著者
深井 智朗
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.139-154, 2012-03

二〇〇九年三月、一九三三年のナチスの焚書の際に非ドイツ的な思想と判断され、その後発禁処分、断裁処分となったパウル・ティリッヒの『社会主義的決断』の初版の一冊が京都大学文学部長を歴任した神学者有賀鐵太郎の蔵書から発見された。この書物は戦後一九四八年になってリプリント版が出版され、それによって広く知られ、読まれるようになったが、初版は大変貴重なものである。 本論は、(1)この書物に著者ティリッヒ自身や所有者である有賀によって書き込まれたさまざまな情報、また京都大学文書館、ハーヴァード大学アンドーバー神学図書館ティリッヒ文庫、さらには東京の国際文化会館で同時期に発見したティリッヒと有賀との往復書簡、有賀の日記やティリッヒの未出版の諸文書、また『社会主義的決断』の出版元ポツダムのアルフレット・プロッテ出版社についてブランデンブルク州文書館に残されていた諸資料に基づいて、この書物が有賀の手に届いた経緯を解明しようとするものである。また、(2)この書物がティリッヒと有賀とのその後の交流において果たした役割についても解明した。そしてさらに、(3)ドイツで生まれ、ニューヨークで亡命知識人として生きたティリッヒと欧米の神学を日本で最初に本格的に受容した京都の神学者有賀鐵太郎との知的交流を「同時代史」という視点から考察した。
著者
黄 自進
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.42, pp.93-121, 2010-09-30

蒋介石は生涯にわたって、自分の成長経験を取り上げ、国民を激励する講演あるいは訓示を行っていた。そこでよく取り上げられたのは、母の教訓と新潟県高田連隊での軍人生活であった。八歳の時に父を失った蒋介石には、いわゆる家庭教育が当然母の教訓しかなかった。高田連隊の軍人生活が母の教訓と肩を並べて論じられたことは、彼の生涯に日本での留学経験がいかなるウエートを占めていたのかを窺わせよう。
著者
阿満 利麿
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.9, pp.p55-67, 1993-09

死後の世界や生まれる以前の世界など<他界>に関心を払わず、もっぱら現世の人事に関心を集中する<現世主義>は、日本の場合、一六世紀後半から顕著となってくる。その背景には、新田開発による生産力の増強といった経済的要因があげられることがおおいが、この論文では、いくつかの思想史的要因が重要な役割を果たしていることを強調する。 第一は、儒教の排仏論が進むにつれてはっきりしてくる宗教的世界観にたいする無関心の増大である。儒教は、現世における倫理を強調し、仏教の脱社会倫理を攻撃した。そして、儒教が幕府の正統イデオロギーとなってからは、宗教に対して無関心であることが、知識人である条件となるにいたった。 第二の要因は、楽観的な人間観の浸透である。その典型は、伊藤仁斎(一六二七―一七〇五)である。仁斎は、正統朱子学を批判して孔子にかえれと主張したことで知られている。彼は、青年時代、禅の修行をしたことがあったが、その時、異常な心理状態に陥り、以後、仏教を捨てることになった。彼にとっては、真理はいつも日常卑近の世界に存在しているべきであり、内容の如何を問わず、異常なことは、真理とはほど遠い、と信じられていたのである。また、鎌倉仏教の祖師たちが、ひとしく抱いた「凡夫」という人間認識は、仁斎にとっては遠い考えでもあった。 第三は、国学者たちが主張した、現世は「神の国」という見解である。その代表は、本居宣長(一七三〇―一八〇一)だが、現世の生活を完全なものとして保障するのは、天皇支配であった。なぜなら天皇は、万物を生み出した神の子孫であったから。天皇支配のもとでは、いかなる超越的宗教の救済も不必要であった。天皇が生きているかぎり、その支配下にある現世は「神の国」なのである。 しかしながら、ここに興味ある現象がある。儒教や国学による激しい排仏論が進行していた時代はまた、葬式仏教が全国に広がっていた時期でもある。民衆は、死んでも「ホトケ」になるという葬式仏教の教えに支えられて、現世を謳歌していたのである。葬式仏教と<現世主義>は、楯の両面なのであった。
著者
千田 稔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.14, pp.125-145, 1996-07-31

小稿は、空間的属性である道路から、日本古代の王権の一端を探ろうとするものである。ここで対象とする道路は大和から河内に通ずる「南の横大路」―竹内街道と「北の横大路」―長尾街道である。「ミチ」という言葉の原義は、「ミ」+「チ」で、「ミ」は接頭辞で神など聖なるものが領するものにつくという説にしたがえば、「ミチ」は本来神に結び付くものであった。 「南の横大路」の東端の延長線上に神の山、忍坂山が、「北の横大路」の東端には和爾下神社が位置することは「ミチ」の語義にかなう。忍坂山のあたりは息長氏の大和における本拠地であり、和爾下神社はワニ氏によって奉斎されたものである。したがってこの両道は大王家の外戚氏族である息長・ワニ氏に関わるものとみられる。以上のことから両氏あるいは関係氏族から皇妃を入れた大王の墳墓が、河内の竹内・長尾街道沿いにあることが伝承されることが説明でき、同時に河内王朝論には慎重にならざるをえないと考える。
著者
池内 恵
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.36, pp.109-120, 2007-09-28

日本におけるイスラーム思想の研究において、井筒俊彦の諸著作が与えた影響は他を圧している。日本の知識階層のイスラーム世界理解は、ほとんど井筒俊彦の著作のみを通じて行われてきたと言ってしまっても誇張ではないかもしれない。井筒の著作の特徴は、日本の知識人のイスラーム理解の特徴と等しいともいえる。この論文ではまず、井筒の著作において関心がもっぱらイスラーム神秘主義(スーフィズム)とイスラーム哲学にあり、イスラーム法学についてはほとんど言及されないことを指摘する。その上で、井筒がイスラーム思想史の神秘的な側面に特に重点をおいたことは、井筒が禅の素養を持つ父から受けた神秘的修道を基調とする教育に由来すると論じる。また、井筒の精神形成をめぐる自伝的な情報を井筒の初期の著作に散在する記述から読み取り、井筒の神秘家としての生育環境が、イスラーム思想史をめぐる著作に強く影響を及ぼしていることを示す。
著者
孫 才喜
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.79-104, 1999-06

太宰治(一九〇九―一九四八)の『斜陽』(一九四七)は、日本の敗戦後に出版され、当時多くの反響を呼んだ作品である。本稿では、かず子の手記の物語過程と、作品中に頻出している蛇に関する言説を中心に作品を読み直し、『斜陽』におけるかず子の「恋と革命」の本質の探究を試みた。 敗戦直後の日本は激しい混乱と変化の時期を迎えていた。かず子の手記はそのような日本の社会的状況や文化的な背景と切り離して読むことは難しい。貴族からの没落と離婚と死産を経験したかず子は、汚れても平民として生きていくことを決意する。このようなかず子の生き方は、最後の貴族として美しく死んでいった母や、最後まで貴族としての死を選んだ弟の直治とは、非常に対照的である。 かず子は強い生命力の象徴である蛇を内在化させることによって、自分の中に野生的な生命力を高めていった。また聖書の中のキリストの言葉、「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」をもって、おのれの行為を正当化し、悪賢くても生き延び、「道徳革命」を通して「恋と革命」を成し遂げる道を選ぶのである。その「革命」は「女大学」的な生き方を否定し、「太陽のように生きる」ことである。この「女大学」は、日本の近代化のなかで強化されてきた家父長制度のもとで、女性に強いられた良妻賢母の生き方を象徴している。また「太陽のように生きる」とは、明治末から大正にかけて活動していた青鞜派の女性たちを連想させており、「女大学」的な旧倫理道徳を否定し、新しい道徳をもつことである。母になりたい願望をもっているかず子は、「恋」の戦略によって、家庭をもつ上原を誘惑し、彼の子供を得た。しかしそれはかず子の「道徳革命」の一歩にすぎない。かず子が母と子どもだけの母子家庭を築き上げて、堂々と生きていったとき、かず子の「道徳革命」は完成されるのである。 本稿では『斜陽』における蛇に関する言説と日本の民間信仰、聖書との関係、家父長制度とかず子の「道徳革命」との関係などを分析しており、それらが作品の展開とテーマの形成に深くかかわっていることが明らかにされている。
著者
芳賀 徹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.16, pp.187-209, 1997-09

夏目漱石(一八六七―一九一六)作『永日小品』は明治四十二年(一九〇九)正月元旦から三月半ばにかけて、大阪、東京の『朝日新聞』に断続的に連載された。『三四郎』と『それから』の二長編の間にはさまれた小傑作集なのに、従来あまり論じられないできたから、これを漱石の二十五の美しい離れ小島と呼ぶことができる。また作者はここで、前年の『夢十夜』にもまして多彩で多方向の詩的想像力の展開を試みているから、これを漱石の実験の工房と呼ぶこともできよう。 本稿ではそのなかから「印象」と題された一篇のみをとりあげて、これにエクスプリカシオン・ド・テクスト(文章腑分け)を試みる。ここには明治三十三年(一九〇〇)十月二十八日夜の漱石のロンドン到着と、その翌日、ボーア戦争からの帰還兵歓迎の大群衆に巻き込まれて市内をさまよった経験とが喚起されていることは、確かである。だが作者はそれらの過去の事実を故意に一切伏せて、日時も季節もロンドンとかトラファルガー・スクエアとかの地名さえも示さない。ただあるのは、この初めての異国の「不思議な町」で、道に迷うまいと重ね重ね注意しているうちに、いつのまにか顔のない、声のない、「背の高い」大群衆の一方向にひた押しに進む波のなかに「溺れ」てしまったことの、不安と恐怖と自己喪失の感覚のみである。自分が昨夜泊った宿も、ただ「暗い中に暗く立つてゐた」と想起されるだけで、その「家」の方角さえも不明になったとき、話者は「人の海」のなかにあって「云ふべからざる孤独」の深さを自覚する。 イギリス留学時代の英文学者漱石の孤独がいかに落莫として痛切なものであったかをうかがい知ることができる。そしてそれを伝えながらも、この商品は来るべきカフカや阿部公房の小説をすら予感させるものであったとも言えるのではなかろうか。
著者
小谷野 敦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.297-313, 2008-09

田山花袋の『蒲団』については、さまざまに評されているが、中には、伝記的事実を知らず、ただ作品のみを読んで感想を述べるものが少なくなく、また伝記的研究も十分に知られていないのが実情である。本稿では啓蒙的意味をこめ、ここ十数年の間に明らかにされた手紙類を含めて、その成立経緯を改めて纏め、「横山芳子」のモデルである岡田美知代と花袋の関係を纏めなおし、花袋がどの程度美知代に「恋」していたのかを査定するものである。 「蒲団」は、作家の竹中時雄が、女弟子だった横山芳子への恋慕と情欲を告白する内容だが、芳子のモデルは実際に花袋の弟子だった岡田美知代である。発表以後、これがどの程度事実なのか、論争が続いてきた。戦後、平野謙は、「蒲団」発表後も、岡田家と花袋の間で手紙のやりとりがなされていることから、虚構だったとし、半ば定説となっていた。しかし、館林市の田山花袋記念館が一九九三年に刊行した、花袋研究の第一人者である小林一郎の編纂になる『「蒲団」をめぐる書簡集』により、新たな事実が明らかになった。美知代が弟子入りしてほどなく、花袋は日露戦争の従軍記者として出征しているが、この事実は「蒲団」では省かれている。だが、その際美知代から花袋に送った手紙には、恋文めいたものがあった。妻の目に触れるものであるから、花袋は冷静な返事をしていたが、花袋が帰国した後、美知代は一時帰省し、神戸で英語教師をしていた兄の実麿の許にあって、神戸教会の催しで、キリスト教徒の永代静雄と出会い、恋に落ちる。そして神戸を発って東京へ帰るのに三日かかり、途次に静雄と会っていたのではないかと疑われ、美知代が肉体関係を告白したために親元へ帰されるところで「蒲団」は終わっている。 しかし手紙を見ると、永代と知り合ってから、花袋宛の熱っぽい手紙がなくなり、花袋はもとはさほどに思っていなかった美知代に急に恋着を感じ始めたことが、その後の花袋の美知代宛の手紙に恋を歌った詩がいくつかあることから分かる。つまり真相は、美知代からの恋文があったために花袋もその気になったところへ、永代という恋人ができたため美知代の働きかけがなくなって花袋が煩悶し始めたというものであると分かり、「蒲団」は決して虚構ではなかったのである。 美知代は花袋との縁が切れてからは、繰り返し「蒲団」における、主として「田中」つまり永代の描き方に不満を述べているが、晩年には、永代との関西での同衾はなかったと主張している。しかし三日の遅延はうまく説明できておらず、説得力はない。
著者
根川 幸男
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.46, pp.125-150, 2012-09-28

小稿は、小林美登利という一日本人キリスト者の移動・遍歴の足跡を、会津、同志社、ハワイ・米国、ブラジル渡航後、一時帰国期の五期に分けてたどり、グローバルな複数地域を横断する越境史として捉えなおす試みである。小林は、会津でキリスト教に出会い、同志社人脈を通してハワイ・米本土での伝道・留学の機会をつかみ、米国で強力な支援者を得た。またブラジルではマッケンジー大学を通して人脈を構築し、日系移民子弟教育というニーズを背景に聖州義塾という教育機関を設立した。さらに日本に一時帰国した小林は、渋沢栄一の知遇を得、渋沢の呼びかけによって、日本財界から多額の寄付金を獲得、義塾事業拡張を達成するのである。彼はこの過程で、会津という地縁、同志社などの学校縁、キリスト教会という信仰縁、在米・在伯日本人というエスニック縁の活用によって、右記四地域を横断する越境ネットワークを形成した。渋沢の支援も米国内の排日運動への対応と連動しており、小林の越境ネットワークは日本の国益を背景とする彼らのネットワークに接続することによって、広がりを見せ強化されるのであった。そこには、それぞれの〈縁〉を活用し、自前のネットワークをより大きく強固なネットワークに接続していくことによって、連鎖的にネットワークを拡大していくメカニズムが働いている。こうした〈縁〉を通じたネットワークは、ブラジルという異国で小林の事業を展開するための資源として活用され、聖州義塾は小林の「真の意味の伯化」という理念にもとづき、ブラジル日本人移民とその子弟たちの二文化化のエージェントとして排日予防啓発の役割を担うのである。
著者
田代 慶一郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.32, pp.227-259, 2006-03-31

『弱法師』は能の五流で現行の曲であって上演も稀ではなく、演者に人を得れば、素晴らしい舞台として輝くこともある。『弱法師』は世阿弥の伝書『五音』によって観世元雅の作であることが知られている。
著者
田中 秀臣 中村 宗悦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.21, pp.171-186, 2000-03-30

本論文の目的は、戦時下の生活雑誌――月刊『時局月報』『国防国民』の意義を検討することにある。戦時下の日本では「生活雑誌」という言葉は、家事のための雑誌ではなく、政治経済雑誌を意味していた。『時局月報』とそれが名称変更した『国防国民』の両雑誌は、長谷川国雄(一九〇一―八〇)が編集し発行したものである。長谷川は、一九二九年から三六年にかけて、経済雑誌『サラリーマン』を発行していた。『サラリーマン』の独自性は、新中間階級の読者に対する経済知識の啓蒙にあった。『サラリーマン』は、官憲による不法な弾圧によって休刊を余儀なくされてしまった。しかし、『時局月報』と『国防国民』は、『サラリーマン』の直接の後継誌として、同じ編集方針を継承するものであった。さらに、両誌は、統制経済の観点から、人的資源と物的資源の再配置と改善を提唱するものだった。
著者
尾本 惠市
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.14, pp.197-213, 1996-07-31

本論文は、北海道のアイヌ集団の起源に関する人類学的研究の現況を、とくに最近の分子人類学の発展という見地から検討するもので、次の3章から成る。
著者
竹村 民郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.37, pp.315-327, 2008-03-31

エベネザー・ハワードの田園都市運動の影響を受けた我国の「田園都市」形成と、公衆衛生との結合の問題についての考察は、アカデミズムで俎上にのせられて議論の対象となるようなことは、これまでなかった。従って日本型「田園都市」の独自の論理と、当時における結核対策の関係性は今日まで、検討されずに残されてきた。本稿では、主として都市計画が軌道にのりだした二十世紀初頭の大阪市における関市政の時代を対象として、従来「田園都市」の形成と呼ばれてきたものの構造に、結核予防の視点からアプローチすることによって、関西の「田園都市」形成を日本近代都市社会史の文脈の中に位置づけてみたい。本稿では右の問題意識に立ち、研究の便宜上、ひとまず分析の対象を次のように限定した。第一に大阪市における公衆衛生全般について論じず、主として阪神間の郊外住宅地形成と公衆衛生の関連に焦点をしぼった。第二に公衆衛生政策のうち、結核予防に重大な影響を与えたと思われる諸問題を論じた。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.15-34, 1999-06

オイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』は、日本文化論として広く読まれている。この論文では、ヘリゲルのテクストやその周辺資料を読み直し、再構成することによって、『弓と禅』の神話が創出されていった過程を整理した。はじめに弓術略史を示し、ヘリゲルが弓術を習った時点の弓術史上の位置づけを行った。ついでヘリゲルの師であった阿波研造の生涯を要約した。ヘリゲルが入門したのは、阿波が自身の神秘体験をもとに特異な思想を形成し始めた時期であった。阿波自身は禅の経験がなく、無条件に禅を肯定していたわけでもなかった。一方ヘリゲルは禅的なものを求めて来日し、禅の予備門として弓術を選んだ。続いて『弓と禅』の中で中心的かつ神秘的な二つのエピソードを選んで批判的検討を加えた。そこで明らかになったことは、阿波―ヘリゲル間の言語障壁の問題であった。『弓と禅』で語られている神秘的で難解なエピソードは、通訳が不在の時に起きているか、通訳の意図的な意訳を通してヘリゲルに理解されたものであったことが、通訳の証言などから裏付けられた。単なる偶然によって生じた事象や、通訳の過程で生じた意味のずれに、禅的なものを求めたいというヘリゲル個人の意志が働いたことにより、『弓と禅』の神話が生まれた。ヘリゲルとナチズムの関係、阿波―ヘリゲルの弓術思想が伝統的なものと錯覚されて、日本に逆輸入、伝播されていった過程を明らかにすることが今後の研究課題である。
著者
須藤 遙子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.393-409, 2009-11

二〇〇五年は自衛隊の協力を前面に打ち出した映画が、大規模な宣伝を伴って続々公開され始めた年である。これらの作品群は「愛国」や「自己犠牲」といった共通のメッセージや政治性を帯びており、この傾向は現在でも続いている。本稿では、自衛隊が製作に協力する一般劇映画(以下、自衛隊協力映画)を一つの映画ジャンルとして捉え、その内容と製作のあり方を検証する。防衛省の通達により、自衛隊協力映画は自衛隊員のみならず、戦車・戦闘機・戦艦までもが無償で提供されるため、製作側からのオファーが続いている。『亡国のイージス』『戦国自衛隊一五四九』『男たちの大和/YAMATO』『ローレライ』『ミッドナイトイーグル』『日本沈没』などの具体的内容を検証していく。 次に、二〇〇八年秋に大きな政治問題となった、前航空幕僚長の田母神敏夫による論文が主張する内容と自衛隊協力映画との共通性をとりあげる。田母神は「国防という重大な使命」を達するために構築すべき、防衛力の基盤としての「愛国心」を問題としている。一九六一年に制定された「自衛官の心がまえ」の内容とほぼ一致する田母神論文は、「ことに臨んでは、身をもって職責を完遂する」ような「健全な国民精神」の構築を訴えているのだ。 田母神論文には厳しい批判をしたマスコミ各社だが、自衛隊協力映画の製作委員会に入っていることで、自社媒体の主張とは異なるプロパガンダを積極的に流している。一般全国紙及び系列の民放キー局は全て、何かしらの自衛隊協力映画に出資している。現代においてはマスコミ各社も映画産業の一部となり、政治・経済・文化とマス・メディアのポジショニングはさらに複雑化している。それが最も顕著に表れているのが、「自衛隊協力映画」というジャンルといえる。 「自衛隊協力映画」という新しいジャンルを主張することで、映画というポピュラー文化に浸透する政治性を明らかにするのが目的である。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.35, pp.527-536, 2007-05-21

この論文では、日文研でのCMの共同研究の成果を踏まえて、テレビ・コマーシャル(CM)による文化研究の過去と現状を通覧する。日本のCM研究は、映像のストックがない、コマーシャルを論じる分野や論者が極めて限定されていたという問題がある。CMによる文化研究という面では、ロラン・バルト流の記号分析を応用した研究が八〇年代初頭からみられた。しかし、研究の本格的な進展は、ビデオ・レコーダが普及した八〇年代後半からだった。その後、CMの評価の国際比較、ジェンダー、CM作品の表現傾向と社会の相関を探る研究などが生まれた。
著者
小松 和彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.35, pp.311-340, 2007-05-21

高知県香美市の山間地域、旧物部村(この村の南半分が近世の槇山郷である)には、いざなぎ流と呼ばれる民俗宗教が伝承されている。いざなぎ流は、神道、陰陽道、修験道、シャーマニズム、民間信仰などが混淆した宗教で、その宗教的専門家はいざなぎ流太夫と呼ばれている。本稿は、このいざなぎ流太夫たちの先祖たちが関与していたと思われる「天の神」の祭り、特に岡内村の名本家の天の神祭りを詳細に記述し若干の考察をすることを目的としている。
著者
楊 暁捷
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.46, pp.13-30, 2012-09-28

詞書と絵によって構成される中世の絵巻は、独自の表現の規則を持つ。その規則を析出することは、絵巻読解の上で大事な課題である。この論考は、言語における文法の言説を応用して、「絵巻の文法」を構築しようとする。規則の細目を説明するために、中世絵巻の基準作である『後三年合戦絵詞』三巻十五段を用いる。
著者
林 洋子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.32, pp.13-37, 2006-03-31

両大戦間の日本とフランスの間を移動しながら活躍した画家・藤田嗣治(一八八六―一九六八)は、一九二〇年代のパリで描いた裸婦や猫をモティーフとするタブローや太平洋戦争中に描いた「戦争画」で広く知られる。しかしながら、一九二〇年代末から一九三〇年代に壁画の大作をパリと日本で複数手がけている。なかでも一九二九年にパリの日本館のために描いた《欧人日本へ到来の図》は、画家がはじめて本格的に取り組んだ壁画であり、彼にとって最大級のサイズだっただけでなく、注文画ながら異国で初めて取り組んだ「日本表象」であった。近年、この作品は日本とフランスの共同プロジェクトにより修復されたが、その前後の調査により、当時の藤田としては例外的にも作品の完成までに約二年を要しており、相当数のドローイングと複数のヴァリエーション作品が存在することが確認できた。本稿では、この対策の製作プロセスをたどることにより、一九二〇年代の静謐な裸婦表現から一九三〇年代以降の群像表現に移行していくこの画家の転換点を考える。
著者
姜 鶯燕 平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.301-335, 2012-03

平安末期の僧である法然は、比叡山で天台を学び、安元元(一一七五)年に称名念仏に専念する立場を確立し、浄土宗を開いた。庶民だけではなく関白九条兼実など、社会的地位に関係なく多くの者たちが法然の称名念仏に帰依した。建暦二(一二一二)年に亡くなったあとも、法然の説いた教えは浄土宗という一派だけではなく、日本仏教や思想に影響を与えた。入滅から四八六年が経った元禄一〇(一六九七)年には、最初の大師号が加諡された。法然の年忌法要が特別に天皇の年忌法要と同じく御忌とよばれているが、正徳元(一七一一)年の滅後五〇〇年の御忌以降、今日に至るまで五〇年ごとに大師号が加諡されており、明治になるまでは勅使を招いての法要もおこなわれていた。本稿は、法然の御忌における法要が確立した徳川時代のなかで、六五〇年の御忌の様子を記録した 『蕐頂山大法會圖録全』『勅會御式略圖全』の翻刻を通じて、徳川時代における御忌のあり方を浮かび上がらせることを目的とした。