著者
井尻 香代子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.47, pp.87-102, 2014-03

本稿では,二つの視点から日本の俳句および海外のハイクが広範な普及を実現した原因を探る。第一に,その詩型の短さが意味するものに着目する。俳句は西欧近代文学の影響下に誕生したが,究極の短詩形であることによって,俳諧連歌の発句としての特徴を維持した。それは,創作方法における共同体的な集団性であり,これによって俳句は近代文学における個人主義の価値観を変革するジャンルとなったのである。第二に,日本の俳句の成立と世界への伝播の過程を環境史とエコクリティシズムの視点から検討する。日本の伝統詩歌はその発展のプロセスにおいて,日本列島という限られた領土における自然と人の関わりの破綻に幾度か直面した。そのたびに自然観および言語を更新し,連歌,俳諧連歌,俳句という新しいジャンルを生み出したのである。俳句の形式や言語には,そうした自然観の枠組みの変遷が刻み込まれている。欧米におけるハイクの受容は環境思想やエコロジーへの関心とリンクして進展した。多言語で制作されるハイクには,各地域の生物文化の多様性を守り共生しようとする価値観が共有されている。
著者
平塚 徹
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.269-287, 2012-03

マイクに向かって話すことを表すフランス語の表現parler dans le microにおいて,前置詞句はマイクの内部を指しているだけである。英語などの幾つかの言語では,これに対応する表現において,前置詞句がマイクの内部への経路を明示的に表している(英語:to speak into the microphone,ドイツ語:ins Mikrophon sprechen,チェコ語:hovořit do mikrofonu,ロシア語: govorit’ v mikrofon)。しかし,フランス語では,マイクの内部が経路の着点であることは,推 論による解釈の結果なのである。 parler dans le microという表現においては,移動するもの,すなわち「声」が,明示的に表現されず,動詞parler(話す)によって含意されている。この潜在的な参与項はLangackerのアクティブ・ゾーンに対応している。前置詞句は,アクティブ・ゾーンの移動経路の着点に対応する場所を表しているのである。同じ説明は,souffler dans le micro(マイクに息を吹きかける),se moucher dans un mouchoir(ハンカチで鼻をかむ),vider une bouteille dans l’évier(びんの中身を流しにあける),mordre dans une pomme(リンゴをかじる)にも適用される。これら の表現において,アクティブ・ゾーンは,それぞれ,息,鼻腔内の粘液,瓶の中身,歯である。
著者
菅原 祥
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.54, pp.241-272, 2021-03-31

炭鉱はかつて,ポーランドにおいて最重要の産業として大きな重要性を有していた。ところが近年,ポーランドにおいては炭鉱や石炭がますますネガティブに表象されるようになりつつある。そのような中,本稿は,ポーランドの代表的な産炭地である上シロンスク地域に焦点を当て,そこにおいて社会主義時代から現在に至るまで炭鉱の経験がどのように可視化され,表象され,またいかなるまなざしを向けられてきたのかを,この地域に現存する有名な炭鉱住宅,ギショヴィエツとニキショヴィエツに着目して論じることで,そうしたローカルなコンテクストの中における炭鉱へのまなざしが,現在においてどのような意義や重要性を有しているのかについて検討する。分析の結果,ニキショヴィエツおよびギショヴィエツをめぐっては,単なる「工業施設」としての炭鉱というイメージ以外に,少なくとも以下の3 つの炭鉱をめぐるイメージが確認できた。①「自然」を破壊するものであると同時にそれ自身も「自然」とみなすことができるような,両義的かつ神秘的なトポスとしての「炭鉱」,②「文化遺産」「産業遺産」としての炭鉱,あるいは「小さな祖国」としての産炭地,③戦前から社会主義期,さらにはポスト社会主義の現在へと連綿と続く炭鉱夫の集合的経験・集合的記憶の領域を,支配的秩序に対する一種の「抵抗」の足がかりとして再発見することの可能性。このように,ポーランドにおいては「炭鉱」をめぐる上記のようなさまざまな記憶,経験,イメージ,言説が複雑に絡み合っている。本稿の分析の結果,そのような多様なイメージや記憶が交錯する場として「炭鉱」を再考することには大きな意義と可能性があるということが示唆された。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.135-174, 2009-03

太田朝敷(1865-1938,以下は太田)は,明治・大正・昭和を通して活躍した沖縄を代表する言論人である。沖縄最初の新聞である『琉球新報』紙を創刊し,言論界で活躍した。言論活動では単に多くの新聞記事を書いたというのではなく,当時の沖縄社会に関する論説を発表し,経済社会問題を提起していた。これらの論説はまとめられて『太田朝敷選集』として刊行されているが,この著書が大部であるにもかかわらず,これまでの研究成果は数少ない。 太田の思想が注目されてこなかった理由のーつに,沖縄に特有の事象を扱っているために,日本とのつながりが見出せず,全国的な広がりをみせていないことがあげられる。本稿では太田が約8年間の在京経験をもち,そこで福沢諭吉(1834-1901)の思想から大きな影響をうけたことを前提にして,福沢の思想からの影響を明らかにし,沖縄社会において太田が自らの思想を形成した過程を考察した。 注目した点は,福沢の『文明論之概�』から大きな影響を受けていた点であり,それに基づいて太田の地域発展論が組み立てられたという点である。その中核となるのは福沢の「独立自尊」であり,太田は沖縄の独立自尊の途を模索したといえる。太田の「同化論」は現在でもよく知られているが,この同化論も沖縄の独自性あるいは主体性を前提とした主張であり,独立自尊に反することではなかった。むしろ,同化論に基づいて,沖縄の独自性を見出すための沖縄研究,産業の組織化,糖業をめぐる組合の形成などを積極的に進めるように訴えている。 太田は「沖縄県民勢力発展主義」という用語を使い,沖縄の独立自尊への途を示したが,実際には独立自尊の達成が困難であった。現実は太田の期待とは裏腹に,太田が明治期以来の沖縄は食客生活というほど,自立性を失っていく過程であった。この点で太田の地域発展論には限界があったともいえるが,太田が示した独立自尊の途は大きな示唆を与えている。
著者
GILLIS-FURUTAKA Amanda
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.47, pp.51-71, 2014-03

YouTube was launched in 2005 as a site for people to share their home videos, but hasexpanded to become an unprecedented archive of freely available sound and visual aterial,as well as a platform for accessing the latest pop music releases. YouTube is also a major social networking site and is facilitating the exchange and appreciation of creative work both within and across national borders. These functions of YouTube will be discussed in relation to the findings of a two-stage research project with Japanese university undergraduates thatinvestigated how and why they use YouTube to access pop music. An initial survey of over2,000 first-year undergraduates was followed up by interviews with 51 students to find outthe ways in which they use YouTube in their daily lives.
著者
小出 敦
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.133-156, 2007-03

この表は、歴史的字音仮名遣いによる日本漢字音と、中国中古音との対照表である。この表を一覧することにより、日本漢字音の輪郭を把握することができる。
著者
三好 準之助
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.21-50, 2014-03

1.「はい」とsí の辞書的なデータ 1.1.現代語のデータ:単一語辞書の場合 1.2.現代語のデータ:二言語辞書の場合 1.3.それらの語源的データ2.「はい」関連の研究について 2.1.相づちに関する研究 2.2.「はい」の用法 2.3.相づちの国際比較 2.4.日本語の否定疑問文への応答について3.sí の用法について 3.1.辞書的な情報 3.2.規範文法でのsí の使い方 3.3.語用論から見たsí の使い方4.対応と結論 4.1.「はい」の用法とsí との対応 4.2.sí の用法と「はい」との対応 4.3.結論注参考文献
著者
若井 勲夫
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.172-147, 2008-03

唱歌・童謡・わらべ歌など、広く童歌、子ども歌と称せられる歌謡は、長年にわたって歌い継がれ、親しまれてきているのに、それらの歌詞の内容や言葉の意味についてはそれほど注意されずに過ぎてきた。その要因の一つはこれらは幼少の子が歌うものであって、本格的な研究対象にし難く、一部の音楽に関心のある者が総括的に取上げて一般書として公刊される程度であった。最近は、興味本位の、根拠のない思いつきの論も世に出ている。そこで、本稿では今までいろいろな解釈が提示され、なお決着がつかず、諸説のある童謡・わらべ歌について、国文学だけでなく、国語学の研究に基づいて、歌詞の言葉や表現を精しく分析し、考証し、言語主体の言語意識や表現意識を考究し、作品全体の構想や主題を明らかにして、その歌の意味づけを定めようとした。 本稿では四編を取上げ、まず「赤蜻蛉」は「負はれて見た」「小籠に摘んだ」と「お里のたより」の照応に着眼して、表面的には姐やを歌うが根底に母への思いがあることを一部の説を評価した上で論じ、その上に、最後の連を故郷の原風景として捉え直した。「七つの子」の「七つ」は七羽という数を示すのではなく、七歳という年齢を表すことを、国語学、国文学、民俗学などの面から究明し、ここに日本人の根本的な意識・感情があることを論じた。「雪」はわらべ歌の「雪やこんこん」を取り入れたもので、この「こんこん」は「来む来む」であるという説を多くの用例を挙げて補強し、併せて、命令表現の意味をも考えた。「背くらべ」は「羽織の紐のたけ」は長さではなく、高さであることを語源、原義から明らかにし、「何のこと」「やっと」に込めた言語主体の表現意識を探った上で、第二連との対応も考え合せ、新しい説を提起した。なお、次号(下)では「かごめかごめ」と「通りゃんせ」について論究する。
著者
池田 昌広
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.47, pp.73-86, 2014-03

大宝令の注釈書である「古記」の佚文都合3条に『漢書』顔師古注の引用を見出せる。「古記」が引用している種々の漢籍は,ほとんど原本系『玉篇』や類書など第2次編纂物からの孫引きだが,くだんの師古注文はそうではなく,『漢書』顔師古本から直接引用されたものと考えられる。また,その引用にあたって吉備真備の教導のあった蓋然性がたかい。この考察結果は,つぎの2つの問題の究明に資する。1つは「古記」の撰者問題。「古記」の撰者については,大和長岡説と秦大麻呂説とが並立しているけれど,真備の教導をうけうる人物であることから長岡説が有利になった。長岡と真備とは,769年に長岡が死去するまで,半世紀にわたり親しい友人関係にあった。最新の『漢書』学を学習し帰朝した真備から知的供与をうけやすい立場に,長岡はいた。もう1つは『日本書紀』の書名問題。「古記」は「日本書紀」の称謂の史料初出である。わたしは,この喚名の由来を真備から「古記」撰者への「正史」観念の伝学にもとめる私案を述べたことがある。真備から「古記」撰者への知的供与が一定の実証性をもっていえることは,私案の蓋然性をたかめる。くだんの知的供与が,ただ師古注にかぎられたとは考えにくく,そのうちに「正史」観念のふくまれていた可能性が十分みとめられるからである。
著者
池田 昌広
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.46, pp.29-47, 2013-03

班固『漢書』は成書以来,複数のテキストが行われてきた。初唐に顔師古による校注本があらわれ,これが普及するにつれ標準本となった。小論は唐代における師古本普及のさまを推測するため,盛唐に成った司馬貞『史記索隠』と張守節『史記正義』とが師古本を利用しているか否かを調査した。その結果,索隠では利用に否定的,正義では肯定的結論を得た。索隠がおもに依拠した『漢書』テキストは師古本以前の標準本たる東晋の蔡謨集解本であったらしい。 正義では蔡謨本利用の痕迹は見つかっていない。 果たして,旧来の蔡謨本によった索隠と,あらたな師古本によった正義と,両者の『漢書』テキストの選択は対照的といえる。これの成因は索隠と正義との成立の時間差と思われる。正義は開元24年(736)の成立,索隠はそれより一世代分ほど早く成ったようだ。この間隔に師古本の普及が一定程度すすみ,正義の師古本利用を可能にしたと推量される。このことから師古本は成立後,急速に普及したのではなく漸次的に普及し,盛唐のころ蔡謨本から師古本へ 『漢書』の標準本の交替がおこったと考えられる。
著者
梶 茂樹
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.52, pp.3-27, 2019-03-30

本稿はウガンダ西部のニョロ語のタブー表現を記述し,その形式と内容の分析を試みるものである。ニョロ語のタブー表現を記載した文献はなく,またその他の民族のタブー表現についても本稿で行ったような内容の論理構造分析は皆無である。 ニョロ語のタブー表現は,例えば,「男の子はカマドに腰をかけてはいけない。」のように,行為の禁止を述べるものである。しかし,表現はされないが,「もし男の子がカマドに腰をかけると,父親が死ぬ。」という風に,行為の禁止の違反と結果が含まれる。しかし,行為の禁止の本当の理由である「火傷をするから。」ということは隠される。禁止の本当の理由の代わりに,怖い結果が違反の時間的推移による因果律のように示されるところに特徴がある。それに対してタブー化されていない通常の禁止を表す警句では,「寝る前に水をたくさん飲むと,寝小便をする。」のように,怖い結果はなく,違反に続いて禁止の本当の理由が述べられる。 タブーというのは,人の行動を制御する大きな原動力となっている。自らを律し,また人をいたわることを可能にする。アフリカの伝統的社会においては,これが大きな社会的役割を果す。こういった観点から見ると,なぜニョロ社会で多くの習慣的行為がタブー化されているかが理解できる。 またニョロ語にはタブーに関連して不吉というものがある。これは例えば「旅行に出かけようとした時,ネズミが道を横切るのを見たら,旅行を取りやめる。」と言ったものである。不吉はタブーと似た論理構造を持つが,タブーが命令に従うか従わないかは別にして,自らの判断で行為を行うか行わないかを決めることができるのに対して,不吉は自らコントロールできないことが生じた場合の対処の仕方を教えるものである。
著者
平塚 徹
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.281-298, 2013-03

日本語の形容詞「近い」は,「X はY に近い」と「X はY から近い」の二つの構文を取る。 これに対して,反意語の「遠い」は,「X はY から遠い」という構文をとり,「X はY に遠い」 とは現代の通常の慣用では言わない。これらの構文を説明するために,以下の仮説を提案す る。【仮説1】「X はY に近い」という場合,X とY の間の距離が小さいという事態を,X が Y に接近するという認知的表示によって概念化している。【仮説2】「X はY から{近い/遠い}」 という場合には,認知的表示においてY からX まで仮想的な移動体が移動している。これら の仮説から例えば以下のようなデータが説明される。(a)海岸は僕の家{?に/から}近い。(b) 私たちはもうゴール{に/?から}近い。(c)ここ{? に/から}ゴールは近い。(d)正午{に / ? から}近い。(e)味はチーズ{に/ ? から}近い。
著者
平塚 徹
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.367-387, 2015-03

形容詞different はfrom と用いるのが規範的であり,また頻度も高い。しかし,実際には,than とも用いられ,またイギリス英語の場合にはto とも用いられることが知られている。つまり,差異の基準は,起点,比較の基準,着点として標示されうるのである。筆者が調査した範囲では,差異の基準の標示については,起点型(英語のdifferent from)と同伴型(日本語の「... と違う」)の言語が多い。比較型(英語のdifferent than)は通言語的に限定されている。着点型(英語のdifferent to)の言語はまれであり,しかも,形容詞において見られるのであり,動詞の場合には起点型になる傾向にある。 英語:different from/to .... に対して differ from ... スペイン語:diferente/distinto de/a ... に対して diferir de ... ウェールズ語:gwahanol i ... に対して gwahaniaethu oddi wrth ... この偏りを説明するために,以下の仮定をした。差異はメタファーにより距離として理解される。この距離を認識するために二つの操作のいずれかが行われる。(1)基準から遠い対象は,基準から離れていくものとして表示される。(2)対象と基準の間の距離が心的に走査される。走査の方向には,(a)基準から対象へという方向と,(b)その逆がある。(1)は,対象が動くものとして表示されているという意味で,より動態的であり,それゆえ動詞として語彙化されやすい。それに対して,(2)は,より静態的であり,形容詞として語彙化されやすい。起点型は,(1)によっても,(2a)によっても動機付けされるが,着点型は,(2b)によってしか動機付けされない。これにより,着点型が特に形容詞において見られ,動詞においては起点型になる傾向があることが説明される。