- 著者
-
関根 康正
- 出版者
- 日本女子大学
- 雑誌
- 基盤研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 2002
4年間にわたった本研究では、それぞれ特徴的な場所を調査でき収穫は大きく、当初予想していなかった問題視角も明らかにすることができた。以下に箇条書きの形で、総括的論点をまとめておきたい。1 共同体の解体と個人化の影響:ケガレ観念は深く共同体との存在に根ざしていることが改めて明らかになり、それによって、個人レベルになっても解体しないケガレ観念と共同体の解体とともに希薄になるケガレ観念とがあることが明白になった。共同性において支えられてきた生活・生産の危機は、今日のように近代化し個人化した生活・生産スタイルになると、祈祷師や「オガミヤサン」に不漁の原因などの個人の身の上に起こった不幸・苦悩の解決を求めて足を運ぷという個人処理の方向に進むことになり、かえって伝統民俗文化の一部の捻れた形での(商業主義の入り込んだ)再活性化を呈することになる。2 水平的共同性と垂直的共同性の区別と絡み合い:社会的階層性や社会的差別につながる「浄・不浄」イデオロギーは、それぞれの地域でそのイデオロギー内容や歴史的な絡み合いの経緯を異にしながらも、支配イデオロギーとしての位置を占めてきた。壱岐・対馬では天童信仰という神道が、奈良では仏教を背景にした王権が、沖縄では公儀のノロ制度を持った王権や後の薩摩支配以降のその変容と仏教の流入が、そうした階層化をもたらすイデオロギーとして「浄・不浄」観念を浸透させてきた。ここで丁寧に現実を観察し分析しなければならない大事な点は、こうした支配イデオロギーの下に組み込まれた村落地縁共同体や血縁共同体が、支配の具になった「不浄」としてケガレ観念で完全に下まで塗り替えられたのかという点である。結論的には、列島のどこにおいても水平的な共同性とでも呼ぶべき次元が、垂直的な「浄・不浄」イデオロギーに貫かれた国家共同体の権力システムには完全には繰り込まれない、生活の共同性を維持しそれが生きられてきたとうことである。これは基層文化として連綿とあったものというより、支配イデオロギーの抑圧空間の中で庶民の反応として再生産、再創造されながら存在してきたものと見なすことの方は妥当であろう。関係論で考える必要がある。3 近代化・都市化:火葬の浸透の決定的影響:火葬は言うまでもなく決定的な葬送民俗文化の変更を引き起こしている。本土における土葬から火葬への変化は、葬儀の近代化・都市化を意味し、それは単に葬送方法が変わっただけでなく、村落社会の解体であり、共同性の解体を意味し、資本主義的な外部経済、形式的な(パッケージ化された)葬式仏教の受容を招くのである。こうなると、葬儀社主導の仏教イデオロギーが浸透してきて、ケガレ観念も「不浄」観念に引き寄せられて、それまでの「ケガレ」のダイナミズムが失われていくことが予想できる。とはいえ、問題は残っている。「不浄」理解だけでは対応できない、深みのある機微に富んだケガレ観念の考察を必要とした人生の危機問題は未解決のまま残されているので、人々は「自分探し」という自己肯定物語を求めて彷徨い歩き続けることになっている。その亀裂が深刻化している。この研究プロジェクトはこの点に関心を持って組まれた。民俗文化の喪失はどのように代替されていくのだろうか。ケガレ観念をこの現代においてこそ改めて問うことの意義がそこにある。