著者
水野 清一
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.46, no.4, pp.682-693, 1963-07-01

中国の仏像がインドにもとづいてゐることはいふまでもない。それはガンダーラ様式の仏像であった。しかし、一度つたはったら、そのままそれがつづくといふわけのものではない。イソドと中国との交渉は、宗教の宣布、求道といふばかりでなく、経済的にもたえずあったから、たびたびその影響をかうむって、その都度ちがった形式の源流となった。とともに、両者を通じた共通の傾向をもったことは、大きく人類史の存在を暗示するものがある。
著者
石川 禎浩
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.102, no.1, pp.152-187, 2019-01-31

近代西洋由来の文明史観は、東アジアの「歴史学」の形成に大きな影響を与えた。文明史観(東西文明論)をその価値観とともに中国に紹介し、根付かせたのは、戊戌政変によって日本に亡命した梁啓超、あるいは中国共産党の創設者の一人となる李大釗らであり、それを可能にしたのは、梁にあっては福沢諭吉や浮田和民の著作、李にあっては茅原華山の著作という日本語の出版物を参照できたことだった。「四大文明」という呼称も、二〇世紀初頭には日本、中国ですでに登場していたものであって、一部の歴史家がいうような戦後の発明品ではない。その後、中国でいわゆる「東西文明論争」が一九一〇年代半ば以降に華々しく行われると、文明史観から派生した地理環境決定論が東西文明の違いを説明するものとして、いったんは主流の言説となった。ただし、歴史の発展を単線的、一元的なものとみなす唯物史観が中国左翼論壇を席巻していくと、文明史観、特に地理環境決定論に依拠する歴史解釈は、次第にその影響力を失ってしまうことになる。
著者
村岡 健次
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.50, no.6, pp.829-858, 1967-11-01

ロバート・ピールについての評価は、当時においてもそれ以後においても、毀誉褒貶あいなかばするようである。すでに彼の在世中から、誠実な人、稀に見る有能な政治家といったユーロジーから、独裁者的で洞察力に欠ける、いや裏切者だという酷評まで、彼の評価はさまざまであった。さすがに後世の史家で、彼を裏切者ときめつける者はないが、それでも、保守主義の実際家として高く評価するガッシュから、その洞察力の欠如を難ずるセシルまで、彼の評価はあいかわらず二つに分れている。そして、こうなる原因が、周知のように彼の二回にわたる「背信的行為」、つまり、一八二九年のカトリック解放と一八四六年の穀物法廃止にあったのはいうまでもない。この二つの重要な国策決定に際しての彼の行動は、少くとも外見的には、背信の非難を招くのに十分なものであった。彼は、一国の内相ないし首相として、それまでの反対の態度から突如賛成の立場にまわり、両法案の下院通過を指導したからである。だが、ピールのこれらの行為は、はたして背信であったのか。本論は、問題を主としてカトリック解放にしぼり、一九世紀初期の政治環境との関連でピールの思想を分析しようとしたものである。
著者
宮崎 市定
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.40, no.6, pp.441-454, 1957-11-01

産業革命以前の世界史において、中国の鉄産は世界的に重要な意義を有した。戦国時代の頃から中国では鉄器の使用が盛んとなり、漢代に入って一つの頂点を形造る。支那の鉄はローマの市場にまで販売された。漢が匈奴に打撃を与えて之を西方に遁走せしめたのは、鉄製武器のおかげであった。然るに三国以後に入って中国国内は鉄の不足を感じた。クビカセ、アシカセのような刑具をも、従来鉄製であったものを木製品で代用した。この時代に成立したと思われる北方民族の言語の中に、中国語の鉄という言葉が直接受容された形迹がない。ところが唐末から宋初にかけて中国に燃料革命とも称すべきものが起り、石炭を燃して高熱を得、製鉄にも石炭を利用して大量生産が可能となった。ここに世界史上、極東の優位が出現し、支那鉄を利用した蒙古の大征服、これに圧されてトルコ族の西遷という事件も起った。南海方面では中国の鉄が重要な貿易品となり、アラビア半島にまで輸出された。In the world history before the industrial revolution, the iron manufacturing in China was of world-wide importance. The ironwares were extensively used since the age of Chan-kuo (戦国時代 or Warring Kingdoms) and culminated in the Han dynasty. Chinese iron was sold as far as Rome. It was accomplished by iron weapons that the Han dynasty could attack and expel the enemy Huns to the west. After the age of the Three Kingdoms (三国時代), there was lack of iron in China; even the implements of pubishment, however, such as cangues and fettets, formerly ironmade, were replaced with wooden ones. In that language of the northern tribes which appeared to be established in this period, there was no evidence that the Chinese word t'ieh (鉄 iron) was directly introduced. The revolution which deserved the name of the feul revolution, however, broke out from the end of T'ang (唐) to the beginning of Sung dynasty; by mass production in the iron manufacturing realized by using coal, the Far East civilization had the advantage over the world, such as the Mongolian conquest by using Chinese iron and the consequent westward movement of Turks. In the South Seas, Chinese iron became one of the most important merchandise and was exported as far as the Arabian Peninsula.
著者
石田 善人
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.38, no.6, pp.503-526, 1955-11-01

私的土地所有が充分進展していた日本では、それを補うべき共同体的所有(又は占有)は用水・山林等の限られた範囲内に止まつている。鎌倉時代の土豪・名主によつて指導される共同体は、地頭・悪党又は庄官の圧迫を独力で排除する為には、まだ微力であつたから、当然庄園領主のもつ古代的権威に依存せざるを得なかった。かくして抵抗体としての共同体は、上からその芽をつみとられて惣庄として把握される。惣庄は庄園の枠内における農業共同体であったが、庄園の枠は、南北朝内乱の結論として超克せられ、成員を拡大し、共有財を蓄積して次第に農民独自の共同体としての実質を具有し、室町時代には、村落共同体としての惣村に転形される。惣村結合は、その共同体規制も鞏固で経済的基礎も安定しているかに見えたが、階層分化に伴う内部矛盾の激化と戦国大名の干渉とによつて、大永・享禄の交を境として次第に衰退期に入る。往々惣郡にまでその結合範囲が拡大されるのは、惣村の衰退期の現象であり、自衛の為の軍事的組織としての性格が強く、その意味では共同体規制も鞏固ではあつたが、共同体的所有は逆に後退していた。近世初期の村落共同体 - 所謂役屋体制 - は、或る意味では惣村結合の復活と考えられる。本稿は、抵抗組織としての一面と、村落支配の末端機構としての一面とを併有する村落共同体の遅々たる展開を跡づけ、以てその封建社会における構造論的機能を明らかにしようと企図するものである。In medieval Japan where the private ownership was the rule, not exceptional as in medieval Europe the communal ownership was confined to only such small ownerships as of woods and rivers. The communities led by the landed gentry during the Kamakura era was still too powerless to resist the opressions of the sheriffs (Jito 地頭), manorial lords and other misdoings of the routiers. Under such conditions the village communities were compelled to take refuge in the traditional lordships of the madnates. This type of community is what I mean by sosho (惣庄), but it was transformed by the civil wars of the Nanboku-cho (南北朝) and on the wastes after the turmoil there emerged another type of community. The population grew, the communal assets multiplied----in short, it has come into its own. This is the so-son (惣村) under the Muromachi Shogunate. But the so-son was still insecure because of the stratification of the population within itself and the interference of the warring magnates. This will explain to some degree the military character of the community. In this article I aimed to trace the slow and continuous development of the village community and to illustrate it in its proper position under the feudal structure of medieval Japan.
著者
大山 喬平
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.46-69, 1960-01-01

鎌倉時代の一時期に、若狭国で明らかにされるごとく、中世の国衙領は荘園とならんで広大な領域を占めていた。この広大な国衙領は平安末期以来、旧来の徴税領域たる「郷」が解体し、あらたに「別名」が広範なる成立をみせて、それ自体大きな変貌をとげていた。「別名」の形成により、その領主達の領内農民に対する「勧農権」の行使が体制的に確認されるにいたり、時代の進展とともに鎌倉時代の初頭をすぎれば、この勧農権が下地進止権へと継承転化されていくのである。かくして別名の形成とは領主制の生誕を具体的に示すものにほかならぬのであるが、さらにこれは、国衙の各構成員達が、平安末期にそれぞれの職掌に従って国衙の体制を変換させつつ旧来の郷を分割し、数多くの在庁別名を成立させたことによつて、国衙領そのものが体制的に封建的構成へと一定度の傾斜をとげるきつかけともなったものである。As in a period of the Kamakura 鎌倉 era in the Wakasa 若狭 country, the Kokuga's 国衙 territory in the middle ages occupied as large a territory as the manors did. This large Kokuga's 国衙 land changed largely itself by the dissolution of 'Gô' 郷, the former tax-collection area, and by the newly establisheing 'Betsumyô'別名 at large since the end of the Heian 平安 era. The formation of Betsumyô resulted in the systematically authorized execution of Kannô-ken 勧農権, or right for promoting agriculture, by its lords to the peasants within the domains. As time went on, after the beginning of the Kamakura 鎌倉 era, this right was transformed into the Shitaji-shinshiken 下地進止権. Then the formation of Betsumyô means the concrete birth of the landlord system itself, and it motivated the inclination for systematically feudalistic constitution by the Kokuga's land, as a result of each member of Kokuga dividing the former Gô and forming many Zaicho-betsumyô 在庁別名 by changing the Kokuga's system according to each charge at the end of the Heian era.
著者
谷岡 武雄
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.56, no.3, pp.319-350, 1973-05-01

個人情報保護のため削除部分あり駿河・遠江の両国々境に展開する大井川扇状地においては、散居景観が典型的に発達している。かかる集落型の起源について、従来は近世初期の成立にかかるものと考えられた。しかし筆者らは、居住地の時間的連続性・居住者の系統性・集落型の継承性という三方向から実態調査に基づくアプローチを行ない、いままでとは異なった結論を得るに至った。すなわち、台地の開析谷・扇側や扇裾の一部においては、大治四年の質侶荘立券文案に示されたごとき条里制に基づく土地割が残存している。また、向榛原の一部には堤防で囲われた輪中地形がある。したがって、洪水から比較的に安全な扇状地上位面(微高地) に居住し、しばしば氾濫する同下位面にて水田を営むという生活が、古代から行なわれてきたことは明らかである。しかも文安二年の請状や嘉吉三年の検地目録に記載された名主百姓の系統を引くものが、現在の散居農家の中に見いだされ、居住者の家系を若干は十五世紀前半まで、ごく一部は十二~十三世紀までさかのぼることができる。かかる事実のうえに立ち、上記立券文および検地目録、土地所有関係、本家~分家関係を検討した結果、この扇状地の大部分では、散居的開発→氾濫による耕地の荒廃→それの再開発という過程が繰り返されたけれども、居住条件が良好なところでは、全体として階層分化が進行し、居住密度が高まりながらも、同じような散居的集落形態が、歴史の諸時期を通じて継承されてきたことが判明した。十五世紀前半以降に見られる集落型の継承は、それ以前の時期においても行なわれたのではなかろうか。世界的に見て、dispersion intercalaire のタイプに属すると思われる日本の散居集落は、古代には集居集落との未分化なかたちであらわれ、遠隔地荘園が経営されるような pioneer fringe において、開拓に伴う集落型として顕現するに至ったように考えられる。There can be found a typical landscape in the boundary area between Suruga 駿河 and Tōtōmi 遠江. And it has been assumed that such a settlement-type has its origin in the early modern age. In this article I investigated this problem from three view points; that is, the continuity of the settlement area, pedigrees of the settlers and succession of the settlement-type. As the result of that investigation I found it out that in this fan man continued to live in just the same dispersed settlement from the early times. I think that type of the settlement existed not only after the first half of the fifteenth century but also before that time. The dispersed settlement of Japan which belongs to the type of the dispersion intercalaire appeared as the form not distinct from the amalgamated settlement in the ancient time and showed itself as reclamation work went on in the pioneer fringe in which remote manors was set up.
著者
木崎 良平
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.118-136, 1977-01-01

個人情報保護のため削除部分あり
著者
田中 裕
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.38, no.6, pp.484-502, 1955-11-01

封建制度成立期の研究において、旧来兎もすれば、上部構造と下部構造とを夫々別箇に、切り離して取扱う嫌いがあつた。従ってレーエン制と農奴制とは、法制史研究と経済史研究という個々別々の研究分野に、跼蹐せしめられ勝ちであつた。然し乍らこれらは、互に切り離して扱うことを許さない、重要な一面をもつている。いわば両者は相互に、社会史を交渉の「場」としているのである。ここで「共同体」をその主要テーマとし、家父長的家共同体から秘密共同体、更に土地共同体への変貌過程を考察し、封建制度成立期の社会変革を示さうと試みたのである。「共同体」の段階的発展がこれであつて、この運動を媒介として、レーエン制と農奴制との結合が、美事に構築される。その担い手こそ土豪領主であり、彼等こそこの劃期における「村作り」の運動を、主体的に推進したのである。本稿の意図は、その過程の分析にある。