著者
柳沢 英輔
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.197-216, 2021-09-30 (Released:2021-12-26)
参考文献数
88

本論の目的は、フィールドレコーディングを主体とする実践的な研究手法としての音響民族誌(sonic ethnography)について、その意義を論じることにある。音響民族誌とは、人類学的なフィールドワークの成果物としてのフィールド録音作品のことを指す。人々の営みを経験的に記述する民族誌において、聴覚的な経験よりも視覚的な経験が重視されてきたため、音や録音メディアの持つ可能性はこれまで十分に検討されてこなかった。近年、音響民族誌が注目されるようになった技術的、理論的な背景として、機材のデジタル化により録音・編集環境が一般化したこと、そして、1980年代以降の「音の人類学」、「感覚の人類学」、「感覚民族誌」など、ロゴス中心主義、画像中心主義に対抗し、視覚以外の諸感覚や身体経験に着目した研究の潮流がある。 本論では『うみなりとなり』という筆者らが制作した音響民族誌を事例として取り上げる。結論として以下のことが言える。第1に、音響民族誌は、音を通して、ヒト、モノ、自然が響きあう相互的で、流動的な世界の在り様を描くことで、我々のモノや世界の捉え方を転換させうる。第2に、録音という行為を通した人やモノ、場所との感覚的な繋がり、調査手法やプロセスへの省察的な考察と循環に、その意義や可能性がある。
著者
濱谷 真理子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.81, no.2, pp.180-198, 2016 (Released:2018-02-23)
参考文献数
29
被引用文献数
2

本論文の目的は、北インド巡礼地ハリドワールで暮らすヒンドゥー女性行者を対象とし、招宴に 参加するための情報や、招待券、招宴後の施しなど一連の贈与の分析を通じて、女性行者たちの社 会関係について明らかにすることである。 これまでのインド行者研究では、男性行者が出家制度に依拠した共同体を形成していることが明 らかにされた一方、正式な出家を認められない女性行者は、むしろ世俗社会とのつながりに依拠し ていることが指摘されてきた。本論文では、これまで十分に考慮されてこなかった「家住行者」と 呼ばれる女性たちに着目し、彼女たちが日々の乞食実践を通じて、出家制度にも世俗社会にも依ら ない社会的ネットワークを築いていることを明らかにする。具体的にとりあげるのは、行者を対象 とする招宴である。行者社会の序列に従う男性行者に対し、女性行者たちはさまざまな人間関係の ネットワークを活用して、招待券を得て宴に招かれようと試行錯誤する。男性行者が社会的威信や 地位を重視するのに対し、女性行者たちにとって重要なのは、招宴の情報や招待券、施しを独占せ ずに分け与えるべきだという贈与のモラルであった。なぜなら、女性行者は与えることを愛や配慮 の表れとしてとらえ、贈与を通じてそれが霊的な慈愛か世俗的な愛着か、愛の質を吟味するからで ある。それによって、女性行者たちのあいだには、互酬性(世俗)と純粋贈与(出家)の側面を併 せ持つ、越境的ネットワークが形成されることがわかった。
著者
澤野 美智子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.3, pp.437-456, 2021-12-31 (Released:2022-04-14)
参考文献数
35

本稿の目的は、アフェクト論の観点からパンデミック下の医療現場で起きたアクター間の相互作用について検討することである。特に韓国の「コロナ19」病棟における防護服と看護師に注目する。本稿では防護服を病棟内で相互作用しあうアクターのひとつとして捉え、看護師側だけでなく防護服側の視点も交えながらアクターの動きを描き出す。感染症対策マニュアル上では単純に人間をウイルスから防護するだけのはずだった防護服であるが、現場ではそれぞれに物質性と文脈を持つ防護服と看護師、その他のアクターが出会うことで新たな作用が生じ、アフェクトの秩序が乱されたり連続性が失われたりする。これを本稿ではアフェクトの攪乱と呼ぶ。防護服は独特の環境における多様なアクターとの相互作用によって、防護服に合った身体操作をするよう看護師たちを飼いならそうとする。一方で看護師たちは業務を遂行するため、防護服が遮断しようとする防護服外部の刺激を拾い上げようとするとともに、自らの身体と防護服の間に「第3者」を介在させることで防護服を飼いならそうとする。防護服と看護師が接触を継続せざるを得ない状況下、攻防自体は継続して繰り広げられつつも、アフェクトの秩序が再編されてゆく。
著者
松田 素二
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.1-25, 2013

現代世界が経験している激動は、人類学者のフィールドとそのフィールドで暮らしている人々に直接的な影響を与えている。内戦と殺戮、開発と環境破壊、移民と排除、貧困と感染症の蔓延、といった「問題」は、たんなるローカルな「問題」にとどまらず、グローバルな依存関係のなかで「地続き」に現象する。また人類学者自身が、暴力的衝突や内戦に巻き込まれたり、環境破壊や大規模開発、あるいは環境保全や開発反対運動に関わったりすることは、今やフィールドの日常となりつつある。こうした状況に直面した人類学は、これまでのフィールドにおける中立性と客観性を(建前上)強調する立場から、対象への関与と価値判断を積極的に承認する立場へと移行していくことになる。現代人類学は「人権尊重」「地球環境保全」「民主的統治」などをグローバル化時代の普遍的価値基準として承認し、異文化への介入を試みてきた。だがこのような普遍主義的傾向の肥大化は、さまざまな疑問や反作用を生み出している。その核心は、フィールドへの「関与」「介入」を正当化する論理の根本は何かという問題だろう。本論は、この「普遍主義」の勃興の様相を明らかにした上で、それがもつ必然性と危険性を検討し、相対主義的な世界と新たに登場した普遍主義的な世界認識をこれからの人類学はどのように位置づけ関係させるかについて考察を試みる。ただしその試みは、普遍主義的思考を拒否して、相対主義を復活させるという単純なものでも、その逆に相対主義的思考を放逐し普遍主義的価値基準を学的核心にしようというものでもない。本論文の目的は、この二つの世界認識を現代人類学はいかにして接合し、錯綜する現実に対処する方向性を定めるのかについて日常人類学の生活論に基づいた一つの回答を提出することにある。
著者
関 恒樹
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.78, no.3, pp.367-398, 2013-12-31 (Released:2017-04-03)
被引用文献数
1

移民の子どもたちに注目する近年の諸研究では、子どもたちの経験は主に移民第1世代である親の経験との関係で考察され、子どもたち自身の主観的移住経験が焦点化されることは少なかった。しかし、今日主要な移民受入れ諸国において、移民の家族呼び寄せ制度が整備されるとともに、越境する子どもたちが増加しつつあり、特に母国の文化を濃厚に保持しつつ移住した子どもたちが、ホスト社会にて経験する様々な周辺化や排除の経験は、受入れ諸国において近年社会問題化する傾向にある。このような状況は、子どもたち自身を移住に関る主体的アクターとして捉えることの必要性を示している。本研究では学齢期に親に連れられてアメリカへの移住を経験し、その後もしばしば移住先と母国の間を行き来する子どもたちであるフィリピン系移民1.5世代に注目する。彼らの経験の特徴は、母国と移住先の双方で、二重の社会化とアイデンティティ形成を経ざるを得なかったという点である。そのような子どもたちの越境に対する主観的経験の焦点化は、今日のトランスナショナルな社会的場における、移動にともなう微細な差異を内包する主体形成とアイデンティティ構築の理解へとつながるであろう。本研究の議論は、一回きりの出来事として完結する移動ではなく、移住後も繰り返されるプロセスとして移動を捉える視点へとつながるであろう。それは、実際の移動が終了した後も継続的に更新される主観的解釈のプロセスや、移動をめぐって揺れ動く感情の変遷を焦点化する。そのような子どもたちの解釈や感情は、取り留めの無く移ろいやすいものとして周辺化されるべきではなく、むしろそこには、今日のトランスナショナルな社会的場に作用する権力作用と、それによって構造化される社会関係の網の目に絡め取られつつ拘束されながらも、他者との微細な差異の認識とともに表出される主体とアイデンティティが鮮明に示されているといえよう。
著者
真崎 克彦
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.4, pp.547-556, 2018 (Released:2018-10-18)
参考文献数
14

Bhutan has recently garnered international praise for its policy of Gross National Happiness (GNH), which seeks to strike a balance between the pursuit of economic growth and that of cultural and spiritual contentment. At the same time, GNH has been criticized by some anthropologists who say that it serves as an “anti-politics machine” that fabricates reality in such a manner as to privilege the standpoint of policy elites, while suppressing the voices of ordinary people. Those engaged in that anti-political critique propose to take the side of ordinary people and reconstruct reality from their hidden voices. That assertion, while potentially helping broaden the debate on GNH, is flawed in that it simplistically assumes that ordinary people merely resent elite control. The anti-political critique resultantly diverts attention from the multiplicity of realities that supersedes the anti-politics machine. One clue that allows us to redress that drawback can be traced to the ontological turn that problematizes our common-sense divide between human societies and non-human objects. Instead of lapsing into the human/nonhuman divide, which leads anthropologists to focus on representations of non-human objects by particular human groups (in this paper, the praise of GNH spearheaded by policy elites, or ordinary people’s alternative representations), the ontological turn focuses attention on the various connections among human and non-human entities. Both are positioned as agents to call into being the multiplicity of reality. This paper looks at the case of a village in central Bhutan, whose residents are immersed in close ties with nonhuman and divine beings, while practicing Buddhism on a daily basis. The anti-political nature of GNH praise surfaced when a businessperson called off a plan to build a golf course in the village, partly in response to a web-based campaign launched by a member of the urban-based elite. That elite member sought to stress, in a media interview, the role of his GNH-inspired campaign in warning against the possible negative environmental, cultural, and spiritual consequences of the plan, and urged the government not to approve it. On the other hand, the following initiative, made by the residents, was sidelined in his story: the residents had also said ‘no’ in a public hearing, despite the lucrative prospects of landing new jobs, on the grounds that the plan would disturb their domestic animals and local deities. The anti-political critique mistakenly posits a simplistic dichotomy of the ‘powerful’ elite versus the ‘powerless’ residents. The ontological turn, on the other hand, takes into account the latter’s active engagement with non-human and divine beings, which empowers them to assess the pros and cons of the plan in their own terms. In that way, the ontological turn enables us to engage in a more balanced debate on GNH than does the anti-political critique, which is plagued by its dwelling on the ‘powerful-powerless’ divide.
著者
小田 亮
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.2, pp.272-292, 2009-09-30 (Released:2017-08-18)

本論文で提示する「二重社会」という視点は、レヴィ=ストロースの「真正性の基準」の議論の帰結、つまり「近代以降、ひとは、真正な社会と非真正な社会という、異なるあり方をした二つの社会を二重に生きている」というものである。本論文では、この「二重社会」という視点が、ネオリベラリズムやグローバリズムに対応する日常的な実践と、そうした実践を可能とする社会的連帯の基盤となる煩わしさと反復による社会関係の評価を可能とすることを示す。すべてを交換可能なものとして一般化するグローバリズムやネオリベラリズムに対抗するために、比較可能で置換可能な差異としての特殊性に依拠することとそれへの批判は「一般性-特殊性」の軸にそってなされる。また、それを批判するネグリ/ハートの議論も同じ対立軸上でなされている。ここで見落とされてきたのは、ドゥルーズが一般性と対比させる「単独性」と「反復」であり、それは「一般性-特殊性」の軸とは異なる「普遍性-単独性」の軸に位置する。これらの軸はレヴィ=ストロースの真正性の水準の議論における「非真正な社会」と「真正な社会」にそれぞれ対応する。「真正な社会」と「非真正な社会」とでは、同じ貨幣や行政機構などの媒体が、質的に異なったものとなる。それらの一般化された媒体は、真正な社会において、一般性を剥奪される。この一般化された媒体を変換する実践は、人類学では、J・パリーとM・ブロックらによる「貨幣を飼い慣らす」実践として議論されてきたが、それらも、「一般性-特殊性」の軸にそった議論にとどまっている。「二重社会」の視点から見直すことで、こうした実践が「普遍性-単独性」の軸にそって非真正な社会との境界を維持するものであるという点が明らかとなる。このように「二重社会」という視点は、ネオリベラリズムやグローバリズムに対応する多様な実践の意味解釈を可能とする。
著者
周 菲菲
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.25-43, 2021

<p>インターネットの普及によって大きく変容する中国人観光者によるオンライン・オフラインの多様な消費実践において、日本は「工匠精神」すなわち「匠の精神」(「職人気質」)の国として新たに形成されている。その実態を理解するために、本稿はアクターネットワーク論を参照しつつ、trip shoot(旅の写真やビデオの作成を中心とするスタイル)をはじめとする多様な個人旅行や、「遊学」や「研学」ツアーに関して参与観察や聞き取り調査を行うことによって、「ブラックボックス」として閉じられた「匠の精神」の内容とその形成のメカニズムを詳細に検討する。それに加え、研究参加者によるSNS投稿の分析と、インターネットにおける半構造化インタビューや動画サイトの視聴コメント分析といった、量的調査を含むオンライン調査による非干渉型の検証を結合した、観光をめぐるハイブリッド・エスノグラフィーの方法論的達成を目的とする。さらに、中国人観光者の「遊学」における「匠の精神」が、中国における伝統の再創造に再帰的につながっていることを明らかにする。</p>
著者
近森 高明
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.202-212, 2017 (Released:2018-04-13)
参考文献数
30

Underground shopping areas are distinctive environments built in many of Japan’s major cities in the 1950’s and 1960’s. This article seeks to delineate the logic and principles underlying the spatial formations of those facilities. A model description can be found in Rem Koolhaas’ famous book, Delirious New York, in which he retroactively reconstructed ‘Manhattanism’ by focusing on how a set of systematic principles work within the seemingly chaotic conditions of skyscrapers. Such principles are derived from the ‘culture of congestion’ of Manhattan, which were also observable in Japanese urban conditions in the 1950’s and 1960’s. Following Koolhaas’ reconstruction, this article introduces the concept of ‘undergroundism’ and reconsiders Marc Augé’s concept of ‘non-place,’ which is widely referred to in the context of how globalization has transformed the urban space. The concept of ‘non-place’ is convincing when it describes the spatial quality of shopping malls, airports and motorways, which are all spaces dealing with the flow of people and things. However, the concept’s limitations are revealed when one considers how it relies on the narrative of globalization. It can be demonstrated that there were spaces before the age of globalization that shared qualities in common with those described by Augé as non- place; one of those is the Japanese underground shopping mall. The first Japanese underground shopping facility was built in 1930. It is crucial to note that the facility was annexed to a subway station, which meant that it targeted the flow of people using the subway to attract potential customers. That fact captures the essence of the facility: namely, as an apparatus to transform the flow of traffic into one of consumption. In the 1950’s and 1960’s, when Japan experienced rapid economic growth, the underground shopping facility was incorporated into the basic scheme of urban redevelopment. During the days of urban redevelopment, major cities were suffering from the problem of congestion and permanent traffic jams. It was determined that the solution would be to develop underground spaces, which would not only realize the separation of pedestrians from vehicles, but also create an ideal vehicle-free shopping area in the city center. A paradigm was invented for that, enabling the scheme of building underground shopping facilities to spread rapidly throughout the country. An analysis of the underground shopping facility identifies the following characteristics: that they 1)are parasitic, 2)multiply themselves, 3)are self-confined artificial spaces, 4)rely on the digital order of urban space, 5)are apparatuses for transforming flows and 6)are ruled by the principle of probability. Those are the principles that constitute undergroundism, which can suspend the narrative of globalization underpinning Augé’s use of the term of non-place. They also enable us to reconsider the continuity and transformation of non-place-like spaces within the history of urban space.
著者
井上 雅道
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.499-522, 2013-03-31 (Released:2017-04-03)

帝国の時代にあって、生-権力は、多様な身体・意識・行為によって構成されるマルチチュードとの交渉の中で、いかにセキュリティを構築し自らを形成しているのか。本稿では、現実の世界がさまざまな出来事を通じて演劇的に構成される仕方を分析する「ドラマトゥルギー」の手法=視点を用いながら、アメリカの大学警察(ケンタッキー大学警察部)の史的かつ民族誌的記述を通してこの問いを考察したい。この目標に向けまず、大学警察が「いれば煙たがられ、いなければ文句を言われる」二律背反に直面するようになった経緯を、1960年代から1970年代にかけての学生運動とその後の歴史的文脈の中で検証する。続いて、いなくて文句を言われることがないよう警察が被疑者・犯罪者を「見る・排除する」プロセスが、いることで煙たがられることのないよう警察が自らをキャンパス共同体(マルチチュード)に「見せる」プロセスといかに交錯しているかを分析し、警察が被疑者・犯罪者とキャンパス共同体を含む三者関係の中で、死に対する(=排除する)権利を行使する「見る主体」と生に対する権力を行使する「見せる主体」とを統合するようになったこと、またこの統合が大学における生-権力=セキュリティの強化をもたらしていること、を明らかにする。その後「生-権力は際限なく強化され、私たちを無力化している」という先行研究の議論の妥当性を検討すべく、近年-特に9・11同時多発テロ以降-セキュリティが強化されたまさにそれゆえに、警察官の意識・行為において見る主体(「死に対する(=排除する)権利」)と見せる主体(「生に対する権力」)の統一が崩れ、そこにある種の危機が現れていることを明らかにする。更にこの危機を「生-権力の臨界」として概念化し、それが呼び起こすマルチチュードの新しい自由・自律への含意を論じた後、この含意を「大学のエスノグラフィー」の可能性の中で検討する。
著者
土谷 輪
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.436-452, 2020 (Released:2021-04-07)
参考文献数
25

本論の目的は、現代京都最大の祭礼である祇園祭に際して流通する「ちまき」という魔除けとそれにより構築される社会関係について、Graeberが論じたフェティッシュによる社会的創造論を批判的に捉えなおすとともに、モノ研究としてその流通を論じるべくKopytoffによるモノの位相に関する論考を参照しつつ考察することにある。Graeberの論じた社会的創造性、つまりフェティッシュへの合意により創造される社会関係の考察において、Graeberは社会関係の創造とフェティッシュの流通の関係を指摘しつつも、実際にどのような交換と流通が行われていたのかを考察の対象にしていなかった。結果としてそこではフェティッシュへの合意のみを基盤とした平板な社会が描かれていた。しかし実際の交換と流通の現場でフェティッシュというモノがいかに動いているかをみていくことで、より重層的な社会関係の理解が可能になる。本論はモノ研究の見地からこの点を論じるために、Kopytoffによるモノの位相論を参照する。Kopytoffはモノの位相として「商品(commodity)」と「特異(singular)」の2つを想定したが、これを再検討し分析に用いることで、京都においてちまきがいかに流通していくのかを解明し、そして人類学において流通するモノに着目することの意義を考察する。
著者
山口 睦
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.464-483, 2020 (Released:2021-04-07)
参考文献数
28

本稿は、山形県南陽市のある農家に保存されている贈答記録に記された献立、食材の分析から、近世・近代の村落部の饗応儀礼食における食材の商品化や外注料理の浸透の様相を明らかにするものである。また、参加者による食材の贈与や共同調理という協働行為で成立していた饗応儀礼食が、この200年余りでどのように変化したかについても検討する。主な資料とするのは、山形県南陽市の農家A家が保存する302点の私的文書(1772~2002年)である。この私的文書には、葬式・法要、結婚、出産、入院・病気、天災、旅行関係、普請、年祝い・年直し、軍隊関係などの通過儀礼に際する贈り物のやりとりが含まれており、宴会が開かれた際の献立も記録されている。 本稿では、葬式、結婚、年直し、普請の献立を分析し、加工品、野菜、果物、タンパク質の利用について200年間の変遷を明らかにした。また、帳面に記載されるA家と各行事の参列者との間で香典、祝儀、手伝い、品物、食材、饗応儀礼食、引物などが贈与され応答関係がみられた。自給作物の利用は、地域社会が豊かな生産の場であることの表れであり、さらにこれらの献立には食材の贈与と調理における協働という他者との関係性が内包されていた。A家の献立は、記録、保存、参考に調理するというA家における歴史的な身体的行為と、食材を共有し、共同調理を行うY地区という地理的、身体的共同性が交わるところに展開されてきたといえる。
著者
新本 万里子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.1, pp.025-045, 2018 (Released:2019-02-24)
参考文献数
25

本稿は、モノの受容を要因とするケガレ観の変容を、女性の月経経験に対する意識とその世代間の違いに着目して明らかにすることを目的とする。パプアニューギニア、アベラム社会における月経処置の道具の変遷にしたがって、月経期間の女性たちがどのような身体感覚を経験し、月経期間をどのように過ごしているのかについて民族誌的な資料を提示する。その上で、月経を処置する道具を身体と外部の社会的環境を媒介するものとみなし、そこにどのような意識が生じるのかを考察する。これまで、パプアニューギニアにおいて象徴的に解釈されてきた月経のケガレ観を、女性たちの月経経験とケガレに対する意識との関連という日常生活のレベルから捉え直す。 本稿では、月経処置の道具の変遷にしたがい、女性たちを四世代に分類した。第一世代は、月経小屋とその背後の森、谷部の泉という場で月経期間を過ごした世代である。第二世代の女性たちは、布に座るという月経処置を経験した。この世代は、月経小屋が土間式から高床式に変化し、さらには月経小屋が作られなくなるという変化も経験している。第三世代は、下着に布を挟むという月経処置をした女性たちである。第四世代は、ナプキンを使用した女性たちである。各世代の女性たちの月経経験とケガレに対する意識との関係の分析を行い、第一世代の女性たちは、男性の生産の場から排除される自分の身体にマイナスの価値づけだけをしていたのではなく、むしろ男性の生産の場に入らないことによって、男性の生産に協力するという意識をもっていたことを明らかにする。第二世代、第三世代を経て、第四世代の女性たちは、月経のケガレに対する意識を維持しながらも、月経期間の禁忌をやり過ごすことができるようになったことを論じる。
著者
田口 陽子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.84, no.2, pp.135-152, 2019 (Released:2019-11-11)
参考文献数
30

人類学における親族論は、生殖医療技術の発展や、多様な婚姻制度の拡大や、グローバルなケア労働の再配置によって、再活性化してきた。「親族とは何か」という問いがより根本的に揺さぶられるとともに、親族関係を成り立たせている物語が切実な問題として立ち現れてきた。本稿は、インド都市部の世帯運営を事例に、相互に依存する関係のなかに生きる人々が、どのようにその関係を組み替えうるのかを考察する。そのさい、フィクションという視点から親族関係をとらえなおそうとする議論と、社会的想像力やモラリティの変容をめぐる議論を補助線とする。ムンバイの世帯という単位から親族を論じることで、社会と家族や公的領域と私的領域という境界にとらわれることなく、労働や責任や期待をめぐる語り口と実践を通して、人間のつながりや関係性を照らしだすことを試みる。 まずは、生物学的なものと社会的なものの区分を所与とせず、関係性をとらえなおそうとしてきた人類学的な親族論と物語をめぐる論点を整理する。つぎに「世帯」という単位を参照枠とし、グローバルなケア労働に関する議論を経由したうえで、インドにおけるヒエラルキカルなモラリティの変容について検討する。現代インド都市部における家事労働者をめぐる状況には、カースト分業/紐帯に、消費者の選択と労働者の権利をめぐる問題が入り込み、ヒエラルキーと交換という異なるモラリティが絡みあっている。本稿は、ムンバイを舞台に、一見ふつうの世帯の形成と維持を、民族誌的な物語として描いていく。そうすることで、日常的に作り出されている「奇妙な親族」に光を当て、婚姻と血縁からなる家族の規範に依拠するのではなく、また同等な個人間の交換に移行するのでもなく、別の形でつながりを想像し、他者との相互依存的な関係を構築していく可能性を考える。