著者
生田 眞人
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.1-17, 2008-03

本論考では第一次世界大戦と第二次世界大戦との狭間である,いわゆる両次大戦間期という激動の時代にオーストリア・ウィーンに生きたユーラ・ゾイファー(Jura Soyfer, 1912-1938)の生涯をたどり,劇作と政治活動の両面で彼のウィーン文化への貢献とその意義を考察する。 既に高校時代にオーストリア・社会民主主義労働者党(通例,後に「労働者」を削除した呼称を用いたので,以下社民党と略称)の青年部に属して政治詩や政治的エッセイを書いていたゾイファーはオーストリア・社民党の日和見的,譲歩過多の政策に飽き足らず次第にオーストリア・共産党を信奉するようになっていく。その過程でラディカルな政治演劇を発表し続けたゾイファーは作品も発禁,演劇作品も上演を禁止されるようになる。本人も逮捕されるに至るが,1938 年2月にはシュシュニクの恩赦令により釈放されるものの,ゾイファーはその後一ヶ月足らずの3月13 日,スイスへの亡命を図って国境で再逮捕されるに至る。その後の運命は過酷で,ゾイファーはダッハウ強制収容所送りとなり,さらにブーヘンヴァルト強制収容所へ移送され,同所で病死した。 短い生涯ながら,カバレット(寄席文学演芸)での小作品や劇場で上演されるべき演劇作品を多数創作したゾイファーは,その中でも特に政治的アピールを含むテーマと娯楽性に富む上演形式をたくみに結合し,ユニークな政治演劇を創造した。本論では特に「世界没落」をテーマとし,そのテーマをそのままタイトルとする作品に注目し,忘れられた劇作家ゾイファーの復権をも視野に入れて,彼の政治活動との関連で,彼の演劇を中心とする文学の本質を究明する。
著者
草野 友子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.196-212, 2011-03

本稿は,中国の新出土文献「銀雀山漢墓竹簡(ぎんじゃくざんかんぼちっかん)」(以下,銀雀山漢簡)の「論政論兵之類」に分類される『為国之過』を取り上げ,その文献的特質を考察するものである。 銀雀山漢簡は,1972 年に出土した竹簡であり,その内容は主に古代兵書である。全容は三分冊によって公開されることが予告されていたが,『孫子兵法』『孫臏兵法』などを収録した 『銀雀山漢墓竹簡(壹)』の刊行後,続巻の刊行が中断した。 しかし,2010年になってようやく『銀雀山漢墓竹簡(貳)』が刊行された。第二輯において公開された『為国之過』は,国を治める際の過失について,箇条書き風に説かれている文献である。そこには,国家の存亡,君主・臣下・民の相互関係,戦争時における対策などについて具体的に書かれており,その理想と現実とが述べられている。 本稿では,『為国之過』の内容を確認した上で,その全体構成と本文献の特質を明らかにしていきたい。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.25-54, 2006-03

謝花昇は沖縄で生まれ,第一回県費留学生として東京で農学を学び,農業技師として沖縄県庁の高等官となる。しかし土地問題をめぐって知事と対立し,県庁を辞職後,民権運動に身を投じる。しかし運動は挫折し,36歳の時に精神に変調をきたし帰郷した後,43歳の短い生涯を閉じる。謝花が沖縄の民権運動において指導的な役割を果たしたことに関しては,すでに数多くの研究成果がある。しかしながら,謝花が学んだ近代農学との関連については論じられることが少なかった。謝花の活動と近代農学とを結びつけた研究成果がまったく見当たらないというわけではないが,謝花が依拠した近代農学の特徴と謝花の活動との関連が問われることはなかった。 謝花の農業思想は,沖縄県の経済的自立と政治的自治とを求める実践や運動の過程で形成されたものであり,その中心的な課題は農業と土地をめぐる問題の解決であった。この問題の解決にあたって謝花が依拠するのは,帝国大学農科大学農学科で学んだ近代農学であった。近代農学は多くの欠点をもっていたとはいえ,農業経営や農業技術面での合理性は保たれていた。勧業政策を推進する立場におかれた謝花は必然的に沖縄振興の構想を提示する必要に迫られる。謝花の早世によって構想は完結したものとはいえないが,謝花の著書や講演,そして遺稿となった論文によって沖縄構想がなされたことは明らかである。 しかし謝花による沖縄構想の実現は,その合理性のゆえに,沖縄に残る多くの旧慣が障害となる。そして謝花の沖縄構想は徐々に政治の不合理性に直面せざるをえなくなり,その転換を迫られる。農業分野から政治分野へと転換であるが,この転換は謝花の沖縄構想の限界ではない。沖縄構想の合理性は色あせるものではなく,現代でも示唆的な面が少なくない。謝花は科学者や研究者ではないので,近代農学の実践者とは言い難いのかもしれないが,その精神において科学的合理性を備えていた。謝花は,科学的合理性という精神を備えているという点で科学主義に忠実であった。謝花は科学主義によって権力に抵抗し,地域的な利己主義と対立していった。この過程で謝花の農業思想が形成され,沖縄構想が提示されたものの,それを否定するような悲劇が起こった。
著者
菅野 類
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.112-130, 2008-03

イタリア人の悲劇作家,ヴィットーリオ・アルフィエーリが1777 年の5月にトリノを離れトスカーナへ向かったのは,イタリア語の表現力を向上させるためだったことは良く知られている。しかし,本稿筆者はその旅のもうひとつの理由が,トリノの知的状況内にあったのではないかと考えている。 1773 年,ヴィットーリオ・アメデーオ三世が即位したことをきっかけに,トリノの知的環境は劇的に変化した。伝統的な厳しい統制から解き放たれたことで,トリノはかつてない文化的活況を迎えたのである。しかし,過度の自由は制限されるべきであるとの保守的意見は存続し,1777 年に出版されたベンヴェヌート・ロッビオの『えせ哲学論』により勢いを取り戻す。ロッビオは知的風潮の堕落を警戒し,社会秩序を守るために検閲の重要性を訴えたのだった。アルフィエーリが『専制論』の原案を書き,主にトリノ社会を念頭に置いたものと見られる君主制批判を展開したのも,ちょうどその年のことであった。 これらの対照的な意見がほぼ同時に現れたことは,単なる偶然とは思われない。ロッビオとアルフィエーリは同じ文芸サークルに所属しており,さらにロッビオはアルフィエーリに悲劇の書き方を指導していた。相手の態度と考え方を直接知りうる関係に二人はあったのである。『えせ哲学論』の出版以降,ロッビオは政府の文化政策に関わっている。これは,トリノにおいて保守的論調が支配的となったことを意味する。一方アルフィエーリは,自由な立場で執筆活動を続けられるよう,祖国との関係を絶つ決意をする。たとえ明確に言及されてはいないとしても,トリノの知識人社会における居心地の悪さが,アルフィエーリをトリノから遠ざけた要因のひとつであったものと考えられる。
著者
中川 さつき
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.389-406, 2015-03

『ウティカのカトーネ』(1728)はメタスタジオにとって3 作目の音楽劇である。主人公カトーネは共和政ローマの理念を守るために,和平を拒んで名誉ある死を選ぶ。カトーネの高潔なモラルと,ライバルであるチェーザレの寛容の徳との対比がこの劇の核である。簡潔で力強い台詞と劇的な緊張感に満ちた傑作であるが,同時代の観客は愛国的なテーマにそれほど心惹かれず,また主人公が呪詛の言葉を吐きながら死んでゆく場面は激しい反発を巻き起こした。メタスタジオ自身はこの作品を偏愛していたが,『アッティリオ・レーゴロ』(1740)で一度だけ英雄悲劇に立ち戻ったことを例外として,その後は宮廷の人々の好みに従って,君主と臣下の理想的な関係を描いたハッピー・エンドの劇を書き続けたのであった。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.116-146, 2008-03

笹森儀助(1845-1915)は『南嶋探験』の著者として著名である。『南嶋探験』は笹森が1893(明治26)年に約5ヶ月にわたって,沖縄本島はもとより宮古・石垣・西表・与那国,そして帰路に奄美の島々をまわり,辺境防備や資源探査,農村生活の視察,産業の実情などを調査した記録である。この記録は詳細であるが故に多くの影響をもたらした。 これまでの研究では,笹森の事績が徐々に明らかになっているものの,笹森はなぜ詳細な調査をすることができたのか,つまり調査以前と調査との関連,さらに詳細な調査はその後どのような影響を与えたのか,つまり調査後の展開などについては明らかになっていなかった。本稿では調査前については,士族授産事業(「農牧社」の運営)を通して多くの農業研究者や老農,そして農業研究施設から笹森が農業知識を吸収した点を明らかにして,南島調査に至ったことを説明した。さらに調査中には謝花昇(1865-1908)や知事の奈良原繁(1834-1918)とも会って,資料収集につとめるとともに,旧慣制度などについて議論している。こういったことが調査記録をさらに充実したものにしていた。 調査後の影響については,学問上の影響と政治上の影響があった。学問上の影響では,その後の沖縄研究の端緒を開いたといえる。これはその後に展開される「沖縄学」という柳田国男(1875-1962)や伊波普猷(1876-1947)などによる民俗学的な研究とは異なっていた。笹森の調査には地域振興や地域の自立という視点があったが,沖縄学ではそういった視点が希薄となる。笹森は南島調査の後,奄美大島で実際の行政に携わっているが,ここには地域振興や地域の自立という視点が遺憾なく発揮されている。また政治上の影響については,人頭税などの旧慣制度の廃止に大きな影響をもったということである。笹森によって記述された「圧倒的な事実」が政策批判につながった結果である。目 次1 はじめに2 士族授産と農業知識3 実態調査と詳細な記録 (1)調査の準備 (2)旧慣制度と生活実態 (3)糖業と土地制度 (4)調査の総括4 地域振興の実践5 地域振興と沖縄研究の展開
著者
関 光世
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.82-101, 2008-03

0 はじめに1 二人称敬語体代詞"您"をめぐる諸説と問題点 1.1 "您"についての説明 1.2 陳(1986)の論点 1.3 ディクテーション結果から見た問題点2 《编辑部的故事》に見る"你"と"您"の使用 2.1 話し手自身の特徴―年齢・性別・性格 2.2 聞き手との関係―高親密度下における使用状況 2.3 親密度の変化とその影響 2.4 意図的な変換と無意識の変換3 まとめ 3.1 《编辑部的故事》における代詞の選択と変換 3.2 効果的な学習のための提案
著者
時田 浩
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.355-369, 2012-03

ギリシア悲劇以来の長い演劇史の中で,現実そっくりの舞台をつくることは19 世紀後半か ら試みられるようになったにすぎない。その時代には,芝居がかった演劇手法は排除され,自 然主義的な演劇が高く評価された。ゾラの主導のもと,イプセン,チェーホフ,トルストイらが 自然主義的作品を発表し,それまでは舞台に載せられなかった世界が描かれるようになった。 トルストイが異常なほどにシェイクスピアを嫌悪していることはよく知られている。特に, 『リア王』を挙げて詳細に批判している。それにもかかわらず,シェイクスピアのこの戯曲は 現在も傑作として名高い。ヤン・コットが言うように,現代の演劇に通ずる要素をもっている からであり,ベルトルト・ブレヒトはそこにシアトリカルな演劇の可能性を見出した。 ブレヒトは〈異化〉という概念で新たな演劇の方向を探ったが,その際には意図的にシアト リカルな身ぶりを求め,同化を目的とする演劇とは違う楽しみを観客に与えようとした。それ は観客に考えることを期待したのであり,そのために異化という手法を作品の中に導入した。 彼はシェイクスピアなどの演劇の手法を再利用し,それによって,自然主義以前の演劇の手法 を復権させ,新しい演劇の可能性を追求した。
著者
吉田 卓爾
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.418-387, 2018-03

京都の北山にある鹿苑寺は、開基足利義満、勧請開山夢窓疎石とする禅の名刹である。しかし、鹿苑寺に現存する頂相・墨蹟を初めとした什物の伝来や性格には不明な点が多い。近年、禅文化との関わりが指摘される奇想なる美術への関心が高まる一方で、禅宗寺院における信仰の姿に目が向けられる機会は少なく、とりわけ、近世鹿苑寺における信仰と美術作品との関係について取り上げた研究は皆無に等しい。本稿では、第一に諸資料を精査し、鹿苑寺に現存する什物の伝来過程や使用方法についての情報を広く収集する。第二に、第一の成果に基づき、特に遠忌記録における什物の使用例に着目し、本山相国寺の状況とも比較しながら、諸々の什物が備える機能や役割について考察する。以上の成果を踏まえて、最後に近世鹿苑寺における信仰の在り方と変遷についてまとめることとする。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.46-73, 2005-03
被引用文献数
1

京都帝国大学は,わが国で二番目の帝国大学として創設される。その創設以来,沢柳事件・河上事件・瀧川事件というように,大学の自治をめぐる事件が数多く起こっている。しかしながら,総長人事や教授人事に関する問題は,これらの事件が発生する以前に,すでに起こっている。その先駆的な事例が岡田総長退職事件である。第二代総長となる岡田良平は,その在任期間が約10 カ月と短く,しかも総長退職をめぐって教授側と文部省との対立をみている。 岡田良平は幼い頃から報徳主義の影響を受け,文部官僚となった後も,この思想をモデルとすることがしばしばみられる。岡田良平は文部官僚だけでなく,第一高等学校教授,山口高等中学校校長などの教職も歴任する。報徳主義の影響と教職の経験によって,岡田は自らの教育理念をつくっていくが,それを創設後約10 年を経過していた京都帝国大学において実践する。岡田良平の就任時の京都帝国大学は,創設期における独創性を失い,その研究教育体制の構築において苦悩していた時期である。したがって,文部省から送り込まれた官僚である岡田良平の実践は,教授側の猛反発を招く。 岡田良平の総長退職は,岡田良平の文部次官と総長の兼任をきっかけに,急速に展開する。結果的に山県有朋の判断で,岡田良平は総長を退職して文部次官専任となるが,それはもちろん京都帝国大学が新たな研究教育体制を構築したからではない。岡田良平が突きつけたのは,大学のあり方に関する問題であるが,京都帝国大学はそれに答えることなく,大学自治の問題が,主要な課題となっていく。つまり大学の問題は,研究教育体制の確立ではなく,自治の問題へと転化している。一方,岡田良平は総長退職後に文部大臣となり,現在の高等研究教育制度の基礎となる大学令の公布に大きな役割を果たす。この大学令には,岡田良平の報徳主義や京都帝国大学での経験による成果がみられる。 1.はじめに 2.京都帝国大学の創設期 3.岡田良平の経歴 4.岡田総長の大学運営 5.岡田総長退職後の展開 6.結 語
著者
井尻 香代子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.163-179, 2017-03

現在多様な言語で作られているハイクの普及プロセスと特色を明らかにするため,筆者はアルゼンチンのケースについて,受容プロセス,季語,韻律,価値観の変化という四つの視点から調査・分析を行った。その後,季語については現地特有の動植物や時候の変化,生活習慣や宗教的,文化的行事を表現する多くの言葉が,豊かな意味と感性を含み受け継がれていることに気づくようになった。移民国家であるアルゼンチンにおいてこうした言葉のグループはさまざまな側面を含みつつ,徐々に共有されることとなった感受性の目録と捉えることができる。本稿では,現時点で重要と思われる言葉を中心に歳時記構築への第一歩を踏み出すことを目指している。第1 章では日本の伝統詩歌において季語がどのように誕生し,変化してきたのかを概観し,現代の俳句季語をめぐる状況を考察する。第2 章では,国際ハイク研究者や実作者の近年における季語の扱いを検証する。そして第3 章では,アルゼンチンのハイク作品集から季語としてふさわしい語を抽出し,歳時記構築に向けた試みに向けていくつかの例を提示したい。この作業は,アルゼンチン・ハイクの特色を理解し,ひいては国際ハイクの現状をあぶり出す試みとなるだろう。
著者
小倉 恵実
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.81-102, 2012-03

両大戦間期のアメリカでは,優生学運動が大衆化の様相を見せた。「赤ちゃんコンクール」や続く「ふさわしい家族」コンテストは,それを表す典型的なイベントで,アメリカ各州や郡の博覧会で頻繁に開かれ新聞でも第一面で大々的に報道された。科学の発達により,より視覚的で「わかりやすい」展示物を生産することが可能になったことも挙げられるが,このコンテストを支えていたのは,地方の女性達であり,彼女たちは優生学運動に参加することで自らのアイデンティティを獲得していったのである。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.239-278, 2014-03

仲原善忠(1890–1964)は,沖縄を代表する歴史および地理の研究者である。とくにオモロ研究者として著名である。沖縄県久米島生まれで,戦前期には主に地理の教育者として活躍する。沖縄研究には1939(昭和14)年頃から取り組んでいるが,久米島のオモロ研究が,そのきっかけとなる。そして『久米島史話』(弟の仲原善秀との共著,1940 年)など一連の歴史研究を発表している。仲原の歴史研究には,久米島の原体験から生まれる独自の歴史観と文化論が内包されている。仲原は沖縄がヤマトによって逆境におかれていたということだけではなく,沖縄の支配層の下に,さらに抑圧されていた離島の久米島の姿を描いている。 仲原の沖縄史研究は,次の四つの特徴がある。(1)按司と支配体制,(2)琉球王国の祭政一致体制,(3)久米島の経済的基盤,(4)久米島の地方役人と官僚システム,これらの特徴は久米島独特の思想を反映していた。そして久米島オモロの研究は,上記の(1)~(4)を裏付ける役割を果たしていた。 さらに戦後沖縄の状況を念頭に置いて,次の四つに仲原の歴史研究の特徴がある。(1) 沖縄の時代区分,(2)琉球と薩摩藩の関係,(3)ペリー来航と戦後の米軍占領,(4)ブラジル「勝ち組」への対応,であった。これらの戦後の沖縄史研究は,近代主義的な様相を帯びていたものの,その基本にあるのは郷土・久米島から生まれた歴史観であった。
著者
ヤスパゼン マルテ[制作] 石川 桂子[訳]
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.445-469, 2013-03

ラジオドキュメンタリー(Radio Feature)は,第二次世界大戦後のドイツで音響芸術の新 たな形態として確立された。ラジオドキュメンタリーはラジオドラマとは異なり,事実,即ち ノンフィクションを扱う。その形態は実に多種多様なものが許され,音楽,言葉,サウンド が果たす役割は番組によってさまざまである。BBC でかつてドキュメンタリー部長を務めた ジョン・シオカリスは,「ドキュメンタリーは,ラジオが持つあらゆる可能性を駆使し,聴く 人の想像力をかきたて,世界への,そして人間存在への理解を深めさせてくれる」と述べている。 本稿は,ドイツの放送局であるドイツ文化ラジオ(Deutschlandradio Kultur)とバイエル ン放送局(Bayerischer Rundfunk)のために制作したラジオドキュメンタリー「想定外」の原 稿であり,2011 年3 月11 日に日本の東北地方を襲った大災害について長い時間をかけて調査 をした結果である。執筆者は,ルポルタージュの伝統的な手法に加えて,音響芸術学的で詩的 な要素も取り入れ,存在に関する実存的な問いに取り組んだ。それは,ここで扱う問いが今回 の大災害を経験した後では,もはや東北地方の人たちだけが改めて問いかけるようなものでは なくなってしまっているためである。 「想定外」は,2012 年のPrix Italia においてイタリア大統領特別賞を授与された。Prix Italia は,ラジオ・テレビ・インターネットに関する最も歴史のあり,最も重要な国際コンテ ストとして知られている。世界45 か国の公共放送あるいは民間放送がPrix Italia の正規会員 である。
著者
長谷川 晶子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.365-381, 2014-03

本論の目的は,フランスの美術批評家アンドレ・ブルトンが,1938 年にメキシコに滞在した折に出会ったメキシコの有名な写真家マヌエル・アルバレス・ブラーボから受けた影響を明らかにすることにある。ブルトンのテクスト「マヌエル・アルバレス・ブラーボ」(1938 年)と「メキシコの思い出」(1939 年)を手掛かりとして,そこで言及されているアルバレス・ブラーボの写真を詳細に分析しながら,ブルトンがメキシコという土地の特異性をどのように捉えようとしたかを解明する。ブルトンは,西洋中心主義の立場で非西洋の文化を解釈する安易なエグゾティスムに対して批判的だった。ブルトンはアルバレス・ブラーボの写真を,ステレオタイプ化されたメキシコではなく,「土地の魂」をつかんでいるものだと評価している。フランス人である自分もまたエグゾティスムの眼差しから逃れ難いことを承知していたブルトンは,メキシコ滞在の経験を記す上で,解釈を一旦括弧に入れて事物の描写に固執する。あたかもアルバレス・ブラーボの写真の中に光と影の対立から生と死の循環の原理を見出したように,個別の事物の具体的描写を通して,メキシコの土地に潜む普遍的性質を垣間見ようとするのだ。見えるものを通して見えないものを表現するアルバレス・ブラーボの寓意的な写真と重なりあうようなこのブルトンの姿勢は,芸術批評が写真をモデルとして執筆されたことを強く示唆している。
著者
長谷川 晶子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.365-381, 2014-03

本論の目的は,フランスの美術批評家アンドレ・ブルトンが,1938 年にメキシコに滞在した折に出会ったメキシコの有名な写真家マヌエル・アルバレス・ブラーボから受けた影響を明らかにすることにある。ブルトンのテクスト「マヌエル・アルバレス・ブラーボ」(1938 年)と「メキシコの思い出」(1939 年)を手掛かりとして,そこで言及されているアルバレス・ブラーボの写真を詳細に分析しながら,ブルトンがメキシコという土地の特異性をどのように捉えようとしたかを解明する。ブルトンは,西洋中心主義の立場で非西洋の文化を解釈する安易なエグゾティスムに対して批判的だった。ブルトンはアルバレス・ブラーボの写真を,ステレオタイプ化されたメキシコではなく,「土地の魂」をつかんでいるものだと評価している。フランス人である自分もまたエグゾティスムの眼差しから逃れ難いことを承知していたブルトンは,メキシコ滞在の経験を記す上で,解釈を一旦括弧に入れて事物の描写に固執する。あたかもアルバレス・ブラーボの写真の中に光と影の対立から生と死の循環の原理を見出したように,個別の事物の具体的描写を通して,メキシコの土地に潜む普遍的性質を垣間見ようとするのだ。見えるものを通して見えないものを表現するアルバレス・ブラーボの寓意的な写真と重なりあうようなこのブルトンの姿勢は,芸術批評が写真をモデルとして執筆されたことを強く示唆している。