著者
秋沢 美枝子 山田 奨治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.32, pp.285-315, 2006-03-31

ドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲル(一八八四~一九五五)がナチ時代に書いた、「国家社会主義と哲学」(一九三五)、「サムライのエトス」(一九四四)の全訳と改題である。
著者
平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.37, pp.201-245, 2008-03-31

一柳満喜子は一八八四年、一柳末徳子爵の子として誕生した。満喜子はミッション経営の幼稚園、女子高等師範学校附属小学校、附属女学校、神戸女学院などで学び、一九〇九年に渡米。米国ではブリンモア大学予備学校で学び、在学中に受洗した。その後、ブリンモアカレッジに入学したものの退学し、女学校時代の恩師アリス・ベーコンのもと、サマーキャンプなどを手伝っていたが、末徳の危篤の知らせを受け帰国。そして、兄恵三の邸宅を設計していたウィリアム・メレル・ヴォーリズと出会う。メレルとの結婚後、近江八幡の地に移った満喜子は、そこでいくつかの教育事業を行った。
著者
張 小栄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.243-280, 2022-10-31

「王道主義」は「満洲国」建国過程で唱えられた統治理念である。満洲事変(九・一八事変)後に、関東軍のイニシアチブのもとで進められた建国工作では、主として現地文治派指導者、関東軍に随伴する植民地統治のイデオローグである橘樸や野田蘭蔵等「理念派」および満鉄実務官僚出身の上村哲弥等「実務派」が相互に絡み合いながら統治理念の形成に関わった。 橘樸や野田蘭蔵等「理念派」は、現地文治派指導者の政治的主張を取り込みつつ、中国の伝統的儒学思想を淵源とする「大同の世」の理想的社会像を「農民自治」に見出しつつ「王道方法論」を構築した。しかしそれは、関東軍の「満洲国」統治を正当化する論理にとどまり、実質的な内容を持たない理念となった。 これに対して、上村哲弥らによって代表され、金子雪斎の満蒙経営論からの思想系譜をもつ実務派は、大正期から「王道主義」を唱え、中国の東北地域における長年の「満蒙経営」、なかんずく教育実務者としての経験から、その教育政策立案を通じて政治的具体化を目指した。しかしその重要性にも拘わらず、従来上村等は「王道主義」の文脈では重視されてこなかった。 そこで本稿では、「満洲国」の統治理念として唱えた「王道主義」をいかに認識し、いかに教育政策に反映させようとしたのかを検討する。
著者
ヴォヴィン アレキサンダー
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.11-27, 2009-03-31

最近日本祖語、琉球祖語と日琉祖語の再構が非常に進んだとは言え、まだ不明な箇所が少なからず残っている。特に、日本語にない琉球語の特別な語彙と文法要素、また、琉球語にない日本語の特別な語彙と文法要素が目立つ。それ以外にも、同源の様でも、実際に説明に問題がある語彙と文法要素も少なくない。この論文では、そうしたいくつかの語彙を取り上げる。結論として次の二つの点を強調したい。先ず、琉球諸言語の資料を使わなければ、日琉祖語の再構は不可能である。第二に、上代日本語と現代日本語の本土方言には存在しない韓国語の要素が琉球諸言語に現れていることを示そうとした。私の説明が正しければ、ある上代韓国語の方言と琉球祖語の間に接点があったことを明示する事になるであろう。
著者
大澤 絢子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.27-56, 2014-03

浄土真宗の宗祖親鸞はこれまで、「妻帯した」とされてきた。 ところが現在確認できる親鸞の言葉のうちで、親鸞自身が「妻帯」を宣言したものや、「妻」について語ったものはない。また、親鸞の生涯を記した「親鸞伝絵」や、『御伝鈔』においても、親鸞が「妻帯した」というエピソードはない。親鸞の「妻帯」が明確に記述されているのは、特に江戸期に刊行または作成された親鸞伝においてである。 江戸期は幕府によって僧侶の女犯や妻帯が厳罰化された時期であるが、一方では浄土真宗が「宗風」を理由に妻帯を許可されていた時期でもる。本稿は、江戸期に刊行・作成された親鸞伝の記述を分析し、浄土真宗において「妻帯の宗風」がいかに確立したかを考察した。具体的に注目した記述は、親鸞「妻帯」の描写、「妻帯」の理由、「妻帯」に対する親鸞の反応、そして「妻帯の宗風」に関する記述である。 江戸期以前に親鸞の「妻帯」を記した親鸞伝は写本が少ないのにもかかわらず、そこに書かれた親鸞の「妻帯」は、江戸期の親鸞伝において定着する。またその「妻帯」は、単なる破戒行為とは異なるものとして正当化され、「妻帯」の責任は親鸞に起因させない形で記述されていく。さらには親鸞の「妻帯」が「妻帯の宗風」の起源として記述され、他宗とは異なる「宗風」の独自性が強調されていく。 たとえ宗祖である親鸞が「妻帯」したとしても、それ自体は浄土真宗の「妻帯の宗風」には直結しないはずである。しかし親鸞伝では宗祖親鸞の「妻帯」が次第に、浄土真宗における「妻帯の宗風」の起源として語られていく。江戸期の親鸞伝における「妻帯した親鸞」像の定着と、「妻帯の宗風」の起源に関するエピソードの完成は、浄土真宗の「妻帯の宗風」の確立を考える上で一つの重要な動きであると考えられる。It has long been said that founder of the Jōdo Shin school of Buddhism Shinran (1173-1262) was married, even though Shinran's "marriage" is not mentioned in any statements by the priest himself during his lifetime, as depicted in the pictorial accounts (Shinranden-e), nor does it appear in the biographical Godenshō. This paper focuses on biographies of Shinran written in the Edo period that state clearly that he was married.In the Edo period the Tokugawa bakufu harshly punished members of the Buddhist clergy for relations with women, but marriage was permitted among the clergy of the Jōdo Shin school because it was apractice with a long tradition. Based on an analysis of the accounts in the biographies compiled or published in the Edo period, this paper attenpts to explain how the practice of marriage was established in Jōdo Shin. It focuses specifically on mentions of Shinran's "marriage" (saitai 妻帯), reasons for the marriage, Shinran's reaction to marriage, and descriptions of the practice.Descriptions of Shinran's marriage, despite the scarcity of pre-Edo manuscripts telling of hismarriage, became established in almost all the biographies published in the Edo period. Through these descriptions, his marriage is explained not as a violation of Buddhist vows, but otherwise justified in order to avoid placing the responsibility on Shinran himself.The accounts also show that the Jōdo Shin practice of clerical marriage was not directly linked to the founder's marriage even if he had indeed married. The accounts in the biographies published during the Edo period increasingly emphasize the distinction of Jōdo Shin from other schools in terms of the practice of marriage, which they trace to the "marriage of the founder."The fixing of the imageo f Shinran as a married priest and the relating of episodes about the origins of clerical marriage in the Edo period played an important part in the establishment of the practice of marriage in the Jōdo Shin school.
著者
今谷 明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.201-214, 2007-05-21

アメリカ、フランス、オランダ、ドイツ各国に於ける日本史研究の現状と特色をスケッチしたもの。研究者数、研究機関(大学など)とも圧倒的にアメリカが多い。ここ十年余の期間の顕著な特色は、各国の研究水準が大幅にアップし、殆どの研究者が、翻訳資料でなく、日本語のナマの資料を用いて研究を行い、論文を作成していることで、日本人の研究者と比して遜色ないのみか、医史学など一部の分野では日本の研究レベルを凌駕しているところもある。
著者
磯田 道史
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.221-239, 1999-06

日本の武士社会では、養子が家を継ぐことが、しばしばある。しかも、日本の養子制度は中国や朝鮮の制度と異なり、必ずしも、同じ家の成員でなくてもよい。しかも、養子が、当主(家父長)になって、その家を継承・相続する点が特徴的である。この東アジア社会では特異な制度は、日本近世の身分制社会にとって、どのような意味を持ったのであろうか?一八世紀末から一九世紀末の武士の養子制度について、長門国清末藩(山口県下関市)の侍の由緒書(家の歴史記録)と分限帳(名簿)をもとに、分析した。その結果、次のことが、明らかになった。(1) 養子相続の割合は三九・〇%にのぼる。そのうち、家名が異なる者が養子になった割合は、三四・二%であった。(2) 同じ身分や階層のなかで、閉鎖的に、養子が交換されている。養子の出身をしらべると、八五%は同じ清末藩士の子であった。武士の子が約九九%で、残りの約一%は僧侶や医者の子であった。同じ武士でも、藩で決めた家のランクが同じ、もしくは、一ランクだけ違う武士の間で、主に養子が交換されている。禄高が二倍以上離れた家が養子をやりとりする例は少ない。(3) そのため、養子制度をつかって、個人が大きな社会移動をするのは難しかった。日本の武士社会では、父の禄高が子の禄高に与える影響は絶大であった。父の地位の影響力をパス係数でみると、実子の場合、〇・九におよぶ。他の家に養子に出た場合でさえ〇・五であった。 もし、養子の制度がなければ、日本の武士の家は、一〇〇年で七〇%以上が途絶えたはずである。しかし、養子制度があるため、武士の家は途絶えず、新たな家が支配層に参入する機会を少なくしていた。日本の養子制度は、同じ階層内で武士を再生産する制度であったため、重要な例外を除いて、直ちに身分制度をゆるめるものではなかった。むしろ、既に支配層にある特定の家々の人々が、永続的にその地位を占めつづけるのに、役立っていたと指摘できる。
著者
酒井 直樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.11-22, 2016-06

アジア太平洋戦争後の東アジアで、日本はアジアの近代化の寵児とみなされ、アジアで唯一の先進国と呼ばれてきた。冷戦秩序下のパックス・アメリカーナ(アメリカの支配下の平和の意味)で日本は、東アジアにおけるアメリカ合州国の反共政策の中枢の役割を担い、「下請けの帝国」の地位を与えられ、経済的・政治的な特別待遇を享受してきた。日本研究は、この状況下で、欧米研究者による地域研究と日本人研究者の日本文学・日本史の間の共犯構造の下で、育成されてきたと言ってよい。「失われた二十年」の後、地域研究としての日本研究も日本文化論としての日本研究も根本的な変身を迫られている。それは、東アジアの研究者の眼差しを無視した日本研究が最早成り立つことができないからで、これまでの日本文化論に典型的にみられる欧米と日本の間の文明論的な転移構造にもとづく日本研究を維持することができなくなってきたからである。これからの日本研究には、合州国と日本の植民地意識を同時に俎上にあげるような理論的な視点が重要になってきている。
著者
姜 鶯燕
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.163-200, 2008-03

本稿は、須藤由蔵の手記である『藤岡屋日記』を素材に武士身分の売買と思われる事例を抽出し、近世中後期における武士身分の売買の実態について検討したものである。『藤岡屋日記』の中で十七の武士株の売買の事例が見つかった。分析の結果を下記のようにまとめる。 ① 全ての事例は御家人株の売買であったが、売買の対象となった御家人の役職が多彩であった。御家人の家筋をみると、「御抱席」の御家人もいれば、「御譜代准席」と「御譜代席」の御家人も少なくなかった。 ② 株の売買は密かに行われているように思われるが、実際に、家来に御家人株を買い与えた幕臣もいた。 ③ 御家人株の売買は庶民が武士になる手段として認識されているが、実際に、武家の二男以下の男子や武士身分を失った武士が武士層に戻る手段として御家人株を利用した。 ④ 身分を売った元御家人の中で町人となった者もいたことがわかった。
著者
酒井 直樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
失われた20年と日本研究のこれから・失われた20年と日本社会の変容
巻号頁・発行日
pp.87-97, 2017-03-31

失われた20年と日本研究のこれから(京都 : 2015年6月30日-7月2日)・失われた20年と日本社会の変容(ハーバード : 2015年11月13日)
著者
辛島 理人
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.155-183, 2012-03-30

本稿は、アメリカの反共リベラル知識人と民間財団による、一九五〇・六〇年代の日本の社会科学への介入とその反応・成果に焦点をあて、戦後における日本とアメリカの文化交流を議論するものである。その事例として、経済学者・板垣與一がロックフェラー財団の支援を受けて行ったアジア、ヨーロッパ、アメリカ訪問(一九五七~五八)を取り上げる。ロックフェラー財団は、第二次対戦終了直後に日本での活動を再開し、日本の文化政治の「方向付け」を試みた。その一つが、日本の大学や学術をドイツ式の「象牙の塔」からアメリカのような政策志向の実践的なものへと転換させることであった。そのような方針を持つロックフェラー財団にとって、官庁エコノミストと協働していわゆる「近代経済学」を押し進めていた一橋大学は好ましい機関であった。板垣與一は、同財団が支援する「アングロサクソン・スカンジナビア」型の経済学を推進する研究者ではなかったが、日本の反共リベラルを支援しようとしたアメリカの近代化論者の推薦をうけて、同財団の助成金を得ることとなる。そして、一九五七~五八年に板垣は、「民族主義と経済発展」を主題としてアジア、ヨーロッパ、アメリカを巡検する。アメリカでは、近代化論者の多かったMITなどの機関ではなく、ナショナリズムへ関心を払うコーネル大学の東南アジア研究者との交流を楽しんだ。板垣は日本における近代化論の導入に大きな役割を果たすものの、必ずしもロストウら主唱者の議論に同調したわけではなかった。戦時期に学んだ植民地社会の二重性・複合性に関する議論を、戦後も展開して近代化論を批判したのである。ロックフェラー財団野援助による海外渡航後、板垣は民主社会主義者の政治文化活動に積極的に参加した。しかし、ケネディ・ジョンソン政権と近しい関係にあったアメリカの反共リベラル知識人・財団の期待に反し、反共社会民主主義が議会においても論壇においても大きな影響力を持つことはなかった。