著者
中 良子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.215-232, 2013-03

Clement Musgrove (The Robber Bridegroom), George Fairchild (Delta Wedding), Jack Renfro (Losing Battles) など,Eudora Welty の作品に登場する主要人物は,いずれも彼らの 「イノセンス」が強調されている。この事実については,従来取り立てて議論されることはほ とんどなかった。しかし,アメリカ南部ミシシッピ州を舞台にした物語を書き続けてきたウェ ルティが作品中に「イノセントなヒーロー」を登場させたことは,彼女の南部に対する歴史意 識を探る上で重要な意味を持つものであるといえる。ウェルティの描く「イノセントなヒー ロー」とはどのような人物形象なのか。この問題を考察する上で重要になってくるのは,いわ ゆる「アメリカのアダム」像との関わりである。アメリカ的進歩から取り残されたフロンティ アとしての南部,罪と恥の歴史をもつ南部においてアダム像はいかなる変容を遂げるのだろう か。本稿はThe Ponder Heart (1954) を取り上げ,Uncle Daniel に体現されるイノセンスの分 析をとおして,ウェルティの描く南部のイノセンスを50 年代の歴史的文脈において考察した。 その結果,イノセンスとは南部の物語を語る視点であることを明らかにした。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.69-101, 2019-03-30

宮沢賢治(1896–1933)は農村活動と信仰に根ざした創作活動を行ない,多くの詩や童話を残した。賢治を対象とする数多くの研究業績は,主に作品を通して芸術と宗教について語られている。それと同時に,賢治の履歴や活動から,農業実践や農村活動にも焦点があてられている。農業に関心をもった知識人は数多くいるが,高等教育機関で農学を学び,農業を実践した知識人は賢治だけであった。しかし,賢治の作品と農業との関係は十分に解明されていない。 本稿は,賢治の作品を通して,賢治が当時の農業や農村をどのようにとらえたのかを考察した。賢治の作品は,自然科学の用語が多く使用されていた。さらに人間が主役となる小説は全く書かれていなかった。物語は自然を対象としたものが多く,そこで描かれる人間もまた動植物の装いを帯びていた。この点で賢治の作品には,農業が色濃く反映されていた。本稿では,著名な詩「雨ニモマケズ」の一節をめぐる解釈に基づいて,「農学の有効性」,「農村問題とその対策」,「農村社会での疎外感」の順に考察した。 賢治の農村活動はほとんど成果を残さなかった。活動はうまくいかなかったために,賢治の悩みや挫折は大きなものであった。しかし,それこそが賢治を創作や信仰へと駆り立てる原動力となった。言い換えると,科学技術に代表される近代性と,血縁や地縁に代表される伝統との葛藤が,賢治の作品を生み出す大きな要因となったといえる。
著者
高山 秀三
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.57-89, 2022-03-31

トーマス・マンは信仰の人ではなかったが,その作品にはキリスト教的なモチーフが多く取り扱われている。マンにとって,キリスト教はヨーロッパ文化の根底にあるものとして生涯をとおして大きな関心の対象だった。『ブッデンブローク家の人々』はプロテスタンティズムを精神的基盤とするドイツの市民社会を舞台とする小説であり,マンにとってはじめて本格的に宗教を取り扱うことになった作品である。この小説では,市民社会のなかでプロテスタンティズムが息づいている様相が,人々の具体的な生活を通して活写されている。舞台となっている時代は大きな社会変動の時代であり,プロテスタンティズム信仰の衰退期でもあった。『ブッデンブローク家の人々』は資本主義の進展や教養市民層の興隆などの社会変動に対応できないままに,信仰を失っていった伝統的な市民家族の四代にわたる没落の歴史である。本論はこの一族の没落と信仰喪失の過程に焦点をあてている。
著者
島 大吾
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.157-185, 2022-03-31

「ひめゆり学徒隊」は,沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校という2 校から動員された未成年の女学生によって1945 年に編成された。沖縄戦開始と同時に動員されて戦場で看護活動にあたった彼女たちは,その大半が戦場で命を落とした。今日に至るまで「ひめゆり学徒隊」はさまざまな媒体で物語として語られ,沖縄戦の悲劇を象徴する存在として知られている。本稿はその数多くの作品の中でも1945 年から1953 年までに製作および発表されたものに焦点を当て,それぞれの作品の「ひめゆり学徒隊」描写が,1953 年の宝塚版『ひめゆりの塔』に与えた影響について考察する。菊田一夫は戦中に劇作家として戦意高揚劇を量産した自らの責任を自覚し,戦意高揚劇に熱狂した観客と劇作家の自身との関係を,「ひめゆり学徒隊」と引率教員との間に見出して,宝塚版『ひめゆりの塔』の脚本に投影していた。同時代のナラティヴと比較検討することで,本稿は,宝塚版『ひめゆりの塔』が,戦争の「被害者」をどのような多層的なイメージとして描き出したのかを明らかにする。
著者
渋江 陽子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.167-196, 2020-03-31

本稿では,イタリアの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオが第一次大戦以前の飛行機パイオニア時代に,飛行機とどのような関わりをもったのかを概観し,考察する。 イタリアの飛行機時代の幕開けは1908 年頃である。翌年4 月にウィルバー・ライトがローマを訪れ,パイロット候補者に飛行訓練を行った。9 月にはブレッシャ近郊で,イタリアでは初めての国際飛行競技会が開催された。この大会はイタリアが飛行機の分野で発展を始める契機となった。 ダンヌンツィオは,ブレッシャ大会で飛行機に乗せてもらう機会を得た。詩人の飛行機への関心は熱狂的なものとなり,この新しい乗り物を表す単語をラテン語から導入することを提唱した。飛行家が主人公の小説を書き,この航空機についての講演会も開いている。 飛行機小説には,主人公がグライダーの滑空練習を経て,エンジン付きの飛行機を製作する場面がある。アメリカやフランスにはあっても,自国にはないと感じた狭義の飛行機パイオニア時代を描くことによって,ダンヌンツィオは現実を補完しようとしたのではないかと思われる。
著者
池田 昌広
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.29-47, 2013-03

班固『漢書』は成書以来,複数のテキストが行われてきた。初唐に顔師古による校注本があらわれ,これが普及するにつれ標準本となった。小論は唐代における師古本普及のさまを推測するため,盛唐に成った司馬貞『史記索隠』と張守節『史記正義』とが師古本を利用しているか否かを調査した。その結果,索隠では利用に否定的,正義では肯定的結論を得た。索隠がおもに依拠した『漢書』テキストは師古本以前の標準本たる東晋の蔡謨集解本であったらしい。 正義では蔡謨本利用の痕迹は見つかっていない。 果たして,旧来の蔡謨本によった索隠と,あらたな師古本によった正義と,両者の『漢書』テキストの選択は対照的といえる。これの成因は索隠と正義との成立の時間差と思われる。正義は開元24年(736)の成立,索隠はそれより一世代分ほど早く成ったようだ。この間隔に師古本の普及が一定程度すすみ,正義の師古本利用を可能にしたと推量される。このことから師古本は成立後,急速に普及したのではなく漸次的に普及し,盛唐のころ蔡謨本から師古本へ 『漢書』の標準本の交替がおこったと考えられる。
著者
小林 武
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.52-76, 2010-03

西洋近代的なutility の観念は,19世紀後半に中国や日本に紹介された。「功利」や「利用」「楽利」といった漢語がその訳語にあてられたが,儒教や道家思想が「利」や「功利」の追求を,人間を打算的にし,心の純粋さを汚すと否定的に考えてきたこともあって,「功利」という訳語は,中国では日本と違って普及しなかった。清末においては,「楽利」の語が代わって用いられたが,それでもutility の考え方は,何にとっての利,誰にとっての利なのかという公私観とも関連して,その理解が容易に進まなかった。 このように清末におけるutility観念の受容と理解の問題は,たんに翻訳論に止まらず,中国の倫理思想上の大きな問題に関係していたが,本稿では,この大きなことがらには踏みこまず,次の4点に限って考察したい。 (1)19世紀の漢英字典・英漢字典に見えるutility の訳語 (2) 清末と明治において翻訳紹介されたW.S.ジェヴォンズ(1835 ~ 82)の経済学書に見えるutility の訳語 (3)「功利」という言葉に対する伝統的理解の概略 (4) 李提摩太(ティモシー・リチヤード)(1845 ~ 1919)の著書と梁啓超(1873 ~ 1929)の論文に見られる分業と利の捉え方 要するに,清末における功利観を主として言葉を手がかりに考察し,utility観念の受容と理解の背後に,人間と倫理をめぐる大きな文化的背景のあったことを知ろうとする。
著者
吉田 眸
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.113-133, 2004-03

『セイレーンの沈黙』という標題で知られるカフカ版のオデュッセウス・テクストを,校訂 版に基づいて精細に読み直す。同時に,ホルクハイマー/アドルノの『啓蒙の弁証法』におけ るオデュッセウス像とカフカ版のそれとの違いにあらたに分け入る。その際,『啓蒙の弁証法』 には弁証法的な光を当てる一方,カフカ理解においては弁証法的なものの混入を斥ける。
著者
近藤 浩一
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.52, pp.237-260, 2019-03-30

本稿は,『日本書紀』にみられる新羅の真平王代後期に展開された対倭外交について,既往の研究と異なり新羅史の観点から検討した。これを通して,真平王代後期の対倭外交は,従来の指摘のように百済・高句麗との対立から倭の支援を引き出そうとした従属的な態度で始まったのではなく,対隋・唐外交の進展と国内の官制整備を達成した自信をバックに,積極的な外交政策のもと実行されたことを明らかにした。 真平王代(579~632)に展開された対倭外交の特徴をみれば,真平王は在位後半に至るまで倭に対しほとんど外交活動を実施しなかったが,真平王32年(610)を契機に態度を大きく変化させた。これ以後,真平王は立て続けに使者を派遣し倭と活発な外交活動を推進している。 こうした背景としては,即位直後から着手した真平王の国内外政策の成功が原動力となったと考えられる。真平王は,国内の官制整備が一段落する真平王16年(594)に,隋に使者を派遣して対中国外交を始動した。さらに唐が建国されると,領客典を設置するなどその動きを一層加速化させている。こうした関係をもとに高句麗・百済に対抗できるまでの外交能力を獲得したが,真平王はそれらをもとに一層王権強化を実現し,後期には対外意識が大きな高まりをみせたのである。 それゆえ,当該期の対倭外交は,積極的な外交政策のもと展開したとみられる。新羅側の新たな動向は,日本側の記録であるが『日本書紀』の内容にみられる通りであり,まず真平王代後期から倭に多くの仏教文物を送り始めている。特に真平王44年(622)は,新羅使節が仏像及び仏舎利・幡など多くの仏具を持参する様子が鮮明に確かめられる。さらにこのときは,百済や高句麗の僧侶たちが集まる飛鳥寺に代わり四天王寺が新たに登場し,新羅が送った仏舎利などの仏教文物はそこに施入されている。 この要因を考える上では,真平王代の新羅国内での仏教の役割が注目される。新羅では,前代の真興王以降国王を転輪聖王・釈迦仏に比定し貴族を弥勒菩薩とすることで,王権と貴族勢力が一定の秩序を形成していた。新羅仏教は王権を象徴する思想的基盤であったといえ,新羅が貢納した仏像・仏具も同じく新羅王権の象徴物であったことが窺い知られる。したがって真平王は,このような仏教文物を倭に送り新羅の王即仏思想を伝えることで,倭王を真平王の仏国土に引き込もうとしたと考えられる。 さらに同じ622年には,新羅使節が新羅経由で在唐倭人留学生を倭に送り届けている。この時から新羅と倭の間では,留学生を通じた外交関係が真平王に続く善徳王代まで継承されたのである。こうした留学生は,帰国直後に新たな外交政策を提言した恵日らの言動からわかるように,倭の外交活動に直接影響を及ぼす存在であった。真平王は,622年を契機に在唐倭人留学生とも関係を築きながら,倭に新羅の思想・制度などを伝播させようとし,それらを通じて倭国内でいわゆる「新羅化」を模索した可能性までが推察される。
著者
瀬邊 啓子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.209-222, 2006-03

中国では近年巨額コストをかけた映画やハリウッド映画の人気を集め,低コスト作品や地方制作の映画がヒットすることが難しい情況にあった。そんななか2002年,地方の映画制作所で制作された低コスト作品の映画『暖春』が異例のヒットを飛ばした。映画『暖春』は最初制作された山西省で都市部のみならず,山西の貧困地区でも人気を博した。そのため『暖春』の人気は口コミで広がり,山西省のみならず北京や上海,香港などの大都市でも成功をおさめ,わずか200万元の制作費に対して,1,500万元の興行収入をあげ,"暖春現象"と呼称される現象にまでなった。 本稿ではこの『暖春』現象を通して,中国における映画市場の現状について概観するとともに,『暖春』の成功の要因を分析した。 『暖春』は山西と思しきある貧困農家に少女が拾われたことで繰り広げられる人情ドラマである。"暖春現象"にまで昇華したのは,フィルム・コピー数が異例の560強を数え,また制作費に対しての利益率の高さによる。同時期に公開された映画『英雄(ヒーロー)』の興行収入と中国では公開劇場数が多かった『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』のフィルム・コピー数の2つの側面から比較して見ると,『暖春』のヒットは二級市場におけるヒットであることが分かる。この点から中国の映画市場の二分化がより明確になり,『暖春』現象が「二級」市場として歯牙にもかけられなかったマーケットの新たな市場性を示唆したことが明らかとなった。 『暖春』は「泣ける」映画として人気を博したが,驚異的な興行収入をあげた『英雄』の存在がこのヒットと関連していると考えられる。まずは『英雄』を凌駕したという話題性に加え,『英雄』などの娯楽大作に対して,徹底した人情ドラマを分かりやすい手法で表現したことがあげられる。次に山西という特異な地域で制作,公開されたことによる。山西は中国において貧困地域であり,映画のなかで描かれた農村における理想像は,自分たちの貧困からの脱出への活路を示していた。主人公たちの苦しく貧しい生活を自分たちの現実に投影しながらも,教育を受けて大学に進学し,かつ卒業後に村へ戻って村に貢献するという理想的な姿を示したことで,多くの貧困地域の観客を惹きつけた。 全国でヒットした背景にはさらに主人公小花を演じた張妍のけなげな演技がある。小花の姿はあたかも「おしん」のようであり,ここから『おしん』型のヒットと言うこともできる。 以上のように,『暖春』現象から中国における映画市場の二分化の現状が明確になり,『暖春』現象が示唆した新たな市場が中国映画界にとって新たな命題となったことが分かる。そして山西という特異な地域であったからこそ『暖春』が受け入れられ,全国に波及し『暖春』現象にまで昇華されていったのである。
著者
今井 洋子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.34, pp.74-90, 2006-03

漱石とコルタサルの作品の比較を始めたきっかけとなった『草枕』『石蹴り遊び』の中に見られる“オフェリアコンプレックス”“女性読者蔑視”を出発点として,これら作品の女性像についてフェミニズムの視点から分析する。 本論では『草枕』の那美さん,『石蹴り遊び』のラ・マガに代表される宿命の女たちはなぜ殺されたかを考察した。二人はこれまで男を惹きつけてやまない宿命の女として解釈されてきたが,近年フェミニズム批評によって,オフェリアコンプレックスの分析とともに,男の側の女性嫌悪が暴かれてきた。那美さんもラ・マガもその魔性によって抹消されたのではない。自我を持とうとしたゆえに男の共同体からの排除されねばならなかった。これが,彼女たちが殺された理由の一つである。漱石とコルタサルが生きた時代と場所と文化のコンテクストを考慮すれば,性の描写の違いは当然のことである。しかし,アジアとラテンアメリカからヨーロッパにやってきた知識人の疎外という意味では時代を超えた相似形を示す。つまり,漱石が産業革命後のロンドンに行き,その機械文明に疑問を抱いたように,ポストコロニアルのラテンアメリカからパリに行ったコルタサルは,西欧の論理に疑問を抱くのである。那美さんも,ラ・マガも,西欧の文明に対する“自然”を象徴する。しかし,その自然は西欧文明に“あさはかに”かぶれてしまっていた。これが彼女たちが殺されなければならなったもうひとつの理由である。
著者
高山 秀三
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.279-320, 2014-03

三島由紀夫はゲーテやトーマス・マンに傾倒していたが,このことは必然的に彼らがその代表者だったドイツ教養小説の伝統に三島が何らかのかたちで影響を受けていたことを意味する。教養小説(Bildungsroman)はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』やマンの『魔の山』のように,素朴な青年を主人公として,その内面的成長を描く文学ジャンルである。教養小説の主人公は人生の意味を探究し,教養Bildungを身につけようという人文主義的な理想を抱いている。教養小説は,市民階級興隆期の産物であって,その人生肯定的性格も当時の市民層のもつ楽観性から生じている。 三島文学にシニシズムや虚無感や破壊衝動が濃厚であることを考えれば,三島由紀夫と,根本的に理想主義と人生肯定を特質とする教養小説は一見まったくそぐわない。しかし,否定的な傾向を前面に押し出ている三島文学のなかにも生を肯定することへの志向はひそかに存在している。『潮騒』はその顕著な一例だが,おしなべて『仮面の告白』や『金閣寺』など三島の青年期の小説には,その自伝的な要素のなかに意外につよい教養小説的性格を読みとることができる。本論は,三島の青年期最後の記念碑的作品である『鏡子の家』を『魔の山』と比較しながら,そのひそかな教養小説的性格を明らかにしている。市民層没落の時代に書かれた『魔の山』は,『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』のようには明るい未来を予示する展開を持ち得ず,あくまでもパロディー的な教養小説になっている。同様に,『鏡子の家』もニヒリズムが蔓延する時代の芸術作品である以上,そこで人文主義的な教養理想が高らかに歌い上げられるというようなことはない。むしろ,三島由紀夫はこの小説を「ニヒリズム研究」の書であると公言している。しかし,この小説の執筆時において人生との和解を志していた三島が,この小説にひそかな教養小説的性格を与えたことは注目に値する。
著者
井尻 香代子
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.315-331, 2012-03

本稿では,国際ハイクにおいて日本の俳句の主要な要素の一つである季語が,どのように受容されて来たのかを取り上げ,アルゼンチンのスペイン語ハイクの作品分類をベースに考察し た。まず,日本の俳諧の連歌において季語がどのように理解され,発句に用いられたのかについて,芭蕉のことばに着目して検証した。次に,近代俳句における季語観の変化を,無季容認派と有季定型のホトトギス派の両者について概観した。その上で,アルゼンチン・ハイクの季語および通年の語の分類を行い,作品における機能を分析した。その結果,アルゼンチン・ハイクにおける季語および通年のトピックの用法は,近代俳句における季語ではなく,事象の変化に着目する俳諧の季語のそれに近いことが明らかになった。現在の国際ハイクの詩学は,西欧詩がロマン主義と前衛派によって詩的言語の変革を経験した際に受容した,日本の俳諧の連歌の季語観に連なっているのである。
著者
青木 正博
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.153-180, 2013-03

ロシア語のу нас в университете“私たちの大学で”の構文(「у +生格の構文」)とв нашем университете“私たちの大学で”の構文(「生格の構文」)の選択に影響を与える要因 について調べるために,文学作品や会話の教科書の例とインフォーマント調査の回答を分析し た結果,以下のような要因が見つかった。 A)「у +生格の構文」が選択される傾向がある要因: 1)会話の部分 2)場所を表す固有名詞 3)指示代名詞が場所を表す名詞を修飾 B)「生格の構文」が選択される傾向がある要因: 1)性質形容詞が場所を表す名詞を修飾 「動詞が表す動作」,「活動体性の階層」,「関係形容詞が場所を表す名詞を修飾」,「「場 所の所有構文」がテーマ(あるいはレーマ)の部分に入る」という項目は2 つの構文の選 択に影響を与える要因とは認められなかった。 実際の使用においては,「場所の所有構文」は上に挙げた要因の影響を受けずに使われ ことが多く,2 つの構文がともに使われる文脈がかなりの割合で存在すると考えられる。
著者
三好 準之助
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.1-28, 2013-03

1.『日本語の和らげ表現 ―語用論的試論―』の構成 1.1.第1 章「言語の和らげ表現」について 1.2.第2 章「日本とは?」について 1.3.第3 章「日本語の和らげ表現」について2.日本語の和らげ表現手段について 2.1.ぼんやり型 2.2.遠回り型 2.3.隠れみの型3.拙著の説明原理の検証 3.1.ポライトネス関連の研究について 3.1.1.ポライトネスの普遍性について 3.1.2.発話の姿勢について 3.1.3.発話行動の協調について 3.2.社会構造の特徴と和らげ表現 3.2.1.中根理論について 3.2.2.相手中心主義の解釈 3.2.3.ウチとソトについて 3.3.日本語のポライトネス研究について 3.3.1.配慮表現について 3.3.2.和らげ表現に関連した研究のいくつか 3.3.3.言語行動と和らげ表現4.和らげ表現研究の今後
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.46, pp.79-112, 2013-03

比嘉春潮(1883-1977,以下は比嘉)は明治期から昭和期にわたって活動した,沖縄史に関 する研究者である。研究者としてのみでなく,社会主義運動家としても,エスペラント語の普 及者としても知られている。比嘉は沖縄師範学校卒業後,小学校教諭となり校長にもなる。そ して小学校校長を辞したのち,新聞記者,さらに沖縄県吏となっている。1910(明治43)年 の伊波普猷(1876-1947,以下は伊波)との出会いによって,沖縄史に関心をもつ。1923(大 正12)年に上京して出版社の編集者となり,柳田国男(1875-1962,以下は柳田)のもとで民 俗学に関心をもつ。その一方で社会主義運動との関係をもち続ける。 上京後,民俗学を通じて沖縄研究を深めていく。しかし比嘉の場合,民俗学の視点からの 沖縄研究だけではなく,社会主義運動との関連から,社会経済史の視点からの研究も多く みられる。その業績は戦後に数多く出される。この沖縄研究にあたって比嘉は自らを「イン フォーマント」(informant)と語る。しかしながら『比嘉春潮全集』全5 巻(沖縄タイムス社, 1971-1973 年)というぼう大な研究業績から,比嘉が単なるインフォーマントであったとは考 えにくい。これまで比嘉に関する研究成果が出されているものの,多くの先行研究では,伊波 や柳田からの「影響」とされることによって,比嘉のインフォーマントとしての役割と,研究 者としての活動とが,つながりのないものになっている。 本稿ではこの比嘉の活動期を大まかに,(1)脱沖縄の意識と沖縄回帰の二重の矛盾のなかで キリスト教からトルストイズムに傾倒していった時期,(2)1910(明治43)年の伊波との出 会いをきっかけとする沖縄史への関心を深めた時期,(3)社会主義運動の先駆者となった時期, (4)柳田との交流をきっかけに民俗学研究に取り組んだ時期,(5)戦後になって数多くの著作 を発表した時期などに分けた。そしてこれらの活動期にしたがって,比嘉というインフォーマ ントの存在が,沖縄研究にとって重要な役割を果たしたことを明らかにした。比嘉は沖縄固有 の文化や方言などの情報や資料を「客観的」に提供することで,沖縄の歴史を伝える研究者と なった。比嘉はインフォーマントとして沖縄の「個性」を表現した研究者であるといえる。