- 著者
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山梨 淳
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 (ISSN:09150900)
- 巻号頁・発行日
- vol.44, pp.221-304, 2011-10
本論は、日露戦争後の一九〇五年末に行われたアメリカ人のウィリアム・ヘンリー・オコンネル教皇使節の日本訪問に焦点をあて、二十世紀初頭に転換期を迎えつつあった日本のカトリック教会の諸動向を明らかにすることを目的としている。オコンネル使節の訪問は、日露戦争時に戦地のカトリック教会が日本により保護されたことに対して、教皇庁が明治天皇に感謝の意を表するために行われたものであるが、また日本のカトリック教会の現状視察という隠れた目的をもっていた。 幕末期より二十世紀初頭に至るまで、日本のカトリック教会の宣教は、フランスのパリ外国宣教会の宣教師によって独占的に担われてきたが、日露戦争前夜の時期には、同会の宣教活動は、近代国家の日本では十分な成果を挙げ得ないものとして日本人信者の一部に批判を投げかけられるようになっていた。長崎教区の一部の信者らは、慈善活動など下層階級への宣教事業に力を入れるパリ外国宣教会に不満を抱いて、学術活動に強いイエズス会の誘致運動を行い、教皇庁にその必要を主張する意見の具申すら行っている。 世紀転換期、東京大司教区では、知識人層を対象にした出版活動や青年運動が展開されており、パリ外国宣教会には日本人の若手カトリック知識人の活発な活動に期待する宣教師も存在したが、彼らは少数派であった。オコンネル使節の来日時、日本人カトリック者は、彼に日本の教会の現状を伝えて、フランス以外の国からの修道会の来日やカトリック大学の設立を具申し、教皇庁の権威に頼ることによって、教会の内部変革を試みようとした。 二十世紀初頭、日本人カトリック者らが一部の神父の理解をえて活動を行った信徒主体の活動は、パリ外国宣教会の十分な理解をえられず、しばしば停滞を余儀なくされる。同会の宣教師と日本人カトリック者との関係の考察は、当時におけるカトリック教会の動向の一端をうかがうことが可能にするだろう。