著者
合庭 惇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.79-93, 2007-05

幕末から明治初年にかけての時期は、欧米の科学技術が積極的に導入されて明治政府によって強力に推進された産業革命の礎を築いた時代であった。近代市民社会の成立と印刷技術による大量の出版物の発行との密接な関連が指摘されているが、近代日本の黎明期もまた同様であった。本稿は幕末から明治初年の日本における近代印刷技術発展の一断面に注目し、活版印刷史を彩るいくつかのエピソードを検証する。
著者
池内 恵
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
Cairo Conference on Japanese Studies
巻号頁・発行日
pp.173-181, 2007-12-20

Cairo Conference on Japanese Studies, カイロ大学, 2006年11月5日-6日
著者
KORNEEVA Svetlana
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本文化の解釈 : ロシアと日本からの視点
巻号頁・発行日
pp.203-215, 2009-12-15

国立ロシア人文大学, モスクワ大学, 2007年10月31日-11月2日
著者
春藤 献一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.63, pp.131-161, 2021-10-29

本論文は「動物の保護及び管理に関する法律」(1973年成立)の下で行われた動物保護管理行政における、飼い猫の登録制度や、野良猫用の捕獲器貸出制度、駆除目的に捕獲された猫の引取りといった施策を論じたものである。 同法により行政は、猫の虐待防止や適正な取扱い等の保護と、猫による被害から人を守る管理を行うようになった。飼い猫の登録制度や野良猫の捕獲は、猫の保護管理に関する実験的施策であった。 1976年11月、静岡県島田市は「ねこの保護管理要綱」を定め、施行した。要綱は前例のない、飼い猫の登録制度と野良猫の捕獲制度を定めた。要綱は県内で相次いだ猫による咬傷事故の防止と、飼い猫や野良猫に関する苦情への対応を目的としていた。市は市民に飼い猫の登録を指導する一方で、野良猫の捕獲を希望する市民には捕獲器を貸出し、捕獲された猫を引取った。この施策により市では猫に関する苦情が大きく減少した。 野良猫を捕獲し殺処分する施策が実施されたことからは、猫による危害防止と苦情への対応が、行政として重要度の高い課題として理解されていたことが示唆された。 この施策は1982年以降、政府発行物により全国の自治体へ類似事例と共に共有され、政府が飼い猫の登録や野良猫の捕獲を実質的に追認していたことも明らかとなった。また政府は1982年に、飼い猫の登録と野良猫の捕獲の是非を問う世論調査を実施し、過半数の賛成を得てもいた。この調査が実施されたこと自体からも、政府が猫の登録や捕獲を、実行性の高い施策として検討していたことが示唆された。 また一部の自治体では要綱等を定めず、行政サービスとして捕獲器の貸出しが行われていたことも明らかとなった。 これらの議論から「動物の保護及び管理に関する法律」の下では、捕獲と殺処分という「排除」の方法による施策が一部の自治体で行われ、猫の管理が行われていたことが明らかとなった。
著者
MALITZ David M.
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
世界の日本研究 = JAPANESE STUDIES AROUND THE WORLD (ISSN:24361771)
巻号頁・発行日
vol.2022, pp.33-48, 2023-03-15

This article investigates Japanese cultural and political influence in the Kingdom of Siam, renamed Thailand in 1939. Early exchanges in the late sixteenth and early seventeenth centuries saw the consumption of Japanese products in the Southeast Asian kingdom as status symbols. Japanese swords in particular were cherished and have become dynastic heirlooms since then. From the late nineteenth century onward, Imperial Japan was seen as a role model of successful modernization in Bangkok and Japanese advisors and instructors were hired by the court. Critics of the absolute monarchy meanwhile stressed that Imperial Japan had become a great power as a constitutional monarchy.
著者
張 寅性
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
失われた20年と日本研究のこれから・失われた20年と日本社会の変容
巻号頁・発行日
pp.13-31, 2017-03-31

失われた20年と日本研究のこれから(京都 : 2015年6月30日-7月2日)・失われた20年と日本社会の変容(ハーバード : 2015年11月13日)
著者
石野 浩司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.65, pp.187-241, 2022-10-31

泉涌寺「霊明殿」とは、歴代天皇の位牌(尊牌)を安置する施設である。天皇即位儀礼および宮中祭祀と関連して、宮内庁の月輪陵墓祭祀との関係性を維持している。 1. 泉涌寺が天皇家喪葬に関与し始めるのは、通説の仁治3年(1242)四条天皇喪葬からではない。『四条院御葬礼記』に見える御前僧は顕密僧であって、いまだ古代の天皇喪葬制の範疇に留まり、禅律僧らが「一向沙汰する」中世喪葬儀礼には移行していない。 2. 後光厳上皇の応安7年(1374)以降、泉涌寺創建伽藍を儀礼空間として完備された天皇喪葬儀礼(泉涌寺と安楽光院との共同運営)は、後円融・称光・後小松天皇と北朝四代の常例となる。この後光厳院流に対して、崇光院流の般舟三昧院が対抗する。 3. 応安例を画期として、泉涌寺「法堂」における龕前堂儀礼、「十六観堂院」中庭での火葬(山頭儀礼)と拾骨(『称光天皇御葬礼記』)、そして持明院統の離宮「伏見御所」域内に嘉元2年(1304)に建立された後深草上皇の葬堂「深草法華堂(安楽行院)」への納骨という、この三部構成が北朝皇室の喪葬伝統を形成する。 4. 応仁2年(1468)に泉涌寺伽藍「法堂」「十六観堂院」以下が全焼すると、明応9年(1500)の後土御門天皇「明応例」を画期として、仮設建物(仮法堂を含む)で代用された「龕前堂・山頭儀礼」が後柏原・後奈良・正親町・後陽成天皇まで式微五代の慣例を形成する。 5. 承応3年(1654)後光明天皇喪葬が、寛文8年(1668)仏殿再建以前であったこともあり仮設建物で執行された。この「承応例」(火葬儀「明応例」を土葬儀へと入句を改編したもの)が幕政下の規範とされたために、敢えて復興伽藍を使用しない仮設式「龕前堂・山頭儀礼」(これに実質的な埋葬「廟所」儀礼が加わる三部構成)が定着する。近代大喪儀「葬場殿」の雛型は、かかる泉涌寺の宋風儀礼であった。 6. 後陽成灰塚以下に模倣されるためには、四条天皇陵の九重石塔が同域内で規範性の高い建造物として認識されていたことが前提となる。般舟三昧院との争論を背景として四条陵石塔が移築再建、北朝皇室の荼毘所「十六観堂院」旧跡に月輪陵墓が形成される。 7. 十六観堂院旧跡に対して、江戸初期三代の天皇陵の慣例が回避的である。一方で後水尾院統の先祖二代と後宮は十六観堂院旧跡に「家族墓」の特異態を形成する。 8. 四条院御影堂の再興を発端とする泉涌寺復興は、寛文6年(1666)「御位牌堂(霊明殿)」創建に結実する。「承応例」以降の天皇家喪葬の典拠が『朱子家礼』である以上、位牌祭祀の空間「霊明殿」も礼制上は朱子「祠堂」と見做される。先祖祭祀を前四代に限定する朱子学礼制は、かくて明治41年『皇室祭祀令』「先帝以前の三代」に継受された。 9. 月輪陵成立過程における後水尾院統「家族墓」構図は、そのまま後水尾院統「家廟」としての創建霊明殿の位牌の配置に反映される。 10. 東山天皇陵を画期とする江戸中期100年間、月輪陵墓は天皇・嫡后だけに占有された埋葬空間「皇室の嫡流陵墓域」を成立させる。一方で嫡出皇子への特殊配慮が見られ、光格天皇以降を後月輪陵と区別する。 11. その「皇室の嫡流陵墓域」構図は、嫡出皇子への特殊配慮も含めて、そのまま弘化再建霊明殿の尊牌配置に反映されている。 12. 元来、後水尾院統「家廟」として成立した寛文創建「霊明殿」は、「嫡流陵墓域」月輪陵に対応して、祭祀する位牌は限定的であった。その限定を解除して「皇室の宗廟」を企図したのが明治9年「尊牌合併令」である。ここに後光厳院流「安楽光院+泉涌寺(北京律)」と崇光院流「安楽行院+般舟三昧院(天台兼学)」という中世後期以降二系統に分裂してしまった天皇家の先祖祭祀が一元化される。かかる位牌祭祀の泉涌寺一元化とは、明治11年(1878)制定「春秋二季皇霊祭」への階梯であった。 13. 明治15年(1882)焼失を好機として、明治16年(1883)の勅命により、明治17年(1884)に宮内省造営で近代霊明殿が成立する。古代の山陵祭祀とは異なる要素として、中世後期以降の宋礼継受により導入された祭祀主体「位牌(朱子学の神主)」形式が、皇霊祭祀の成立要件に組み込まれたことを意味する。かかる近代霊明殿を雛型として、明治22年(1889)に宮中三殿「皇霊殿」が完成した。 14. 近代成立の皇霊殿祭祀に包含される皇統意識とは、復古された山陵祭祀(律令制「近陵」)ではなく、むしろ中世・近世天皇家の「イエ」的な先祖祭祀(廟所としての「月輪陵墓」・家廟としての泉涌寺「霊明殿」)を内実として継承したものである。朝廷内の意思疎通と朝幕間の儀礼的交渉をへて治定された泉涌寺「月輪陵墓」の格式(規模と形式)には、近世皇統意識が可視化されている。
著者
岩下 哲典
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
「日本研究」再考 : 北欧の実践から
巻号頁・発行日
pp.209-214, 2014-03-31

「日本研究」再考 : 北欧の実践からRethinking "Japanese Studies" from Practices in the Nordic Region, コペンハーゲン大学, 2012年8月22日-24日
著者
栗田 英彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.239-267, 2013-03-29

大正期に一世を風靡した心身修養法に岡田式静坐法がある。創始者の名は岡田虎二朗(一八七二―一九二〇)という。彼は、静坐実践を通じて内的霊性を発達させることができると述べ、日本の伝統も明治以降の西洋文明輸入政策も否定しつつ、個人の霊性からまったく新たな文化や教育を生み出そうとした。こうした主張が、近代化の矛盾と伝統の桎梏のなかでもがいていた知識人や学生を含む多くの人々を惹きつけることになったようである。これまで、岡田の急逝をきっかけに、このムーブメントは急速に消えていったように記述されることが多かった。しかしながら、実際にはその後もいくつか静坐会は存続しおり、その中の一つに京都の静坐社があった。静坐社は、岡田式静坐法を治療に応用した医師・小林参三郎(一八六三―一九二六)の死後に、妻の信子(一八八六―一九七三)によって設立された。雑誌『静坐』の刊行を主な活動として、全国の静坐会ネットワークを繋ぐセンター的な役割を果たしていた。
著者
小川 順子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.73-92, 2006-10

本論の目的は、美空ひばりが銀幕で果たした役割を考察することによって、チャンバラ映画と大衆演劇の密接な関係を確認することである。戦後一九五〇年代から六〇年代にかけて、日本映画は黄金期を迎える。当時は週替わり二本立て興行が行われており、組み合わせとして、現代劇映画と時代劇映画をセットにするケースが多かった。そのように大量生産されたチャンバラ映画を中心とした時代劇映画のほとんどは、大衆娯楽映画として位置づけられ、連続上映することから「プログラム・ピクチャア」とも呼ばれている。映画産業を支え、発展させ、もっとも観客を動員したこれらの映画群を考察することには意義があると考える。そして、これらの映画群で重要なのが「スター」であった。そのようなスターの果たした役割を看過することはできないであろう。本論では、戦後のスターとして、あるいは戦後に光り輝いた女優として活躍した一人であるにもかかわらず、「映画スター」としての側面をほとんど語られることがない「美空ひばり」に焦点を当てた。そして、彼女によってどのように演劇と映画の関係が象徴されたのかを検証することを試みた。