著者
朴澤 泰男
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.14-25, 2014-03-31

女子の大学進学率の都道府県間の差を、大学教育投資の便益の地域差に着目して説明する仮説の提起を試みた。地方に大学進学率の低い県が存在する理由は、大卒若年者の相対就業者数の少ない県ほど(相対就業者数は、大卒の相対賃金の高い県ほど少ない)、また、(先行世代の就業状況から期待される)出身県における将来の正規就業の見込み(正規就業機会)の小さな県ほど、(進学率全体の水準を左右する)県外進学率が低いためである可能性がある。
著者
山住 勝広
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.79, no.4, pp.367-379, 2012-12-30

学校における教師と子どもたちの震災学習は、深い傷痕を残す悲痛の記憶をいかに語り互いに共有することができるのかという根源的な矛盾に直面し、それに挑戦するものになる。本論文では、このような矛盾を乗り越えてゆく教育実践は可能かという問いへアプローチするために、震災体験からの学習と教育の事例分析を、活動理論の枠組みにもとづき行った。分析の結果、子どもたちが、学校における震災学習を通じ、学校外のさまざまな「学びの提供者」と出会い、結びつながることによって、新たな支えあいの文化と生活を創造してゆく可能性が明らかとなった。
著者
福島 賢二
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.1-14, 2010-03-31

これまで教育における平等の議論は、「標準」と「異なっている(差異)」という理由で不利な扱いを受けてきた人への補償主義的な資源分配に基づいてなされてきた。しかしながら、こうした分配的正義は、既存の社会・文化と親和的な価値を再生産するというアポリアを抱えている。本稿では、マーサ・ミノウの「関係性」アプローチと竹内章郎の「共同性」論を対象として、分配的正義に内在する支配的価値の再生産構造とそこからの脱却的視座を得ることを目的とする。この検討を通じて、分配的正義が人々の「差異」を本質的・帰属的なものと同定していたことが明らかとなるだろう。これは、「差異」が社会的に構築されたものであるという視角から分配的正義を鍛え直す必要性を示唆するものである。
著者
寺崎 恵子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.4, pp.454-462, 1999-12-30

演劇批判論として執筆された『ダランベール氏への手紙』のなかで、J.-J.ルソーは、共和国には劇場演劇よりも祭りが必要であると述べた。彼の議論はその根底としてinstructionを意味深い問題点としているのだが、このことはこれまでにあまりよく把握されてこなかった。本稿は、祭りの競技や気晴らしがinstruction publiqueをなしていたという内容の彼の言説の意味を理解し、ルソーが使うinstructionの語の意味内容をあきらかにすることを目的とする。 ルソーは、二つの対象から論を構成している。ひとつは、自身の演劇観と同時代の理論家たちの演劇観との対照である。理論家たちは、舞台上の芝居と観客とのあいだにおける伝播という相互作用をみている。つまり、芝居は感情の模範的な配列を示し、観客がその模範を身につけるというものである。好ましい上演は習俗や人びとの感情を改良し、人びとによいふるまいをするように伝授することになる。理論家たちはこうして劇場演劇には教育的な効果があると考えた。ルソーは彼らの見解に賛同しなかった。彼の見解では、演劇の上演は感情の理想的なあり方を提示することではなく、感情の本質を現実的に見せることである。観客は感情が反映することをたのしんでいるのである。ルソーは、劇場演劇における観客のこのような経験がinstructionとなるとは考えなかった。もうひとつの対照は、劇場演劇における観客と祭りにおける参加者との感情の状況の対照である。ルソーは、劇場演劇における観客の感情が投影することの快さにあるとみた。つまり、観客は自身を不動で不活動の状態において、自身を登場人物にひたすら同化するのであり、そして舞台上の似姿に見入ることをたのしむのである。その結果、観客それぞれは孤立する。一方、祭りにおける感情は、調和することの快さであるとルソーはみた。つまり、すべての参加者は調和のとれた競技のなかで一緒の状態を鋭敏にかつ心深く楽しむのである。ルソーは、祭りにおける参加者の経験がinstructionをおこすとみている。 以上のようなルソーの議論の内容から、ルソーのinstructionの語の意味を次のように解釈することができる。(1)instructionは教えることと学ぶことを意味しているわけではない。それはつまり、二つの部分、すなわち見せる側と見る側または対象と主体のあいだの伝播という相互関係からおこるのではないということである。(2)instructionは、視覚のみによっておこるのではなく、総感覚によっておこる。このような実際的な経験のなかで、人びとは不可視ではかりしれない自然(本性)をそして精神の奥底の自然(本性)を直感的に感知することができる。そして(3)instructionは、間接的にではなく直接的に起こる。つまり、それは現実的な対象もしくは模擬を媒介として個人的に考えるという経験ではなく、和やかな交遊のなかで自然に動きが生まれるという経験によるのである。
著者
古野 博明
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.214-222, 287, 1998-09-30

教育基本法の成立ということについて、通説は、当時の文相、田中耕太郎の発意と熱意からこれを説明している。が、彼の教育改革案には、もともと国民教育の倫理化と教育権独立の憲法的保障という二つの力点があった。教育目的の法規化に否定的なそのような構想から教育基本法の着想が自動的に生まれるかどうかは一つの問題であろう。ところで、教育基本法成立史の研究は、戦後教育改革資料の調査研究の飛躍的発展によって新しい段階に立ち至っており、田中(耕)に加えて、二人の人物に注目を要することが判明している。一人は、被占領期教育改革立法の立案を担っていた文部省の審議室参事事務取扱、田中二郎で、もう一人は、教育政策の策定に重大な影響力のあった、教育刷新委員会の副委員長、南原繁である。そこで、教育基本法の成立を説く鍵は、どの点に見いだしうるか。第一に、教育基本法立案の起点は、1946年9月11日の文部省省議にあった。教育基本法の構想は、事実上この会議において、法律専門家である田中二郎が発案したものである。教育刷新委員会第一特別委員会の審議過程や審議室・CI&E教育課の協議過程の原案になったのも、彼の1946年9月21日付教育基本法要綱案であった。教育基本法に異例の前文を付す構想も彼のアイデアである。田中(耕)文相は、こうした構想を支持しそれを国策として確定することに重要な役割を演じたのである。第二に重要なのは、南原繁もまた教育基本法の立案に少なからず影響を及ぼしていることである。教育及び文化の問題についての、8月27日の貴族院における彼の質問演説には注意を払うべきだろう。彼は田中(耕)文相の教育立法政策と教育権独立論を批判し、新憲法に教育の根本方針を規定するよう要求するとともに、教育の国民との直結性と政治教育の重要性を説いていた。さらに教育刷新委員会が教育基本法制定方針の大綱を採択したのは、第一特別委員会報告に対する南原の厳しい批判に負うところが大きい。その際、彼は教育の目的は人間性の開発ではなく、あくまで人格の完成でなければならないと力説し、倫理教育において宗教にまで飛躍することに反対した。このような彼の思想は、結果として教育基本法成文のいくつかの条項に生きたのである。今後は、こうした諸点を熟慮して、教育基本法の成立の歴史的意義と限界を読み取っていかなければならない。
著者
田中 昌弥
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.411-422, 2011-12-29

従来の教育学では、教育における「フィールドの論理」の把握が必ずしも中心に据えられず、教育の目的や研究方法論の根拠も、しばしば教育外に求められてきた。それに対し、Narrative inquiryは、「個別性」「関係性」「身体性」「応答性」の価値を基盤にしつつ、ストーリーの観点から「フィールドの論理」の把握を可能にする。これを日本の教育実践研究と結合することで、教育的価値の根拠や教師の専門性の内実を明らかにし、他の学問分野との接続を実現する新たなパースペクティブを開くことができる。
著者
古賀 正義
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.46-54, 2008-03-31

「学校が消える!」2008年の年明け、衝撃的な記事を目にした。読売新聞の調査(1月11日付)によれば、全国で今後数年間に一千校以上の公立小中学校が廃校になる見通しだという。急激な人口減少と補助金抑制の影響などで、東京都でも約50校(2.5%)が廃校になる勘定だ。教育機会の均等を実現してきた義務教育制度にあっても、社会変動の波は容赦なく地域社会を襲っている。学校選択制や中高一貫校など市場型改革の導入が進めば、一層、「生き残る学校」と「消え去る学校」とが出現する状況である。 「学校」を自明の教育機関とみなしてきた教育学者にとっても、学校とはいかなる特徴を持った教育の場で、そこで何が達成され、今後何を成し遂げることが可能なのか、いわば「学校力」(カリキュラム研究会編2006)を再度検証しなければならなくなっている。そうでなければ、教師や保護者、地域住民などを巻き込んで、学校に対して体感される不安やリスクは増大していく一方なのである。そもそも学校とは、不可思議な場である。教育学で、学校を念頭におかない研究はほとんどないし、教員養成にかかわらないことも少ない。そうでありながら、学校の内実に長けているのは現場教師であって、研究者はたいてい余所者として外側からその様子を眺め批評する立場にある。マクロレベルから教育政策や学校制度を講じることもできるし、ミクロレベルから授業実践や学級経営を論じることもできるが、学校の実像を客観的総体的に把握し切れているという実感は乏しい。 『教育学研究』を紐解いても、「学校」は学会シンポジウムのテーマに度々取り上げられてきた。「学校は子どもの危機にどう向き合うか」(1998年3月号)、「学びの空間としての学校再生」(1999年3月号)、「21世紀の学校像-規制緩和・分権化は学校をどう変えるか」(2002年3月号)など、教育病理の深刻化や教育政策の転換など、教育関係者の実感と研究者の思いが交錯する時、学校がたびたびディベートのフィールドとして選択された。今日なら、学力低下やペアレントクラシー、指導力不足、いじめ事件など、学校のガバナンスやコンプライアンスにかかわる諸問題が、個々の学校やさまざまな種別の学校、制度としての学校など、各層にもわたる「学校」について論議されることだろう。急激な改革と変化のなかで、問題言説の主題としての「学校」は隆盛であるのに、現実分析の対象としての「学校」は不十分。学校研究の10年は、こうしたねじれ状態と向き合い、その関係を現実的・臨床的にどのように再構築し、教育学の公共的使命を達成するかの試行錯誤の期間だったといえる。
著者
柳沢 昌一
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.423-438, 2011-12-29

実証主義論争におけるJ.ハーバーマスの社会科学方法論批判、C.アージリスとD.A.ドナルド・ショーンのアクション・セオリーの認識論・方法論の省察、そして堀川小における50年を超える授業研究の展開の跡づけを通して、外部からの実践への介入としてのアクション・リサーチの限界を超えて、実践の内部において長期にわたる実践と省察を持続的に組織し、その省察を領域を超えて交流・共有していくことをめざす実践研究のあり方を探る。
著者
平塚 眞樹
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, pp.391-402, 2006-12-29

OECDは、「対日経済審査報告書2006年版」で日本における格差と貧困の広がりを問題化したが、本稿はそこで要請された「質の高い教育への十分なアクセス」の保障とはなにを意味するのかを問うた。その際本稿では、移行期のシステムが分解する過程で台頭しつつあるポスト近代型能力観、その一つであるOECDによるキー・コンピテンシーと、社会関係資本との関連に着目した。複雑な行為のシステムとしてのコンピテンスの学習過程では、これまで以上に社会関係資本との関連性が強まり、その多寡が学習上の有利・不利に結びつくと考えられる。ところが少なくとも英国の調査研究によれば、近年の社会変容は一方でむしろ社会関係資本をめぐる格差を拡大しつつあるという。このジレンマに取り組むことが今日的課題と考えられる。マクロな政策レベル、教育現場・地域レベルでの政策的・実践的アプローチを通して、多様な社会関係資本の平等な形成を社会的に保障することが必要になるだろう。
著者
北村 三子
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.268-277, 366, 1-2, 1999-09-30

教養主義とは、明治の末(ほぼ1910年代)に日本の知識人たちの間に成立した、人間性の発達に関する信条(あるいは「主義」)である。ドイツの教養(ビルドゥンク)概念の影響の下に、若いエリートたちは、人類の文化、ことに、西洋の哲学、芸術、科学などを継承することを通して人格者になりたいと思った。彼らはそれらの偉大な作品に触れることによって強められた理性と意志が人間の行動を制御すると期待した。彼らはある程度それに成功したが、同時に、大地や他者から切り離されてしまったと感じ、不安に悩まされるようになった。 教養主義は主に旧制高校生や大学生の間に普及したが、かれら若きエリートたちは、深層意識では、自分を高等教育には手が届かない若者たちと区別したかったのだ。その意味で、教養主義はかなりスノビッシュなものである。 この教養主義の欠点は、第二次大戦後、日本の教育関係者たちによって批判された。批判者の一人で、新時代のリーダーの一人であった勝田守一は、新しい教養の概念を提案した。それは、高く評価された人類の労働を基盤にしたものであった。勝田によれば、労働は人間の諸感覚、思考能力、コミュニケーション能力を発達させてきた。その中でも、近代に著しく発達した科学的思考法は、私たちにとって最も大切なものなのである。そこで勝田は、教養のある人間は、人類が発達させてきた諸能力を偏ることなしに身に付けていなければならならず、そうすることによって、教養人は社会を進歩させるであろうと主張した。人類の能力は無限に発達すると勝田は信じた。なぜなら、近代科学技術の発展には限界がないように見えたからである。 私たちはもはやこのような楽観的な見解には同意できない。なぜなら、近代の科学技術が自然に対して攻撃的であり、地球の生態系に重大なダメージを与えうることを、私たちは知ってしまったからだ。勝田の教養概念や教養主義をこの観点からもう一度振り返るならば、それらには、思考方法において共通の欠陥があることに気が付く。それは、近代思想一般に見られる欠点と同じものである。 近代的知性は生産的である。それは物を作り出すだけではなく、表象や概念や推論を用いて事物のリアリティを生み出すのだ。その思考法は、利用という観点からだけ事物と関わるものであり、人間中心的で、事物に耳を傾け対話することはない。鮮明に意識に表象されない事物は、意味がないとみなされ、無視される。あの若き教養主義者たちの心の葛藤も、おそらく、この近代の知性の産物である。 教養が再構築されねばならないとしたら、それは、これまでとは異なる思考やコミュニケーションの方法を基盤とするものでなければならないだろう。また、近代的な労働や社会の中でおそらくは失われてきた諸感覚や能力を回復できるものでなければならない。
著者
武居 渡
出版者
日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.536-546, 2003-12-30

金沢大学教育学部障害児教育
著者
潮木 守一
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, 2011-06-30
著者
岩崎 正吾
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.215-226, 316-317, 6-7, 2002-06-25

ペレストロイカ以降、教育分野へのグラースノスチの進展とともに、従来閉鎖されてきた多くの情報が開示されるようになった。マカーレンコについても、これまで知られなかった情報が明らかにされつつあり、活発な議論が展開されている。当論文は、これまで日本において、マカーレンコの教育実践を映画化したものとして紹介されてきた『人生案内』と『教育詩』及びマカーレンコとの関係について、最近明らかになってきた諸資料に基づき解明することを課題としている。これまで映画『人生案内』は、ア・エス・マカーレンコの教育実践、とりわけ、彼の著『教育詩』をモデルとして撮影されたものと見なされてきた。映画『人生案内』は、1931年にソビエト最初のトーキー映画として制作され、第1回ベネチア国際映画祭の監督賞を受賞した。この映画は、興行的にも成功し、1932年には日本でも上映された。この映画は、1920年代の法律違反児童や浮浪児の再教育をテーマとしていたこと、また、エフ・ジェルジンスキーを記念して制作されたことから、ア・エス・マカーレンコの教育実践と同一視された。映画では、法律違反児童や浮浪児がコムーナでの労働教育を通して再生されていく過程が生き生きと描かれており、この点でも、ア・エス・マカーレンコの『教育詩』における教育実践と二重写しとなった。この映画が、ア・エス・マカーレンコの教育実践と同一視された別の理由は、『教育詩』が英語やドイツ語で『人生案内』と翻訳されて出版されたことにあった。とりわけ、イギリスでは、『教育詩』の販売部数を増やすために、興行的に成功した映画『人生案内』の表題をつけて『教育詩』が出版された。また、ヘルマン・ノールをはじめとするドイツのマカーレンコ研究者達も、『人生案内』を『教育詩』と同一視していた。ソビエトだけでなく、ドイツを経由してマカーレンコ情報を入手していた日本では、これらの理由が重なり、『人生案内』と『教育詩』とが同一視された。『人生案内』と『教育詩』とが同一視されたもう一つの重要な理由は、映画のモデルとされたこのコムーナの創設者達が、スターリン体制下で粛清され、このコムーナについての情報が隠蔽されたことにあった。このコムーナの創設には、ゲ・ゲ・ヤゴーダとエム・ア・ポグレビンスキーが重要な役割を果たした。このコムーナはゲ・ゲ・ヤゴーダを記念してつくられたものであり、彼の下でエム・ア・ポグレビンスキーが総括責任者となり、エフ・ゲ・メリホフが所長となって、このコムーナが設置され、運営された。コムーナの正式名称は、「内務人民委員部付設ゲ・ゲ・ヤゴーダ記念ボルシェフ労働コムーナ」である。ボルシェフ・コムーナは、ポグレビンスキーの書いた2つの本、即ち『合同国家政治安部労働コムーナ』(1928年)と『人々の工場』(1929年)により、世間に知られるようになる。また、このコムーナをいっそう有名にしたは、エム・ゴーリキー編集のルポタージュ集『ボルシェフ人』(1936年)であった。彼はこのルポタージュ集の中で、このコムーナの活動と指導者としてのポグレビンスキーを高く評価した。しかしながら、スターリン体制の下で、1937年4月3日、ヤゴーダはゴーリキー等の毒殺嫌疑で逮捕され、1938年3月に銃殺さた。かっての上司が逮捕されたことを聞いたポグレビンスキーは、1937年4月4日に自殺する。このような一連の事件の後、雑誌『赤い処女地』(1937年7月、第7号)に、編集部による『ボルシェフ人』の書評が掲載された。この書評は、ボルシェフ・コムーナに関わるヤゴーダの事業とその活動を厳しく弾劾するものであった。これ以後、『ボルシェフ人』だけでなく、ポグレビンスキーの本も書店や図書館から撤収された。マカーレンコも、それらについて言及することを用心した。また、マカーレンコがかつてそれらについて発言した書評や記事は、彼の死後、編集者達によって削除され、出版された。こうして、マカーレンコとボルシェフ・コムーナの関わりは、後生のマカーレンコ研究家達の眼から隠された。隠された書評や記事から判ることは、マカーレンコがボルシェフ・コムーナについて、大きな関心を抱いていたことである。彼は、書物からだけでなく、実際にこのコムーナを訪問して、その活動の意義や長所について学ぶとともに、その短所や自分の教育方法との相違についても研究していた。マカーレンコのゴーリキー・コローニヤやジェルジンスキー・コムーナの教育実践には、子どもへの信頼、労働教育を通した人格形成、集団の組織方法など、少なからずその影響を認めることができる。1932年に上映された映画『人生案内』は、1970年代にもリバイバル上映された。当時の浮浪児の状況や彼らの労働を通しての再教育の過程が見事に形象化されており、多くの聴衆に大きな感動を与えた。そして、それはマカーレンコの教育実践として受け止められ⌒/textarea></td></tr><tr><td width="50%"><a href="help_create_kiji.html#abse" target="help">ABSE [抄録(欧)]</a></td><td width="50%" colspan="2"><textarea name="abse" cols="45" rows="5" tabindex="18">Since perestroika, as a consequence of the concomitant glasnost (dissemination of information) for the field of education, we have begun to gain free access to a great deal of the information that had remained closed to the public until now. With this trend, we are also provided with the information about Makarenko that had been unknown to us, and lively discussions have followed from it. The aim of this paper is to investigate, in light of the documents that have become available in recent years, the relation between A. S. Makarenko and his "Pedagogical Poem," on one hand, and the film "Road to Life", on the other. This has been known in Japan as a cinematic interpretation of Makarenko's pedagogical practices. "Road to Life" has long been regarded as a film based on the model of Makarenko's pedagogical practices, especially on that of his work "Pedagogical Poem." It was produced as the first Soviet talkie film in 1931, and received the Best Director award in the first Venice Film Festival. The film was also a commercial success and went on to be shown in Japan in 1932. Because the subject of the film was the reeducation of juvenile delinquents and orphans, and also because it commemorated F. Dzerzhi-nsky, "Road to Life" has been identified with Makarenko's pedagogical practices. It vividly depicts the process in which the juvenile delinquents and orphans are reborn through labor education at the commune, and this too made the film, as it were, a double-image of Makarenko's "Pedagogical Poem." Another reason this film was identified with his practices is that the English and the German translations of the "Pedagogical Poem" were published with the title "Road to Life". In Britain in particular, the publisher gave the book the same title as the commercially successful film in order to increase its sales. Moreover, German researchers of Makarenko such as Herman Nohl also associated "Road to Life" with the "Pedagogical Poem." In Japan, where the knowledge about Makarenko came not only from the Soviet Union but also by way of Germany, "Road to Life" was identified with the "Pedagogical Poem" for a combination of these reasons. Still another reason these two works were seen in the same light is that the founders of the commune after which the film "Road to Life" was modeled were purged under the Stalinist regime, and that the information about the commune became concealed from the public. G. G. Jagoda and M. A Pogrebinsky played important roles in the founding of this commune. It was conceived to commemorate Jagoda, and established and operated by Pogrebinsky as the general president under Jagoda, and by F. G. Melihov as the manager. The official name of the commune is "Bolshev Labor Commune Named in Honor of G. G. Jagoda, Attached to the National Commissariat of Internal Affairs." Bolshev Commune became known to a wide public through the two books written by Pogrebinsky, Labor Commune Attached to the United State Political Admission (1928) and People's Factory (1929). Furthermore, it was The Bolshevians (1936), a collection of documentaries edited by M. Gorky, that made the Commune even more famous. In this book, Gorky gave high praise to the activities of the Commune and Pogrebinsky as its leader. However, under the Stalinist regime, Jagoda was arrested on April 3, 1937 on suspicion of killing Gorky and others by poisoning, and executed by shooting in March 1938. Hearing the arrest of his former superior, Pogrebinsky committed suicide on April 4, 1937. After this series of incidents, the journal Red Virgin Soil (Issue 7, July 1937) published a book review of The Bolshevians signed by its editorial department. The review severely denounced Jagoda's enterprise and activities related to Bolshev Commune. Thereafter, not only The Bolshevians but also the books by Pogrebinsky were removed from bookstores and libraries. Makarenko also became cautious about referring to these books. And, after Makarenko's death, editors of his books cens
著者
石川 裕之
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.214-226, 2014-06-30

本稿では韓国における国家カリキュラムの革新に焦点をあて、グローバル化に対応するための教育内容の改革の特徴と課題について考察した。その結果、グローバル化が韓国の国家カリキュラム革新に与えている影響は大きく、経済発展のための人的資源開発を中心的な目標に据えつつ、新自由主義的な手法を随所に用いて改革が進められていることが明らかになった。一方で、頻繁な改訂や教育環境の未整備が教育現場の疲弊・混乱を招いている側面もみられた。