴えることが困難になる、非対称な行政的力学が指摘できる(V章)。
著者
中村 友香
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.4, pp.515-535, 2019 (Released:2019-05-12)
参考文献数
36

近代医療は地理や経済、政治や文化など様々な地域的状況に結び付いて展開する。ネパールにおける近代医療は、1990年代後半以降、短期間に急速に展開してきた。近代医療は当該地域で暮らす人々にとって欠かせないものになりつつあるが、具体的にどのような地域的特徴を持ちながら展開しているのかについてはこれまでほとんど論じられていない。本稿では、ネパールの近代医療の臨床の場の状況を、病いの語りと南アジアのパーソンをめぐる議論を鍵に明らかにしようと試みる。 これまでの病いの語り研究は、社会装置・権力装置としての近代医療を反省する形で発展してきた。ここでは、個別具体的経験をめぐる個人の語りが重視された。南アジアのパーソンをめぐる議論は、様々な宗教実践や社会実践の事例を通じて、切り離しが困難なつながり合ったパーソンという特徴を示してきた。 本稿はこうした二つの議論を基に、内分泌科クリニックの待合室と診察室におけるやりとりを分析する。それにより、ここでは(1)病いの語りは間身体的関係を持つ家族らにも共有されており、(2)繰り返される語りを通じて、医師をもその関係に取り込もうとしていることを明らかにしていく。
著者
飯田 卓
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.60-80, 2010-06-30 (Released:2017-08-14)
被引用文献数
1

グローバリゼーションが日常化していくなか、個人と世界を媒介する共同体の役割があらためて見なおされつつある。本稿では、マダガスカル南西部ヴェズ漁師の漁法開発と漁撈実践をとりあげ、閉鎖的でも脆弱でもない共同体のありかたを考察した。ヴェズ漁師たちは、手もちの素材や道具、技能、実践経験を適宜組み合わせながら漁法開発をおこなう。こうしたブリコラージュは、不断の状況変化のなかでくり広げられる漁撈実践の延長である。つまりヴェズ漁師の漁法開発は、ルーティンの図式とともに状況対処能力を習得できるような正統的周辺参加にもとづいているのである。このように実践をとおして状況対処能力が得られるような共同体を、本稿では「ブリコラージュ実践の共同体(CBP)」と呼ぶ。CBPは、グローバリゼーションという状況のもとで、通常の実践共同体よりも柔軟に変化するが、実践共同体の性格を有するがゆえの限界もある。その限界をふまえつつ、グローバリゼーションという流動的な状況のなかで共同性を創出していく試みは、文化人類学の重要な主題となろう。
著者
飯田 淳子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.523-543, 2013

現在の医療現場では、画像診断や血液検査等、より容易に「客観的」な情報を得られるとされる検査技術の発達により、身体診察(視診・聴診・触診・打診などにより、患者の身体を診察すること)は省略される傾向にある。一方、医学的情報収集の上で有効であるのみならず、医師・患者間のコミュニケーションを促進するとして、身体診察を重視する医師もいる。身体診察が医師-患者関係に与える影響に関する先行研究では、ネガティブな側面に焦点を当てた考察や、特定場面の微視的分析が行われてきた。本研究はこれに対し、現在の日本の検査依存型医療という文脈の中で身体診察を医師と患者、およびその周囲の人々がどのように経験しているかを明らかにする。フィールドワークは岡山・名古屋・東京の総合診療・家庭医療の現場で行われた。身体診察は、特に定期的な診療過程において形式の定まったルーティン的行為であり、それを通じて患者が自らの状態を体感・把握することにより納得・安心を得る等の点で、治療儀礼と似ている。また、医師に患部を触れられることにより、患者は医師と問題を共有したと実感したり、快方に向かったと感じる場合がある。視覚的情報や数値を中心とした「根拠」に基づく医学では説明しきれない儀礼的効果や接触の意義が、医療現場で漠然とながら認められており、それに基づいて医療実践が行われていることを明らかにする。
著者
佐本 英規
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.073-091, 2020 (Released:2020-10-08)
参考文献数
17

本論文は、ソロモン諸島マライタ島南部アレアレ地域の村における人びとの共住のあり方について、歓待をめぐる在地の論理に焦点をあてて考察するものである。アレアレの人びとは、複数の家族が暮らす十数の家屋のまとまりからなる村で生活を送る。村には、父系的な出自原理と夫方居住の原則によって成り立ついくつかの家族が数世代にわたって定住する一方、二次的な権利による土地利用や居住、婚入、親族関係や友人関係を伝手とする一時的な訪問と滞在といった、様々な人の出入りが頻繁に認められる。また、20世紀半ばにアレアレを中心としてマライタ島全域で隆盛した土着主義運動以来、一般的に1つの村は、異なるクランを出自にもつ複数の家族のまとまりによって構成される。複数のクランの成員が同一の土地に共住する今日のアレアレの人びとにとって、来訪者を歓待し、平穏のうちに共に住まうということは、生活上の大きな課題である。そうした課題に対してアレアレの人びとは、独自の方途によって向き合ってきた。本論文では、今日のアレアレにおいて人びとが1つの村に共住することが、互いの差異を制御することを試みる行為と思考の継続によって可能になることが示される。
著者
森下 翔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.449-469, 2014-03-31 (Released:2017-04-03)

本論の目的は科学実践における存在者の「実在性(reality)」について、人類学的な考察を試みることである。科学が歴史主義的・実践論的に理解されるようになって以来、私たちの持つ科学のイメージは大きく変化してきた。本論は科学実践における実在性をめぐる議論について、近年の実践論的科学論が科学実践における実在性の概念を局所化・歴史化したことを評価しつつ、そのプロセスを「表現と物質性の接続」というスキームへと還元してきたことを批判する。本論では地球物理学の一分野である測地学における「観測」と「モデリング」の実践について記述することを通じて、「観測網」や「図」などの具体的な構成要素と密接に結びついた-「表現」や「物質性」に還元される手前に存在する-存在者のさまざまな実在化の様態を示す。考察では「実在化のモード」という概念の導入を通じてこれらの様態の関係を考察し、実践における存在者の実在形態の多様性を分析する方途を模索する。
著者
飯塚 宜子 園田 浩司 田中 文菜 大石 高典
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.325-335, 2020 (Released:2021-02-07)
参考文献数
19

Anthropological fieldwork constitutes a dynamic process of the co-creation of knowledge and understanding between fieldworkers and informants by mixing and/or hybridizing different cultures. A crucial role for anthropology is its introduction of transcultural experiences to the public by fieldworkers. Accordingly, the authors conducted a workshop for Japanese elementary students about Baka hunting and gathering society in Africa. This paper examines how the workshop utilized play-acting in improvisational theater methods to increase the students' understanding and insight into other cultures. Play-acting enabled students to gain insight into “the otherness in self” by thinking of another culture as if it were their own. Specifically, through analysis of the video recorded classroom activities and interactions among students, lecturers, and performers, this paper explores how the field emerged during the workshop process.
著者
荒木 健哉
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.1, pp.95-112, 2018

<p>本稿はナイジェリアのラゴス州において、数字宝くじを購入する人々が宝くじの購入(消費)を余暇活動や娯楽ではなく、他の生計活動とは異なる独自の労働や仕事とみなす論理を、宝くじの当せん番号の予想をめぐる実践に着目して明らかにすることを目的とする。ギャンブルを対象とした人類学的研究では、不確実性の高い状況下において人々は生活のあらゆる側面を経済活動の領域に位置づけることが指摘されてきた。ナイジェリアにおいても宝くじを購入する人々は、生計多様化戦略の1つに宝くじの購入を位置づけている。しかし、その他の生計活動と宝くじでは、前者における不確実性が社会関係に起因しがちなのに対し、後者は最小限の人為性しか介入せず、ある種の公正さを伴う純粋なチャンスのゲームであることが異なっていた。他方で興味ぶかいことに、宝くじの購入者たちは、宝くじの幸運は受動的に降りかかってくるものではなく、一定の技術により主体的に獲得できるものだとみなしていた。本稿では、この予想をめぐる実践を検討し、彼らが予想の技術を何らかの認識論的な枠組みにおいて解釈せず、ただ<存在する>とみなすことを通じて希望を創造/贈与することを論じる。そこから宝くじの消費実践を生計実践=仕事に埋め込む論理を探る。</p>
著者
藤田 渡
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.76, no.2, pp.125-145, 2011-09-30 (Released:2017-04-17)

近代化とグローバル化の進展にともない、ローカル・コモンズの管理における地域住民の主体性が問い直されている。本稿では、タイ東北部の事例を参照しながら、まず、ローカル・コモンズの主体のあり方を整理し、その上で、ローカル・コモンズの主体としての地域住民と社会に散在する権力との関係について考察する。「実践コミュニティ」の概念を用いることで、村落コミュニティのメンバーシップとは境界を異にするローカル・コモンズ管理への実質的な参加者を把握することができる。実践コミュニティと外部者との間のインタラクションは、ブローカーによって媒介され、外部の環境によって変化する。知識の権力はこうしたインタラクションを考える上で重要な視点である。共有資源管理においては、持続可能性に関する科学的な知識が地域住民の主体性を脅かしている。これに対し、地域住民は、持続可能性の意味を再交渉し読み替えを行うエイジェンシーとして彼らの主体性を守ろうとする。この読み替えによる対抗言説形成の過程に知識人が参画すると、地域住民にとって助力となると同時に、主導権を握られ、生活者の視点が、知識人のイデオロギーに再度、読み替えられ、結局、生政治的な知識の権力に従属することにもなりかねない。こうした状況を打破し、ローカル・コモンズ管理における住民の主体性を保つためには、実践レベルで公表された言説を緩やかに実行することで生活世界を防衛しつつ、地域住民自身が外部の知識の読み替えができるような能力を持つように学習・経験を積み重ねることが必要である。
著者
谷 憲一
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.094-096, 2019 (Released:2019-09-04)
参考文献数
4
著者
花渕 馨也
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.459-477, 2009-12-31 (Released:2017-08-18)

変身の一つの技法としての憑依は、狂気やトランスとして語られる無秩序な動作なのではなく、日常とは異なるコードにおいて行為と主体の関係を構成する、統御された振舞いである。人類学者が見出してきたのは、一見して狂気にも見える憑依の舞台で演じる主人公達であり、理性的な説明を与えうるその秩序ある振舞いであった。憑依は身体や出来事の偶発性を飼い慣らし、人間を社会化する一つの方法として見ることもできるだろう。だが、憑依は必ず痙攣する身体からはじまるように、統御しがたい身体の偶発性や、予測不可能な出来事と結びついており、憑依の実践には説明を拒否するかのような、不確かな振舞いや出来事の曖昧さが顕著に見られる。精霊憑依とは規範から逸脱する根源的な他者とつきあう方法でもあるのだ。本稿では、ンダマルと呼ばれる野蛮な王の精霊とある女性の親子三代にわたる家族的関係の歴史を検討することで、不確かな他者としての精霊との移ろいゆく関係を通じたコモロにおける身体-自己の形成と変容のあり方について明らかにしたい。
著者
風戸 真理
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.050-072, 2017 (Released:2018-03-15)
参考文献数
56

本論はモンゴル国の牧畜における家畜糞(以下、畜糞)の利用を事例とし、生業と産業の領域がどのように併存しているのかを議論するものである。モンゴル社会は1920年代からの社会主義化と1990年代からの市場経済化によって産業化されてきた。しかし、人類学者はモンゴルの家畜飼育を、産業社会の「畜産」や「酪農」と区別して「牧畜」と呼んできた。モンゴルの家畜飼育はなぜ「生業」的な「牧畜」とみなされるのだろうか。 「生業としての牧畜」は、家畜を所有し、飼育する人びとが畜産物に依存し、これが文化諸要素と多面的に結びつく総合的な活動を意味する。ただし、現代の生業には「市場」や「商品化」の諸要素が混ざっている。モンゴルの家畜生産は社会主義期から現在に至るまで、商品化、産業化され、畜産物の多くが輸出産品となってきた。肉・乳・毛・皮革は工場で処理され、国内外に流通してきたが、人びとは家畜や畜産物を自家消費や贈与の領域でも用いてきた。その中でも畜糞は、国家統計年鑑に生産量や輸出量の記載がないことから、自家消費の度合いが強い畜産物であると考えられる。畜糞は、燃料・家畜囲いの材料・家畜管理の道具・畜産物加工の道具などとして基本的に自家消費されてきた。つまり畜糞は「産業社会」の周縁で、「生業」的な領域を形づくってきたのである。 畜糞の利用をめぐっては、精緻な民俗知識に裏づけられた「共時的な多角性」と「通時的な多層性」、そして家畜の排泄物で家畜の世話をし、その畜産物を加工する再帰的な「家畜=畜糞関係」がみられた。さらに、畜糞の煙とその匂いは都市生活者を含むモンゴル人の思考の材料および牧畜生活の記憶の手がかりとして、アイデンティティーのよりどころとなっていた。以上から、モンゴルの牧畜は「生業」と「産業」の重なりの上に成り立っており、畜糞は文化に埋めこまれて「牧畜文化」を形成していることが示された。