著者
岩谷 彩子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.213-232, 2017 (Released:2018-04-13)
参考文献数
37

本論文の目的は、グローバル化が進むインド、グジャラート州アフマダーバードの路上で取引される古着のフローから、インドの公共空間の生成的な側面について明らかにすることである。インドにおける公共空間の議論では、西欧社会における公私の概念とは異なる公共概念の存在やその公共性を担う主体をめぐる議論が中心であり、インドの公共空間は西洋的な公共概念を含みつつも多層的で、異なる主体の利害対立の場として描かれてきた。しかしグローバル化が進む現代インド社会において、そのような対抗的な公共空間の描き方は妥当なのだろうか。 この問いについて、本論文では2つの異なる空間とそこから派生している〈道〉を対比させることで検討した。まずとりあげたのは、アフマダーバード旧市街の再開発の一環で移設されたグジャリ・バザールという日曜市である。再開発の結果、スラムを含み混沌としていた日曜市は、整然と管理されたグローバルな空間に変貌し、目的と利用時間を制限された「ゲーテッド・マーケット」化しつつある。もう1つは、アフマダーバード市内外から持ち込まれる古着とそれを取引する人により占拠された、同じく旧市街のデリー門前の路上である。ゲーテッド・コミュニティや中上流階層から集められた古着は、路上市を介して日曜市をはじめとする市内外の路上市や国外市場に流入し、古着を加工する新たなコミュニティの空間も生み出していた。路上市の公共性は、異なる階層やコミュニティ間の差異を媒介し、古着が変形しフローする〈道〉を様々な場所に現出させている点にある。グローバル化により変貌する都市空間とは一見対照的な路上市だが、両者は相互に影響を与え合い同時に成立している。ある地点がグローバルな秩序に組み込まれることになろうとも、 別の地点に新たな〈道〉が用意される。こうした潜在力にこそインド的な公共空間とそこで生きる人々のあり方が見出せるのである。
著者
関根 康正
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.4, pp.387-412, 2020 (Released:2020-05-28)
参考文献数
43

本論文は、『社会人類学年報』45巻掲載論文を引き継ぐ形で、現代社会を席巻するネオリベラリズムという思潮を人類学の立場から根底的に批判する一連の研究の中に位置づけられる。アガンベンが指摘するように、生政治が実践される現代社会では代理民主主義という形で「例外状態の常態化」が進行している。現に、世界中で大多数の国民が「ホモ・サケル」状態に置かれるような格差どころか棄民される社会を生き始めている。この20年にわたる私の「ストリート人類学」研究は、現代の苦境で苦しむ被抑圧者、犠牲者の側の視点に立つことを明確に宣言している。それは、このネオリベラリズムという浅薄な進歩の歴史から見れば、「敗者」とされる人々の歴史を「下からのまなざし」で掘り起こし、そこに希望と救済の場所を構築していく作業に傾注する人類学である。故に、周辺化され「ストリート・エッジ」にある人たちが、それでも、生きられる場をどのように構築しているのかを、その同じ社会空間を共有する者として、注目してきた。その立場から、勝者の側の純化した「高貴な」まなざし=「往路のまなざし」のみではなく、他者性と共にある不純で汚れた雑多な敗者のまなざし=「復路のまなざし」を含みこんだ二重化=交差のまなざしが生きられる場には不可欠であることを見出してきた。その延長上で、本論文では、「ストリート人類学」のより確かな理論化に向けて、特に、ストリート・エッジの理解に有益なアガンベンの「例外状態」論を批判的に検討することを通じて、現代社会を生き抜く極限の様式として「往路と復路の二重化のまなざし」を持つ構えが現代人一般に要求されていることを明らかにする。その意味で、基本的にアガンベンの「新たな政治」の実現という目標を共有しているが、『ストリート人類学』のみならずむしろ私の研究の起点になった『ケガレの人類学』にまで遡って行われる独自の思考によって、その目標を真に実現していくための補完として本研究はある。ここでの議論を通じて、『ストリート人類学』が、その発想の基礎において『ケガレの人類学』の到達点をふまえていることが明確に自覚され、その結果、フーコー、メルロ・ポンティ、ベンヤミン、岩田慶治、アガンベンらの諸理論との新たな出会いがもたらされた。そうした先人との対話の総合的な結果としてストリート人類学の基本構造理論がここに提出されている。
著者
赤堀 雅幸
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.3, pp.367-385, 2017 (Released:2018-05-16)
参考文献数
31

女性に対する暴力が、「名誉」の概念の下に振るわれる諸事例に注目した特集中にあって、本稿がまず指摘するのはしかし、名誉に基づく暴力の行使は「女性」に対するものだけではない点である。地中海周辺域において名誉と暴力との関係に注目した人類学分野の研究が過去に注目してきたのは、むしろ血讐といった、主として男性によって集団間で展開される暴力行為であった。本稿でも、著者が1980年代末から断続的に調査を行っているエジプト西部砂漠のベドウィンについて収集した情報を主たる事例として、前半部では血讐をめぐり名誉が論じられる文脈を取り上げ、「名誉に基づく暴力」の概念を拡張して捉えることをまず提案する。同時に、暴力の行使が名誉に基づいて正当化されるだけではなく、暴力の抑止や和解もまた、名誉に基づいて説明されることを明らかにし、「名誉に基づく暴力」の概念を見直す。 後半部では、そのようにして拡張した「名誉によって正当化される暴力」の枠組みの中で、女性の性的不品行を契機に発動される暴力が、血讐などとは異なる、別個の種類の事象として設定しうるものであるかを、同じく西部砂漠ベドウィンの事例に則して検証する。注目されるのは、男性の調査者がベドウィンの男性から聞き取りを行うに際して、血讐については誇らしいことがらとして積極的に語るのに対して、名誉殺人について語ることにはある種の気まずさを伴う点である。そうした気まずさは、女性の性的不品行が、集団による女性のセクシュアリティの管理の失敗という、他集団との関係において語ることのできない事象であることと深く関わっている。 これらの議論を通して、本稿は「名誉に基づく暴力」の概念をより大きな研究対象として設定し、その中で名誉が暴力の行使を正当化するだけではなく、暴力について語る際の汎用的なイディオムであることを指摘し、次いで女性の性的不品行に対して発動される暴力が名誉の増進をめぐる集団間の公的な競争ではなく、集団内で隠蔽されるべき名誉の喪失として、血讐などとは区別されると結論づける。
著者
大澤 隆将
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.81, no.4, pp.567-585, 2017 (Released:2018-02-23)
参考文献数
28

本論は、スマトラ島東部に暮らすかつての狩猟採集民、スク・アスリの民族誌的記述を通して、部族社会における権力に対する態度についての考察を行うものである。近年、部族社会における国家体制からの逃避の歴史、すなわち「アナキストの歴史」に関する研究が進められている。しかしながら、彼らの周縁化されてきた歴史と現状における国家権力の拒絶と受容のアンビバレンスについては、明確な説明がなされていない。彼らが日常生活の中で行ってきた国家に対するコミュニケーションの忌避を「小さな逃避」と定義し、部族の国家に対する態度に関する分析を行う。 スマトラ東岸部に暮らすスク・アスリは、国家の支配者・従属者たる「マレー人」の概念のアンチテーゼとして周縁化されてきた歴史を持つ。結果、彼らは階層制の中で強い権力を持つ人々に対して怖れと気後れの感情を抱いており、日常生活においての接触を避ける。この「小さな逃避」は、国家支配内部での部族としてのポジションを再生産している。一方、過去のスルタンとの交流、現在の政府との交渉、そしてシャーマニズムのコスモロジーには、階層システムの中で強い権力を 持った存在への積極的な働きかけが認められる。このような働きかけは、相対的に権力を持つ存在との関係を調整・改善する役割を果たす一方、政府への働きかけはごく一部のリーダーによっての み行われている。 描写を通して明らかとなるのは、彼らの世界における権力の外在性である。彼らは、国家の階層的な権力構造を理解し、時として積極的に働きかける一方、その権力や階層制を内在化させることはない。したがって、周縁化されてきた部族社会におけるアナキズムは、国家の階層的な権力に対する拒絶や抵抗の実践ではなく、その権力を外部に認めながら、一定の距離を保つ態度として捉えることができる。
著者
菅原 和孝 藤田 隆則 細馬 宏通
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.182-205, 2005-09-30 (Released:2017-09-25)
被引用文献数
1

民俗芸能の伝承を身体資源の配分過程として捉え、静岡県水窪町の西浦田楽における世襲制の変容を解明する。また、次世代への継承を実現する場としての練習に注目し、そのやりとりの特質を分析する。西浦田楽の核となるのは毎年旧暦1月18日に挙行される「観音様のお祭り」である。ここで奉納される舞は地能33演目、はね能11演目(うるう年は12演目)である。地能は能衆と呼ばれる24戸の家に固定した役として割りあてられ、父から長男へ世襲によって継承されてきた。200年以上の歴史をもつこの制度は、昭和40年代初頭から農村の過疎化により崩壊の危機に直面した。14戸に減少した能衆組織内で役の大幅な再配分が行われたが、とくに本来は役を持たなかったにもかかわらず技能に秀でた成員に、多くの役が負わされた。演者の固定しないはね能において身体技法の功拙が競われてきたことが、こうした再配分を可能にした。近年、はね能に関与している家のすべては、父と長男の二世代が田楽に参加しており、継承が急速に進行している。練習場面では、太鼓および練習場の物理的構造という資源を最大限活用する教示と習得の工夫が発達している。初心者(「若い衆」)の所作・身振り・動作を継年的に観察すると、困惑や依存から納得への明瞭な推移がみられる反面、年長者によって開示される知識が断片的で不透明であることからくる混乱も顕著であった。祭り前の集中的な練習によってある地能の舞いかたが若い衆に促成で植えつけられたことは、継承を急激に進めようとする年長者たちの決意を示すものであった。これらの分析結果に基づき、正統的周辺参加理論、および民俗芸能において「身体技法的側面」が突出するプロセスに関する福島真人の理論の適用可能性を検討するとともに、練習場面にみられる「楽しさ」を分析する展望を探る。
著者
五十嵐 真子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.72, no.2, pp.221-240, 2007-09-30 (Released:2017-08-22)

神戸学院大学地域研究センターは、未曾有の被害をもたらした阪神・淡路大震災以後の地域社会における大学のあり方について、2002年度より実践的研究を行っている。筆者が所属する同センターの文化人類学分野ではその一環として、大学近郊の明石市稲爪神社の秋祭りの調査を行った。この祭礼は無形民俗文化財に指定されている伝統芸能の奉納と町回り、各町内会の子ども御輿を含む、複合的な地域のイベントであり、人類学を専攻する学部学生の調査実習も兼ね、例年多くの学生と共に参加し、次第にその参加目的は調査から祭礼の一部を担うようになっていった。それは調査を契機として始まった、大学と地域社会との関わり合いの中で、単なる観察者から祭礼の一部を担うものへのスタンスが変化していったといえる。こうした関係の変化は人類学的調査の特徴であり、またその「強み」なのではないだろうか。「フィールドワーク」という言葉はすでに人類学のみが用いているわけではないが、長期間にわたって特定の調査地域と関わり、その過程から関係を構築する姿勢は人類学特有のものであろう。ここで採り上げた事例では、「我々」調査者はいつしか「ある学生(若者)たち」の集団として認識されるようになり、やがて特定の役割を期待されるようになっていった。この段階においてすでに調査の域を越えているのかもしれないが、こうした相互作用こそが人類学的調査の持つ有効性であり、自らが属する地域社会"at home"において何がしかの事業や活動を行う際にその力を発揮するのであり、人類学を通じた社会との連携の可能性を示すものではないだろうか。
著者
古谷 嘉章
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.73, no.2, pp.221-240, 2008-09-30 (Released:2017-08-21)

本論文は、遺跡に遺された先史土器の復興をなしとげ、土器作りの新しい伝統を創始した、時代も場所も異なる2人の土器つくり-ブラジル・アマゾンのMESTRE CARDOSO(1930-2006)とアメリカ合衆国南西部のホピ=テワのNAMPEYO(ca.1857-1942)-を取り上げ、彼らと彼らの追随者・後継者たちの土器作りについての検討を通じて、先史土器の復興という特定の角度から、土器と土器作りについて人類学的に考察する。その際に、人類学におけるAPPADURAI[APPADURAI(ed.)1986]らの研究と考古学におけるHOLTORF[2002]らの研究を手がかりに、「モノの生涯」と「物質の生涯」という概念を導入し、「土器の生涯」という視座を設定する。そのうえで、出土した先史土器との関係のなかで新たに土器が作られる過程に着目して、アマゾンとプエブロの先史土器復興について民族誌的記述を提示したのちに、「土器片」「レプリカ」「触知性」という3つの角度から試掘溝を入れる。そこでは、完形性と断片性、レプリカと創造性、芸術および土器作りにおける視覚と手触りなどについての検討を通じて、土器というモノ作りを浮彫りにするとともに、「芸術」という近代的な概念を裏側から浮かび上がらせることを試みる。
著者
ナラン
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.125-149, 2015-09-30 (Released:2017-04-03)

内モンゴルの草原劣化が深刻になり、その原因を「過放牧」に求め、環境政策として家畜の放牧をやめさせる「退牧還草」が実施されている。しかし、放牧が問題ではなく、放牧のやり方を変え、草原劣化が起こるようなシステムを作ったことが問題であったと思われる。本論は、内モンゴルのジャロード旗北部を事例として、遊牧から定住牧畜への変遷によって草原が劣化していくプロセスを考察し、国家体制と牧民社会の変化との関係性、国家の土地政策と遊牧システムの変化との関係性を明らかにすることを目的とした。内モンゴルの牧畜業は政治・社会的変動が起こるたびに変化してきた。牧畜の変化には主に家畜の所有及び放牧形態の変化があり、草原劣化に直接的な影響を与えたのは放牧形態の変化である。社会主義革命以前、家畜は個人所有であったが、牧地は旗が所有し、旗における牧地の利用は、ホト・アイルという父系親族を核とした集団が宿営単位となり遊牧していた。1958年頃から突入した社会主義改造期の人民公社では、家畜は国家所有に変わった。牧地の所有も国家所有に変わったものの使用は、ホト・アイルを基にし、生産隊が作られ、社会主義革命前とほとんど変わりはなかった。1980年代に始まった改革開放の私有化では、家畜及び土地使用権は個人に配分された。家畜はもともと個人所有だったものを人民公社時代に一旦国家所有に変えたのを再び個人所有に戻した。牧地に関しては、それまでと全く違う制度を取り入れ、土地使用権を個人に与えたのである。土地使用権の譲渡後、配分された土地でしか放牧ができなくなり、季節移動の頻度が急激に低下した。定住牧畜をした冬営地を中心にした草原劣化が深刻になっている。一般的に社会主義革命が社会のあり方を激変させたという見方が多いが、内モンゴルの牧畜に限って、改革開放の私有化が牧畜世界のあり方を大きく変えたのである。その影響の現れが草原劣化などの自然の悪化であるといえよう。「退牧還草」が牧畜の定性化にさらに拍車をかけ、牧民の生活基盤を揺るがし、内モンゴルの牧畜自体を変えようとしている。
著者
秋山 晶子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.76, no.1, pp.77-88, 2011

The anthropology of agriculture, especially ethnoagronomy, has explored the local/indigenous cognition of the environment, which is considered to be guiding practices, that is, transactions between humans and the environment. Previous studies of that perception have applied linguistic methodologies and investigated local classifications of plants and animals to extract the system of knowledge underpinned by locally shared logics. The perception and approach intend to position local knowledge as a more sustainable and rational one under given circumstances than Western/modern knowledge. However, it is also pointed out that local knowledge is not always logically designed to guide practices, but actual practices are led by a bundle of individual experiences or knowledge along with a situation. In the post-Green Revolution era of India, it no longer seems to be an adequate approach to derive such local knowledge, underpinned by Indian cosmology or inner logic, from linguistic data analysis either, hi a village of northeastern Kerala, for instance, countless number of actors, such as governmental officers, local/international NGOs, and agri-business entrepreneurs introduce different things and words (ideas) to promote organic agriculture, including organic certification, bio-input, and an ancient farming calendar. Each farmer then selects and applies things or words in a rather situational manner. In such a situation, not only is the local/Western binary of knowledge obscure, but local, Western, traditional, and "re-traditional" knowledge are also intertwined in farmers' dialogues and practices. Therefore, this paper avoids the assumption that local shared knowledge shapes farming activities tentatively. Instead, it attempts to perceive that collectives of symmetric non-human and human actors (actants) form farming practices, and attempts to describe the process of the assembly and separation of actants, especially focusing on non-humans. That is because local peculiarities are still embedded in the way of assembly and separation and in the performance of the assembling, even though observers can neither assume them nor hypothesize a logical system from them. Besides, some words perform as non-human actants, or comprise hybrid actants with other non-human actants. Thus, this paper follows certain actants, including such "thing-like" words. To do so, I especially focus on the practices of three farmers in a village in Kerala who changed their ways of farming after converting to organic agriculture. The examples show that farmers' initial performances are gradually directed by certain active non-humans, such as the regulation of organic agricultural certification, a traditional farming calendar, and plants and insects. In addition, a scrutiny of the process by which the actants assemble can shed light on locally specific ways of assembly and the performance of humans, non-humans, and words. The appearance, assembly and performance of actants are random and situational, so all an observer can do is to find changes in farming practices, following the process of those changes, while keeping an eye on the active actants. Even so, that approach indicates one way to disentangle the intermingled farming practices and figure out the spatially and historically localized aspects of farming practices.
著者
飯島 真里子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.80, no.4, pp.592-614, 2016 (Released:2017-02-28)
参考文献数
42

本稿では、フィリピン日系ディアスポラの第二世代による戦後の多様な帰還現象に注目し、帰還経験が当事者の故郷認識に与える影響について考察する。フィリピン日系ディアスポラとは、戦前のフィリピン(本研究では主にダバオを対象とする)に形成された日本人移民社会にルーツをもち、終戦直後の引揚げ政策により離散を強いられた集団とそのコミュニティをさす。日本人家族は祖国に引揚げたが、日本人移民を配偶者としていたフィリピン人妻とその子ども(日系二世)は残留したため、戦前の移民社会は日本とフィリピンに分かれ、それぞれの戦後を経験した。本論文で扱うディアスポラの帰還現象は以下の3つである。まず、第一の帰還現象として、終戦直後の本国への「引揚げ」を取り上げる。次に、第二の帰還現象として、1960年代末から引揚者によって企画されたフィリピンへの「墓参団」を扱う。この墓参団は、戦中に亡くなった肉親の慰霊だけではなく、日系二世や旧友との再会や居住地の再訪など戦前の移民生活の記憶をたどる旅ともなっている。最後に、第三の帰還現象として、1990年代末から始まった「祖国」日本の国籍取得を目的としたフィリピン残留日系二世の「集団帰国」を取り上げる。 これら3つの帰還は、時期、背景、経路も異なる。第一の帰還のように祖国での定住をともなう帰還形態もあれば、第二、第三の帰還のように一時的かつ短期間の帰還形態もある。また、その移動方向もフィリピンから日本(第一、三の帰還)への流れもあれば、逆方向の流れもある(第二の帰還)。本論文では、「帰還」を分析概念として使用することで、3つの帰還的移動を総合的に検討し、これらの継続性と連関性を明らかにする。これにより、「引揚げ」を中心的に扱ってきた日本帝国史研究と「日系人の還流」を扱ってきた移民研究をつなぐ視点を提供できると考える。 さらには、当事者の帰還経験を分析することによって、第二世代の故郷認識の多様性を描き出し、ディアスポラの「故郷」の存在やあり方が一元的でも固定的でもないことを論じる。
著者
西 真如
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.81, no.4, pp.651-669, 2017 (Released:2018-02-23)
参考文献数
39
被引用文献数
1

本稿では、普遍的治療を掲げる現代のHIV戦略のもと、病とともに生きる苦しみへの関心と無関心が形成され、制度化されてきた過程について、エチオピア社会の事例にもとづき検討する。アフリカにおける抗HIV薬の急速な展開によって得られた公衆衛生の知識は、「予防としての治療」戦略として知られる介入の枠組みに結実した。この戦略は、アフリカを含む全世界ですべてのHIV陽性者に治療薬を提供することにより、最も効率的にHIV感染症の流行を収束させることができるという疫学的予測を根拠としている。エチオピア政府は国際的な資金供与を受け、国内のHIV陽性者に無償で治療薬を提供することにより「予防としての治療」戦略を体現する治療体制を構築してきた。にもかかわらず現在のエチオピアにおいては、病とともに生きる苦しみへの無関心と不関与が再来している。そしてそのことは、「予防としての治療」戦略に組み込まれたネオリベラルな生政治のあり方と切り離して考えることができない。本稿では治療のシチズンシップという概念をおもな分析枠組みとして用いながら、抗HIV薬を要求する人々の運動と、現代的なリスク統治のテクノロジーとの相互作用が、HIV流行下のエチオピアで生きる人々の経験をどのようにかたちづくってきたか検討する。またそのために、エチオピアでHIV陽性者として生きてきたひとりの女性の視点を通して、同国のHIV陽性者運動の軌跡をたどる記述をおこなう。この記述は一方で、エイズに対する沈黙と無関心が支配的であった場所において、病と生きる苦しみを生きのびるためのつながりが形成された過程を明らかにする。だが同時に、彼らの経験から公衆衛生の知識を照らし返すことは、現代的なHIV戦略が暗黙のうちに指し示す傾向、すなわち治療を受けながら生きる人々が抱える困窮や孤立、併存症といった苦しみへの無関心が、ふたたび制度化される傾向を浮かび上がらせる。