著者
田 云明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.11-30, 2013-03

日中文化交流において、仏教者による文化導入の重要性が日本の特牲として指摘されている。渡唐した留学僧は、国から派遣された知的エリートとして、仏教経典を研鑚するのみならず、作詩を含む文化活動にも参加した。彼らの文壇での活躍ぶりは、すでに『懐風藻』などの漢詩集に現れている。ここで注目されるのが、僧侶による詩作に隠逸志向を表す表現が少なからず見出せるということである。仏教修行の僧侶が隠逸表現を詩作に詠み込むことは、当時の僧侶が隠者という観念上の存在と同一視される契機となった。本稿は、公的文化伝播者・布教者という特殊な立場に置かれた僧侶に注目し、彼らの詩作、彼らに纏わる僧伝に現れた隠逸表現、及び同じく文壇で活躍する宮廷人の詩作に見られる僧侶観について考察し、文学表現における僧侶と隠者のつながり、さらに日本における隠逸表現の受容と再構築における僧侶の役割を究明しようとするものである。 具体的には、まず、『懐風藻』僧伝、とりわけ留学僧の卒伝と詩作に見られる脱俗性・反俗性に着目し、隠者を彷彿とさせる僧侶像、及び詩作が帯びる隠逸志向を考察する。とくに「竹林」「佯狂」「方外士」「養性」など隠者と文学的つながりを持つ表現によって、文学における僧侶と隠者の境界がいかに曖昧になったのかを分析する。次に、主に嵯峨天皇をはじめとする宮廷人が詠んだ『文華秀麗集』『経国集』の梵門詩について検討する。とくに、僧侶と宮廷人が〈仏〉〈俗〉の対立関係にありながら、〈隠〉をもって両者を同化させようとする宮廷人の作詩傾向に重点をおいて考察する。以上の考察を通して、日本における隠逸表現の受容と再構築における僧侶の役割を明らかにする。
著者
藤原 貞朗
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.221-253, 2002-12
被引用文献数
1

一八九八年にサイゴンに組織され、一八九九年、名称を改めて、ハノイに恒久的機関として設立されたフランス極東学院は、二〇世紀前半期、アンコール遺跡の考古学調査と保存活動を独占的に行った。学術的には多大な貢献をしたとはいえ、学院の活動には、当時インドシナを植民地支配していたフランスの政治的な理念が強く反映されていた。 一八九三年にフランス領インドシナ連邦を形成し、世界第二の植民地大国となったフランスは、国際的に、政治、経済および軍事的役割の重要性を誇示した。極東学院は、この政治的威信を、いわば、学術レベルで表現した。とりわけ、活動の中心となったアンコールの考古学は、フランスが「極東」に介入し、「堕落」したアジアを復興する象徴として、利用されることとなった。学院は、考古学を含む学術活動が、「植民地学」として、政治的貢献をなしうるものと確信していたのである。しかし、植民地経営が困難となった一九二〇年代以降、学院は、学術的活動の逸脱を繰り返すようになる。たとえば、学院は、調査費用を捻出するために、一九二三年より、アンコール古美術品の販売を開始する。「歴史的にも、美術的にも、二級品」を、国内外の美術愛好者やニューヨークのメトロポリタン美術館などの欧米美術館に販売したのである。また、第二次大戦中の一九四三年、学院と日本との間で「古美術品交換」が行われ、学院から、東京帝室博物館に、「総計八トン、二三箱のカンボジア美術品」が贈られるのである。いわば、政治的な「貢ぎ物」として、日本にカンボジアの古美術品が供されるかたちとなった。 アンコールの考古学は、フランスの政治的威信の高揚とともに立ち上げられ、その失墜とともに逸脱の道を歩む。具体的な解決策を持たないまま一九五〇年代まで継続された植民地政策のご都合主義に、翻弄される運命にあったのである。アンコール遺跡の考古学の理念が、「過去の蘇生」の代償として「現在の破壊」を引き起こしてきたこと、アンコール考古学の国際的な成熟が、現地に多大な喪失を強いたという歴史的事実を確認したい。再び、アンコール遺跡群の保存活動が開始された現在、この歴史的事実を確認する意義はきわめて大きい。
著者
小松 和彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.35, pp.311-340, 2007-05-21

高知県香美市の山間地域、旧物部村(この村の南半分が近世の槇山郷である)には、いざなぎ流と呼ばれる民俗宗教が伝承されている。いざなぎ流は、神道、陰陽道、修験道、シャーマニズム、民間信仰などが混淆した宗教で、その宗教的専門家はいざなぎ流太夫と呼ばれている。本稿は、このいざなぎ流太夫たちの先祖たちが関与していたと思われる「天の神」の祭り、特に岡内村の名本家の天の神祭りを詳細に記述し若干の考察をすることを目的としている。
著者
羽生 清
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.11, pp.p125-133, 1994-09

かつて、わが国の衣裳において、現代デザインでは見られなくなった文脈が生きていた。 衣裳は、身体に着せられたばかりではない。古代には、普段の風景とは異なった桜柳や紅葉など美しい自然の情景が、神の衣裳にたとえられた。(みたて) 近世になると、「源氏ひながた」に見られるように、町人が古代の世界を模倣し、自分を物語のヒロインに想定して楽しんでいる。(もどき) 「友禅ひいながた」では、豪華な素材にはない軽さを大切にして、折りや刺繍とは異なる染め衣裳が流行する。そこに、それまでの価値観を否定した新しい美意識が誕生した。(やつし) 華やかな友禅が粋な小紋に変わって行くと、山東京伝の「小紋雅話」のなかに、中国伝来の有職文様を解体しながら遊ぶ批評精神が窺える。(くずし) 崇高な神の衣裳から下世話な庶民の衣服へと、衣を通して時代の生活意識を見ることができる。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.527-536, 2007-05

この論文では、日文研でのCMの共同研究の成果を踏まえて、テレビ・コマーシャル(CM)による文化研究の過去と現状を通覧する。日本のCM研究は、映像のストックがない、コマーシャルを論じる分野や論者が極めて限定されていたという問題がある。CMによる文化研究という面では、ロラン・バルト流の記号分析を応用した研究が八〇年代初頭からみられた。しかし、研究の本格的な進展は、ビデオ・レコーダが普及した八〇年代後半からだった。その後、CMの評価の国際比較、ジェンダー、CM作品の表現傾向と社会の相関を探る研究などが生まれた。 現代のCM研究者は、CMという言葉から通常私たちが想像するような、一定の映像様式が存立する根本を見直しはじめている。名作中心主義による研究の妥当性、CMに芸術性をみいだそうとする力学の解明、CMを独立した単体ではなくテレビ番組との連続性の中に定位しようとする研究、CMと国民国家の関係を問う研究などが進められている。 しかしながら、CM研究をさらに進めるには、映像資料の入手可能性、保存体制などに大きな限界があり、研究環境の早急な改善が必要である。
著者
郭 永哲
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.17, pp.221-254, 1998-02

日本語と韓国語とは、漢字使用や文法的構造の類似性などから他の国の言語より親密性を持っている。これらの漢字使用と文法的構造の接点は古くからあり、日韓両国語は互いに間接影響しあうようになったと見られる。韓国語における日本語との交渉という面は、歴史的には非常に古いと言えるが、その具体的接触は朝鮮通信使の使行記録からであると言ってよい。 今回の調査では、日韓併合以前の開化期教科書に用いられている漢字語を抽出し、その典拠別に分類し使用実態の把握を試みた。六種の教科書から漢字語を抽出し、それぞれの漢字語の出自を念頭において、中国・韓国・日本の辞書への登載有無を調査しつつ、各グループ別の使用実態や特徴などを調べてみた。さらに、日本語の関与による漢字語を確定し、その実態などについても述べた。今回調査した漢字語の中では、①幕末・明治初期以降、日本において西洋伝来の新しい概念を付与するために用いられた、漢籍に典拠をもつ「転用語・日本経由語」と、②日本人によって新しく作られた「日本製漢語」とが相当見出された。 抽出語をその出自別分布・使用率から分析すると、次のようなことが言える。① 籍・漢訳仏典に典拠のある語のうち、韓国・日本の両辞典に見出される語が八割を越えた。② 漢籍・漢訳仏典に典拠の不明な語は、韓・日共通登載率が約三割に過ぎない半面、韓国の辞書にのみ見られる語または死語となった語の比率が高い。③ 韓国固有漢字語は、家族制度・社会倫理・礼儀作法に関する語が多かった。日本語の関与による語は、その使用率の高い語が多い。前項③に比べて、文明開化に伴う新しい概念を表す専門用語が多く見られた。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.49, pp.147-181, 2014-03-31 (Released:2015-11-11)

現在、日本では、「痴漢」による被害が多発しており、一つの社会問題となっている。とりわけ電車内における被害が多いようだ。その対策として「女性専用車両」が多くの沿線で設けられたりもしている。 にもかかわらず、「痴漢」に関する研究は非常に少ない。とりわけ文化的なアプローチをとったものは皆無に等しい。本稿は、「痴漢」に関する語義変化の時期の確定と、読みや表記に関する変化について考察するものである。本来「痴漢」は「おろかな男」という意味であり、それ以外の用法はなかった。それがある時期から現在のような性的な意味を含むようになり、現在では原義での使用例はまったくといっていいほど見られなくなっている。 先行研究によれば、こうした語義変化は二十世紀になってからの現象であるという。そこで本稿では、明治時代以降の雑誌・新聞記事、小説、辞書類などを分析対象として用い、「痴漢」の語義と読み、表記に関する変遷過程を明らかにした。 分析の結果、一八九〇年代以前は、性的な意味合いはほとんどといっていいくらい希薄であった「痴漢」という語が、一九〇〇年前後から徐々に性的な意味が付与されてゆき、一九三〇年代に現在のような意味になったということが明らかになった。それが社会問題化し、盛んに論じられるのは一九五〇年代以降であること、一九六〇年代以降は小説などでも「痴漢」が頻繁に描かれるようになること、なども明らかになった。 読みに関していえば、原義が主流だった時代は、「痴漢」を「ちかん」とは読ませず、「しれもの」などの訓読みがルビとして振られていたが、性的な意味に変化した頃から音読みである「ちかん」が主流になっていくようだ。 表記は一九九〇年代半ばまで「痴漢」と漢字で書くのが普通であったが、ポスターなどで用いられるようになると、最近では「チカン」とカタカナで書かれる場合も多くなってきた。 本稿は以上のような「痴漢」に関する事項を具体的な例を挙げながら論じたものである。 The behavior of men who touch others with sexual intent on Japan's crowded trains, commonly referred to as chikan (gropers), is a continuing social problem. Some especially crowded commuter trains even run "women-only" cars as a countermeasure. Nevertheless, there is little research on chikan, especially from the cultural point of view. This paper considers the changes that have taken place in the meaning and the way the word is written. The original meaning of chikan was "foolish man," and it was not used otherwise. Among the few works on the subject, the prevailing view is that the shift in the current meaning of "groper" occurred after the turn of the twentieth century. This study sets forth the semantic and orthographic changes in use of the word chikan that took place over time as defined in dictionaries and shown in fiction and magazine and newspaper articles since the latter part of the Meiji era (1868-1912). The analysis here shows that the meaning of the word gradually acquired a sexual connotation from around 1900 and, in the 1930s, it was used in the contemporary sense of "groper". The word chikan can be found in articles and works of fiction frequently from the 1950s onward. Concerning the reading of the characters with which chikan is written 痴漢, during the period when the original meaning of foolish man was predominant, instances in documents with accompanying rubi show that it was often read shiremono. As the usage of the word changed to indicate the meaning of "sexually foolish man," the characters came to be read in their on-readings and chikan became standard. The word was commonly written using the Chinese characters until the middle of the 1990s, but as seen on posters, signs, and notices in public areas, it is now most often written in katakana. This paper cites specific examples and sources for the various points made concerning its semantic and orthographic changes of chikan.
著者
外村 中
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.21-40, 2015-03

日本の奈良の東大寺大仏(752年開眼)は、宇宙に花咲く蓮の花托に坐す仏を表したもので、世界的にも有名な芸術作品の一つである。また、日本の華厳宗の大本山である東大寺の本尊であるから、大乗仏教の最も代表的な経典の一つである『華厳経』を当時の日本人が如何に理解していたかを考察する上でも、非常に重要な仏像である。ところが、大仏は、意匠的には、華厳宗がもとづく『華厳経』よりも律宗で重んじられた『梵網経』の内容に符合しているようにも見える。その理由は、いまだ明らかにはされておらず、大仏は、実のところは華厳教主像ではなく、梵網教主像であろうとする説もある。しかしながら、やはり華厳教主像と見るべきであろう。小稿は、そのように思われる理由を整理するものである。『華厳経』の漢訳完本である『六十華厳』と『八十華厳』の内容、とくに両仏典が記す宇宙論の内容を比較分析するに、『六十華厳』の内容には重大な欠落があることが知られる。おそらくは、大仏の意匠を決定するにあたり、『六十華厳』のその欠落を補うために、『梵網経』の内容が援用されたのであろう。ただし、大仏は、積極的に梵網教主像として造られたものではなく、あくまで華厳教主像として造られたものらしい。大仏の意匠は、確かに『八十華厳』の内容とは齟齬をきたすが、実は『六十華厳』の内容とは必ずしも違うものではない。この点は、従来の研究においては注意が払われていないが、大仏が六十華厳教主廬舎那像として造られたものであることをしめすものであろう。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.7, pp.p89-104, 1992-09

慶長八年二月、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、徳川幕府を開いた。関ヶ原合戦の勝利によって覇権を確立し、天下人としての地位を不動のものとした家康が、この将軍任官によって徳川幕府という新たな政権を樹立し、豊臣家にかわる徳川家の天下支配を制度的な形で確定したとするのが、これまでの通説的な理解である。 しかし私の関ヶ原合戦に関する研究によるならば、同合戦において家康の下で戦った東軍(家康方)の軍事的構成が、専ら豊臣系諸大名を主力としており、本来の徳川軍の比重がきわめて低かったという事実が明らかとなった。すなわち家康の軍事的勝利は、専ら豊臣系諸大名の多大の貢献によってもたらされていたのであり、それ故に関ヶ原戦後の政治体制においては、豊臣系諸大名の勢力は強大なものとなっており、また大坂城の豊臣秀頼を頂点とする豊臣政権も解体されたのではなくて、潜在的な政治能力を充分に保っていた。 本稿は家康の将軍任官のより立ち入った意義を、このような政治状況との相関の中で検討し、さらにはそれを踏まえて、関ヶ原合戦より大坂の陣に至る近世初頭の政治史的展開、およびこの時期の国制の構造を考察する。
著者
小野 健吉
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.61-81, 2014-09

景観年代が寛永十年(一六三三)末~十一年初頭と考えられる『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)には、三邸の大名屋敷(水戸中納言下屋敷・加賀肥前守下屋敷・森美作守下屋敷)と二邸の旗本屋敷(向井将監下屋敷・米津内蔵助下屋敷)で見事な池泉庭園が描かれているほか、駿河大納言上屋敷や御花畠など、当時の江戸の庭園のありようを考える上で重要な図像も見られる。本稿では、これらを関連資料等とともに読み解き、寛永期の江戸の庭園について以下の結論を得た。 将軍の御成などを念頭に置いて造営された有力大名下屋敷の広大な池泉庭園では、滝・池・護岸石組・州浜といった水をめぐる各種デザインが大きな見せ場であった。そのため、水源の確保が極めて重要な課題であり、各大名屋敷では、湧水のほか上水道や小河川・都市水路などからの導水に大きな努力を払ったと見られる。一方、隅田川沿いの旗本屋敷では潮汐の影響を受ける隅田川から直接導水する「潮入り」の手法が発明され、これがその後に海岸沿いの大名屋敷の庭園でも採用されることとなったと考えられる。また、庭園を眺める視点場として二階建て数寄屋楼閣が重要な役割を果たしていたことも注目される。さらに、池泉庭園を備えない上屋敷などでは市中にあって山居をイメージさせる、都市文化の極みともいうべき茶室と露地が設えられていたことが駿河大納言上屋敷の様子から窺える。庭園管理という観点では、例えば樹木を剪定整枝して仕立てる技術がすでにしっかりと定着していたことが植物の描き方に示される。加えて、御花畠からは、花卉を中心とする園芸文化が、いわば江戸の主人たる将軍の先導のもと、文字通り豊かに花開いていたことがわかる。以上のように、慶長八年(一六〇三)の開府からおおよそ三十年を経た江戸では、庭園をめぐる文化は多様で多面的なありようを見せていたのである。
著者
久世 夏奈子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.143-189, 2014-09

本論では、一九二八年十一月から十二月に日本で開催された「唐宋元明名画展覧会」について、いわゆる「外務省記録」を中心に用いて考察する。 「唐宋元明名画展覧会」は「日華聯合絵画展覧会」の主催団体であった東方絵画協会と、同展覧会へ「対支文化事業」より助成費を支出していた外務省関係者との間で発案され、事実上東方絵画協会によって実施された。当初は第五回日華聯合絵画展と前後して開催予定であったが、中国側会員間の内紛により同展が延期されたために単独で開催された。 中国人に対する賛助・出品交渉は、中国大陸において国民革命軍による(第二次)北伐の開始からその完成(北京政府の消滅)を経て、(南京)国民政府が新体制を確立するまでと同時期に行われた。特に北伐開始直後に日中の軍隊が衝突し(済南事件)、その解決交渉が十カ月に及んだだけでなく中国では対日不買運動が盛んとなったが、中国人収蔵家と国民政府首脳が出品と賛助に同意して開催が実現した。 展覧会への出品点数は、中国人三百点強、日本人三百点弱、合計六百点超である。中国人出品者は旧北京政府の閣僚経験者、画家、実業家が多数を占める一方、日本人出品者は実業家が半数近くを占め、古寺・旧大名家・公家、勲功華族も含まれた。伝称作者の時代では明代が最も多く四割以上、宋代・元代を合わせて九割近くに上り、清代・五代・唐代が若干含まれた。その内容は当時の日中における収蔵内容の差異だけでなく、日本における新旧収蔵家の交代をも反映した。 結論として、「唐宋元明」展は第一に近代日本における中国絵画受容の論点より見れば、戦前における新来の中国絵画紹介の集大成であり、日本人の中国絵画観の修正を決定づけた。第二に近代日中関係史における文化外交の論点より見れば、近代以降の複雑な背景と多彩な陣容からなる日中双方の官民の利害に十分に一致し、日本の対支文化事業の明白な成功事例であった。
著者
高 文勝
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.85-102, 2009-11

本稿では、満州事変までの国民政府の満蒙問題に対する態度を考察することで、主に以下のことを示すことができた。第一に、日露戦争後、満蒙における特殊権益を拡大しそれを維持していくのは日本の一貫した政策であり、日本はその特殊権益を中国側に返還する意図を有さなかったのである。この問題について、幣原外交も例外ではなかった。第二に、満州事変までの国民政府の満蒙問題に対する態度は大体において孫文の主張を継承するものであり、日本に対してかなり妥協的であった。国民政府はその革命理念から日本の満蒙特殊権益を回収すべきだと主張するが、満蒙特殊権益の早急の回収が不可能だと認識し、それを現実として容認し、その根本的解決を将来の懸案として後回しにして、当面解決可能な問題から日中関係の改善を優先し、両国間の感情を緩和していく、その上で、満蒙問題の解決を図ろうとした。このようなアプローチは幣原外交における対中国政策と一致している。したがって、満蒙問題に関して、日中両国は究極の目標において対立したものの、交渉による妥協の余地が十分にありうるであろう。
著者
芳賀 徹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.16, pp.187-209, 1997-09

夏目漱石(一八六七―一九一六)作『永日小品』は明治四十二年(一九〇九)正月元旦から三月半ばにかけて、大阪、東京の『朝日新聞』に断続的に連載された。『三四郎』と『それから』の二長編の間にはさまれた小傑作集なのに、従来あまり論じられないできたから、これを漱石の二十五の美しい離れ小島と呼ぶことができる。また作者はここで、前年の『夢十夜』にもまして多彩で多方向の詩的想像力の展開を試みているから、これを漱石の実験の工房と呼ぶこともできよう。 本稿ではそのなかから「印象」と題された一篇のみをとりあげて、これにエクスプリカシオン・ド・テクスト(文章腑分け)を試みる。ここには明治三十三年(一九〇〇)十月二十八日夜の漱石のロンドン到着と、その翌日、ボーア戦争からの帰還兵歓迎の大群衆に巻き込まれて市内をさまよった経験とが喚起されていることは、確かである。だが作者はそれらの過去の事実を故意に一切伏せて、日時も季節もロンドンとかトラファルガー・スクエアとかの地名さえも示さない。ただあるのは、この初めての異国の「不思議な町」で、道に迷うまいと重ね重ね注意しているうちに、いつのまにか顔のない、声のない、「背の高い」大群衆の一方向にひた押しに進む波のなかに「溺れ」てしまったことの、不安と恐怖と自己喪失の感覚のみである。自分が昨夜泊った宿も、ただ「暗い中に暗く立つてゐた」と想起されるだけで、その「家」の方角さえも不明になったとき、話者は「人の海」のなかにあって「云ふべからざる孤独」の深さを自覚する。 イギリス留学時代の英文学者漱石の孤独がいかに落莫として痛切なものであったかをうかがい知ることができる。そしてそれを伝えながらも、この商品は来るべきカフカや阿部公房の小説をすら予感させるものであったとも言えるのではなかろうか。
著者
小泉 友則
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.153-188, 2016-06

現代日本において、子どもの性をよりよい方向に導くために、子どもに「正しい」性知識を教えなければならない・もしくはその他の教育的導きがなされねばならないとする"性教育"論は、なじみ深い存在となっている。そして、このような"性教育論"の起源がどこにあるのかを探求する試みは、すでに多くの研究者が着手しているものでもある。しかしながら、先行研究の歴史記述は浅いものが多く、日本において"性教育"論が誕生したことがいかなる文化的現象だったのかは多くの部分が不明瞭なままである。そこで、本稿では先行研究の視点を引き継ぎつつも"性教育"論の歴史の再構成を試みる。 具体的には、現状最も優れた先行研究である茂木輝順の論稿の批判検討を通じて、歴史記述を行う。取り扱う時期を近世後期~明治後期に設定し、"性教育"論の源流の存在と誕生を追っていく。 日本においては、近世後期にすでに"性教育"論の源流とも言える教育論は存在し、ただ、それはその後の時代の"性教育"論と比すると、不完全なものであった。近代西洋の知の流入は、そうした日本の"性教育"論の源流の知に様々な新規な知識を付け加えていく。そのような過程のなかで、"性教育"論は明確なかたちで誕生していくわけであるが、その誕生の過程では、舶来物の知識と従来の日本における文化との摩擦もあり、その摩擦を解消するためには"性教育"論を学術的なものだと見做す力が必要だった。 その摩擦をひとまず解消し、"性教育"論が日本において確立するのは、明治期が終わりを迎えるころであった。その時期には、「性教育」という名称が出現し、"性教育論"の要素を占める主要な教育論も出そろい、社会的な認知や承認も十分に備わっていた。
著者
板倉 則衣
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.42, pp.123-167, 2010-09-30

伊勢神宮は、天皇の即位ごとに天皇の皇女(内親王)または女王が選ばれ、伊勢神宮に奉仕した。こうした斎宮制度は、天武天皇の大来皇女がはじまりとされ、中断される時期はあるが、後醍醐天皇の祥子内親王までの六六一年間続けられた。
著者
村井 康彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.1, pp.p65-95, 1989-05

古代社会に成立した日本的王権=天皇制が、長期にわたって存続した歴史的背景を明らかにすることは、天皇制それ自体にとどまらず、日本の社会や文化の特質を知るためにも不可欠の研究課題である。天皇制を存続させた最大の理由は、王権における権威と権力が分化し、天皇が権威だけをもつ存在になったことにあるが、その権威と権力の分化をもたらしたのは、天皇の即位年齢の低下と、それによる天皇の政治的主体性の弱体化にある。そのきっかけをなしたのが、天智天皇が大友皇子(二三歳)の即位を実現するために発した詔を「不改常典」(天智が定めた、永遠に変更されることのない法)と称し、これを拠として、持統女帝と元明女帝がそれぞれ孫の皇子(一五歳・二三歳)の即位を実現したことにある。この過程で生れた、王権の継受に関する新しい制度が皇太子制度であり、これが持統女帝にはじまる譲位の慣例化とあいまって、年少天皇の即位、不執政天皇の出現をもたらすこととなった。日本的王権=天皇制の成立といってよい。それは平安初期のことである。