著者
古池 若葉
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.A87-A101, 2009-03-15

本稿では,ASD 児者における言語的な問題について,語用論上の困難に焦点を当ててその様相を示した上で,語用論的能力のアセスメントに役立つと考えられる検査や手法について整理し,今後の課題について考察した。その結果,主な知見として以下の3 点が得られた。第1 に,ソーシャルスキルにおいては言語的な側面が重要な位置づけにあるが,既存のソーシャルスキル尺度は語用論的側面をアセスメントする上で十分とは言えない。第2 に,ASD 児者は,形式的な言語に問題が見られなくても,談話や会話などの語用論的側面に問題を持つことが多い。第3 に,Wechsler 知能検査は,高機能ASD 児者の語用論的能力に比べて言語性知能を過大評価しやすく,語用論的能力を測定するアセスメント方法は未確立ながら,ナラティブの産出を調べる方法や,会話を分析する方法によるアプローチが行われている。これらの知見を踏まえて,心理士として,言語臨床にどこまで携わる必要があるかについての考察を加えた。
著者
横田 恭三
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.36, pp.57-73, 2003-03

水野疎梅(一八六四〜一九二一)の名は元直,字は簡卿,疎梅と号した。疎梅は,明治四四年(一九一一)辛亥革命勃発のさなか,上海に難を逃れていた楊守敬に四ヶ月の間師事し,『学書邇言』と『隣蘇老人年譜』の二稿本を筆写したものを持ち帰った。楊守敬亡き後,呉昌碩・王一亭らと詩・書・画を通じた交流を重ねたことが,彼の遺編『疎梅詩存』や呉昌碩『缶廬集』などから窺える。が,疎梅の日本における活動については,今日まであまり知られていなかった。昭和四年に刊行された『福岡県碑誌』の記録によって,疎梅の出身地である福岡県内には,彼の撰文になるものや,あるいは撰文と揮毫の両方を手掛けた碑誌が五基制作されていることがわかった。調査の結果,五基中四基が現存していた。書体はいずれも楷書であるが,その書風には大きな相違があり,楊守敬の影響が色濃く反映されたものと考えられる。本稿では,今回実地調査できた碑文と『福岡県碑誌』とを対照しながら,疎梅が関係した経緯などを探り,さらにこれらの碑誌に刻まれた疎梅の書風がどのようなものであったかを考察する。
著者
高橋 善隆
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.A113-A126, 2010-09-15

デモクラシーや市場経済について、世界各国にひとつのモデルを提供してきたアメリカ合衆国だが、福祉国家に関しては様々な問題点を露呈している。公的皆保険の欠如、社会的扶助の受給者に対するスティグマ(焙印)、資産状況を反映する福祉供給の格差などである。世界で最も豊かなアメリカのなかに想像を絶する貧困と格差が存在する現実は「もうひとつのアメリカ」として考察の対象とされてきた。その鍵を握るのは福祉レジームの特異性であると考える。本論では、福祉政治の主要な理論として、パワーリソース理論、新制度論、言説理論を紹介し、これらの枠組みがアメリカの社会的内実を理解する上でどこまで有効であるのか検討する。国民皆保険をめぐるアメリカ政治のジレンマや、"いまあるような福祉の終焉"と呼ばれるクリントン改革の帰結を分析することによって、福祉をめぐるアメリカ政治の問題状況を明らかにしたい。
著者
植田 恭代
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.75-91, 2003-03-15

『源氏物語』にみられるさまざまな後宮の殿舎は,単に宮廷の風景としてあるのではなく,物語世界独自の場として描かれている。そのうち,淑景舎=桐壼,飛香舎=藤壺については,これまでに考察を試みた。本稿では,それらをふまえて,凝華舎=梅壺の場合について検討してみる。凝華舎は,物語中では「梅壺」と表されている。物語にみられる「梅壺」には,弘徽殿大后の局,梅壺女御という呼称から明らかになるその居所,明石中宮腹の二の宮の御曹司という,三つの場がある。それらの描写は,一見,唐突に出てくるように感じられるが,『源氏物語』の殿舎の使われ方を思い起こしても,やはり物語の側の要請から,描かれるとみる方が自然であろう。前編前々稿で検討してきたように,史実における後宮の殿舎は,男性たちにも使用される場である。凝華舎は東宮と関わりが深く,儀式の場ともなる。一方,「梅壺女御」と呼ばれた詮子の存在感も強く漂う場であった。そうした史実からのイメージを見据えつつ,物語世界の人々が実際に住んだ場であることを考えてみると,物語世界の梅壼も,それぞれの人物たちをとりまく縁により所有され,政権にも見合う場として想定されていると考えられる。
著者
杉本 昌裕
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.40, pp.83-100, 2007-03

金属工芸(以後、「金工」と表記する)は、伝統的な工芸の中でも専門的な施設、機械、道具が必要である。また、指導者が少ないのと金工を指導する学校が少ないため、学校教育の授業に取り入れるためには、教材開発や指導者育成などの工夫が必要である。一方で、指輪やネックレスなどの金属加工の装飾品の需要と人気は高いものがある。金や銀製品は、だれもが欲しいものの一つである。本学では工芸実習、デザイン実習に金工制作を取り入れている。本稿でまとめるのは、このような金属を使った制作が、ライフデザインを充実させるとともに、学校教育で生かせると考えるからである。金工や金属素材を生かす教材研究を進めることで、日本の伝統的な技術を守り続ける心や、新たなものを創造できるような土台を築き上げたい。「買うもの」から「つくるもの」「つくれるもの」として、金工や金属素材を生かした工芸を、私たちの生活の中に、位置付けていくことがねらいである。なお、本研究は平成18年度跡見学園女子大学特別研究助成によるものである。
著者
土屋 博映
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.19-34, 2010-09-15

本稿は「04紀要」掲載論文、「09紀要」掲載論文をふまえ、第一部末尾部分の章段と第二部冒頭部分の章段を吟味することにより、第一部冒頭部と第二部末尾部の境界を明確にし、あわせて著者兼好の思考の変遷を明らかにしていこうとするものである。 09紀要では、第三一段から第三七段を一部から二部への「つなぎの巻」ととらえ、第三八段を、「復活」の謎を解く段だと考えたのである。 本稿は「一、はじめに 二、最近の『徒然草』研究から 三、従来の『徒然草』観 四、本分の考察 五、第三八段の再検討 六、一部の関連する段 七、『方丈記』との関連 八、第三八段の過激性 九、結論」の八章からなる。一番重視したのが第三八段であり、本段に、以前の段はどのように流れ、関連しているのかということと、本段以降どのように流れ、展開していくかという点に重きをおいた。その結果、一部から二部への、彼の執筆態度(姿勢)が、書物(漢籍)を友としているうちに、老荘思想に大きな影響を受け、老荘思想を根幹に、成長・発展したとう事実を物語っていると推定された。 二部は、第三一段から書き始められ、第三七段まではいわゆる「つなぎの段」と考える。 第三一段からは、基本的に、抽象的な、無名の人間の意見をとりあげ、「をかし」「よし」と肯定している。そして、それこそが、本作品の意義だと確認し、第三八段を力強く記すに至った。その後の兼好の価値観は、第三九段の法然上人の教え、第四○段の因幡国の娘の話、第四一段の競馬にまつわる話、第四二段の恐ろしい病気にかかった行雅僧都の話などへとバラエテイに富んだ内容を描き出す。これらはいずれも新しい発見である。兼好の既得の知識・価値観からは想像もつかない事実の発見に目をむけたと言えよう。 とにかく第三八段は、本作品にとって、もっとも重要な段の一つとして位置づけておかなくてはいけないというのが本稿の結論である。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.38, pp.A19-A30, 2005-03-15

本稿は一九九〇年代から現在に至るクロアチアの歴史教育と歴史教科書の問題について概括的な考察を行ったものである。九〇年に社会主義体制を放棄し、九一年にユーゴスラゲィア連邦から離脱して独立を達成したクロアチアは、この二つの変化を歴史教育の分野にも反映させる必要があった。それはクロアチア・ナショナリズムに立脚しつつ、連邦体制下で強調されてきた南スラヴ諸民族の一体的な歴史叙述を放棄し、かつてタブー視されていた<クロアチア独立国>などを再評価する動きにあらわれている。社会主義時代から国定教科書しか存在しなかったクロアチアでは、独立後も一元的な歴史教育が導入されていたが、一九九〇年代末から二〇〇〇年にかけて教科書出版社および教科書の複数化が実現し、各教科書の叙述もようやく一面的なものではなくなった。しかし、全体的にクロアチアの独自性を強調するあまり、周辺諸国との関係さえ理解しにくいほどに叙述のバランスを欠くものとなっており、現在では若干修正されているとはいえ、なお大きな問題となっている。また、教科書の種類の多さに比べると、各教科書の特徴はさほど明確ではなく、この点でも新たな教科書づくりが求められている。
著者
柴橋 祐子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.49-74, 2004-03-15

青年期の適応をめぐる問題の中で大きな位置を占めるものに友人関係がある。友人に対し自分の意見をはっきり言えないことから, あるいは逆に自分の意見を一方的に主張してしまうことから, 結果的に適切な友人関係を持てなかったり, 友人との関係に悩みを持つ者も多い。友人関係の中で自分の気持ちや考えを率直に表明しあうことは, 自分らしさを求める基本的な欲求であり, また相互理解のための基本となる。こうした自己表明のやりとりの能力の獲得は青年期の重要な発達課題の一つと言えるが, その心理的背景について検討されたものはみられない。青年にとってどのような感情や考えが友人との率直なやりとりを支える, もしくは妨げる要因となっているのであろうか。本稿ではその手がかりを得るために, 面接調査を用いて探索的な検討を行った。友人関係の中での自己表現のあり方を先行研究 (柴橋, 2001) に基づき, 「自己表明」と「他者の表明を望む気持ち」の2つの側面から捉えて4つに類型化し, 各類型に属する中学・高校生16名を対象に半構造化面接を行い, 各被験者の特徴, および, 各類型の特徴を分析した。4類型の特徴の比較から, 次の5つの要因に違いがみられ, これらが自己表現のあり方と関連している可能性が見いだされた。(1) 自己表明することに対しての価値感, (2) 自己表明を受けとめてもらえた体験と友人への信頼感, (3) 他者の気持ちへの配慮や内省的な視点, (4) 熟慮性や攻撃性, (5) 言語化することへの自信。本調査の結果から, スキルの問題や性格特性だけでなく, 自己表明することへの価値感やこれまでの体験, 内省的な視点などが大きな影響を及ぼしていることが示唆された。この点は, 青年期の自己表現援助のあり方において十分考慮すべきことと言える。ただし, 本研究は探索的なものであり, 今後さらに, 多くの被験者を対象に実証的な検討を重ね, 心理的要因と自己表明との関連を明らかにしていく必要がある。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.1-18, 2009-03-15

本稿では、複数政党制に移行した一九九〇年から二〇〇七年までのクロアチア議会選挙を中心に、クロアチアにおける選挙制度の変遷および選挙結果に着目し、まずは基礎データの整理を行いつつ、論点を提示した。 クロアチアでは議会選挙のたびに与党を利する形で選挙制度が大きく変わってきた。一九九〇年には完全な小選挙区制だったものが、一九九二年には全国区(比例代表方式)と小選挙区の二票制となり、二〇〇〇年には全国を一〇選挙区に分けた比例代表制に移行した。二票制の時期を通じて、全国区と小選挙区の定数も大きく変化している。どの選挙制度においても、一票の格差や選挙区の区割りなどが完全には解決されない問題として残された。 さらに、クロアチアでは、やや流動的な少数民族枠と在外同胞(ディアスポラ)枠の存在がつねに議論を呼んできた。一九九〇年代のクロアチアを内戦状態に陥れたセルビア人問題の解決策として少数民族枠は重要な意味を持ったし、同じく隣国ボスニアとの関係から在外同胞枠は必須とされたが、選挙制度上の取り扱いはきわめて不安定で合理性を欠く場合も多かったからである。 かつての大統領による権威主義体制から議会制民主主義へと移行したかに見えるクロアチアであるが、なおも選挙制度は固定的なものではなく、さらに変化していくように思われる。
著者
村田 宏
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.19-40, 2009-09-15

本稿は、前稿にひきつづき、一九二〇年代のパリで「画家」となったアメリカ人ジェラルド・マーフィー(一八八八│一九六四)に焦点を合わせ、二〇世紀に著しい「移動」の問題を「パリのアメリカニスム」との関連から再検討するものである。 前号の内容を含めて、概要を示せば、以下のようになるだろう。 「一、マーフィーとナターリア・ゴンチャローヴァ」では、「モンパルナスの仮装舞踏会」や「バレエの初演」を検討する過程で、ロシアの画家ゴンチャローヴァの芸術的薫陶を受けた絵画の初心者マーフィーの姿が覗見された。「二、マーフィーとパブロ・ピカソ」では、「アメリカ的なもの」に関心を寄せるピカソとアメリカ人マーフィーがいかに親密な交際を続けたかが確認された。「三、マーフィーとフェルナン・レジェ」では、レジェ独自の美学に寄り添いながら、しかし自己固有の「アメリカ的」絵画を制作するマーフィーの姿が浮き彫りになった。 以上の考察から得られた結論を再説するならば、つぎのごとくである。絵画の門外漢マーフィーは、アメリカを離れてフランスに渡ったのち、無数の偶然にして実り豊かな出会いを通じて画家としての成熟を遂げ、一九二〇年代のパリの美的動向、すなわち摩天楼とジャズへの憧憬に彩られた「アメリカニスム」に大きな意義と役割を担う芸術家に変貌していった。ジェラルド・マーフィーが「移動」あるいは「移動の美術史」の問題系列に重要な位置を占めていることはだれしも否定できない。マーフィーこそは「移動」のもたらす恩恵を自己の必須の養分に転化しえた幸福な画家の典型のひとりということができるのである。
著者
藤崎 康彦
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
no.43, pp.1-18, 2009-09

これまでのベルダーシュ研究は、「ベルダーシュとされる諸個人」の(セクシュアリティに関わる)特性や︑それらの諸個人の処遇に関わるベルダーシュという制度の「社会的機能」の考察に比重がかかっていたと思われる。しかし、それらによってはベルダーシュの本質は明らかにされてこなかった。本稿では、性の本質は生殖にあるとする根本的な認識から、生殖に関与しない、あるいはそれから疎外された存在であるベルダーシュによって社会全体の豊饒性がむしろ増大すると期待されていること、すなわち生殖力に関する一種の象徴的逆転こそが「ベルダーシュという制度」の本質であることを論ずる。
著者
福田 博同
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.A95-A110, 2010-03 (Released:2010-03-15)

図書館は「読む自由」を保証するため、すべての人に電子資料を含む図書館資料を提供する義務がある。図書館は今や、その電子資料を作る主体でもある。ICT の発達により「読書権」を保証する機会は拡大したが、その利用方法もアクセシビリティに配慮する必要がある。公立図書館の利用教育において、児童や障害者へのサービスは古くから取り組まれているが、重複障害者や高齢者への取り組みは緒に就いたばかりである。そのような現状において、公立図書館での利用教育の課題を分析し、インターネットによる図書館利用教育を中心として、あるべき方向を論ずる。
著者
石田 信一
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.1-16, 2003-03-15

クロアチアにおける地方制度の歴史と現状を概観するとともに,とくにユーゴスラヴィア建国以降,地方制度がマイノリティ問題とどのような関わりを持ったかについて検討した。クロアチアにおける地方自治は,一九九二年に現行制度が発足した当初には多くの制約を受けており,自立性に乏しいものであったが,二〇〇一年の諸改革を経て,少なくとも制度的には自治権の拡大という方向で大いに改善された。それはクロアチアにおける伝統的な地方制度を継承しつつ,ヨーロッパ連合の基準への適合を意識した全く新しい地方制度となっている。また,マイノリティ問題についても,かつての差別的な政策が撤回され,言語・教育などの同権に向けた法的整備が進み,とくに地方レベルではそれらが着実に成果をあげている。セルビア人間題はなお未解決であるが,今後はヨーロッパ連合加盟との関わりにおいて解決がはかられると思われる。国家の統一を損なわない範囲で,いかに効果的に分権化を推進するかが,当面の課題となるであろう。
著者
内藤 歓修
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.A63-A78, 2010-03-15

自伝的小説Sons and Lovers で自らの青春時代の苦悩を描ききったD. H. ロレンスは、以後、直面している生活上の問題をテーマにして、作品を書くようになる。Sons and Lovers 後に取りかかったThe Rainbow は当時の作者の生活で解決が不可欠な重要問題である、「愛」というテーマを真正面から取り上げている。 心の底から愛し合える女性と出会うことができたら、その女性は恩師の妻であったという困難を乗り越え、結婚する。許されざる行動を正当化しようと、愛の勝利と賛歌を歌い上げるために書いた小説が本作品である。 これは親子3代に亘る、愛の姿を描いている。いずれの代も未知の世界に憧れ、それを手に入れようと努力している。最初の代の愛と結婚は、未だ自我が充分に目覚めきっていない、古き良き時代の牧歌的環境の中で描かれ、男女間で深刻な自我の闘争は生じていない。しかし、2代目の愛は壮絶な自我の闘争を引き起こす。互いに自我を主張し合い、譲ることが少ない。妻が子供を身籠もり、女性の根源的な力を誇示することによって、夫を服従させて行く。この2つの愛と結婚は一般にありがちな姿であり、さして珍しいものとは言えない。 しかし、3代目の愛の闘争になると様相は一変する。主人公Ursula は理想の男女の愛を恋人Skrebensky に求める。強烈な自我を持つ彼女は、従来の因習的な結婚を否定し、自立した自我の均衡の上に築かれた愛を求めて、彼と激しい闘争を繰り返す。どんな逆境にあっても妥協しない。最後には、心身共に傷付いた上に、求める愛を得られなかったが、再生した彼女が明日への希望を虹に見て、新たに前進して行くことが示される。 本稿では、3代の夫婦における理想の愛の探求の形を分析し、現実と理想の愛の落差に対する彼らの対応の姿を明らかにしたい。
著者
山口 豊一 吉田 香衣 石川 章子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.A61-A73, 2009-03-15

本研究の目的は、中学校教師へのインタビューを題材として、「中学校教師のチーム援助モチベーションを促進する要因は何か」を実践現場からのデータに基づいて明らかにすることである。データ収集においては、研究対象校の校長の許可を得て、第一筆者が教育相談主任、養護教諭、学級担任との半構造化面接を実施し、面接から逐語記録を作成した。データ分析においては、質的研究法の1 つであるグラウンデッド・セオリー・アプローチを用い、分析は学校心理学研究者および臨床心理学専攻の大学院生2 名(第二、第三筆者)により実施された。分析の結果、15 の概念が見出され、それはさらに【Iリーダーシップ】【II組織】【III雰囲気】【IV意識】の4 つのカテゴリーにまとめられた。 結果からみると、チーム援助モチベーションの促進要因は、ハード面の《組織》およびソフト面の《リーダーシップ》《雰囲気》《意識》であることが明らかになった。そして、《リーダーシップ》が《組織》の【柔軟なチーム援助】【システムの構築】および《雰囲気》に直接的に影響を与えていた。さらに、《雰囲気》は《組織》の【役割分担によるチーム援助】に影響を与え、《意識》とは相互に影響を与えあっていた。 チーム援助モチベーションが促進されるためには、組織が整えられることは大切であるが、その組織がより効果的に機能するためには、それを動かす教師集団の雰囲気や意識が大切であることが確認された。実践現場から導かれた本研究の結果は、理論的な先行研究では十分扱われてこなかったチーム援助モチベーションの促進要因が学校組織の視点から明らかになり、現在の教育界に対応するチーム援助の特徴を示唆している。
著者
阿部 洋子
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学文学部紀要 (ISSN:13481444)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.A101-A122, 2007-03-15

日本人の通学制女子大学生209名の中から、社会的望ましさの得点の高い者を除いた191名を対象に、道徳に関する行為について、その「善悪の程度」「当為性」「領域判断」「実行の程度」について質問紙を用いて、検討した。その結果、悪さについては、それほど悪くなく、しても構わない行為で、個人領域に属すると判断されたものは、自分自身を大切にしない行為、男女・性に関する行為であることが分かった。ところが、「悪さ」については、その行為が「道徳」領域に属する行為だとして判断されることによって、「しても構わない」が「悪い」と判断する傾向が認められ、悪いことは悪いという意識を保持できる傾向にあることが分かった。このことから、ある行為を「道徳」領域のものであると教えることが、様々な問題行動を抑止することに繋がるのではないかと考えられる。「善さ」については、道徳領域だと判断された行為は1つもなく、すべて社会的慣習あるいは個人領域に属する行為だと考えていることが分かった。これらは現代の若者が自律的になったということではなく、むしろ気分や好き嫌いによって様々な行動を決定する傾向があると考えられる。挨拶や敬語を使用することができるようになることが躾でないことは分かっている。それでは何を根幹として道徳心向上のための教育をすればよいかということになるが、「悪さ」については「いじめ、虐待」「大量消費を美徳する」などは、むしろ大人社会が喪失している問題であり、若者社会の中では「すべきでない道徳に属する行為」だと考えられていることが分かった。一方、「善さ」については、それほど善くなくて、するべきだと感じている者が少ない行為で、個人領域に属する行為は、家族との関係、祖先崇拝、神仏崇拝、などであることが分かった。こうした行為が減少したことは、日本が封建的で、軍国主義的な国家から脱却できた証だと考えることもできるが、他方、対人関係の基礎を成す、家族内の対人関係を希薄化させることになったと考えることもできる。今後、詳細な検討をする必要があると考える。