著者
近藤 伸介
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.35-48, 2017-03-01

唯識において他者という存在は、アーラヤ識を基盤とする識=表象として自己と同程度の実在性を持つ。唯識における自己と他者は、共に識として存在し、同じく識である環境世界=器世間を共有し、互いに影響を与え合いつつ共存している。よって唯識とは、自分の心しか存在しないという独我論ではなく、自己も他者も器世間も他ならぬ識としてのみ存在するという唯心論である。本稿は、『阿毘達磨大毘婆沙論』及び『大乗阿毘達磨集論』における「共業」から始め、『摂大乗論』における「共相の種子」、『唯識二十論』に見られる有情どうしの交流と辿りながら、唯識における「他者」について考察し、有部の「共業」が唯識の「共相の種子」へと移行したこと、また有部において心の外にあった器世間が唯識において心の中へ取り込まれたこと、さらに有情どうしの交流が物質的身体による交流から、識と識との交流へと変化したことを明らかにする。共業共相器世間唯心論独我論
著者
淺井 良亮
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.17-34, 2016-03-01

本稿は、近世京都に於ける大名家の拠点・御用・縁家について、佛教大学図書館所蔵「新発田藩京都留守居役寺田家文書」を活用することで、それぞれの実相を検討するものである。この作業を通じて、近世京都で展開された公武関係について、理解を深める一助となることを目指す。検討の結果、次のことが明らかとなった。拠点をめぐっては、一般的な「京都藩邸」という画一的印象に対し、多種多様な様相の存在を指摘し、三つの類型を提示した。御用については、主に公家への使者勤や彼らに関する情報収集などが期待されたことを明らかにし、公武関係の中で極めて重要な位置を占めていたことを指摘した。縁家とは、婚姻関係で結ばれた姻族を指し、さらには姻族を通じて広がる血族の人びとをも含めることを究明した。京都留守居藩邸京都御用縁家新発田藩
著者
加澤 昌人
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.69-85, 2014-03-01

本論では、米沢藩二代藩主上杉定勝を生涯にわたって支えた直江兼続の妻おせん(後室=上杉家の呼称)の人物像を『上杉家御年譜』を中心にして論じ、次の点を明らかにした。兼続の死後も後室のために直江家は藩によって維持され、後室は、定勝に対し助言を行い、藩の上級役人を自由に動かせる立場にあること、藩主の婚家である大名家と応対ができ、幕府の証人にもなるという、大きな力を持ち特別な立場にある姿を明らかにした。また、後室の前夫直江信綱出自の総社長尾家の再興と、後室を上杉家の一員として高野山において供養するという点から、定勝の後室に対する生前と死後の孝行について明らかにし、後室が定勝の母としての立場を持つことも指摘した。さらに、直江家関係の文書が上杉家文書に多数含まれることと、その保存状況から、これらの文書は後室から定勝へ継承されたもので、ここでも両者の密接な関係を指摘した。
著者
宮智 麻里
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.35-52, 2015-03-01

成田不動と歴代市川團十郎の関係は広く知られている。成田山新勝寺の初めての江戸出開帳の時に上演された『成田山分身不動』の最後に登場する初代市川團十郎とその息子九蔵が演じた不動明王に江戸の人々が惹きつけられたというのが定説である。しかし「流行神」が乱立し、開帳が頻繁に行われる江戸においては、それだけでは人々を惹きつけるのは難しかったはずである。本稿は、元禄以降、江戸の成田不動信仰の拠点であった「成田山御旅宿」の経営にかかわっていた講中と市川團十郎の贔屓には居住地と職業に共通点があることに着目し、彼らが成田不動を信仰した理由を再検証するものである。彼らは度重なる火災を経験し、疫病により経済的損失を被るという点でも共通している。そこで、元禄十六年の出開帳のときに演じられた『成田山分身不動』を分析し、倶利伽羅龍王(剣)信仰が日本橋地区の「江戸っ子」商人たちを惹きつけた背景にあったことを検証する。
著者
金 泰蓮
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.73-90, 2015-03-01

本論文は、朝鮮総督府によって設立された朝鮮総督府博物館(1915-1945)の設立背景から設立及び1916年の運営の変化を中心に取り上げて、この時期の総督府博物館の性格を検討する。総督府は、1910年から進めてきた先史時代及び古蹟調査を1916年に総督府博物館に統合し、日本内地の「遺失物法」や帝室博物館と関連する「古蹟及遺物保存規則」を公布した。総督府博物館はこれを契機として、朝鮮半島の文化財の調査、発掘、保存、展示、教育に関わる業務を統一的に掌握した。総督官房の所属であった設立から1921年までの当該時期の総督府博物館の実態を明らかにする。
著者
諸岡 哲也
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.159-165, 2016-03-01

鏡花文学には仏教的なものが基底に存在しているが、泉鏡花と仏教の関係については重要な要素であると考えられるが、これまであまり深く論じられることがなかった。『五大力』にも、題名からうかがえるように、仏教的な要素が見られる。そこで本稿では、仏教的視点から作品を読み解くことで、『五大力』は毘沙門天と不動明王によって登場人物が救済される物語として解釈できることを示し、ひいては鏡花の仏教観の一端を明らかにする。泉鏡花五大力仏教毘沙門天不動明王
著者
山本 勉
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.91-108, 2015-03-01

本稿においては、渋江保の代表的な著作、万国戦史に焦点を当て、日清戦争時に出版された万国戦史の概要について触れると共に、全24巻の万国戦史の中で、渋江名義の10巻及び他筆者名義ではあるが、渋江が実質執筆者であることが確認された8巻についても取り上げ、渋江はどのように万国戦史を執筆したのか、万国戦史シリーズ執筆において渋江が果たした役割や万国戦史24冊の特徴について考察する。
著者
浅子 里絵
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.47-62, 2014-03-01

本研究は、兵庫県豊岡町の市街地を対象に、大正14(1925)年に発生した北但馬震災における行政と罹災民の動向とその復興過程における市街地の変容を検討した。公的な記録や新聞記事等の資料を用いて震災直後の被災地のバラックの展開状況を復原し、またバラック建設や商売の開始、公的機関の建造物の設置など、時間の経過とともに次第に変化する震災対応から、市街地が復興する過程にはまず「緊急措置」があり、その後「復興計画準備」と「復興計画実施」という段階が存在することを明らかにした。また震災による復興計画は豊岡町の景観に影響を及ぼし、昭和初期に新市街地が形成され、拡大していくこととなった。
著者
谷口 慎次
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.109-124, 2009-03-01

谷川俊太郎は、幼少期から現在に至るまでテクノロジーに興味を持ってきたとしばしば発言してきた。本論では特に詩集『二十億光年の孤独』を含む初期作品におけるテクノロジーについて調査・考察を行った。それにより明らかになったことは、作品自体がテクノロジーに関係したテーマや要素を含んでいることの意義よりも、むしろ谷川のテクノロジーへの興味・関心が彼のディタッチメントな視点や態度を生成してきたことが重要であるという点であった。本論では加えて、「鉄腕アトムの主題歌」の製作の過程を見ることで、谷川の「鉄腕アトム」に対する役割の重要性やその後の彼の活動範囲の拡大について考える。
著者
山中 健太
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.109-124, 2012-03-01

本論は、兵庫県宍粟郡千種町で昭和三〇年代から五〇年代にかけて地域の保健衛生上の問題を解決すべく実施された、地域保健活動の実態と受容を、ある保健婦の活動の足跡から明らかにするものである。昭和三〇年代、当地域では行政と住民双方から地域の保健衛生環境の改善に向けて様々なアプローチがなされた。そうした中、この活動の端々にある保健婦の存在が語られ、彼女が橋渡しとなって地域保健活動が行われていたことが分かった。また、彼女の活動を支えたのは地域住民であり、千種町いずみ会という地域組織の存在なしには語れない。従来、こうした地域変化における活動の意義について明確な分析がなされてきたかというと、いずれも行政側の見解でしかなく、住民との関係性のもとで語られることはなかった。本論は住民行政双方間の接触における実態の解明と受容の様子を論じ、地域生活の質的向上における双方間の協力関係のありようを明らかにした。
著者
淺井 良亮
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.71-83, 2011-03-01

本稿の目的は、嘉永六年六月から七月にかけて実施された、徳川公儀有司による江戸湾巡見の実態を理解することにある。同年のペリー艦隊の来航と江戸湾侵入・海岸測量強行は、江戸湾警衛体制に大きな衝撃を与えた。艦隊の浦賀退帆後、有司は海防充備を模索するため、江戸湾周辺地域の巡見を企図した。それが、本稿で取り上げる、嘉永六年の江戸湾巡見である。二つの新出史料から浮かび上がった巡見の実態は、実地見分や直接体験に基づく、極めて実効性の高いものであった。巡見者が起案した海防策は、以後の海防路線の基軸となる、海上台場築造案と軍船導入案であった。巡見で得られた知見は、海防路線を大いに規定したのであった。
著者
渡邊 大門
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.167-182, 2011-03-01

美作国は古くから「境目の地域」と言われており、戦国期以降は尼子氏、毛利氏そして織豊期には織田氏などの大勢力の侵攻をたびたび受けていた。そして、何よりも美作国には、強大な領主権力が存在しなかったことが知られている。南北朝期以降、主に山名氏や赤松氏が守護として任命されたが、その関連史料はほとんど残っていないのが実状である。本稿で述べるとおり、美作国には中小領主が数多く存在し、各地で勢力を保持していた。彼らは判物を発給し、配下の者に知行地を給与するなど、一個の自立した領主であった。その勢力範囲は居城を中心としたごく狭い範囲に限られていたが、交通の要衝に本拠を構え、流通圏や経済圏を掌握したものと考えられる。近年における戦国期の領主権力の研究では、一国あるいは数ケ国を領する大名はもちろんであるが、一郡あるいは数郡程度を領する領主にも注目が集まっている。しかし、美作国ではそれらを下回る一郡以下を領する例が豊富である。そこで、本稿では斎藤氏、芦田氏の事例を中心とし、その所領構成や在地支配また地域社会との関わりを分析することにより、戦国期美作国における中小領主の特質を明らかにすることを目的とする。
著者
館 和典
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.15-29, 2012-03-01

江戸期の浄土宗では念仏によって三毒の煩悩が滅するかどうかについて論争が交わされていた。それに関する記録を纏めたのが、『念佛三毒滅盡不滅盡之諍論筆記』である。そこには、増上寺第十二世源誉存応、黒谷金戒光明寺第二十六世盛林、東漸寺隠居團誉、弘経寺善慶と善導寺幡隋意の「念仏による滅罪」に関する論争が記録されている。本稿では主に存応と盛林の念仏滅罪論について考察した。
著者
陸 艶
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.203-212, 2012-03-01

私は主に日本近代文学の蘇州との関わりを研究している。蘇州と係わった著名な文学者には、芥川龍之介や司馬遼太郎などが居るが、本論では昭和一三年に従軍記者として中国に渡った小林秀雄の紀行文「蘇州」について考察する。当該作品は戦時下の検閲によりその一部が削除されている。記事にした蘇州の状況と、その一部が削除されたことが小林秀雄に対して、どのような影響を与えたのかを探ってみた。
著者
坪井 直子
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.169-179, 2012-03-01

中国では古来より親孝行の実践例を説くために、しばしば孝子説話を集成した教訓書が編纂されている。それらは、およそ唐代以前の孝子伝、宋代以降の二十四孝に大別することが出来、広く流布して周辺の諸国にももたらされた。日本でも室町時代以降、二十四孝は盛んに享受されたが、その普及の中心的役割を担ったのが、御伽草子『二十四孝』である。これは元の郭居敬が撰した全相二十四孝詩選に基づくとされているが、必ずしもそうではなく、張孝張礼条の説話本文については千字文注にも拠っている。本稿では、御伽草子『二十四孝』張孝張礼条の説話本文が千字文注に拠っていることを確認するとともに、その理由を考察し二十四孝詩選の説話本文が千字文注に近似するためと考えた。また、二十四孝詩選の張孝張礼説話は、趙孝趙礼説話の変化したものと考えられているが、二十四孝系統間においては、二十四孝詩選が、孝行録系二十四孝の趙孝趙礼説話から千字文注に由来する張礼説話へ、説話を替えた可能性があることを指摘した。