著者
内藤 理恵子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.151-173, 2011-06-30

今日、日本の葬送文化はさまざまな変容を遂げている。本論では、特に今日のペット供養を取り上げ、伝統的に行われてきた畜生供養とどのように異なるのかを明らかにする。馬頭観音を本尊とした馬供養のように、ペット供養文化が開花する以前にも、日本では動物に対する供養は行われてきた。伝統的な六道輪廻観において動物は、地獄界・餓鬼界の次に低い畜生界に属していると考えられてきた。畜生供養は、中国撰述の『梵網経』を典拠としているが、それは牛馬猪羊など一切の動物の発菩提心を説いているため、本来は動物の成仏をめざすものである。それに対して、ペットが家族化した現在、多くの場合、飼い主は、個々のペットの他界観に関して小さな物語創作を行い、自らの死後、ペットとの再会を願っている。しかし、これはペットに限った現象ではなく、人間に対する他界観に関しても、死者を祀る側の願望にしたがって、小さな物語創作が行われてきているのが垣間見える。
著者
島薗 進
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.223-245, 2008-09-30

宗教学は近代文明に対するオルタナティブの探究を基本的なモチーフとして抱え込んでいた。宗教は理性の限界や近代社会の抑圧性に悩む人々に、ある種の魅惑を帯びたものとして現れた。だが、他方で宗教研究は宗教批判の中から生まれてきたものでもある。宗教の抑圧性を見抜くことが宗教学の形成と展開の知的動機の一部ともなっている。宗教学は宗教批判と近代批判をともに含み込むことによって先鋭な知の地平を切り開くことができたと考えられる。本稿では宗教批判と近代批判とを結びつけるような視点をもった先駆的思想家として、富永仲基、ディヴィッド・ヒューム、フリードリッヒ・ニーチェを取りあげる。彼らの宗教批判は、いずれも人類史における宗教の重要性を痛切に認識するが故にこそなされている。宗教が人間性に奥深い動因をもち、容易に克服しがたいものであると考えられており、人知の進歩により宗教は衰退してしまうと予見されているわけではない。むしろ理性の限界が強く意識されており、だからこそ宗教は人間性に深く根を張っていると考えられている。宗教を深く理解する必要があるのはまさにその故なのだ。
著者
碧海 寿広
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.75-100, 2010-06-30

哲学から体験へ。明治三〇年代、近代真宗の思想界において、そう総括すべき大きな転換が起こった。本論は、その転換期が生んだ思想の意義を、近角常観(一八七〇-一九四一)という真宗大谷派僧侶の思想と実践の検討により再考する。近角は学生時代、哲学研究に執心したが、その後は哲学を放棄し、個々人の体験を重視する宗教家へと自己形成を遂げた。だが、自らの救済体験の意義を、仏教史を貫く普遍的な要素によって根拠づけるという彼の方法は、その転身の前後を通して一貫していた。近角は、親鸞や釈尊など、真宗仏教史における至高存在の体験に、自らの体験を重ねて語るという言語実践を遂行したが、こうした体験の語りを、自己の信徒たちにも行わせた。近角の体験談を中心として、一つの体験談がまた別の体験談を生み出す、という構造がそこにはあった。明治三〇年代の真宗思想に起きた転換は、近角によって、独自の体験の言語空間の創出へとつながったのである。
著者
小原 克博
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.2, pp.451-474, 2005-09-30

本論文では、最初に日本および西洋における、一神教と多神教をめぐるディスコースの事例を取り上げ、その特徴を描写する。さらに、そのディスコースをオリエンタリズムやオクシデンタリズムの中に位置づけることによって、その文化的な構造を析出させ、さらに「偶像崇拝」を補助線として用いることによって、その宗教的な構造を明らかにする。偶像崇拝の禁止は三つの一神教、すなわち、ユダヤ教・キリスト教・イスラームに共通する信仰の基盤であるが、偶像崇拝は決して物質的な意味に限定されず、むしろ人間の作り出す観念やイメージをも含む「見えざる偶像崇拝」として機能する。また偶像崇拝が、近現代においては代替・拡張・反転というモデルの中で再解釈されていることを指摘する。最後に「見えざる偶像崇拝」は構造的暴力の温床になり得ることを終末論・進化論を交えて考察する。また同時に、一神教と多神教をめぐるディスコースが暴力的なディスコースへと転移しないための要諦を示唆する。
著者
新谷 尚紀
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.343-368, 2014-09-30 (Released:2017-07-14)

折口信夫によれば和語の幸(さち)とは獲物を獲る威力でありそれを体内化する霊力であった。和語のしあわせは仕合せでありよいめぐり合わせの意味である。幸福(こうふく)はhappy, happinessの翻訳語である。和洋混淆語としての幸福(しあわせ)とは何か、それは人それぞれの感覚であり常在する実体ではなく、はかない夢まぼろしのごときものである。であればこそ、人びとはその再生への繰り返しとその持続と継続とを渇望したのであった。民俗学が昭和初年に実施した「山村生活調査」で語られていた仕合せとは、「財産・勤勉・長命・円満」のことであり、それを世代をつないで維持し継承することであった。食欲、性欲、名誉欲など瞬時で消える幸福(しあわせ)と再生される幸福(しあわせ)との関係、それは充電と放電の繰り返しにたとえることができる。充電という労働がなければ放電という享楽はない。伝承分析学としての日本民俗学の視点からいえば、ハレとケの循環の中に幸福(しあわせ)が再生産されている構造、それこそが幸福(しあわせ)の実在である、と読み取ることができる。
著者
松山 洋平
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.75-98, 2011-06-30 (Released:2017-07-14)

本稿の目的は、ターハー・ジャービル・アル=アルワーニーのクルアーン解釈理論に焦点を当て、その思想のポストモダン性を描出することである。アルワーニーは、クルアーンの啓示と預言の封緘によって、神が明示的に世界に介入する「神的主権」が終結し「クルアーンの主権」の時代へ移行したと論じる。この「クルアーンの主権」理論は、シニフィエとしての神本体ではなく、クルアーンというシニフィアンに対して主権性を付与するものだ。但し彼は、「世界のキラーア(読解)」と「クルアーンのキラーア」の相互依存関係を指摘することで、その思考を法的な問題領域の内に留めた。そして、現代におけるイスラーム法の望ましい形として「少数派フィクフ」を提唱する。「少数派」として生きることを前提とするこの法概念は、ミクロロギーの世界でのみ正当性を持つ「小さな物語」を作り出す。本稿は、アルワーニーに限られない現代イスラーム思想界全体に密に浸透しつつあるポストモダン的なエートスを指摘するための準備作業の一環である。
著者
青木 健
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.3, pp.653-674, 2007-12-30 (Released:2017-07-14)

ゾロアスター教研究の資料には、六-一〇世紀に執筆された内部資料であるパフラヴィー語文献と、その他の言語による外部資料がある。外部資料の研究としては、ギリシア語・ラテン語、シリア語、アルメニア語、漢文、近世ヨーロッパ諸語などの資料ごとに纏まったコーパスがあるものの、アラビア語資料を用いた本格的な研究は依然としてなされていない。本論文は、アラビア語資料を完全に網羅した訳ではないが、ある程度の資料に当たって、アラビア語資料によるゾロアスター教研究の方向性を示した試論である。暫定的な結論として、サーサーン王朝時代のペルシア帝国領内のゾロアスター教は一枚岩ではなく、各地方ごとのゾロアスター教が存在したこと、パフラヴィー語文献は、そのうちのイラン高原南部のゾロアスター教を代表するに過ぎないこと、メソポタミアやイラン高原東部のゾロアスター教の実態は、却ってアラビア語資料から類推できることが判明した。
著者
菊地 章太
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.4, pp.910-928, 2011

明治二十年(一八八七)に私立哲学館を創立した井上円了は、諸学の根拠を哲学に求めた。仏教が時代に取り残されようとした時代である。真宗寺院に生まれ育った円了は、仏教を哲学として理解しようとつとめ、仏教の語彙ではなく日常の語彙によって仏教を語ろうとした。いずれも前代未聞の試みである。みずからの思索にもとづく仏教理解という方向から、さらに進んで寺院や既成教団から独立した信仰と実践の可能性を切り開こうとした。教団に属さない宗教実践があり得るか。これが近代化の怒濤のなかで仏教存続の方向を模索した円了が導き出した問いであった。寺院なくして信仰は成り立つか。個人でも信仰をもつことができるのか。今ならば問うまでもないこの間いが、明治も終盤をむかえる時代の宗教者にとって抜きさしならない課題となったのである。
著者
岩崎 賢
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.131-156, 2013-06-30 (Released:2017-07-14)

アステカ文明などの舞台となった古代メキシコ(メソアメリカ)では、「花」は地上のあらゆる生命に関する神話的起源の地「タモアンチャン」を表現する重要なシンボルであった。古代メキシコにおけるこの「花」の文化的宗教的意味について触れた研究は、既にいくつか存在する。しかし十六世紀前後に作成されたスペイン語・ナワトル語(アステカ人が使用していた言語)の文献資料を検討する中で、しばしばこの「花」の主題が「笑い」という主題と強く結びついていることに、筆者は気付いた。このことは従来の議論では、あまり注意されることのなかったことである。そこで本論では古代メキシコの宗教詩や神話における、「花」と「笑い」に関係する事例をいくつかとりあげ、さらに「笑い」の宗教的意味を探るために植民地期以降のメキシコ先住民の神話的伝承を検討することで、「笑い」が「花」と同様に、優れて宇宙創成的な意味を帯びた主題であったことを論じる。
著者
大道 晴香
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.105-129, 2013-06-30

イタコは青森県から秋田県・岩手県に分布する民間巫者であり、マス・メディアによって、今やその存在は全国に知れわたっている。しかし、そうした認知度の高さとは裏腹に、民俗文化としてのイタコと、マス・メディアによって形成される大衆文化としての<イタコ>との間には、少なからず隔たりが存在している。本稿は活字メディアによって作られた言説を分析することで、一九七〇年代〜八〇年代における<イタコ>の実相について、特にオカルトブームとの関連から論じている。七〇年代に始まる日本のオカルトブームは、それまで「他者」の領域に追いやられてきた<イタコ>の宗教性を「オカルト」として再発見することで、「我々」の領域へと編入した。これは価値の転換であると同時に、<イタコ>の宗教性が大衆の消費対象化したことを意味する。こうした宗教性の大衆化こそが、大衆文化としての<イタコ>の定着において非常に重要な役割を果たしたと考えられる。
著者
櫻井 義秀
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.453-478, 2009

本稿では、宗教と倫理が緊張関係にある事例としてカルト問題を取り上げ、教勢拡大中のキリスト教教会や宗教団体にはカルトにも共通する特徴があることを指摘した。宣教体制に機能特化した教団は、教化力・組織力・指導力を高めるべく<指導-被指導>関係を軸とした権威主義的体制を構築する。そこにおいて、「教会のカルト化」「宗教団体のカルト化」として批判される信徒への抑圧・搾取的行為や反社会的行動が見られることがある。宗教組織や宗教運動に固有の逸脱を批判してきたものは、現実の宗教団体に対して外郭的秩序として機能する倫理や法ではなく、カルトに巻き込まれた当事者や支援者が特定教団の活動を社会問題として批判・告発してきた活動であった。具体的な問題を解決する過程において構築される社会倫理こそが、宗教とカルトを分かつものが何であるか、そして、宗教と倫理をめぐる緊張とはいかなるものであるかを明らかにしてくれるだろう。
著者
山我 哲雄
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.183-207, 2016 (Released:2017-09-15)

ユダヤ教の食物規定(カシュルート)は、主として(1)血の摂取、(2)肉類と乳製品の混合、(3)ブタなどの「穢れた」とされる動物の肉の禁忌を三本の柱とする。個々の禁忌の由来や理由には不明な点が多いが、旧約聖書では、いずれも問答無用の神の絶対的な命令と理解されている。旧約聖書の食物規定がほぼ今の形に体系化されたのは、いわゆるバビロン捕囚時代(前六世紀)であるが、このことは、国と土地を失って異民族、異文化の中で生きることを余儀なくされたユダヤ人捕囚民の状況と関連があろう。圧倒的優位にある周囲の異民族、異文化、異宗教に同化、吸収されないようにするために、彼らは食という、生活の最も基本的な要素を手掛かりとした。周囲と同じものを同じように食べないという生活様式を確立することによって、捕囚のユダヤ人たちは、自分たちの信仰と民族的同一性(アイデンティティ)を維持したのである。
著者
鈴木 英之
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.3, pp.711-733, 2008-12-30

浄土宗や浄土真宗などの浄土系諸派が「専修念仏」「礼拝雑行」という教理上の制約から、神に対して消極的な態度をとらざるをえなかったことは良く知られている、しかし中世浄土宗の礎を築き、後に浄土宗中興の祖と称えられた了誉聖冏(一三四一-一四二〇)は、日本の神々に強い関心を抱き、盛んに研究を行った。聖冏は、中世最重要の両部神道書『麗気記』の註釈書である『麗気記拾遺鈔』を著し、浄土教学上に神々を位置づけていった。まず、仏教教理から法相宗や天台宗など諸宗派の神体を明らかにし、聖冏独自の教相判釈説「二蔵二教二頓判」を応用することで浄土宗の神体の優位性を主張した。また大元尊神という法や理といった性格をもつ中世独特の神観念を導入し、さらに法然の教説を敷衍して用いることで、神の力を念仏の功徳と同一とし、理論的に阿弥陀仏と神との完全な同体を示した。それは、浄土宗における神道論のひとつの完成形として重要な意義をもつと考えられるのである。