著者
佐竹 真城
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
no.60, pp.221-254, 2020-03-31

小論で扱う『往生礼讃光明抄』は、神奈川県立金沢文庫管理の国宝称名寺聖教に属する一書で、撰者は法然門下の覚明房長西である。本書について、文永5(1268)年の書写奥書を有していることから、『往生礼讃』の註釈書として最初期に位置付けることができ、史料として貴重である。撰者の長西については、法然の室への入門は遅かったが、後に九品寺(くぼんじ)流と称する一派を形成していることから、法然門下のなかでも重要視される人物である。しかしながら、九品寺流は早くに途絶え、その著作も殆どが早くに散逸していたため、第三者の所伝のほかは詳細を知る術がなかった。ところが、昭和の調査で本書を含めた数点の長西著作が顕出されたのである。以降、学界としてその重要性・貴重性は大いに認識され、真の長西教義が明らかにされることが期待されていた。しかしながら、筆者以前に実際に翻刻された典籍は僅かであり、十分に研究が進展しているとは言い難い。また、これら未翻刻の典籍には、同時代に活躍した浄土宗第三祖良忠への影響を指摘することができる。如上の点から、長西研究のみならず、当時の法然門下の交流や思想交渉など、従来知られていなかった点を明らかにする上で、貴重な史料と成り得ると考える。よって小論は、長西研究ならびに中世浄土教研究の進展を期して翻刻を公開する。

5 0 0 0 OA 口絵

著者
木場 貴俊
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.60, 2020-03-31
著者
高 兵兵
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.83-98, 2006-03-31

「残菊」は、中国唐代以来詩に詠まれていた題材であるが、日本ではそれをはじめて詩に詠んだのは、菅原道真である。しかも、中国の古典詩では「残菊」はあまり取りあげられなかったのに対して、日本では菅原道真をはじめとする漢詩人たちによって積極的に取りあげられていたようである。
著者
古俣 達郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.107-137, 2018-11-30

本稿では、明治末のアメリカ人留学生で日本学者であったチャールズ・ジョナサン・アーネル(Charles Jonathan Arnell 1880-1924)の生涯が描かれる。今日、アーネルの名を知るものは皆無に等しいが、彼は一九〇六(明治三十九)年に日本の私立大学(法政大学)に入学した初めての欧米出身者(スウェーデン系アメリカ人)である。その後、外交官として米国大使館で勤務する傍ら、一九一三年に東京帝国大学文科大学国文学科に転じ、芳賀矢一や藤村作のもとで国文学を修めている(専門は能楽・狂言などの日本演劇)。卒業後は大学院に通いながら、東京商科大学(現:一橋大学)の講師に就任し、博士号の取得を目指していたが、「排日移民法」の成立によって精神を病み、一九二四年十一月、アメリカの病院で急逝した。
著者
三橋 正
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.11-40, 2014-09

個人が日記をつける習慣と過去の日記を保存・利用する「古記録文化」は、官人の職務として発生したものが天皇や上級貴族にも受け入れられ、摂関政治を推進した藤原忠平(八八〇~九四九)によって文化として確立され、子孫に伝承され、貴族社会に定着していった。その日記の付け方は、『九条殿遺誡』にあるように、具注暦に書き込むだけでなく、特別な行事については別記にも記すというものであり、忠平も実践していたことが『貞信公記抄』の異例日付表記などから確認できる。息師輔(九〇八~九六〇)も、具注暦記(現存する『九暦抄』)と部類形式の別記(現存する『九条殿記』)とを書き分けていたことは、具注暦記にはない別記の記事(逸文)が儀式書に引用され、別記に具注暦記(暦記)の記載を注記した部分があることなどから明らかである。従来の研究では、部類は後から編纂されると考えて原『九暦』を想定し、そこから省略本としての『九暦抄』と年中行事書編纂のための『九条殿記』が作られたとしていたが、先入観に基づく学説は見直されるべきである。平親信(九四六~一〇一七)の『親信卿記』についても、原『親信卿記』を想定して自身の六位蔵人時代の日記について一度部類化してから再統合したとの学説があったが、そうではなく、並行して付けていた具注暦記と部類形式の別記を統合したものであった。藤原行成(九七二~一〇二七)の『権記』では、具注暦記のほかに儀式の次第などを記す別記と宣命などを記す目録が並行して付けられていたが、一条天皇の崩御を契機として統合版を作成したようで、その寛弘八年(一〇一一)までの記事がまとめられた。現存する日記(古記録)の写本は統合版が多く、部類形式の別記については研究者に認知されていなかった。本稿により、(日記帳のような)具注暦とは別に(ルーズリーフ・ノートのような)別紙を使って別記を書くという習慣が十世紀前半(忠平の時代)に形成され、十世紀末に両者の統合版を作成して後世に残すという作業が加わるという「古記録文化」の展開が明らかになった。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.16, pp.33-48, 1997-09-30

徳川家康の姓氏問題は複雑である。家康はその血統的系譜を清和源氏の流れを汲む新田一族の一人得川四郎義季の末裔たることに求め、自らの姓氏を清和源氏と定めたとされるが、これは天下の覇権を掌握した家康が、慶長八(一六〇三)年の征夷大将軍任官を控えて系譜の正当化をはかる目的で、そのような始祖伝承を無理に付会していったものであるとこれまで見なされてきた。しかし家康宛の朝廷官位叙任に関する口宣を分析した米田雄介氏の近年の研究成果は、このような通説的歴史像に疑義を生じさせるものとなっている。本稿はこれらの研究史を踏まえ、かつ家康関係文書の再検討を通して、家康の姓氏の変遷を追究する。それは単に、家康の源氏改姓の時期のいかんを求める事実問題としてだけではなく、姓氏の変遷に表現されたこの時期の国政上の意義にかかわる問題でもある。本稿では、この家康の源氏改姓問題を通して、豊臣秀吉の関白政権時代の国制はその下に事実上の徳川将軍制を内包するような権力の二重構造的性格を有するものであったことを論じる。
著者
山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.40, pp.103-128, 2009-11-30

六十四種類の「百鬼夜行絵巻」を対象に、その図像の編集過程の復元を試みた。描かれた「鬼」の図像配列の相違に着目し、情報学の編集距離を使って絵巻の系統樹を作成した。その結果、真珠庵本系統の「百鬼夜行絵巻」の祖本に最も近い図像配列を持つのは、日文研B本であるとの推定結果が得られた。また合本系の「百鬼夜行絵巻」についても図像配列を比較し、それらの編集過程の全体像を推定した。
著者
近藤 好和
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.277-285, 2012-09

室町時代には将軍が朝廷儀礼に参加するようになったために、公家と武家との身分に対する意識や儀礼体系の相違に基づく矛盾が表面化し、武家側の圧力で武家側の論理が優先されて、公家の先例・故実が改変されることがあった。本報告では、そのことを端的に示す事例として、『建内記』応永二十四年八月十五日条を取り上げた。その日は石清水八幡宮寺最大の祭礼で、公祭として朝廷儀礼に準じられる放生会当日であり、その放生会に、室町幕府四代将軍足利義持が朝廷儀礼の責任者である上卿として、『建内記』記主である万里小路時房が上卿の補佐役である参議として参加した。そのために、武家側の論理が優先されて、時房は不本意ながらもいくつかの先例・故実の改変を余儀なくされた。それが時房の心情とともに上記『建内記に具体的に記されており、その各事例を紹介・分析することで、公家と武家との儀礼に対する意識の相違やその背景を探った。同時に今回の先例・故実の改変は、のちにはそれが先例として踏襲されており、かかる先例・故実に対する態度の柔軟性も公家の儀礼の特徴である点を指摘した。
著者
勝原 良太
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.34, pp.249-271, 2007-03-31

この報告は、勝盛典子氏(神戸市立博物館学芸員)の論文「大浪から国芳へ――美術にみる蘭書受容のかたち」(神戸市立博物館研究紀要 第十六号)をうけて書かれたものである。勝盛氏が調査されたニューホフ著『東西海陸紀行』の挿絵を再調査したところ、浮世絵師・国芳は同本から、十四作品十五個所の自作に図様を転用していることが判明した。本稿ではこれらの調査結果を図版と対比させながら一括して報告する。調査を終えてわかったことは、国芳が同本挿絵から利用する時、その部分については克明に写し取っているということである。そして同時に、自己の作品全体の中に転換・消化して、作品をオリジナルなものに高めている。その手腕は非凡の為、原拠挿絵と国芳作品を併置して見た時、両図の関係は明らかであるにもかかわらず、これらを切り離して見た時、両図の関係は気づかれにくいものとなっている。この点から考えても、国芳のアレンジの優秀さが知られる。
著者
姜 鶯燕 平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.301-335, 2012-03-30

平安末期の僧である法然は、比叡山で天台を学び、安元元(一一七五)年に称名念仏に専念する立場を確立し、浄土宗を開いた。庶民だけではなく関白九条兼実など、社会的地位に関係なく多くの者たちが法然の称名念仏に帰依した。建暦二(一二一二)年に亡くなったあとも、法然の説いた教えは浄土宗という一派だけではなく、日本仏教や思想に影響を与えた。入滅から四八六年が経った元禄一〇(一六九七)年には、最初の大師号が加諡された。法然の年忌法要が特別に天皇の年忌法要と同じく御忌とよばれているが、正徳元(一七一一)年の滅後五〇〇年の御忌以降、今日に至るまで五〇年ごとに大師号が加諡されており、明治になるまでは勅使を招いての法要もおこなわれていた。本稿は、法然の御忌における法要が確立した徳川時代のなかで、六五〇年の御忌の様子を記録した 『蕐頂山大法會圖録全』『勅會御式略圖全』の翻刻を通じて、徳川時代における御忌のあり方を浮かび上がらせることを目的とした。
著者
伊東 俊太郎 安田 善憲 小泉 格 速水 融 埴原 和郎 梅原 猛
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
総合研究(B)
巻号頁・発行日
1990

平成2年9月14日に平成3年度より出発する重点領域研究「地球環境の変動と文明の盛衰」(104 文明と環境)の第1回研究打合わせ会を京都市で実施した。出席者は研究代表者伊東俊太郎ほか13名。全体的な研究計画の打合わせと,今後の基本方針の確認ならびにニュ-スレタ-用の座談を実施した。平成2年12月1日,雑誌ニュ-トン12月号(教育社刊)誌上にて本重点領域研究にかかわる特集を組み,発表した。重点領域研究の広報活動の一環として研究計画の概要を朝日新聞11月6日付,毎日新聞1月3日付,日本経済新聞2月11日付に発表した。平成3年2月21日,ニュ-スレタ-「文明と環境」出発準備号を刊行し,関係者に配布した。内容は対談梅原猛・伊東俊太郎,座談安田喜憲ほか5名,特集,速水融ほかで31ペ-ジの構成である。大変好評で,日本経済新聞3月21日付にも紹介され,多くの研究者,企業関係者から問い合わせが殺到した。平成3年2月28日,第2回研究打合わせ連絡会を京都市で開催した。出席者は伊東俊太郎ほか重点領域計画研究関係者58名であった。午前中全体集会を実施し,午後分科会に分かれて,今後の研究方針について話し合った。今回の研究打合わせにより,58名もの参加者を得たことは,4月以降の本格的な出発に明かるい希望を抱かせた。平成3年3月8日,文部省にて重点領域研究審査会を実施し,公募研究の候補を選定した。
著者
姜 鶯燕
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.43-84, 2009-11-30

江戸時代といえば、固定化された身分制社会としてのイメージが強い。しかし、身分移動の可能性が完全に閉ざされているわけではなかった。武士身分の売買が行われていたことから、個人レベルの身分上昇や身分移動は事実として存在した。
著者
王 成
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.117-145, 2004-12-27

本稿は漱石文学の読者層を解明するために、当時流行していた<修養>思想をめぐる研究の一環である。先行の漱石研究では、<修養>を無視したために、多くの問題が解明されていないのではなかろうかという疑問から始まって、近代における<修養>という言葉がいつ、どのように現れたか、<修養>という概念がいかに解釈されたか、<修養>をめぐる近代日本の言説空間がどのように形成されたか、という課題について、解明しようとしたものである。
著者
田村 美由紀
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.66, pp.75-100, 2023-03-31

本稿は、武田泰淳と武田百合子の口述筆記創作に着目し、書くことの協働性が具体的な文学実践のなかにどのように織り込まれているのかを考察するものである。 二人は「男性芸術家とその妻」であり、創作現場における「口述者と筆記者」でもあったが、作家夫婦にしばしば生じる支配と従属の関係とは一線を画するものとして、肯定的に評価されることが多い。しかしながら、二人の関係性を無前提に称揚してしまうことは適切ではないだろう。重要なのは、二人の関係性が望ましいものであることを論の前提とするのではなく、何がそうした関係を切り拓く鍵となっていたのか、その背景を解きほぐしていくことである。本稿では、泰淳の病後、百合子の筆記によって彼の執筆活動が成り立っていたことに目を向け、書くことのディスアビリティに対峙した両者の姿から見えてくる問題について、ケアや中動態の概念を補助線に検討をおこなう。 分析対象に取り上げる『目まいのする散歩』(1976年)は、病後の不如意の身体に対する泰淳の意識が強く反映されており、書く行為を他者に委ねるという状況を彼自身がどのように捉えていたのかを考える上で興味深いテクストである。テクストに示された自律した主体像への懐疑的なまなざしを、中途障害を抱える自らに対する内省として捉え、そうした依存的な自己のありようを凝視することが、他者との開かれた関係を構築する契機となっていることを明らかにする。 また、テクスト後半のロシア旅行に関する章で用いられる百合子(筆記者)の日記を借用するという方法に焦点を当て、それが「書かせる」(能動)/「書かされる」(受動)という単純な二元論に回収し得ない、書くことの協働性に結びついていることを論じる。ケアの思想に基づくこれらの分析を通して、一方的な搾取や支配の関係ではなく、互いの他者性や依存性を否定しない倫理的な関係を築くための視点を導出することが本稿の目的である。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.2, pp.139-170, 1990-03-10

文芸作品を研究の対象とし、また他の分野の研究の素材として用いるに際して、不可欠なのは、作品を作品として対象化する態度の確立である。かかる態度の端緒は、時枝誠記『国語学原論』によって開かれているが、その基本は、言語を人間の活動性において把握しようとする立場にある。この活動論的契機を芸術一般論に導入し、作品を作家の主観へ還元する近代人格主義的芸術観を批判しつつ、芸術活動の本質をなすものは、虚構を美的鑑賞の対象として扱う鑑賞的態度であると仮定する。次に、時枝言語論を芸術論へと拡張し、表現を認識の逆過程とする三浦つとむ「表現過程論」を批判的媒介とすることで、芸術活動の目的が鑑賞者の美的規範に働きかけるものであること、作品制作過程に「作者と鑑賞者の相互転換」の運動が成立していること、及びその運動の成立する"表現の場所"における転換構造の分析を行う。さらには時枝言語論、吉本隆明『言語において美とは何か』の根本概念について活動論的な検討を加えて、文芸表現活動の特質が、芸術活動と言語活動の二重性をもつ以上、作品を作品として対象化する態度の基本は、その虚構性と文体性を結合する表現主体の「方法」の把握にあると主張する。
著者
永塚 憲治 上田 眞生
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.423-465, 2022-10-31

近世にさまざまな形式で制作されてきた艶本、その総数は一説に拠れば、多く見積もった説では三千点を超えるとされ、少なく見積もった説では千二百点と言われており、いずれにせよおびただしい数の艶本が出版されていたことが分かっている。今回紹介する艶本は、稿者の一人の永塚が京都の古物商からネットオークションで入手したものである。 艶本に於て性典モノはしばしば見受けられ、その中で春薬(強壮剤や催淫剤等の性行為を助ける薬の総称)が登場するも、春薬の処方集というのは、他にあまり例を見ない形式の艶本である。この春薬というものは、元々中国で生まれたもので、今回の欠題艶本でも漢の武帝や陶真人(陶弘景)や唐の玄宗といった中国史上で著名な人物に由来するとされている。この艶本には、全部で二十三の春薬を載せるが、「艶薬奇方」ではその効能・用法を、「春意奇方」ではその構成する生薬と修治などの製造に関わる記述を載せており、実用に適った形式を取っている。 全二十三の春薬の内、例えば、「固精丸」は、明の嘉靖15年(1536)に刊行された房中書の『素女妙論』に載る「固精丸」と処方名が同じで、構成する生薬もほぼ同じものが載せられている。一般に『素女妙論』と言えばヒューリックの『秘戯図考』に所収の「丙寅仲冬」の「序」を載せるものだが、それではなく嘉靖15年に刊行された『素女妙論』は、戦国時代の医師である曲直瀬道三によって『黄素妙論』として和語に抄訳されている。この『黄素妙論』は、後の時代に艶本や養生書に取り込まれ、近世日本の房中書の流通の中核となっている。春薬の研究は、房中書と艶本という共にアンダーグラウンドの出版物であった為か、依然として不明な点も多い。そこで今回は解題・翻刻をして江湖に問うことにした。本稿は、この知られざる日中交流の歴史を明らかにする為の基礎作業であり、諸賢の指摘・叱正を請うものである。
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.35-47, 2000-10-31

本論文では豊臣秀吉没後の慶長四(一五九九)年閏三月に発生した加藤清正ら豊臣七武将による石田三成襲撃事件の顛末を取り上げ、ことに同事件を事実関係の究明の観点から検討する。関ヶ原合戦の端緒をなすこの著名な事件の経緯をめぐっては、豊臣武将たちの襲撃計画を事前に察知した石田三成は大阪から伏見に逃れ、そして伏見にある徳川家康の屋敷に入ってその保護を求め、家康もまたこれを受け入れて豊臣武将たちによる三成の身柄引き渡し要求を拒絶し、三成を近江佐和山の領址に逼塞させることで問題を解決に導いたという認識が示されてきた。これはただにドラマ・時代劇の筋立てだけであるのみならず、権威ある多くの歴史研究の論著においてもそのようなものとして論述されてきた。しかしながらこれは事実誤認であり、伏見に逃れ来った三成が身を守るために入ったのは家康の屋敷ではなく、伏見城の中にある彼自身の屋敷であった。関ヶ原合戦に関する多くの研究論著において繰り返し論述され、われわれにとって常識ともなっているこの事件が、事実関係という最も根本的なところで何故にこのような誤認が生じていたのか。また数多くの歴史研究者がこの問題に言及しながら何故にこのような基礎的な誤認に気がつかなかったのであろうか。本論文はこの事件の事実関係を解明するとともに、われわれの認識を束縛し、誤認に導いていく危険を常に孕んでいるところの歴史認識のメカニズムについて分析を施していく。