著者
平井 松午
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.61, no.10, pp.727-746, 1988-10-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
42
被引用文献数
3 3

近年の移民研究では,移住者の特性や移住意志決定プロセス,さらには移動流の方向などを明らかにするため,移民研究を人口移動研究の一環として捉え,移民の輩出過程と定着過程とにおける一連の移住過程が検討されてきている。本稿もかかる観点から,山形県出身者の多い美唄市西美唄町山形地区を例に,北海道農業移民の輩出・定着過程について報告しようとするものである. 山形地区の開拓は,明治27(1894)年,山形県村山地方の零細農民が組織した山形団体という農民移住団体の入植によって始まった.その後,自作入植者の単独移住によって開拓地の外延的拡大が行なわれるとともに,山形地区では畑作農業期に農民層分解がみられ,一部上層農の出現をみた.大正10(1921)年に山形地区が水田化されると,上層農はその労働力の担い手として小作人や奉公人を入植させた.こうした後続入植者の多くは,地縁的・血縁的なネットワークを通じての連鎖移住による同郷移住者に求められ,このことが山形地区において「同郷性」を維持してきた理由と考えられる.
著者
平井 松午
出版者
北海道地理学会
雑誌
地理学論集 (ISSN:18822118)
巻号頁・発行日
vol.89, no.1, pp.26-37, 2014-03-12 (Released:2014-09-30)
参考文献数
20
被引用文献数
1

幕末の開国政策を背景に,第二次幕領期(1855 ~1868 年)に東北6 藩および松前藩が江戸幕府より蝦夷地の分担警衛を命じられた。これら諸藩は,蝦夷地ならびに国後・択捉・樺太の合計22 ヵ所に軍事拠点となる陣屋を建設するとともに,数十~数百人単位で藩兵を各地の陣屋に派遣した。その一方で,蝦夷地支配の中核機関であった箱館奉行所も,1857(安政4)年には箱館市街地の守衛に備えて市街地郊外に五稜郭の建設を開始した。 五稜郭や陣屋遺構の一部については国史跡などに指定され,それらについては今日でも空中写真や地図で確認できるが,一部の陣屋については市街地化や施設建設に伴って遺構が消滅し,五稜郭も建設当時とはその様相を大きく変えている。そこで本稿では,箱館近在に建設された五稜郭,遺構が確認できない弘前藩元陣屋(千代ヶ台陣屋)・盛岡藩元陣屋(水元陣屋)を取り上げ,建設時に作成された絵図面などを用いて,GIS ソフト上で建設当時におけるこれら防御的施設の復原作業を行った。 その結果,建設当時の五稜郭の形状や元陣屋の位置・縄張りを示した実測絵図「箱館亀田 一円切図〔人〕」(函館市中央図書館蔵)・「箱舘表之図 一」(盛岡市中央公民館旧蔵)をもとに,元陣屋の位置を比定することができた。また,絵図面に記載された地理空間情報をGIS データ化することで,五稜郭や元陣屋における建設当時の三次元景観復原や,さらにはデータソースが異なる絵図情報の一元化が可能となった。このことは,古地図・絵図のGIS 分析が,歴史地理学的命題の解決に向けてより有効な手段となりうることを示すとともに,他の陣屋の復原に際してもそうした手法が援用できるものと考える。
著者
平井 松午
出版者
一般社団法人 人文地理学会
雑誌
人文地理 (ISSN:00187216)
巻号頁・発行日
vol.38, no.5, pp.387-407, 1986-10-28 (Released:2009-04-28)
参考文献数
79
被引用文献数
4

The purpose of this paper is to clarify the immigration process of agricultural emigrants to Hokkaido from Tokushima prefecture early in the Meiji era.The form of immigration to Hokkaido at this period was mainly collective migration and the author has confirmed six groups; Niki-group (117 households) immigrated into Yoichi county in 1879, the second immigrant group (61 households) into the same settlement in 1881, Kaishinsha-group (9 households) into Sapporo county in 1881, Kosansha-group (32 households) into Sapporo county, Takekichi-group (23 households) into Setana county in 1882, and Setana-group (21 households) into Setana county in 1884.Except for the Kaishinsha- and Kosansha-groups, the other groups were led or induced by Takekichi Niki, who played the part of leader when the early migrant groups emigrated to Hokkaido from Tokushima prefecture. His purpose was to cultivate Japanese indigo plants and manufacture indigo in Hokkaido. Accordingly, the area where Takekichi Niki recruited the first immigrants was the Kitagata-Shimogoori region, which was a central cultivation region for Japanese indigo plants on the lower Yoshino River. He intended to produce indigo in Hokkaido, because it was easy to obtain land on the rich plains and cheap fish manure which were indispensable for cultivation of the indigo plant. As they were petty peasants and were distressed by the rising price of fish manure, many farmers in the Kitagata-Shimogoori region responded to Takekichi's recruiting.However, Takekichi, who at first intended to increase the indigo production, became more and more eager to recruit poor peasants as immigrants. Therefore, he also recruited immigrants in the Minamigata region, were the indigo plant had not been cultivated. This implies that the source region of immigrants to Hokkaido spread from the Kitagataregion to the Minamigata region. As the indigo production in Tokushima prefecture declined after the middle of the Meiji era, part of the surplus labor moved to Hokkaido and Tokushima prefecture became the biggest supplier of immigrants in western Japan. Some of these later immigrants settled at the settlement of the early immigrants or at their peripheries. This is because the settlement of the early immigrants played the role of axis for the later immigrants.
著者
平井 松午
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.64, no.7, pp.447-471, 1991-07-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
40
被引用文献数
2 2

開拓期における北海道移民の「流動性」に関するこれまでの研究は,統計分析かもしくは特定地区についての属地的分析に依拠してきたために,移住者の移動の規模やパターンについてはほとんど把握されていない.そこで本研究では,近年,北海道の農村地域で刊行が進みつつあり,在住世帯ごとに出身地,移住(渡道)年,入植地,分家年などを掲載した『地区誌』を利用することによって,出身地から定着地に至るまでの移住者の一連の移動行動と定着状況について考察した. 対象とした地区は全道22地区,世帯数は1,303戸である.このうち, 706戸は内地府県から北海道に移住したことが明らかな「入植世帯」, 442戸は「分家」であろた.分析の結果,第二次世界大戦前に対象地区に定着した入植世帯の約2/3は移住後道内で再移動を経験しており,この点で北海道移民は流動的であったといえる.しかしながら,移動経験世帯の約2/3は1回の移動で定着しており,再移動の大半が同一市町村内もしくは近隣市町村間の近距離移動であった.また, 22地区の中には同一府県出身者の占める割合がとくに高い地区がいくつかあり,こうした地区では道内移動を経験した入植世帯の割合が低く,同郷からの後続移民が次第に集積したものと考えられる.
著者
小野 米一 原 卓志 菅 泰雄 仙波 光明 平井 松午
出版者
鳴門教育大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2003

北海道には、室町期ごろから和人が定住し始め、江戸期を通して松前藩が置かれた。しかし、本格的な北海道開拓が進められるのは、明治以後である。北海道への移住者は東北地方出身者が多かったが、四国地方からの移住者も意外に多く、移住者全体の約8%を占める。本研究の研究者5名のうち4名(小野・仙波・平井・原)が徳島県に住んでおり、本研究では徳島県から北海道への移住者に限定して研究を進めた。対象地域が北海道であるため、北海道在住の研究者1名(菅)に参加してもらった。北海道内各地に徳島県出身関係者が住んでいるが、本研究では、北海道余市郡仁木町、旭川市永山、静内郡静内町、中川郡本別町、などで言語調査を行った。いずれも、徳島県からまとまった数の移住者が入植し、定着した地域である。とは言え、移住後100年以上(静内では130年ほど)経て、今は年輩の人でも2世はまれで、ほとんどが3世・4世である。1世によって持ち込まれたはずの徳島方言は相当に影を薄くし、いわば北海道方言が成立してきている。それでも"徳島方言"はそれなりに尾を引いている面もある。北海道に渡った徳島方言と対比するために、主として吉野川沿いの地域を中心に、地元の徳島方言を調査した。また、やや古い徳島方言の姿を知るために、文献による調査を試みた。その結果、たとえば、北海道仁木町には120年余を経過した今日でも3世には明らかに徳島方言の名残が認められ、4世になるとそれが希薄になる。旭川市永山では屯田入植者の3割近くを徳島県出身者が占めたものの3世への名残は仁木町より薄く、4世はいわゆる北海道方言と見なされることばになっている。徳島県から北海道への移住者とその後の動きについては、かなり具体的に把握することができた。
著者
戸祭 由美夫 平井 松午 平川 一臣 木村 圭司 増井 正哉 土平 博 澤柿 教伸 小野寺 淳 財城 真寿美 澤柿 教伸 宮崎 良美
出版者
奈良女子大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2010-04-01

幕末の蝦夷地には、ロシア帝国をはじめとする列強の進出に備えるため、幕府の箱館奉行所をはじめ、東北諸藩による陣屋・囲郭が軍事施設として沿岸各地に建設された。本研究は、そのような軍事施設を研究対象として、歴史地理学・地図学・地形学・気候学・建築学の研究者が共同研究チームを組んで、古地図・空中写真・数値地図・気象観測資料といった多様な資料や現地調査によって、とりわけ蝦夷地南西部に主たる焦点を当てて、それら軍事施設と周辺部の景観を3次元画像の形で復原した。
著者
平井 松午
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100060, 2012 (Released:2013-03-08)

1.はじめに 江戸幕府は,安政元年(1854)の日米和親条約に基づく箱館開港にともない,翌年2月に松前藩領を除く蝦夷地全域を幕府直轄地とし,明治維新を迎えることになる。この蝦夷地第二次幕領期には,仙台藩・南部藩・津軽藩・秋田藩,安政6年以降はこれに会津藩・庄内藩が加わって,東北諸藩による蝦夷地の分領支配および警衛が行われた。そのため,東北諸藩は蝦夷地の各地に元陣屋や出張陣屋などを構え,数百人規模の藩兵を派遣してロシアの南下政策に備えることとなった(図1)。 本報告は,絵図資料等をもとに,GISソフトを用いて安政期におけるこれら蝦夷地陣屋の位置比定や景観復原を行い,その形態的特徴を明らかにすることにある。2.蝦夷地陣屋の絵図資料と陣屋の構造 東北諸藩による蝦夷地陣屋の建設にあたっては,陣屋建設地の事前見分,警衛持場絵図,陣屋周辺の絵図や陣屋配置図・陣屋建物差図・台場絵図等の作成,地元(東北)での建築部材の調達など,幕府や箱館奉行所の指導の下に準備が進められたとみられる。 これらの絵図や関連文書は,弘前市立図書館,盛岡市立中央公民館,函館市立中央図書館などに残されており,これらの絵図をGISソフト上で重ね合わせることで陣屋景観の3D復原も可能となる。 図2は,津軽藩・南部藩の蝦夷地警衛の拠点となった箱館近郊の千代ヶ台陣屋および水元陣屋の復原図である。ともに,外郭土塁や内郭土塁,水濠などで二重三重に囲繞された堅固な構造を有していたことが判明した。 しかしながら,こうした絵図資料を欠く陣屋も多く,その中には位置比定さえも困難な陣屋もある。報告時には,空中写真や発掘資料なども活用して,他藩の陣屋や出張陣屋についても景観復原を試みる。付記本報告は,平成22~25年度科研費・基盤研究(B)「文化遺産としての幕末蝦夷地陣屋・囲郭の景観復原-GIS・3次元画像ソフトの活用」(研究代表者:戸祭由美夫奈良女子大学名誉教授,ヶ台番号22320170)の成果の一部である。参考文献戸祭由美夫2000.幕末に建設された北海道の囲郭-五稜郭の囲郭プランのもつ意義の研究-.足利健亮先生追悼論文集編纂委員会編『地図と歴史空間』303-315。大明堂.
著者
平井 松午 鳴海 邦匡 藤田 裕嗣 礒永 和貴 渡邊 秀一 田中 耕市 出田 和久 山村 亜希 小田 匡保 土平 博 天野 太郎 上杉 和央 南出 眞助 川口 洋 堀 健彦 小野寺 淳 塚本 章宏 渡辺 理絵 阿部 俊夫 角屋 由美子 永井 博 渡部 浩二 野積 正吉 額田 雅裕 宮崎 良美 来見田 博基 大矢 幸雄 根津 寿夫 平井 義人 岡村 一幸 富田 紘次 安里 進 崎原 恭子 長谷川 奨悟
出版者
徳島大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2013-10-21

本研究では、城下町絵図や居住者である侍・町人の歴史資料をもとに、近世城下町のGIS図を作成し、城下町の土地利用や居住者の変化を分析した。研究対象としたのは米沢、水戸、新発田、徳島、松江、佐賀など日本の約10ヵ所の城下町である。その結果、侍屋敷や町屋地区の居住者を個別に確定し地図化することで、居住者の異動や土地利用の変化を把握することが可能となった。その点で、GISを用いた本研究は城下町研究に新たな研究手法を提示することができた。
著者
平井 松午 古田 昇
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.103, 2010 (Released:2010-06-10)

1.はじめに 四国・吉野川では,河口から約40kmに位置する岩津下流の堤防整備率は98%に達しているが,岩津~池田間の中流域における整備率は約63%である。そのため,今でも約18kmが無堤区間であり,水害防備林としての竹林景観が卓越している。本報告では,すでに堤防整備がなされた美馬市穴吹町舞中島地区を事例に,築堤以前と以後とにおける竹林景観の変化を報告するとともに,今後計画されている築堤区間における竹林景観保全のあり方について検討するものである。 2.築堤以前の洪水被害 舞中島地区は,吉野川第一期改修工事(1911~27年)によって全戸立ち退きとなった善入寺島に次ぐ大規模な川中島で,1961年当時の竹林を含む地区面積は約175haであった。吉野川の洪水を受けやすいことから,竹林・樹木で地区全体を囲繞し,吉野川本流の上流側には掻き寄せ堤を設けて,外水氾濫に備えてきた(図1)。 低平な舞中島の標高は約39~45mで上流(西)側に高く,上流側から4列ほどの微高地が下流側に向けて樹枝状に延び,高石垣を持つ古い家屋はこうした微高地上に分布する(図2)。洪水時には,吉野川本流や派流の明連川から外水が掻き寄せ堤を越流するとともに,下流側の明連川河口側からも洪水流が逆流し,標高の低い地区内の北東部が湛水地帯となった。 洪水時には大きな被害を受ける舞中島ではあったが,周囲の竹林・樹木が緩衝帯となって,島内に激流が押し寄せることはなかった。また,家屋には高石垣を施し,家屋の上流側にはクヌギ・ケヤキなどの樹木を植えて流下物(巨礫・樹木・木材など)から家屋を守るとともに,下流側にも樹木列を配して家財が流されるのを防いできた。 3.築堤後の景観変化 舞中島の築堤工事が開始されたのは1968(昭和43)年度で,1977年度には完成し,以後,同地区では内水被害はみられるものの(図2),従来のような外水氾濫の被害を受けることはなくなった。 築堤時には,一部の家屋・農地が河川敷となったものの,堤防が竹林南側に敷設されたことから,吉野川沿いの竹林景観の多くは維持されることになった(ただし,一部は牧草地やグランドに転用されている)。これは,河川敷となった竹林部分が国有地となったためでもある。しかしながら,1)築堤により洪水被害を受けなくなったことから,民有地であった明連川沿いの竹林は別用途に転用され,一部を残して著しく減少した(図3)。また,2)外水被害がなくなったことから,舞中島では住宅建設が進んだが,一部の新住民は標高の低い湛水地帯に住宅を建設したため,かえって内水被害を受けることになった。 付記 本報告は,平成21年度河川環境管理財団河川整備基金助成事業「吉野川流域の竹林景観の形成と保全に関するGIS分析」(研究代表者:平井)の成果の一部である。また,使用した航空写真や標高データについては,国土交通省徳島河川国道事務所から提供いただいた。
著者
野間 晴雄 森 隆男 高橋 誠一 木庭 元晴 伊東 理 荒武 賢一朗 岡 絵理子 永瀬 克己 朴 賛弼 中俣 均 平井 松午 山田 誠 山元 貴継 西岡 尚也 矢嶋 巌 松井 幸一 于 亜 チャン アイン トゥアン グエン ティ ハータイン チャン ティ マイ・ホア 水田 憲志 吉田 雄介 水谷 彰伸 元田 茂光 安原 美帆 堀内 千加 斎藤 鮎子 舟越 寿尚 茶谷 まりえ 林 泰寛 後藤 さとみ 海老原 翔太
出版者
関西大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2010-04-01

東アジア世界に位置する歴史的地域としての東シナ海,日本海,黄海・渤海・中国東北地方,広義の琉球・ベトナム,朝鮮半島の5つの部分地域として,環東シナ海,環日本海沿岸域の相互の交流,衝突,融合,分立などを広義の文化交渉の実体としてとらえる。それが表象された「かたち」である建築,集落,土地システム,技術体系,信仰や儀礼,食文化等を,地理学,民俗建築学,歴史学・民俗学の学際的研究組織で,総合的かつ複眼的に研究することをめざす。いずれも,双方向の交流の実体と,その立地や分布を規定する環境的な側面が歴史生態として明らかになった。今後はこの視点を適用した論集や地域誌の刊行をめざしたい。
著者
平井 松午 溝口 常俊 出田 和久 南出 眞助 小野寺 淳 立岡 裕士 礒永 和貴 鳴海 邦匡 田中 耕市 渡辺 誠 水田 義一 野積 正吉 渡辺 理絵 塚本 章宏 安里 進
出版者
徳島大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

本研究は、各地に所蔵される近世後期に作成された実測図もしくは実測図系絵図の作成法とその記載内容・精度の比較検討を行い、その上で近世実測図を用いたGIS 解析法の確立を目指したものである。その結果、徳島藩・金沢藩・鳥取藩では藩領全域をカバーする測量図がそれぞれ独自の手法によって作成されていたこと,また近世後期の城下絵図についても測量精度が向上して,これらの測量絵図が GIS 分析に適した古地図であると判断した。
著者
小野寺 淳 出田 和久 平井 松午 藤田 裕嗣 小田 匡保 礒永 和貴 大島 規江 川村 博忠 倉地 克直 杉本 史子 三好 唯義 小野田 一幸 種田 祐司 野積 正吉 青木 充子 尾崎 久美子 中尾 千明 橋本 暁子 横山 貴史
出版者
茨城大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2007

オランダ、ライデン大学図書館にはシーボルトが収集した21鋪の手書き彩色の国絵図が所蔵されている。21鋪の国絵図を高精細画像で撮影し、国内の類似の国絵図と詳細に比較分析した結果、21鋪の基図は慶長図1鋪、寛永図6鋪、正保図と寛文図14鋪であることが明らかになった。対となる国絵図がある一方で、基図の作成年代も個々に異なる例が多く、シーボルトの手書き彩色国絵図の入手先は複数あったと想定される。