著者
清原 悠
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.64, no.2, pp.205-223, 2013

本稿の目的は, 1966年から81年にかけて展開した横浜新貨物線反対運動を事例に, 住民運動がいかなる地域環境において立ち上がってくるかを, 人口動態, 保守/革新の両者の地縁組織のあり方, 居住環境の整備のされ方から検討することである. そのなかで明らかにしたことは, 住民運動という概念は運動の当事者によって自らの運動を名指すべく使われた語彙であり, 他の社会運動概念と異なり分析概念ではなく当事者概念であったという点である. 住民運動という概念の最も早い使用は60年代の横浜であり, 当時の横浜は人口流入が激しく, 住民たちは政治的志向において保守から革新まで含んでおり, このなかで運動を構成していくためには, 保守/革新からは距離をおいた運動表象が必要であったのである. また, 住民運動概念は革新側が新住民を自らの政治的資源として動員するべく使用し始めたのであるが, 革新自治体であった横浜市と対立した横浜新貨物線反対運動がそれを内在的に批判し, 換骨奪胎して革新勢力から自立した運動を展開するものとして転用したものであった. そして, 革新側から自立した運動を展開できたか否かは地域環境の整備のあり方に関係があり, 大規模団地造営がなされた地区においては, そこに目を付けた革新勢力によって事前に革新勢力の地域ネットワークが構成されており, このような地区が後に反対運動から離脱することになった点を明らかにした.
著者
石井 由香理
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.106-123, 2012-06-30 (Released:2013-11-22)
参考文献数
29
被引用文献数
3 3

本稿では, 性別に違和感を覚えた経験をもつ3人のインタビュー対象者の語りから, かれらの自己像について, 共通する特徴を考察した. 現在, カテゴリーとの差異のなかに自己像を見出している3人の語りに共通するのは, マスメディアなどを通じて性的越境者についての情報を得, かつ, 一度はそれらに積極的に同一化しようとしている点である. しかしその後, 当事者団体や, それらの人々と接触していくうちに, かれらはカテゴリーに同一化するのではなく, 個人のなかに独自のものとしてイメージされる, アクチュアル・アイデンティティを自己像として肯定的に認めてゆく. カテゴリーに伴うイメージやストーリーを学習し, それを意識しつつも, 今度は, それに対する差異によって自らを表象するようになるのである. また, こうした対象者たちのありようは, かれらの身体をも巻き込んだものである. どのような治療や施術をどこまで受けるのかということは, より選択的なこととしてとらえられるようになる. くわえて, セクシュアル・マイノリティ相互の出会いは集合的なアイデンティティの共有を促すばかりでなく, 自己像を個人ごとに独自なもの, 唯一のものとして認知させるような作用を個々人にもたらしていると考えられる. また, かれらの自己像は, 不変的なものではなく, 新たな欲望が生じる可能性, 状況が変化する可能性に開かれている.
著者
袰岩 晶
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.52, no.2, pp.180-195, 2001-09-30 (Released:2009-10-19)
参考文献数
17

本稿は, M.ホルクハイマーの批判理論における理論概念を明らかにすることによって, 社会理論の「存在被拘束性」と「再帰性」によって生じる問題に答える試みである.理論の存在被拘束性とは, 社会理論が理論主体の社会的立場に制約されていることを意味し, 逆に, 再帰性は, 理論がその理論対象である社会に影響を与えていることを意味している.社会理論がみずからの存在被拘束性と再帰性とを認めた場合, 理論はみずからの絶対性, すなわち普遍妥当性を主張できなくなる.ホルクハイマーは, 絶対性を求める理論を「伝統的理論」と呼んで批判する.一方, かれの主張する批判理論においては存在被拘束性と再帰性の概念を受け入れることで, 理論の作業そのものが一般的な社会的活動の一部分, つまり「理論的実践」であると捉えられ, その理論的実践の社会的機能によって社会理論の意味が判断される.ホルクハイマーにしたがうならば, 伝統的理論は, 個人と社会を物象化し, 支配を維持する機能を有しており, それに対して, 批判理論は, 解放をめざす実践として機能する.存在被拘束性と再帰性の概念を受け入れた社会理論の可能性がホルクハイマーによって示されるのである.
著者
赤江 達也
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.53, no.3, pp.396-412, 2002-12-31

近代日本における宗教と政治の関係が問題とされるとき, 戦時期の「日本ファシズム」に対する抵抗の事例としてほとんどつねに言及されるのが, 無教会主義と呼ばれるキリスト教の一派である.キリスト教界のほとんどがファシズムへと積極的に参与していったとされるのとは全く対照的に, 無教会主義は, 抵抗の思想として評価されてきた.とりわけ, 戦前の代表的な植民政策学者としても知られる矢内原忠雄は, 「超国家主義に対する数少ない対決の記念碑」として高く評価されてきた.<BR>だが, なぜ, 戦後日本において, 無教会主義はファシズムに対する抵抗の思想としてだけ理解されてきたのだろうか.そうした観点から, この論文では, まず, 戦後の日本思想史におけるキリスト教の位置づけを検討していくことで, 思想の政治性をめぐる議論からキリスト教がほとんど体系的に除外されていく様を記述する.その上で, 矢内原の言説を具体的に検討することで, 彼の主張が, たしかに「信仰の純粋性」にもとづく「ファシズム」の批判なのだが, 同時により徹底化された「ファシズム」の構想でもあったことを明らかにする.さらに, その無教会主義 (の言説) の問題点を開示する作業を通して, それを「ファシズム・対・民主主義」という枠組みへと回収することで, うまく扱うことができなかった「日本ファシズム」論の限界点を指し示す.
著者
流王 貴義
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.408-423, 2012-12-31 (Released:2014-02-10)
参考文献数
29

『社会分業論』にてデュルケムは有機的連帯という社会統合の概念を提示している. この連帯概念の特徴は, 集合意識に基づく機械的連帯とは異なり, 社会的分化を許容している点に存する. しかし社会統合の概念である以上, 有機的連帯は個々人の自己利益にのみ基づく経済的な関係から区別されるべきであり, その基礎となる契約関係も当事者間の合意に還元はできない性質を持っている. 「契約における非契約的要素」とは, 経済学的な契約観に対するデュルケムの批判をパーソンズが定式化したものである.しかし「契約における非契約的要素」とは具体的に何を指しているのか. 有機的連帯に固有の統合メカニズムの特定に重要となる論点であるにもかかわらず, デュルケム研究者の間でも見解が分かれている. 集合意識を指しているのか, 人格崇拝なのか, 社会の非合理的基礎なのか, それとも社会に由来する強制力を意味しているのか. 本稿は「契約における非契約要素」とは契約法である, との解釈を提示する.契約法の役割は, 契約当事者間の権利義務を定め, 有機的連帯の安定を可能にする, という法の執行のみに留まらない. 契約関係における調和の維持という積極的な役割も契約法は担っている. 合意が契約として法的保護を受けるためには, 法により定められた条件を満たす必要があるが, デュルケムはこの条件を調和的な協働が維持されるための条件として理論的に読み替えるのである.
著者
大谷 信介
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.53, no.4, pp.471-484, 2003-03-31 (Released:2009-10-19)

社会調査は, 社会学者がおこなう学術調査以外にも実社会で多様にかつ多量に実施されている.市町村や中央省庁で実施される意識調査やマスコミが実施している世論調査等はその代表的なものである.しかしこれまでの社会学研究ではそれらにほとんど関心が示されてこなかったのが実情である.実社会で「社会調査がどのように実施され」それらが調査方法論の観点から「どのように評価できるのか」といった実態を正確に把握する作業は, 社会調査教育を提供している社会学にとって, 必要かつ重要な仕事といえるだろう.このような視点から, われわれは大阪府44市町村が総合計画策定のために実施した市民意識調査に関する聞き取り調査, およびそれらの調査票の質的評価に関する内容分析を実施した.そこで明らかになったのは, 社会調査論の観点からはとても看過できない問題を抱えた市民意識調査の深刻な実態であった.それらの詳細な実態については, すでに大谷信介編著『これでいいのか市民意識調査』 (ミネルヴァ書房2002年) としてまとめている.そこで本稿では, この調査で明らかとなった実態の中で, 特に社会学会として注目しなければならないであろう課題という視点から問題点を整理していきたい.
著者
安川 一
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.57-72, 2009-06-30 (Released:2010-08-01)
参考文献数
63
被引用文献数
1

これは,視的経験を社会学するための視座設計の試作品である.わたしたちの見る営みは互いにどう違うのだろう.現代社会・文化の様々な領域で視覚の優位が言われてきた.社会学的思考も,見ることはすなわち行為であり制度である,そう述べてきた.けれども,具体的な視的経験の豊かなありかたが直視されることはあまりなかった.視的経験の実際を探ろうと思う.つまり,生理的機能としての視覚でも社会・文化・歴史的抽象としての視覚性でもない,雑多に繰り返される日々の諸経験の視覚的位相の探求である.この観点から私は,社会心理学的自己概念研究法である自叙的写真法に準じて自叙的イメージ研究を試みた.被験者に「わたしが見るわたし」をテーマにした写真撮影を求め,撮影行為と自叙的イメージとで視的経験を自己言及的に活性化して,その様子を観察しようというフィールド実験である.総じて,生成された自叙的イメージの多くは生活世界の“モノ語り”像(=モノによる自己表象)だった.ただし,イメージの自叙性のいかんは主題ではない.イメージ自体の分析が視的経験の解析に至るとも思えない.課題は分析よりむしろ,イメージ群をもって視的経験をいかに構成してみせるかにあると思う.私は,イメージ群の配列-再配列を繰り返しながら,イメージ陳列の仕方自体を視的経験の相同/相違の表象として試みつつ,この作業を通じて考察に筋道をつけていきたい,そう考えている.
著者
松本 三和夫
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.31, no.1, pp.15-30, 1980-06-30

従来、科学社会学は、科学者集団を、外部社会から自律した閉鎖系ととらえることによって、人々の生活に不都合を及ぼす現実の科学活動の側面 (社会問題としての科学) に対して、必ずしも十全な解明を与えていない。本稿のねらいは、科学者集団の特性を外部社会との関連の下に把握する、初期マートン (R. K. Merton) の科学社会学に立ち帰って、社会問題としての科学の特性を解明することにある。<BR>そこで、以下ではまず、一七世紀イングランドに関するマートンの歴史的事例研究に注目して、二つの論点を析出する。 (1) 科学者集団と外部社会の関連様式を特徴づけるマートンの論証事実 (ピューリタニズムの倫理と近代科学の属性相互間の「親和性」) を確定する。 (2) しかる後、科学者集団の発生過程-適応過程の分節に着目して、マートンの解釈枠組を吟味し、科学者集団の特性を形作る基本的なモメントとして制度化を取り出す。<BR>次いで、 (1) 及び (2) から、科学者-非科学者の内的連関に則して、科学活動のあり様を整理する類型を引き出す。そして、この類型に依拠して、社会問題としての科学の特性を解明するモデルを構成してみょう。
著者
田中 大介
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.40-56, 2007-06-30

本論文は,日露戦争前後の電車内における身体技法の歴史的生成を検討することによって,都市交通における公共性の諸様態を明らかにすることを目的としている.電車は明治後期に頻発した群集騒乱の現場になっていたが,同時期,法律から慣習のレベルまで,電車内の振る舞いに対する多様な規制や抑圧が形成された.これらの規制や抑圧は,身体の五感にいたる微細な部分におよんでいる.たとえば,聴覚,触覚,嗅覚などを刺激する所作が抑圧されるが,逆に視覚を「適切に」分散させ・誘導するような「通勤読書」や「車内広告」が普及している.つまり車内空間は「まなざしの体制」とでもよべる状況にあった.この「まなざしの体制」において設定された「適切/逸脱」の境界線を,乗客たちは微妙な視線のやりとりで密かに逸脱する異性間交流の実践を開発する.それは,電車内という身体の超近接状況で不可避に孕まれる猥雑さを抑圧し,男性/女性の関係を非対称化することで公的空間として維持しつつも,そうした抑圧や規制を逆に遊戯として楽しもうとする技法であった.
著者
芦川 晋
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.68, no.1, pp.102-117, 2018-06-30

<p>本稿の目的は, 現代社会を踏まえて社会構築主義が提示する「物語的な自己論」を吟味し, より実態に即した「物語的な自己論」の展開可能性を模索することにある. そのために, まず, シカゴ学派にはじまるアメリカ社会学における自己論の洗練過程を, G. H. ミード/H. ブルーマー (象徴的相互作用論), H. ベッカー (レイベリング理論), E. ゴッフマン (対面的相互作用論) の順で検討をする.</p><p>その結果, まだこれらの議論には十分使い出があることが分かる. ミード/ブルーマーの他者の役割取得論は習慣形成論でもあった. レイベリング論になると, 役割に代わって「人格」概念が重視され, 習慣より「経歴」が問題になる. ゴッフマンの議論では, 相互行為過程における「人格」概念のもつ意義がより突き詰められ, 「経歴」や「生活誌」という概念を用いてパーソナル・アイデンティティを主題化し, すでに簡単な自己物語論を展開していた.</p><p>ところが, J. グブリアムとJ. ホルスタインは自らが物語的な自己論を展開するにあたって, わざわざ振り返った前史の意義をまともに評価できていない. そのもっとも顕著な例は「自己」と「パーソナル・アイデンティティ」を区別できない点にある.</p><p>そこで本稿では前史を踏まえたうえで, ゴッフマンのアイデアを継承するかたちで自己物語の記述を試みてきたM. H. グッディンの議論をも参照して, より精緻で現実に即した自己物語論の展開を試みる.</p>
著者
吉見 俊哉
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.557-573, 2015 (Released:2016-03-31)
参考文献数
47

デジタル革命は社会的記憶の構造を持続的に変化させる. デジタル技術は同じ情報が大量複製されていっせいに伝播・流通し, 大量消費されていくというマス・コミュニケーションの回路に介入し, <生産→流通→消費> の空間軸の組織化を, <蓄積→検索→再利用> の時間軸の組織化へと転換させる. もはや <過去> は消えなくなり, 無限に集積されていく情報資源となる. ここで必要なのは, 文化の創造的「リサイクル」である. 古い記録映像は, 音や色を与えられて新しい教育の貴重な「資料」となり, 古い脚本のデータは新しいドラマ作品を創造していく基盤となる. この転換には, まず散在するさまざまな形態のメディア資産の財産目録を作成し, 原資料を安定的な保存環境に集めていく取り組みを進める必要がある. また, アーカイブ化されたデジタルデータについて, 共通フォーマットにより標準化を進め, 公開化と横断的な統合化を進めることも重要である. さらに, デジタルアーカイブ運用のための人材育成, 教育カリキュラムにアーキビスト育成を取り込んでいくことも必要となる. デジタル時代のアーカイブでは, 保存の対象はけっして政府・行政機関の公文書に限定されない. アーカイブ化される資料や情報には, 地域の人びとによって撮影されたり語られたりした情報が大量に含まれるし, マスメディアやインターネットの情報がともに保存されていく. それらの情報全体が, 国境を越えて結びついていくのである.
著者
佐藤 俊樹
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.734-751, 2009-03-31 (Released:2010-04-01)
参考文献数
28
被引用文献数
3 2

階層帰属の定義は主観と客観の間をゆれ動いてきた.ここでは,そのどちらも前提にせず,SSMデータにもとづいて,階層帰属とはどんな変数なのかを再検討する.2005年調査では,「上/中/下」帰属が質問文の順番に左右されない客観性をもつ.また,本人収入による「上/中/下」帰属の分布の乖離はさらに拡大したが,その一方で,「1-10」帰属は「5」に集中する形にかわっており,分化と斉一性の二重性という特徴が見られる.階層帰属は当事者カテゴリーとしての「上/中/下」を準拠枠として,自らの階層的リアリティを位置づけたものと考えられる.いわば階層的社会の見え姿であり,それ自体が現代の自省的階層社会の一部となっている.それゆえ,階層帰属の分析は,現代社会学や理論社会学の研究にとっても重要な事例になる.
著者
岡田 章子
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.242-258, 2009-09-30 (Released:2012-03-01)
参考文献数
22

本稿は,『女学雑誌』の文学を,キリスト教改良主義による女性と文学の新しい関係性という観点から捉え,その新しい関係性が,後の『文学界』における文学の自律性を求める動きにおいて,どのような意義をもっていたのか,を検討するものである.『女学雑誌』の文学志向は,当時の英米の女性雑誌に影響されたものであり,同時にそれは,明治20年代における「社会のための文学」という潮流において好意的に捉えられ,女性に向けて新しい小説を書く女性作家の登場を促した.彼女たちは,あるいは口語自叙体の小説によって女性の内面を語り,あるいは平易な言文一致体によって海外小説を翻訳するなど,独自の成果を生み出した.しかし,キリスト教改良主義の社会運動や道徳に縛られた文学は,やがて文学の自律性を求める『文学界』の離反を招き,「社会のための文学」ではなく,文学の自律性,ひいては社会における文学の独自の意義が追求されることになった.しかし,こうしたブルデューの定義するような「文学場」の構築を求める動きは,『女学雑誌』との断絶よりも,むしろ共通する「社会にとって文学とは何か」の問いを前提にしたものであり,しかも,樋口一葉という女性作家の,女性の問題のまなざしにおいて成立したという意味で,『女学雑誌』は日本の近代文学の成立において,従来論じられてきた以上に不可欠な役割を担っていた,といえるのである.
著者
中尾 香
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.64-81, 2003

本稿の目的は, 戦後期日本において共有されていた男性イメージを確定するための作業の第一歩として, 戦後の『婦人公論』にあらわれた男性イメージを明らかにすることである.その結果, 明らかになったのは, 1950年代に登場した二つの系譜による男性イメージ-戦後に大衆化しつつあったサラリーマンが担うようになった「弱い」男性イメージと, 「家制度」のジェンダーを焼き直した「甘え」る男性イメージ-が, その後重なり合いながら展開し, 1955年頃から1960年代半ばにかけて繰り返し言説化されたことである.それらは, 男性の「仕事役割」を強調することをてことして, 私的な空間におけるジェンダーを母子のメタファーで捉え, 男は「甘え」女は「ケア」するというパターンを共有していた.さらに, 「仕事をする男性像」と「甘える男性像」のセットは, 60年代に言説にあらわれた「家庭的な男性」とは矛盾するものであった.<BR>この結果より, 次のような仮説を提示した. (1) 「甘え役割」と言い得るような男性の役割が成立していた可能性, (2) その「甘え役割」が女性の「ケア役割」を根拠づけているということ, (3) 「甘え役割」は「仕事役割」によって正当化されているということ, (4) 否定的に言説化された「家庭的男性」が「甘え役割」および「仕事役割」のサンクションとして機能していた可能性である.
著者
戸江 哲理
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.67, no.3, pp.319-337, 2016 (Released:2017-12-31)
参考文献数
19

家族社会学では, 家族を構造 (であるもの) としてではなく, 実践 (するもの・見せるもの) として捉える研究の道筋が切り開かれつつある. 他方で, 家族とは何かという問いを研究者にとっての問題である以前に, 市井の人々自身にとっての問題と捉える研究も登場している. 両者が合流するところに, 人々の立場からその日々のふるまいを検討するという研究課題が生まれる. 会話分析はこの研究課題に取り組む術を提供する. そこで本稿では, 親をすることや親だということを見せることが可能になるしくみのひとつを解明する. そのために本稿は, 母親が同じ場所にいる自分の幼い子どもを「この人」と呼ぶ発言とそれをふくむやりとりを検討する. この呼びかたは, 母親が子どもを子どもとして捉えていないように思えるだろう. だが, 分析の結果, そうではないことが明らかになった. 「この人」は, 近くにいる (「この」) 人物 (「人」) であること以外に, そう呼ばれた人物についていっさいの特徴づけを行わない. それによって, 「この人」はそう呼ばれた人物をめぐる隔たりを刻印する. 母親は, 自分の子どもを「この人」と呼ぶことによって, 普通の子どもとの隔たりを刻印する. あるいはその例外性を際立たせる. 子どもを例外扱いできる人物は, その子どもをよく知っている人物である. 母親は子どもを「この人」と呼ぶことによって, 自分がそんな人物であることを打ち出せる. 子どもを「この人」と呼ぶことは母親としての特権なのである.