著者
大桃 敏行
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.3, pp.291-301, 2000-09-30

地方分権の推進が今日の大きな改革課題の一つになっている。小論の目的は行政の地方分権化と公教育概念の変容について次の三つの視点から考察することにある。第一は、今次の地方分権に向けた改革が中央から地方への権限の移動だけでなく、行政のあり方の変革を迫っていることである。現代国家において、行政は立法府の政策を忠実に実施するだけの機関ではない。むしろ、政策形成において重要な役割を担うとともに、その執行においては広範な裁量権を有している。このことは行政自体が政策のための価値の選択・序列化に深く関わっていることを意味し、今次の改革は地方段階における行政のより開かれた制度の設立を求めるものである。このことは官僚制の緩衝装置の弱体化をもたらし、親や住民への説明責任、彼(女)らへの応答責任を高めることを教職に求めることになろう。第二は、地方分権が規制緩和や公共サービスの民営化といった政府機能の縮小に向けた潮流と密接に関わって進められていることである。教育の領域において、規制緩和や民営化はまず生涯学習において進められ、次に学校教育にも導入されてきた。このような変革は、主に国家に依拠した公教育概念から、国家、私企業、ボランティア団体など多様なセクターが教育機会の供給に関わる「公教育」概念への変容をもたらすことになろう。この地方分権化と政府機能の縮小という二つの大きな改革潮流が交差するとき、公共セクターが教育においてどのような役割をどの程度までどのように担うべきかを決定する重い責任が、各自治体の住民の手に置かれることになる。第三は、教育の地方分権化を進めていくうえで独自の課題が存在することである。行財政機構の地方分権化が多様性をもたらすことは明らかであるが、別言すれば、それは自治体間の公共サービスの不平等を意味する。この「多様性」を正当化する一つの論拠が、意思決定を行うものがその結果に責任を負うべきであるという自治論である。しかし、教育の場合、公共サービスの意思決定者(大人)とその受給者(子ども)が異なるために、これは妥当な原理とはならない。さらに、大人の間での参加民主主義の実現と将来の民主的シチズンシップの育成とは同義でない。学校の主要な目的が将来の市民の育成にあるのなら、地方分権化自体は教育改革の目的にはなり得ない。地方レベルでの参加型の意思決定システムに向けた改革が学びの場の変革に実際にいかなる影響を持ちうるのかが問われなければならない。この点の考察を欠いた参加賛美論は危うい。歴史的に見れば、教育行政の専門化と等しい教育機会の保障のための国家関与は、参加と自助の地方自治の制限に依拠して求められた。
著者
浅井 幸子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.183-192, 1999-06-30

本論文は、大正期に「新教育」の実験学校として設立された池袋児童の村小学校における野村芳兵衛の教育の展開の過程を、彼の一人称の語りの様式の変容に着目して叙述することを目的としている。野村の試みの特徴は、教育の意味と関係の変革が、彼の教師としてのアイデンティティの解体と再編を通して行われ、「私」という一人称を主語とする語りにおいて鮮明に表現された点にある。彼は、明治時代に確立した「教育」と「教師」の役割に懐疑を抱き、ラディカルに「自由」を提唱し「教育」の制度と秩序の破壊を企図した「池袋児童の村」の教師となっている。その際、彼の中心課題として表現され、彼の探究の出発点となっていたのは、「教育」でも「児童」でもなく、「私」の救済と模索であった。野村の教育の展開過程を、彼の一人称の語り、とりわけ実践記録の叙述に着目して叙述することを通し、本論文では以下3点を指摘している。第一に、1924-25年頃に成立した野村自身を「私」、子どもを固有名またはイニシャルで表記する物語的な記述の様式に、「教師-児童」の役割的な関係に対して「私-あなた」の関係と呼びうる野村と子どもとの関係が現出していること。野村が最初に子どもを名前で表記した際、そこでは教師が子どもを見る、教師が子どもに問うという教育において一般的な視線と言語の関係が逆転し無効化していた。彼は教育を語る言葉を一旦喪失するが、その後「私」と固有名の子どもが登場する実践記録の記述を通し、子どもとの「私-あなた」の関係において教師としてのアイデンティティを再構築している。また同時に教育を、目的に向かう活動としてではなく、その具体的な関係において既に成立し,でいる一回性を持つ実践として見い出していた。第二に、野村が1925-26年頃に構想したカリキュラムが、子どもの学習経験の意味と関係を重層的に表現し構成していたこと。彼は、教師と子ども、子どもと子どもの固有の関係を、それぞれの「個」の世界の鑑賞として表現し、学習の社会的な意味を構成している。そしてもう一方では、とりわけ「教科目」の再編において、子どもの経験を学問あるいは芸術の活動として意味づけていた。彼のカリキュラムは、制度的な教育の計画というよりも、学習経験の関係と意味のネットワークとして成立している。第三に、1930年以降に再構成された野村のカリキュラムが、「協働自治」を一元的な原理とすることによって、学校を組織化し教育の関係を「協働」へと定型化していたこと。カリキュラムの変化に先立って、野村の使用する一人称は「私」から「吾々」へと変化し、彼の子どもとの経験の叙述が激減している。彼は「社会」へと眼を向けた一方、彼自身と子どもの固有性への視線を衰退させていた。その結果、「池袋児童の村」は、「ハウスシステム」と呼ばれる子どもの班組織、校歌、校旗等の導入を通して、機能的かつ象徴的な組織へと再編されている。
著者
新谷 周平
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.470-481, 2006-12-29

本稿の目的は、フリーター・ニートの批判言説および選択の意味解釈を通じて、教育学研究、政策・実践の課題を明らかにすることにある。ニート批判は、社会の不安を抑え込む差異化欲求の表れと解釈することができるが、それを根底から変革するよりは、政策・実践へと転換されるプロセスに影響を与えることの方が現実的でありまた必要である。ニート選択は、確かに客観的には構造要因の影響が大きいが、消費文化への接触や労働の拒否を通じた社会への抵抗という実存レベルの解釈が可能であり、その先に道具的・経済的利益に接続する方策が求められる。キャリア教育政策や機会平等論から導かれる政策は、計画性や上昇移動を基準とする単一の生き方・働き方のモデルを設定するが、それは過剰な同化とあきらめを介した格差拡大を生じさせる可能性が高い。それとは異なる生き方・働き方のモデルを設定し、そのために必要なスキル・認識枠組みを政策・実践に取り入れる必要がある。
著者
今井 康雄
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.2, pp.98-109, 2006-06-30

ウィトゲンシュタインの後期哲学は、反表象主義の主要な典拠となっており、教育学においても、「情報化」の要請に対応した、「力」を重視する現代的な教育論の傾向にそって解釈がなされている。これに対して本稿が試みるのは、ウィトゲンシュタインの後期哲学を、「力」を重視する教育論の基盤を掘り崩すような哲学として解釈することである。ウィトゲンシュタインは、反表象主義の立場を徹底することによって、一方で教えることの不確実性を明らかにするとともに、他方では、この不確実性を回避するために教育論が通常子供の心のなかに想定している「力」の観念を解体する。その結果、教育は極めて脆弱な営みとして現れることになる。ウィトゲンシュタインは、その小学校教師時代、こうした教育の脆弱さに実際に直面していたと推測できる。しかし『哲学探究』のなかには、教育の脆弱さを克服する可能性が、理解されていないものを理解可能なものにおいて示すという「事例」のメディア的構造として示唆されてもいるのである。
著者
宮寺 晃夫
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.259-267, 365, 1-2, 1999-09-30

教育学研究は、それぞれの分野では領域固有性を深めているものの、初学者のための基礎過程を欠いたままできている。学校の中での教師-生徒間の実践に焦点を合わせたペダゴジーが、初学者を教育学的思考に導いていくための教養として、また、教育学研究の学問としての同一化をはかるための教養として、すでに力を失っていることは周知のことである。そこで本論文は、教育学における教養の拡充に対するリベラリズム哲学に関わりを検討する。そのさい、ペダゴギーとしての教育学の教養と、アンドラゴジーとしての教育学の教養とを対比しながら、「中立性の価値」に基礎を置くリベラリズム哲学が、価値多元的な社会における教育学的教養としては不充分であり、卓越主義的リベラリズムによって拡充される必要があることを示していく。 リベラリズム哲学は、教育に対して二つの異なる方針を要求している。すなわち、あらゆる利害に対して中立的であることと、どのような人をも自律的にすることである。中立性というリベラリズムの価値は、R.Dworkinによってリベラリズムの中心的価値の一つとして位置づけられており、教育学とそれの教師教育における実践に自律性を基礎づけてきた。しかし、中立性の価値が教育学にとっての価値になるのは、自分自身の善き生を自律的に選択することができる個人が存在する限りにおいてである。A.Maclyntreが論じているように、近代はそうした自律的な個人としての「教育された公衆」が存在する可能性を排除してきた。その結果、中立性の価値は、どのような善き生をも示すことができず、教育学的教養としては有効ではないものに止まっている。 個人の自律性もまた、それが「道徳的自律性」であることが明らかにされない限り、意味のある価値としては認められない。それゆえ、教育学的教養を拡充するために解明されなければならないのは、「道徳性の価値」である。リベラリズム哲学の中立性のスタンスと自立性のスタンスは、どちらも、道徳性をすべての価値の上位に置いているものの、教育における道徳性の価値を明確にすることができていない。それに大して、リベラリズムの諸価値に対するJ.Razの卓越主義の理論は、自律性と道徳性との親密な関係を、「幸福」(well-being)の名のもとで考察していっており、市民の自己形成活動に対する公的支援について重要な示唆を与えてくれる。Razは、自己決定と選択を擁護するが、それは、それらが公共善と切り離されていない限りにおいてである。本論文は、結論として、リベラリズムに依拠する哲学者の諸議論が、教育学の教養、とりわけてアンドラゴジーとしての教育学の教養を拡充していく上で、深い関わりがあることを述べた。アンドラゴジーにおける教養は、ペダゴジーのそれとは異なって、あらゆる教育的な支援に正当化を求めていくのである。本論文の目次は以下の通りである。 [1] 問題の所在 [2] リベラリズム哲学における二面性 (1) リベラリズムと教育学的教養 (2) リベラリズム哲学の教育理念 (3) 現代におけるリベラリズム哲学の二面性 [3] リベラリズム哲学から見た教育学的教養 (1) 現代教育の課題の二面性 (2) リベラリズムの価値としての中立性と自律性 (3)リベラリズム哲学のアポリアとしての道徳性 [4] 卓越主義的リベラリズムと支援としての教育 (1) リベラリズムと価値多元主義 (2) 卓越主義のリベラリズム (3) 卓越主義のリベラリズムと支援としての教育 [5] 結び
著者
馬上 美知
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.420-430, 2006-12-29

本稿ではロールズ的な分配論とは異なる視点から格差問題にアプローチしているM.C.ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチに着目する。そして「ケイパビリティ」概念を明らかにすることを通してこのアプローチを検討した結果、その可能性と課題が見出された。人間らしい機能への条件が整っている状態としての「ケイパビリティ」は、どのような「財」がどの程度必要とされているのかを明らかにすることができる。その際教育は機能を充足させることで「内的ケイパビリティ」を発達させ、かつ自己教育をすることによって当人をエンパワーメントし、「善き生」を保障する上で重要なものであった。ケイパビリティ・アプローチはロールズ的な分配論以上に実質的な「機会の平等」を保障しえる。しかしどの程度「ケイパビリティ」を保障するのか、その決定方法や子どもの時分に満たされるべき「機能」についてさらなる検討が必要とされる。
著者
大場 淳
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.76, no.2, pp.185-196, 2009-06-30

高等教育の市場化は世界的傾向である。我が国では1990年代以降、大学設置基準の大綱化をきっかけとして市場化が本格化した。21世紀に入って、市場化は構造改革を進める小泉内閣の下で一層進められたが、同時に整備されたのは強い統制力を持つ事後監視・監督制度であった。世界化・大衆化する高等教育の市場化は不可避であるが、現行制度では大学が創造性を発揮しつつ市場化に適切に対応することは困難である。業績評価の軽減を始めとして、真の自律性拡大に向けた高等教育制度の全般的な見直しが求められる。
著者
牧野 篤
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.371-384, 2010-12-27

従来、「教育」概念を社会的な知の分配システムとして規定してきた個人の存在と社会の構成のあり方が大きく変容し、教育はすでにシステムとしては定義できなくなってきている。教育は、むしろ、知を生成するさまざまなOSが自生的に成長していく、ある種の生態学的なプラットフォームの様相を呈している。それはまた、知を生成、循環させ、その過程で<わたし>を<わたしたち>へと多元的に結び直していくプラットフォームであることを自ら要請している。
著者
清水 睦美
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.457-469, 2006-12-29

本稿では、筆者が1997年以降継続している神奈川県内のある公営団地に住むニューカマーの子どもを対象としたフィールドワークをもとに、ニューカマーの青年期の問題のうち、次の2点について問題提起を行う。第1に、学校から就労へという日本人には自明視されるキャリアトラックからの外国人の排除である。それは、外国人が制度的に日本の学校教育にアクセスしにくいことと、就学後の学校における外国人児童生徒の周辺化によって、外国人のフリーターや無業者は必然として生み出されていくことを明らかにする。第2に、学校から就労へのキャリアトラックからの排除から逃れた場合に直面する問題として、就職した職場に浸透している「固定化された外国人像」による問題と、大学進学の場合、「国際」といった名のもとで、外国人であることが、かれらの必要を越えて注目される「『外国人』というラベルの消費」の問題を明らかにする。
著者
八木 美保子 水原 克敏
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.444-456, 2006-12-29
被引用文献数
1

ニートやフリーターの増加といった若年就業問題が国家的課題とされ、学校教育にキャリア教育を求める声は強い。これは大学も例外ではなく、多くの大学でキャリア教育が導入されている。しかし、政策が一人歩きしている感は否めず、実態はこれまでの就職支援の強化に留まっている場合が多い。加えて、大学では多くの学生がカルト教団へ引き込まれたり、不本意入学による自己否定感を払拭できずにいたりなどの自己形成に関わる問題を抱えている。これに対処するためには、大学は新たな教育機能を整備することが求められているのである。「自分ゼミ」の実践を通して明らかになったのは自己形成に苦闘する学生の姿であった。ある学生達は自己肯定感が乏しく自己と対略することから逃避しがちであり、またある学生達は、内省及び他者との価値観の交流によって自己認識を深めようとするのである。そこで、筆者らは、「自分ゼミ」のような自己形成を基盤とするキャリア教育カリキュラムを、大学入学から卒業まで学生の発達段階に応じて設定するよう提案する。