著者
井上 優
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, pp.94-95, 2001-09-29

(1)のような「シタ」は,対応する否定形式が「シナカッタ」でなく「シテイナイ」となることから,「完成相過去」ではなく,「パーフェクト相現在」を表すと言われる。(1)「もう昼飯を食べたか?」「いや,まだ食べていない(×食べなかった)。」しかし,(1)の現象は「シタ」がパーフェクト性を持つことを示すものではない。むしろ,(1)は次の(2)と同様,直接の対応関係にない肯定形式と否定形式が一定の文脈の中で対をなして用いられる(見かけ上対応するように見える)だけのケースである。(2)(ワイシャツについたシミを落としながら)a よし,落ちた。b なかなか落ちないなあ(×落ちてないなあ/×落ちなかったなあ)。(2)bの「落ちない」は「現在`落ちる'ことが実現される様子がない」ことを表す。これに直接対応するのは「現在`落ちる'ことが実現される様子がある」ことを表す「落ちる」であり,「落ちた」ではない。(1)もこれと同類の現象である。現代日本語の「シタ」は,「過去にこのようなことがあった」ということを表すだけでなく,「出来事全体を(その前後を含む)継起的な時間の流れの中に位置づける」という動的叙述性が顕著である。そして,それに呼応する形で,「シナカッタ」も「当該の出来事が実現されないまま終わった」ことを表し,単に「このようなことは過去にない」ということの叙述はパーフェクト相現在「シテイル」の否定形「シテイナイ」が担う。その結果,(1)のように当該の出来事が実現される可能性が残されている文脈では,「シナカッタ」ではなく,「シテイナイ」が用いられることになる。つまり,(1)の現象は,「シタ」の動的叙述性の強さ(ある意味では完成性の強さ)を示すものであり,「シタ」がパーフェクト性を持つことを示すものではない。
著者
日野 資成
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, pp.92-93, 2001-09-29

上代の接頭語「い」「か」「さ」「た」「ま」などについては,従来「語調を整える」語として,リズムや音という観点から論じられてきた。本発表では,接頭語を用言に付く「い」と「さ」だけに絞り,その違いについて文法的な観点から以下のような仮説を提示した。「い」:動詞の意志性を示す機能「さ」:動詞(形容詞)の無意志性を示す機能この仮説は,上代歌謡にある「い渡る」の主語が意志性を持つ人が主語となるのに対し,「さ渡る」の主語が意志性を持たない動物(たにぐく,ほととぎす,たかべ)や自然物(月)が主語となることから導き出した。さらに,この機能を裏付ける例として,上代歌謡より接頭語「い」「さ」の付く動詞,形容詞を挙げて論じた。まず,接頭語「い」の付く動詞については,人を主語として取る動詞と人以外を主語ふことして取る動詞に分類し,人を主語として取る動詞「い触(ふ)る」「い辿る」「い取る」「い掘(こ)づ」などは意志性を持つ動詞であり,「い」によってその意志性が示されていることを説明した。一方,人以外のものを主語として取る動詞「(つむじが)い巻き渡る」「(三輪山が)い隠る」などでも「い」によって動詞の意志性が示されることを,主語「つむじ」や「三輪山」が擬人化されていることによって説明した。次に,接頭語「さ」の付く動詞,形容詞については,状態を表す語と動作を表す語とに分け,「さ寝(ぬ)」「さ曇る」「さ遠し」「さまねし」など,意志性を持たない状態性の語では,その無意志性を「さ」が示すことを説明した。一方,「(年魚子(あゆこ)が)さ走る」「(きぎしが)さ踊る」などの,動作を表す動詞「走る」「踊る」についても,その無意志性を「さ」が示すことを,人以外の無意志の動物(年魚子,きぎし)が主語であることによって示した。
著者
石塚 晴通 小野 芳彦 池田 証寿 白井 純
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.52, no.1, pp.86-87, 2001-03-31

「日下部表」と称する資料は,JIS漢字第1次規格(JIS C 6226-1978)の原典の一つである「標準コード用漢字表(試案)」(情報処理学会漢字コード委員会,1971年)の土台となった漢字表であり,日下部重太郎の著した『現代国語思潮続編』(中文館書店,1933年)に附録「現代日本の実用漢字と別体漢字との調査及び「常用漢字」の価値の研究」として掲げられている。この研究では,(1)JIS漢字の字種の選定に果たした日下部表の位置,(2)日下部表の「別体漢字」とJIS漢字における異体字の扱いとの関係,(3)日下部表に反映した現代日本語の漢字の使用実態,の3点について日下部表の内容を検証し,次の結論を得た。(1)日下部表掲載の漢字6473字のうち,JIS X 0208:1997で符号化可能なのは約90%,JIS X 0213:2000で符号化可能なのは約97%である。(2)日下部表の「別体漢字」796字のうち,JIS X 0208:1997で符号化可能なのは約68%,JIS X 0213:2000で符号化可能なのは約84%である。日下部表の「別体漢字」の枠組みと,JIS X 0208:1997及びJIS X 0213:2000のそれはおおむね合致している。枠組みの精度は同程度である。(3)JIS X 0208:1997に不採録の漢字667字のうち,461字がJIS X 0213:2000に採録されており,これらは現在でも使用の実績が確認できるものである。また,研究・調査のために文字を符号化し電子化テキストとする際に問題となるのは・JISの包摂規準の適用方法である。特に問題となるのは,「互換規準」に該当する29組の漢字,人名許容字体別表・常用漢字康煕別掲字の漢字104字,及び包摂規準の変更・追加に該当する漢字であり,これらに留意し,適用した包摂規準を明示すれば操作可能なかたちで情報交換が可能である。
著者
安田 尚道
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.1-14, 2003-04-01

万葉仮名の二類の書き分け(上代特殊仮名遣)の存在と,それが音韻の区別に基づくことは,本居宣長・石塚龍麿などがすでに述べていることで,"橋本進吉がのちに宣長・龍麿とは無関係に独立して発見した"との説は認めがたい。橋本がはじめ,"ヌに二類あり,『古事記』ではチにも二類あり"としたのは,龍麿の『仮字遣奥山路』に基づくものである。宣長・龍麿が認めた『古事記』のモの二類の区別を橋本がのちに否定したためこの区別の再確認を行なった池上禎造・有坂秀世は,その過程で『韻鏡』の利用や「音節結合の法則」などから,上代特殊仮名遣が音韻の区別に基づくことを明確にしたのであった。
著者
杉藤 美代子
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.53, no.2, pp.98-99, 2002-04-01

誌上フォーラム:「国語学」と「日本語学」において,すでに多くの方が論じられてきたように,改名についてはたしかに問題を多々抱えている。かつて亀井氏が提案された頃とはちがい,現に「日本語教育」学会があり,月刊誌『日本語学』もある。しかし,各大学で講座名を「日本語学」に変更する例もあり,学会誌の体裁からしても,名称変更についてはもう後へは退けない状況にあるといえよう。むしろ,中身を検討すべきであろう。積極的に日本語の学を統合する学会への進展を志向すべき時期と思われる。「日本語学会」,学会誌の名称は『日本語学会誌』あるいは『日本語学研究』であろうか。ここで,とくに重要な点は,改名を機に,これを前進のときとみるか,伝統を失い後退であると考えるかである。自信と実力をもって,日本語に関する研究(手法の新旧を問わず)を深め,内容の充実と統合を図る。この際,それが必要と思われる。先学の優れた研究の灯を消してはなるまい。また,現在「国語学会」所属の方には,何らかの形で国語教育に関連のある方が多いと思われる。そこへの影響や問題点をも考慮に入れる必要があろう。日本語は,日本の文学,思想,哲学,宗教,社会,学術全般,情報,教育,すべての基になる言語であり,その日本語の研究と教育の活性化が現在においては急務である。いうまでもないが,多読によらねば日本語を読み取る実力は育たず,語彙も豊かになりにくい。大学の講義,高校の授業では,細部の理解とともに多くを読み,書き,文字,音声をもって表現する能力の育成が重要である。実は,古典の数々も,とくに困難の多い現代を生きる人生の書として,ディベートの種にもなるはずである。コンピュータで打ち込んだデータを処理することで卒論を書く,そういう時代だからこそ教育においては部分と全体とを把握する能力と意欲がほしい。学生,生徒の頭脳と精神を活性化するような迫力がほしい。研究は地味なものだが,教育の原動力として働くものでありたい。一方,外国人を対象とする日本語教育の分野では,外国語を専門とする学部出身の教員が多く,外国人をふくめて,従来とやや異なる視点から日本語を検討する。伝統的観点からすれば,あるいは物足りず,または外国の理論だけをよしとする傾向には問題もあろう。が,従来の,日本語を母語とする話者の視点とは異なる視野の広がり,また,文法研究の進展も見られ新しい「日本語学会」ではこの傾向も受け入れる機会になろう。その他に,現在,教育の場で困難な問題とされている「音声言語」がある。コミュニケーションの問題は重要であるが,日本語の音声については一般に理解が足りない。しかし,1989年,筆者は文部省の重点領域研究「日本語音声」(正式には「日本語音声における韻律的特徴の実態とその教育に関する総合的研究」)を申請し採択された。終了時には参加の研究者数は281名であった。国語学,言語学,方言学等の研究者が主体であったが,情報工学,電子工学,音声言語医学などいわゆる理系の研究者,また,教育関係,放送関係者も糾合して,日本語音声の韻律的特徴,つまりアクセント,イントネーション,リズム,ポーズ等の総合的研究を目指した。そこでは国語教育との統合の難しさを実感した。が,現在,そこで収集された音声データベースを利用して教材用CD ROMを数名の共同により作成中である。大学の国語学,日本語学の教育に使われる予定であり,これは画期的なことと思われる。そこで,次には,上記の「日本語音声」をなぜ考えたか,その発想について。また,新しいCD ROM教材について少しのべよう。周知のことだが,日本語アクセントは,歴史的,地域的対応関係が明らかにされている。これは,前世紀最大の国語学的,言語学的知見と考えられるものである。まず,井上・奥本(1916)による古文献に付記された声点の発見があった。そして,かの,金田一春彦(1937,1974)による類聚名義抄の声点の分類と方言アクセントとの関係の明示,服部四郎(1931 33)の方言アクセントの対応関係,平山輝男(1957等)の実地踏査による方言アクセントの収集,これらが基礎となって現在も研究は継承され,全国の方言アクセントのほぼ全貌が明らかにされている。この日本語研究は誇りに思ってよい。ところが,各地の貴重な方言アクセントが近年急激に変化している。このままでは,先学の貴重な研究成果も真偽さえ疑われる時代がくるかもしれない。従来,日本語アクセントは一般に各自が聴取により記号化して論じられてきた。が,各地域の生粋の方言話者が健在のうちに,全国共通の内容について,日本全国のアクセント,イントネーション等の発話者声を録音し,音声データベース化する必要があると考えた。全国100地点の高年齢者の音声収集がこれである。また,変化過程を捕らえるために,各都市の年齢別音声の収集も計画した。当時,デジタル録音機が開発されたと知って,研究の申請を決意した。間に合った,というのが実感である。これが推進できたのは,参加された方々の熱意と協力によるものであった。教育材料としても,記号化された資料を提示されるのと,音声を聞いて自ら比較し,考えるのとでは価値が異なる。今回作成の教材CD ROMでは,まず,音声の生成とアクセントの特徴,知覚を実感し,一方,各地域の方言話者によるアクセントを聞いて分類し,さらに,古文献の声点により先人の業績を実感するとともに,高年齢から小学生までの現実に生じているアクセントの変化を確かめる。いわば,日本語の音声のうち,まずアクセントを総合的に体験し考える,一つの試みである。今後の「日本語学」に何か示唆することがあれば幸いと考えて,敢えてここに紹介させていただいた。学会の再出発に声援を送り,この学会の前途に期待をもちたい。
著者
山口 幸洋 名倉 仁美
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, pp.100-101, 2001-09-29

香川県伊吹島方言は昭和41年の和田実の報告以来,1200年前のアクセント(以下アと略)を保つものとして学界の定評を成している。山口は当時その検証調査によって,その事実を追認したものとして責任がある。山口,名倉は,平成12,13年の調査で,その疑問が明らかなものとして,その反省を述べる。疑問点は,方言ア研究上異例の,言語外事実とのギャップにある。すなわち,燧灘海中の伊吹島は人口定住400年の地で,そこに1200年前のアを認めるのは不自然である。400年前無人島だったことに論議の余地はない。島の生活は少雨地帯で知られる瀬戸内海にあっても,とりわけ,全島岩盤で川も湧き水もなく,飲料水は,地中の岩盤に穿鑿した貯水槽の天水に依存して来た。このとき言語学が,人間の存続に関わる水や人口の問題を,言語外事実ゆえ取り上げるべきでないと済ませて超然とすることは,大仰に言って言語学そのものに関わる問題である。本発表では,伊吹島のアを,純粋に言語的(言語地理学,社会言語学)に次のように考察する。(1)そもそも,伊吹島アに見られる「二拍名詞類別体系(五つの区別)」は,平安時代「類聚名義抄」と同一のものであるにしても,音調そのものが同質のものかどうかに疑問がある。(2)徳川宗賢によって系統樹的方言変化シミュレーション「系譜論」で「類聚名義抄五つの区別」が頂点に据えられ,類別は,「統合することはあっても分裂することはない」というテーゼによって,諸方言の類別体系が考古学の地層のような年代測定に利用されることの是非。(3)伊吹島二拍名詞3類における「下降調」を,「日本祖語」の音調と比定することの是非。それらすべてに疑問を提出し,代わって伊吹島アが香川県の讃岐式ア,愛媛・阪神の京阪式ア,岡山・愛媛の東京式アすべての接点にあるという言語地理的背景ゆえの交流接触,それに加えて,伊吹島の江戸時代以降の阪神方面との関係(組織的な西宮灘の宮水運搬,泉佐野市方面への出漁),大正昭和の漁業振興に伴う異常な人口増大(転入)とともに当アが混淆成立したとする社会言語学的解釈を述べた。
著者
仲矢 信介
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.51, no.2, 2000-09-30

1938年の内務省による小活字・ルビ禁止政策は,日本近代史の中へ位置づけてはじめて正確な理解が可能になることを示した。具体的には,(1)内務省政策はもっぱら活字の大きさを問題にしてのルビ禁止であったが,この当時,近視が国防上の不利益であるという認識,予防策の策定は他の官庁にも見られる。(2)そのうち,厚生省は同年設立の新しい官庁であるが,出自をたどると,内務省衛生局を母体とし,内務省とは密接な関連のあった官庁であり,陸軍省の構想と圧力によって設立を見た官庁であって,設立構想は,近視眼の増加を含めた「壮丁体質の悪化」による徴兵検査合格率低下への懸念に発していた。(3)厚生省の指導下に国家的組織として「視力保健連盟」が1938年9月26日に成立し,月刊誌の発行を含む全国規模の活動を展開していた。(4)同連盟と近視予防運動にとって近視は第一義的に,国防上の問題として認識されており,ルビを含む小活字の問題も,近視予防運動の立場から重要であり,近視の原因の一つと認識されていた。これは当時の行政と軍に共通した認識である。(5)内務省要綱はこのような文脈において,厚生省との連絡のもとに成立した。(6)したがって,近視予防運動の一環としての内務省要綱のルビ・小活字項目は,第一次大戦以降意識され,準備されてきた総力戦体制の整備の一環として位置づけられ,この時代の急速な戦時体制化を象徴するできごとの一つであり,軍事的意思が言語政策を併呑したところに成立した施策であった。
著者
尾形 佳助
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, 2001-09-29

「高起式」と「低起式」の2種を区別するいわゆる「京阪式アクセント」が,近畿地方とその近隣各地に広く分布しているが,特に動詞類の場合,ピッチの下降が起こるか否かが活用形次第で決まるということもあって,ピッチの下降は,従来,活用語尾に内在するアクセント情報(例えば「アクセント核」など)がそれを原因づけているものと考えられてきた。しかし,そういう前提で話を進めたのでは,とりわけ低起式の動詞形がしばしば低く始まらないという事実がうまく説明できないということで,本発表では発想を転換し,動詞類の音調はピッチが下降するのがむしろ普通の状態(unmarked)であると仮定し,その前提で,概略以下のような議論を提示した。アクセント体系の普遍的な類型論からして,京阪式動詞類はまちがいなく,高低2種を区別する声調タイプに類別されるものである。同じ声調言語でも,日本語タイプの形態論にしたがう言語なら,声調が実現する範囲,すなわち「声調領域」を定めるルールが必ずや実在するはずである。そのルールは,最も単純なパターン分析が可能な完了条件形(「タラ形」)や否定形(「〜へん」の形)の音調パターンからして,次のようなものと考えられる。(1)動詞語幹末子音をさかいにして,そのまえの部分を声調領域とせよ。声調領域に照らして現実のピッチ形をよく観察すれば,ピッチの下降を原因づけるもう一つの可能性が見えてくる。従来,無造作に語尾のせいにされてきたピッチの下降は,実際には次のような言語本能がその真の要因となっているものと考えられる。(2)声調境界明示の原理:声調領域と声調領域外を隔てる境界は,それに隣接する2モーラに境界信号音調HLを付与することによって,これを明示せよ。
著者
堀畑 正臣
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, 2001-09-29

「(さ)せらる」(尊敬)の例は,文禄元年(1592)成立の『天草版平家物語』において多用されている。室町期の尊敬の「(さ)せらる」については,先学によりいくつかの用例が指摘されているが,それらは後世の写本段階の用例や,解釈の誤りによるもので,未だキリシタン資料以前の中世文献での「(さ)せらる」(尊敬)の指摘はない。「(さ)せらる」(使役+尊敬)は古記録とその影響のある文献に多くの用例が見られるが,室町期の軍記・説話・物語・抄物等には,「(さ)せらる」(使役+尊敬)はあるが,「(さ)せらる」(尊敬)の例はない。今回,記録年代の長い,仮名交じりの古記録文献で調査を行った。『言国卿記』(1474〜1502)の一部,『お湯殿の上の日記』(1477〜1625)の一部,『北野天満宮目代日記』(1488〜1613)の全体,『家忠日記』(1577〜1594)の全体である。調査から,『言国卿記』の「(さ)せらる」は「御庭ノ者ニウヘナヲサせラル」(文明六〔1474〕年3・8)のように(使役+尊敬)の例である。一方,『北野天満宮目代日記』では「八嶋屋ノ井のモトヱネスミ(鼠)ヲいぬ(犬)かオイ(追)入候,ネスミモいぬ井ヘヲチ候間,ネスミハ井内ニテシヌル,いぬハヤカテ取上候,井の水を早々御かへさせられ候へのよしうけ給候,則御門跡さまへ申」(延徳二〔1490〕年12・25)のような例が多く見える。この例は,御門跡に対して「水を御かへさせられ候へ」と頼んでいる。この時「水をかえる」行為は配下の者達が行うが,その行為全体は御門跡の行為として相手には意識される。このように上位者の行為に収斂されるような「(さ)せらる」の例を経て,尊敬用法が成立する。自動詞についた尊敬の「(さ)せらる」は,『お湯殿の上の日記』「御かくらにならせられまし。」(永禄六〔1563〕年3・29〔写本〕)が早い例である。自筆本では「こよひの月またせらるる」(元亀三年〔1572〕3・23),「こよひの月おかませられ候」(同年4・23)の例等がある。
著者
伊豆山 敦子
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.51, no.2, pp.169-170, 2000-09-30

I.先行研究では,日本語文語の「未然形+ば」対応形(仮定「たら,なら」)の-a:-ab(w)a等と,日本語文語の「已然形+ば」対応形(既定・必然「ば,と」)の-e:-ja:等がある。その他,各方言独特の接辞(宮良-ki「から」および-Ka「たら」)がある。II.宮良方言の条件を表す形・用法を報告する。終止形kakuN「書く」utiruN「落ちる」 (1)動詞活用形 已然形 kakja:・utirja: 未然形+ba kakaba・utuba (2)接尾辞後接 テ形+ki kakiki・utiki 連体形+Ka kakuKa・utiruKa III.已然形対応形と未然形対応形+baの用法 (1)両者類似例 (a)tigami kakja:muci harja 手紙書くから持って行って (交換可) (b)tigami kakaba muci harja 手紙書いたら持って行って (2)アスペクト面の差異。行為が実現する(始まる)か,まるごと起きるか。 (a)ba:NboN hwaija:madagiri 私ご飯 食べるから退け(X hwa:ba) (b)ba:NboN hwa:ba makarI sjizjimiri 私ご飯食べたらお椀片づけろ(X hwaija:) (c)NboN hwaiki NboN iri ku: ご飯食べるのだからご飯入れて来い(理由) (a-1)ki:nu utirja:madagiri 木が落ちるから退け(X utuba) (b)ki:nu nara:utuba putsui 木の実は落ちたら 拾え(X utirja:) (3)モダリティ面の差異 話し手にとって,希望的事態なのか,事実判定なのか。 (a-1)ami nu huija:hate:ge:haNna 雨が降るから畑へ行くな(X hwo:ba) (a-2)ami nu huija:jasai du ibiru 雨が降るから野菜植える(X hwo:ba) (b)ami nu hwo:ba:yasai du ibiru 雨が降ったら野菜を植える(X huija:) (a)kazji nu hukja:hate:ge:haNna 風(台風)が吹くから畑へ行くな(X hukaba) (b)kazji nu hukabaは不可。台風を望む人はいないから,あり得ない。「屋根が壊れる」「船が出ない」など,一般的条件では,接辞hukuKa:(吹くなら)を用いる。同様にsInaba(死ぬ)jamaba(痛む)等望まない行為には不可で,一般的条件-Kaのみ可。同様例 (c)uigara utiruKa:sInuNdara 上から落ちたら死ぬよ(X utirja:X utuba)
著者
田籠 博
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, 2001-09-29

元文元年(1736)作成の出雲国郡別絵図註書帳六冊は,郡役所の註書原案と松江藩の改定案を備える。本資料に現れた物の大きさを表す語彙を調べると,次のような特色が見られる。なお,(原)は原案,(改)は改定案を表す。相対的な〈大〉を表す語は「大きなり」3例,「ふとし」9例である。(原)川に居申候。長さ四五寸位より大キ成ハ無御座候。(大なきり,魚)(改)羽色は青黒く,足は黄色,大サ雀より少ふとく御座候。(嶋のせんとう,鳥)(原)磯辺に居申候。長さ四五寸位よりふとくは相成不申候。(ひこちや,魚)本資料の「ふとし」は〈大〉だけでなくより上位の意味概念も表し,現代語「大きい」に該当する。漢字表記「大さ・大く」も「ふとさ・ふとく」と訓むべきものである。相対的な〈小〉は「ちいさし・ほそし・こまかなり」で表され,用例も多い。(改)惣身の色薄黒く,雀より少ちいさき鳥ニて御座候。(むさゝび,鳥)(改)冬より春の頃迄,森木の内ニ住。雀よりも細く御座候。(ぬか鳥,鳥類)(原)茶の木に似て,(略)茶の葉より細かなり。尤細か成る白き花付。(しぶき,木類)(改)九月の頃深山ニ生し,大キ成分ハ,笠の廻り六七寸(略)細き分ハ,笠の廻り壱寸弐三歩(略)(萩茸,菌)最後例は「ほそし」が「大キ成分」と対比的に使用された端的な例である。「こまかなり」は用例から見て,〈小〉の下位の意味領域を担っていたと思われる。本資料の大きさを表す語彙は,〈大〉を表す「ふとし」,および〈小〉を表す「ほそし」の存在を特色として指摘できる。これを『日本言語地図』と比較すると,「ふとし」はオーケナ・オッケナに駆逐されて消え,「ほそい」はホシェとして残っている。郡別絵図註書帳における大きさを表す語彙は,言語地図の解釈に寄与するだけでなく,「細し」の語史解明の必要性も考えさせる。
著者
小西 いずみ
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.52, no.3, pp.30-44, 86, 2001-09-29

富山県笹川方言における形容動詞述語形式には,名詞述語と同形の「〜ジャ/ジャッタ/ジャロー」等とともに,名詞述語とは異なる「〜ナ/ナカッタ/ナカロー」等がある。「〜ナ」は連体用法のほかに終止用法も持ち,また「カ」(疑問の「か」)や「ミタイナ」(みたいだ)が後続する場合にも使われるが,「〜ジャ」は終止用法しか持たない。また,終止用法では,「〜ナ」は詠嘆文で,「〜ジャ」は真偽判断文で用いられやすいという違いがある。そこで,「〜ナ」は,形容詞の「〜イ」形と同じように,テンス・モダリティに関して無標の形式であり,「〜ジャ」は〈断定〉を表す有標の形式であると考えられる。「〜ナカッタ/ナカロー」などの形式は「〜ナ+付属的用言カッタ/カロー/…」,名詞述語と同形の形式は「語幹形+付属的用言ジャ/ジャッタ/…」と分析できる。以上から,この方言の形容動詞は,名詞とは異なる述語形式もとるものの,類型論的には名詞的性格が強いと言える。
著者
沼本 克明
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.162, pp.1-12,63, 1990

通説では、半濁音符はキリシタン資料で成立し、それが日本側資料に広がり定着したものであると説かれて来ている。然し、近時そういう考え方に疑問が持たれるようになり、キリシタン資料の国内資料への影響は殆ど無かったのではないかという見方も提出されて来ている。キリシタン資料からの影響が考えにくいとするならば、どのような経緯が考えられるかという立場から、本稿では従来余り言及の無かった江戸期唐音資料に視点を当てて、それからの影響によって半濁音符が定着したとする考え方を提出する。即ち、江戸期唐音資料には、その振り仮名の右肩に「イ゜」「サ゜」「テ゜」「ハ゜」の如き注意点が頻用されている。この方式が日本語表記の「パピプペポ」に残り、半濁音符としての定着をみたとするものである。
著者
田中 宣廣
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.54, no.4, pp.44-59, 2003-10-01

岩手県宮古市方言のアクセントは,柴田1955で「のぼりアクセント核」体系とされて以来注目されてきたが,不明な点が多かった。この方言のアクセントの全体像を詳細な調査により明らかにした。音声レベルでは,(A)1基本アクセント節内でアクセント節例によっては2箇所が高まる重起伏調・(B)語によっては声の上昇位置が定まっている・(C )上昇した音節からは少しずつ下降する調子がある(後続語によっては下降しない)・(D)有声音無声化が音調に影響がある・(E)特殊音との関係で音調を担う単位は音節,の5特徴が認められた。音韻論的解釈の結果,アクセント体系は東京式アクセントの「さがりめ」体系とは異なる「のぼり核」体系であることが明確になった。また,同一語の単独1語文と付属語接続時の各実現音調で高い部分が異なる,以前"山が動く"と表現された現象や,基本アクセント節の音調が「起伏」でも「無核」であることなどに合理的説明が得られた。
著者
野林 正路
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.13-29, 2002-01-01

隣接科学の一部に「単一の標準特性では対象を確定指定できない」とする見方がある。語は,その使用者たちが他の選択可能性を排して標準化した対象の特性(の束)を語義に引きつけている。したがって類語による対象指示は,「家族的類似性の網目」状の錯綜を示す。この錯綜が語彙論の未開,広くはコミュニケーションにおける共約可能性の壁になってきた。だがこの稿では,その錯綜が,実は,秩序であることを論証する。具体的には(まえかけ)類を例に,話者たちの語の指示用法を行列に描き,「網目」の秩序が類義の2語(視点)の交差・複合で編成された中間分節構造,「複用語彙」の反復でつくられている事実を明らかにする。この形式は基本的には,対象を4種の論理的に可能,必然の「意味の野」に確定指定する働きをもつ。本稿では,話者たちがこの形式を用いて伝達系・モノ離れの実用言語を,認識系・モノ絡み,世界像構成の連関言語に還元(逆も)し,開放している事実を考証した。
著者
高山 倫明
出版者
日本語学会
雑誌
國語學 (ISSN:04913337)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.16-29, 2003-07-01

母語の発音の省察,それも一般に書記に反映しないアクセントのようなものへの反省は,異言語との接触に始まるのがつねであろう。日本語のアクセントに対する自覚も,字音の声調との出会いを契機としているだろうし,またその声調も,仏典の転読等を通じ,梵語に照らして観察されたと言われている。以後,日本語のアクセントは専ら平・上・去声といった字音声調の枠組みで把握され記述されたが,その枠組みは遡れば漢訳仏典の梵語音訳で長短の標示に与るものでもあった。本稿では,漢訳仏典の強い影響下に成った日本書紀の歌謡・訓注の音仮名と,日本語のアクセントの関連を探り,一部の音仮名にアクセントの反映が考えられること,また朧気ながらも母音の長短を掬い取っている可能性のあることを指摘した。