著者
田名部 雄一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.5, pp.p135-172, 1991-10

動物の種の間には、互に外部的な共生現象がみられることが多い。ヒトと家畜の間の共生現象の大部分は、ヒトには利益があるが、他方の種(家畜)には大きな害はないが、ほとんど利益のない偏利共生(Commensalism)である。ヒトと家畜の間の共生現象のうち、相互に利益のある相利共生(Partnership)の関係にあるのは、ヒトとイヌ・ネコの間の関係のみである。 この総説では、ヒトによる他の動物種の家畜化にともなう共生関係の成立と維持について、時間的な歴史関係に従って古い順に事例をあげて述べた。イヌは、最古の家畜で、三八、〇〇〇―三五、〇〇〇年前にオオカミから家畜化された。トナカイは、約一五、〇〇〇年前に家畜化されたと考えられている。農耕の始まる前に、ヒツジ、ヤギが西アジアで、ブタが中国で家畜化された。農耕開始後、間もなく家畜化されたのは、西アジアにおけるウシと、東南アジアでのニワトリである。 農耕が完成した後には、多くの動物が家畜化され、そのおもなものは、古い順に上げると、ハト、ヒトコブラクダ、フタコブラクダ、ラマ、アルパカ、ロバ、ウマ、スイギュウ、ミツバチ、カイコ、インドゾウ、ネコ、モルモット、ガチョウ、アヒル、バリケン、シチメンチョウ、ホロホロチョウ、ヤクなどである。このうち、ラマ、アルパカ、モルモット、バリケンは、ペルーで家畜化され、シチメンチョウは、メキシコで家畜化された。他は旧世界で家畜化されている。 家畜化された場所の多くは、ユーラシア大陸で、アフリカで家畜化されたのは、ロバ、ミツバチ、ネコ、ホロホロチョウの四種にすぎない。マウスとドブネズミは、ヒトが農耕を開始した後にヒトと接触し、長い間ヒトの寄生動物(片方には害のある共生関係のある動物)であったが、近年、医学および生物学用の実験動物(家畜)となり、ヒトと偏利共生関係を持つものに変った。 歴史時代になってから家畜化された動物は少ない。ウサギがフランスで、ウズラが日本で、ミンクが米国・カナダで、キツネがソ連で家畜化されたのがその例である。一方、一度家畜化されながら、再野生化した例として、アフリカゾウとチータがあげられる。生物間の共生の真の意味と、その重要性の再確認は、種の生存とその遺伝資源の保存にも重要な知見を与えるものであり、地球上の生物界全体から、相互の共生関係を再評価する必要があると考えられる。
著者
外川 昌彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.189-229, 2016-06

本稿は、1891年に大菩提協会を創設し、世界的なブッダガヤの復興運動を組織したスリランカの仏教運動家アナガーリカ・ダルマパーラ(Anagarika Dharmapala、1864―1933)と、当時の日本人との関わりを検証している。特に、1902年に九ヶ月に渡りインドに滞在した岡倉天心が、その滞在中に関わりを深めてゆくブッダガヤ問題の背景を、浮き彫りにしようとするものである。 そのため本稿では、特にダルマパーラの仏跡復興運動と厳しく対立したヒンドゥー教シヴァ派の僧院長であるマハントや、宗教的中立性を標榜し、現地の争点には不介入の立場をとった絵領インド政府によるブッダガヤ問題への対応の経緯を検証し、ダルマパーラが仏跡復興に取り組んだ1891年から、天心がブッダガヤを訪れた1902年までの約十二年間の大菩提協会の活動の経緯を検証する。 岡倉天心のブッダガヤ訪問は、これまで主に美術史的な観点から、アジャンター・エローラなどの仏跡探訪の延長として理解され、ブッダガヤでの活動について検証する研究は限られていた。他方、ダルマパーラの日本人との交流も、これまで釈興然や田中智学らの仏教者との交流は注目されてきたが、ダルマパーラの仏跡復興運動の文脈における天心との接点については、やはりその検証は限られていた。 しかし、九ヶ月に渡るインド滞在中に、天心は三度に渡りブッダガヤを訪れており、その間に、日本人巡礼者のためのレストハウスの建設を計画し、実際に、ヒンドゥー教僧院長のマハントとの土地取得の交渉を行っていた。九ヶ月のインド滞在中に天心が三度も訪れた場所は他にはなく、それは天心のブッダガヤへの、並々ならぬ関心を物語るものとなっている。 そこで本稿では、1891年以来、大菩提協会を組織してブッダガヤ復興運動をリードしたダルマパーラの活動を縦軸に据え、マハントや英領政府、及び日本人との関わりを横軸として、ブッダガヤ復興運動に関わる岡倉天心の意図を検証する。具体的には、1891年から1902年までのブッダガヤにおける仏跡復興の運動を、本稿では次の三つの時代に分けて整理する。 すなわち、①1891年に始まるダルマパーラの大菩提協会によるブッダガヤ寺院の買い取り運動と英領政府首脳部のダルマパーラに対する認識、②日本からブッダガヤ寺院に寄進された仏像をめぐる、1895年のダルマパーラによる大塔内陣への安置とマハントによるその撤去問題をめぐる係争関係、及び、ビルマ・レストハウスへの仏像の安置をめぐる英領政府と大菩提協会の対応の問題、③新たなレストハウスの建設と仏像の安置先の問題をめぐるダルマパーラ、マハント、英領政府の三つ巴の関係と、その中で日本人のためのレストハウスの建設を計画した、1902年の岡倉天心によるブッダガヤ訪問とマハントからの土地取得の交渉の経緯である。 これまで、ブッダガヤでの大菩提協会の活動は、特に1895年の大塔内への日本の仏像の安置問題が注目されてきたが、むしろ本稿では、日本の仏像の安置先をめぐる問題を、ブッダガヤ寺院内のレストハウス問題の一部として検証する。それによって、ダルマパーラの運動の行き詰まりを打破する可能性としての、岡倉天心による新たなレストハウス建設の意義が検証される。
著者
菅 良樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.287-311, 2012-09

本稿では、幕末期における大坂町奉行の動向について初めて具体的に検討し、幕臣川村修就の「家」についても論じた。使用した主な史料は、川村自筆の「日新録」と称する町奉行在任中の「日記書抜」である。この記録が、新潟市歴史文化課に残存していたことは、幕末期の大坂を考察するにあたり僥倖であったといえよう。川村は、両町奉行所での御用日、内寄合と、城代上屋敷での宿次寄合を軸に、町奉行所行政を統括していた。町奉行は宿次寄合開催日以外にも、「触書」の作成や刑罰の決定に関して城代土屋寅直と用談をしていた。川村と相役の佐々木顕發は、大坂の経済復興を期するため、城代をとおして老中阿部正弘に「伺」を立て、「取調書」作成に腐心していた。さらには、欧米列強の軍艦に対する海防費が増大するなかで、町奉行にとって大坂の富裕者からの上納金徴収が重要な責務となっていたが、この嘉永七年(安政と改元)には、プチャーチン来航問題や津波被害からの復興に取り組むことも喫緊の課題であった。このため、川村は御用日、宿次寄合などに出席できなくなっていたのである。川村は荻野流砲術免許皆伝の技能を有し、和歌や書画にも精通していた。川村家は「将軍家御庭番」の家筋で、少禄の幕臣ではあったが、修就は軍事を核に、外交、民政をはじめ幅広い分野に通暁する俊才であったので、大坂町奉行に抜擢されていたと解される。ロシア軍艦来航問題については、城代の土屋が老中の阿部に「伺」を立て、その「差図」に従い、町奉行の川村が最前線で対処していたと認識できた。その一方、被災地復興については、大坂町人の自治能力に依拠しつつも、非常時であるので、川村は「自立的・主体的」に活動していたと論じた。川村自身が大坂市中を頻繁に見廻り、復興の手順を直接指示し、その費用には、川浚冥加金が割り当てられていたことが明らかとなった。修就が同伴していた孫の清雄は、在坂時田能村直入の弟子となり画法を磨き、その後明治洋画草創期の指導者になった。日本の近代化に際し諸分野で貢献した幕臣の子弟に注目する必要があるであろう。
著者
リュッターマン マルクス
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.35, pp.537-571, 2007-05-21

小論では先行研究を伝授史料と合わせて、非言語的な記号群に限定して日本書札礼の一特徴となる傾向を考察している。一五九四年に布教者ザビエルと日本人パウルスとがインドで出会い、文面を譬喩に、文化の相違点を巡って懇談した。その会話に触発されて、二人がそれぞれ教授された西洋と東洋の伝承を遡って、書簡や文通における非言語的なコミュニケーションの作法史分析を試みる。この分析によって、文化の「面」や型がどのように形成し、とりわけ「行」の縦と横の譬喩はいかなる意味を秘めているか解明してみる。ひいては形式的な場において日本書札礼の非言語的な記号はどのように、且つどれほど人と人との位置の「差」を儀礼的に表現しているか示したい。
著者
木場 貴俊
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.47, pp.31-52, 2013-03-29

本論は、林羅山の『多識編』という本草学の書物に見られるかみの和名から、彼の思想的営為とその変遷について考察したものである。この書物で用いられているかみは、従来林羅山の神道思想として取り上げられてきた理当心地神道には見られないもので、「怪異」に関する名物である。
著者
リュッターマン マルクス
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.28, pp.13-46, 2004-01-31

「畏まりました」「恐れ入ります」の類の言葉を日本列島ではよく耳にする。拝して曲腰をして恐縮する姿を型としている作法に合わせて「恐れ」の感を言い表わす礼儀は依然として根強く育まれている。「型」である。拙論では、仮にそれを「恐怖の修辞」と呼び、観察の焦点を挨拶の言葉に限定し、その普及と徹底的な定着の所以を問う。要するに「恐怖の修辞」形成過程の復元と、その由来の歴史的考察とを五段階を経て行いたい。
著者
菅 良樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.43, pp.43-70, 2011-03-31

大坂の幕府支配機構について、城代の職権を中心に論説し、以下の点に注目した。
著者
長島 要一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.28, pp.323-376, 2004-01-31

一八四六年八月に浦賀沖に達したビレ提督指揮下のガラテア号の出現が興味深いのは、1.それがとにもかくにも日本―デンマーク文化交流史の第一ページを飾る出来事であり、『故事類苑』外交部にも記事が載っていること、2. デンマークの国旗が史上初めて日本人の目にとまり、両国がお互いの存在を短時間とはいえ認めあったこと、3.デンマーク側の訪問が文字どおりの即興であり、十七世紀半ばのデンマーク東インド会社による二度にわたった日本進出計画挫折の時と同様、またしても情報不足、準備不足で日本を訪問したこと、にもかかわらず、4.上海から浦賀沖に至る航路途上の測量を、クルーゼンシュテルンおよびシーボルトの成果を比較しつつ行っている点、同様に、5.日本と日本人に関する観察を、これも先行文献の記述を対照しながら行い、私見を述べている点に興味をひかれるからである。ビレ提督の日本印象記は、デンマークの教科書中に散見されていた日本関係記事と、クルーゼンシュテルンの『世界周航記』デンマーク語版をのぞけば、日本を訪れたデンマーク人によって書かれた日本論の嚆矢であった。この印象記は、それまでの先行文献からの広い意味での「引用」に過ぎなかったデンマークの日本観が、ほんの短時間にしろ日本の国土と日本人に接し、その印象と評価を書き記した広義の「翻訳(誤訳)」へと質的変換をとげた画期的事件となったのである。以後のデンマーク人による日本記事は、直接に引用してあるかはともかくとして、ビレ提督の日本印象記抜きに語られることはなかった。
著者
多田 伊織
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.48, pp.201-234, 2013-09-30

戦後の混乱期に、小石川蝸牛庵の再建を待たずして亡くなった幸田露伴(慶応三年〔一八六七〕~昭和二十二年〔一九四七〕)は、戦中から床に就くことが多くなり、ほぼ視力を失い、最後は寝たきりになりながらも、著述活動を続けた。しかし、戦時下の露伴の生活の実態は、存外に知られていない。本稿は、戦時下からその最期に至る最晩年の露伴の姿を、当時露伴の身近に侍していた家族や編集者の目を通して再構成しようとする試みである。
著者
小暮 修三
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.119-139, 2009-03

かつて、日本の沿岸各地には、裸潜水漁を行いながら生計の主要な部分を賄う人々が存在し、彼/女らは俗に「海人(アマ)」と呼ばれ、特に、男性は「海士」、女性は「海女」と表記されている。この海人の歴史は古く、『魏志倭人伝』や記紀、『万葉集』から『枕草子』に至るまで、その存在が散見される。また、海女をモチーフとした文学作品や能楽、浮世絵も数多く残されている。しかしながら、もはや裸潜水漁で生計を立てている海女の姿は、日本全国のどこにも見つけられない。 このような海女を対象とする研究は、一九三〇年代から民俗学を筆頭に、歴史学、経済地理学、医療衛生学、労働科学、社会学等において、数多く見つけ出すことができる。しかしながら、海女の表象、特にその裸体の表象に関しては、浮世絵に描かれた海女についての記述を除き、特別な関心は持たれてこなかった。 そこで、本稿では、二十世紀を通してアメリカの「科学」雑誌『ナショナル ジオグラフィック』(National Geographic)に現れた海女の姿から、性的視線を内在させるオリエンタリズムの形成について考察する。ただし、そのような過去(二十世紀)のオリエンタリズム批判「のみ」で、この考察を終わらせてしまえば、既存の反オリエンタリズム的枠組みに留まるだけの論考になってしまう。そこから、太平洋戦争前の海女に関するナショナルな表象に触れると共に、戦後の『ナショナル ジオグラフィック』における海女の表象を維持・補完していたと思われる「観光海女」の存在、及び、海女をとりまく社会環境の変化を取りあげ、オリエンタリズムと国内言説の相互関係について考察を行う。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.13-72, 2010-03

本稿において、茶の湯の家元である千家の血脈をめぐる論争を材料として、家元システムの現代的展開について考察する。 千利休の直系の子孫である三家の千家は、茶の湯の家元として現在もその存在感を示している。その千家の初期の系譜のうち、千家第三代の千宗旦の出自については、千宗旦が千道安の実子であるという説と千少庵妻・千宗旦母が千利休の娘であるという説とが、昭和三十年前後に強く主張された。その対立する見解は、表千家の機関誌である『茶道雑誌』の誌上に発表されたものが多い。これは一種の論争として、四十年代、五十年代と、新たな論者が参入しながら継続した。この背景には、現在の千家が千利休の血を引いているのかどうかという教条主義的な問題があり、それが論争を大きくしたといえる。すなわち、「利休血脈論争」と呼ぶべき性格のものであった。 現在では、千少庵妻は千利休の娘「お亀」であると一般には理解されている。しかし、結論を出すには根拠が不十分という考え方も歴史学者の間では依然として根強い。そもそも、この両説は江戸時代から存在しており、千家の系譜に関する歴史資料自体がすでに意図的に潤色されている可能性がある。 ところで、筆者の関心は、江戸時代からすでに存在している説をめぐって、なぜ昭和三十年代から論争に発展しなければならなかったかにある。近世に誕生し、発展してきた家元システムは、明治維新に伴う混乱期を乗り越え、第二次世界大戦後には、伝統文化の領域における頂点に上昇することとなる。さらに、昭和三十年以降の高度経済成長により、経済力を身につけた大衆に立脚する現代の巨大家元システムへと飛躍することに成功する。その過程において、千利休の血脈を継承していることが、家元の正統性の根拠としてあらためて主張される必要があったものと考える。
著者
松薗 斉
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.44, pp.407-424, 2011-10-23

従来、総体的な把握がなされてこなかった中世後期の日記についてその特色を述べたものである。まず室町期について、前代より継続して記される公家の日記は、南北朝期に生じた朝廷の儀式の断絶や以後顕然化したその衰退及び経済的基盤を失って生じた公家たちの疲弊が、その「家」の日記の作成活動に停滞をもたらし、彼らの日記が前代にもっていた国家的な情報装置としての役割を低下させたことを指摘した。
著者
山田 奨治 梅田 三千雄 川口 洋 柴山 守 加藤 寧 石谷 康人
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
1999

本研究では、つぎのような成果を得ることができた。1.古文書文字認識手法の基礎的研究古文書文字に特有な文字認識機能と文字切り出し方法について検討した。限定された文字種のデータに対して既存の日本語手書き文字認識技術を適用し、95%を超える認識率が得られることを確認すると同時に、文字切り出し及び正規化に関して新しい手法を開発した。2.古文書文字認識研究のためのデータベース作成古文書文字認識研究を推進するための、25万字に及ぶ古文書文字データベースを完成させ、その一部をすでに公開している。3.古文書解読支援システムのユーザインタフェースの開発古文書解読知識を利用した証文類の翻刻支援システムと古文書翻刻支援のための電子辞書のプロトタイプを実装した。前者はn-gram情報を使って不明文字の正解候補を提示するシステムで、利用試験の結果、その有用性が確認された。後者のプロトタイプには2種類ある。第1は、文字コードからくずし字を検索し、さらに例示された文字と類字した文字をオンラインとオフラインの文字認識技術の応用により検索する機能を持っている。第2のプロトタイプは、タブレット入力された文字と外形が似たくずし字をオフライン文字認識によって検索する機能を持っている。
著者
山下 悦子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.2, pp.107-124, 1990-03-10

この論文では、日本の知識人の間で大反響をもたらした、結婚制度にとらわれない男女の自由な性愛関係を理想とするコロンタイの恋愛観を基軸に、一九二〇年代後半から三〇年代前半にかけての知の変容(転向の問題)を探る。
著者
山梨 淳
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.41, pp.179-217, 2010-03-31

本論は、一九三一年に公開された無声映画『殉教血史 日本二十六聖人』(日活太秦撮影所、池田富安監督)を取り上げ、一九三〇年代前半期日本カトリック教会の一動向を明らかにすることを目的としている。この映画作品は、十六世紀末、豊臣秀吉の命で、長崎で処刑された外国人神父や日本人信者ら二十六人の殉教者をめぐるものである。長崎出身のカトリック信者で、朝鮮在住の資産家であった平山政十が、この映画の製作を企画し、彼の資金出資のもとに制作された。作品は日本で一般公開されたのち、平山個人によって北米と西欧諸国に、海外興行が試みられている。
著者
河合 隼雄
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.15, pp.51-67, 1996-12-27

浜松中納言物語と更級日記は、菅原孝標女という同一人物によって書かれたと言われている。両者の特徴の共通点のひとつは、ともに多くの夢が語られていることである。私はそれらの夢を、現代の深層心理学の立場に立って、自分の夢分析の実際経験に頼りつつ比較検討した。一見すると浜松中納言物語と更級日記の夢の意味はまったく異なっているように見える。前者では、すべての夢は外的現実と関連しており、ときには未来の事象を告げたりする。物語は夢に従って展開する。夢は物語の筋に重要な役割を担っている。他方、後者では、作者は夢が彼女の人生において、最後のひとつを除いて、すべて役に立たなかったと嘆いている。 一見したところのこの大きい差から見ると、これら二つの作品の著者は同一人物ではないと考えたくなる。 しかし、更級日記をより慎重に検討すると、異なる見方ができる。その最も重要な夢は最後の夢で、それには阿弥陀仏が現れる。作者はその夢を見て非常に幸福に感じ、その夢によって涅槃を約束されたと信じる。このことが作者の実に強調したいことなのである。この点を心に留めて見ると、更級日記の内容は、すべての夢を含めて、彼女の最後の夢によって明らかにされた来世の幸福を伝えようとする試みとして見ることができる。このように理解すると、この二つの物語における夢の重要性は、一見したところは相当に異なって見えるけれども、同じであるという結論に達する。 かくて、浜松中納言物語も更級日記も、夢がいかに深い真実を告げるかを明らかにしているものだと結論することができる。これは、両者の作者が同一人物であるということを支持することになるだろう。
著者
権藤 愛順
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.143-190, 2011-03

本稿では、明治期のわが国における感情移入美学の受容とその展開について、文学の場から論じることを目標とする。明治三一年(一八九八)~明治三二年(一八九九)に森鷗外によって翻訳されたフォルケルト(Johannes Volkelt 1848-1930)の『審美新説』は、その後の文壇の様々な分野に多大な影響を与えている。また、世紀転換期のドイツに留学した島村抱月が、明治三九年(一九〇六)すぐに日本の文壇に紹介したのも、リップス(Theodor Lipps 1851-1914)やフォルケルトの感情移入美学を理論的根拠の一つとした「新自然主義」であった。西洋では、象徴主義と深い関わりをもつ感情移入美学であるが、わが国では、自然主義の中で多様なひろがりをみせるというところに特徴がある。本論では、島村抱月を中心に、「新自然主義」の議論を追うことで、いかに、感情移入美学が機能しているのかを検討した。感情移入美学の受容とともに、<Stimmung>という、人間の知的判断、認識以前の本源的な「情調」に対する関心が作家たちの間にひろがりをもつ。そして、文学表現の場で、<Stimmung>をいかに表すかという表現の方法も盛んに議論されている。本稿では、感情移入美学がもたらした描写法の一つの展開として、印象主義的な表現のあり方に着目し当時の議論を追っている。さらに、感情移入美学と当時の「生の哲学」などの受容があいまって、<生命の象徴>ということが、自然派の作家たちの間で盛んに説かれるようになる。<生命の象徴>ということと感情移入美学は切り離せない関係にある。感情移入美学が展開していくなかで、<生命の象徴>ということにどのような価値が与えられているのかを論じている。また、感情移入美学の大きな特徴である主客融合という概念は、作家たちが近代を乗り越える際の重要な方向性を示すことになる。ドイツの<モデルネ>という概念と合わせて、明治期のわが国の流れを追っている。
著者
小田 亮
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.22, pp.131-140, 2000-10-31

日本人における配偶相手の好みにみられる性差を、結婚相手募集広告の分析から研究した。一九九七年一〇月から二〇〇〇年一月までに個人広告雑誌に掲載された七八〇件(男性によるもの五七七件、女性によるもの二〇三件)の広告を分析対象とした。要求または提示されている特徴を比較すると、男性では要求された特徴と提示された特徴の数に違いはないが、女性は提示数よりも要求数の方が多かった。また女性は男性よりも要求数が多く、提示数は少なかった。男性は自らの経済的状況あるいは社会的地位を提示する傾向があり、女性はそれを要求する傾向があった。家庭への投資に関しては提示には偏りがなかったが、女性の方がより要求する傾向があった。身体的な特徴については要求、提示のどちらにも性による偏りがみられなかったが、相手に写真を要求するのは女性の方が多かった。連れ子の拒否については偏りがなかった。一方男性の方が女性よりも連れ子を受け入れる態度を示す傾向があった。男性は年下の女性を相手として好んだが、女性については充分なデータが得られなかった。これらの結果を先行研究ならびに質問紙を使った調査の結果と比較検討した。