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文献一覧: 国際日本文化研究センター (出版者)
898件
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<埴原和郎教授退官記念>埴原和郎氏のこと
著者
梅原 猛
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
(
ISSN:09150900
)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.185-190, 1993-03-30
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日本人はキリスト教をどのように受容したか
著者
山折哲雄 長田俊樹編
出版者
国際日本文化研究センター
巻号頁・発行日
1998
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IR
書評 米山リサ『冷戦の廃墟 : アメリカの正義と日本の戦争犯罪についての太平洋を横断する批評』
著者
柴田 優呼
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
(
ISSN:09150900
)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.265-268, 2018-11
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IR
母性社会論の脱構築
著者
平山 朝治
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
(
ISSN:09150900
)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.125-145, 2002-02
古沢平作が、エディプス・コンプレックスという父性原理によって特色づけられる西洋諸国民と日本人を対照するために、阿闍世コンプレックスという母性原理を定式化して以来、河合隼雄らによって、日本は母性社会であるとしばしば主張されてきた。しかし仏典における本来の阿闍世物語は父性的でエディプス物語と極めて似たものである。古沢が阿闍世物語を母性的なものとして解釈した理由は、阿闍世コンプレックスに関する自分の論文を、エディプス・コンプレックスを定式化したフロイトに見せようと意図したさい、彼はフロイトを精神分析の偉大な父として尊敬していたため、阿闍世物語解釈において父と息子の間の葛藤を無意識のうちに抑圧してしまったからである。したがって、私たちは阿闍世コンプレックスを、父―息子間葛藤が日本の母の特徴的な役割によって抑圧されたような、エディプス・コンプレックスの一つのヴァージョンとみなすべきである。土居健郎によって精神分析に導入された「甘え」という概念は、母と息子との間の親密な関係に由来するものであり、父―息子間葛藤を宥め、日本の伝統的なイエを父から嫡子へと継承させるのに貢献している。阿闍世コンプレックス、「甘え」や母性社会といった心理学的概念は、エディプス・コンプレックスを適用できる父性社会と対比しながら日本社会を特徴づけるために用いられてきた。しかし、このような対比は誤解を呼びがちであり、イエの構造的特徴から伝統的日本社会に広まっている父性と母性をともに演繹しなければならないと、私たちは主張する。脱産業社会においては父母の権威はともに不可避かつ不可逆的に衰えてきた。したがって、そのような権威の再建を唱えるような処方は現実的ではないと私たちは考える。私たち日本人は今日、もっと個人主義的にならなければならないが、母―息子の絆を断ちきるような西洋型の父性的権威なしでそうしなければならない。近親相姦をめぐる願望と禁止との間の心理的葛藤は、エディプス・コンプレックスにおいては母―息子関係に関して強調されてきた。他の家族成員間の関係についても、似たような葛藤を私たちは見出すことができる。なかでも、兄―妹関係と父―娘関係は、現代日本社会における「甘え」の病的な過剰から私たちを解放するために役立ち得るだろう。
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大野晋博士の所謂「日本語=タミル語同系説」に寄せて--一タミル学徒の雑感 (<フォ-ラム>「日本語=タミル語同系説」を検証する--大野晋『日本語の起源 新版』をめぐって)
著者
山下 博司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
(
ISSN:09150900
)
巻号頁・発行日
no.13, pp.221-185, 1996-03
国語学者大野晋氏の所謂「日本語=タミル語同系説」は、過去十五年来、日本の言語学会やインド研究者たちの間で、センセーショナルな話題を提供してきた。大野氏の所論は、次第に比較言語学的な領域を踏み越え、民俗学や先史考古学の分野をも動員した大がかりなものになりつつある。特に最近では、紀元前数世紀に船でタミル人が渡来したとする説にまで発展し、新たなる論議を呼んでいる。本稿では、一タミル研究者の視点に立ち、氏の方法論の不備と対応語彙表が抱える質的問題を指摘し、同系説を学問的に評価する上で障害となる難点のいくつかについて、具体的な事例に即しながら提示することにしたい。
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<研究展望>はたしてアーリヤ人の侵入はあったのか?ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭のなかで : 言語学・考古学・インド文献学
著者
長田 俊樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
(
ISSN:09150900
)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.179-226, 2001-03-31
さいきん、インドにおいて、ヒンドゥー・ナショナリズムの高まりのなかで、「アーリヤ人侵入説」に異議が唱えられている。そこで、小論では言語学、インド文献学、考古学の立場から、その「アーリヤ人侵入説」を検討する。
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建築と風俗
著者
井上 章一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
表現における越境と混淆 = Border Transgression and Intermixture in Artistic Expression
(
ISSN:13466585
)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.275-280, 2005-09-01
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中国における日本古代史研究の現状と課題
著者
王 海燕
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
世界の日本研究 = JAPANESE STUDIES AROUND THE WORLD
巻号頁・発行日
no.2019, pp.91-98, 2020-03-31
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二代目市川左団次の訪欧と「鳴神」 : 一九〇七年のヨーロッパ演劇と一九一〇年の日本文壇の関わりから
著者
東 晴美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
(
ISSN:09150900
)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.305-332, 2011-10
近代の歌舞伎研究については、明治以降に新作された作品、得に局外者と呼ばれる文学者が手がけた新歌舞伎に注目されることが多い。しかし、前近代に初演された純歌舞伎狂言も、近代を経て現代に伝えられている。本稿では、江戸時代に初演され、現代においても中学生や高校生の歌舞伎鑑賞教室などでも上演される機会の多い「鳴神」をとりあげる。「鳴神」は明治期に二代目市川左団次によって復活上演された。左団次は小山内薫とともに自由劇場をたちあげ、近代劇にも深く関与した。本稿は、左団次が渡欧した一九〇七年から一九一〇年の「鳴神」の復活上演までの活動を検証し、前近代の作品が現代に継承される過程で、近代の知識がどのように関わったのかを明らかにする。これまでの二代目市川左団次の評価は、新歌舞伎や翻訳物を手がけ、小山内薫と自由劇場を立ち上げたことから、「近代的」とされることが多い。しかし、左団次の近代性がどのようなものなのか、明らかにされてこなかった。本稿では、松居松葉と二代目市川左団次の一九〇七年における渡欧体験を分析し、左団次の近代性は一九〇七年のヨーロッパの演劇の動向と深く関わっていることを指摘した。また、左団次が復活上演した「鳴神」は、劇評や左団次の芸談が「自然主義」に触れているため、近代の自然主義を取り入れたものと指摘されてきた。しかし、日本における自然主義は近年の研究で、十九世紀末二十世紀初頭においては極めて多義的で象徴主義や表現主義にも連なっていくことが明らかにされてきた。本稿は、このような研究成果を踏まえて、復活上演された「鳴神」にみられる自然主義が同時代の文芸思潮と密接に関係するものであったことを検証した。
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原風景とは何か
著者
木岡 伸夫
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日文研叢書
(
ISSN:13466585
)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.27-44, 2007-08-30
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<エッセイ>松島詩子コレクションから見渡す戦前昭和の歌謡界
著者
細川 周平
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日文研 = Nichibunken
巻号頁・発行日
no.56, pp.30-35, 2016-03-31
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宮沢賢治の作品に見られる「非暴力主義」「自己犠牲の精神」と「菜食主義」の一考察 : インド人の観点から
著者
ジョージ プラット アブラハム
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
(
ISSN:09150900
)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.67-93, 2007-09-28
宮沢賢治は、詩人・童話作家として世界中に知られるようになった。岩手県出身の賢治の作品に岩手県もなければ、日本もなく、「宇宙」だけがあるとよく言われる。まさにその通りである。彼のどの作品の中にも、彼独自の人生観、世界観及び宗教観が貫いていて、一種の普遍性が顕現していることは、一目瞭然である。彼の優れた想像力、超人的な能力、そして一般常識の領域を超えた彼の感受性は、日本文学史上、前例のない一連の文学作品を生み出した。賢治の文学作品に顕現されている「インド・仏教的思想」、つまり生き物への慈悲と同情、不殺生と非暴力主義、輪廻転生、自己犠牲の精神及び菜食主義などの観念はどんなものか、インド人の観点から調べ、解釈するとともの賢治思想の東洋的特性を強調することが、本稿のねらいである。
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<エッセイ>形造り : 日本将棋における敗者の美学
著者
尾本 惠市
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日文研 = Nichibunken
巻号頁・発行日
vol.59, pp.33-38, 2017-05-21
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昭和一〇年代の国民文学論 : 文学場のインターフェイス
著者
松本 和也
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
(
ISSN:09150900
)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.91-122, 2019-10
本稿では、昭和10年代(1935~1944)の国民文学論を再検証した。先行研究の検証によれば、従来、昭和10年代の国民文学論は、不毛なものだとみなされてきた。昭和10年代の国民文学論は、すぐれた実作や厳密な定義を生みだすことがなかった、と捉えられてきたからだ。それに対して、同時代の視座から国民文学論を捉え直すことを目指し、広範な言説(主には新聞・雑誌上の記事)の調査と分析によって、その歴史的な意義を考察した。1章で示した問題関心につづき、2章で、1937年の国民文学論(昭和10年代における国民文学論第一のピーク)を検証した。そこでは、国民という概念をめぐって、さまざまな立場からの議論が交錯していた構図を整理しながら、国民文学論についての言説を分析した。3章では、数年間のブランクを経て後に、再び盛んになった1940~1941年の国民文学論(昭和10年代における国民文学論第2のピーク)を検証した。この時期の国民文学論に、政治の影響力が大きく関わっていることを重視した。その上で、政治と文学との関係に注目しながら、国民文学論の多様な論点について、整理と分析を行った。これらの作業を通じて、一つの結論へと至ることのなかった国民文学論の論点を、六つに整理した。その上で、国民文学論の多様な論点・立場が、文学の諸問題に関する議論としても重要な議論であったことを明らかにした。最後に、4章で、昭和10年代後半における、国民文学論の変化を分析した上で、国民文学論が国策文学と重なっていくことを確認した。以上の分析成果をまとめ、国民文学論がインターフェイスとなって昭和10年代の文学のさまざまな問題を浮かび上がらせたことこそが、その歴史的意義であると論じた。
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歌で習う「国語」--植民地期朝鮮における唱歌と言語教育
著者
林 慶花
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
(
ISSN:09150900
)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.103-135, 2010-03
本稿は、植民地期朝鮮の言語政策における唱歌の位相を普通学校の唱歌教育を分析することによって明らかにし、それとは対自的に存在した朝鮮語教育と朝鮮語唱歌との関係を、民間主導でなされた文字普及運動や『朝鮮語読本』レコード製作に焦点を合わせて追求したものである。植民地朝鮮における音による「皇民化」は「上から」の「国語」の音の強制と「下から」の朝鮮語の音の抑圧・排除からなる政策であり、唱歌教育はそれを身体化しようとする試みだったといえる。少なくとも学校の場では朝鮮語唱歌を動員しようとする動きはほとんどみられなかったか極めて歪曲された形で成された。それは根本的に日本語は国民精神の精髄でなければならない「国語」であるにもかかわらず、植民地末期まで相変わらずその朝鮮社会への浸透には限界があったという事実と関連がある。普及率が依然として低調な「国語」としての日本語に代わって噴出する国民精神を効果的かつ派手に装うことができたのは、公共の場で斉唱される唱歌や軍歌などの歌だったからである。また「国語」の普及率の低さ故に朝鮮語も積極的に統治に活用しなければならなかった植民地勢力にとり朝鮮語は情報の効率的な伝達のための主段として管理されたのみで、朝鮮語唱歌による情報涵養や、まして朝鮮語唱歌の斉唱による音の共同性の実現は念頭にもなかったのである。しかし、教育の場で実現されなかった朝鮮語と朝鮮語唱歌との結びつきは主にメディアの場で多様に試みられ、時には体制に吸収されたり、時には「国語」という恩の共同性のもつ虚像を攪乱させたりした。何故なら、植民地朝鮮における「国語」政策が「国語」の内面化には失敗したまま音の共同性を性急かつ過激に推し進めるものだったからである。
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子規の『古今集』批判をめぐって──日本文学にみる美的理念
著者
寺澤 行忠
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
東アジアにおける知的交流──キイ・コンセプトの再検討── = Intellectual Exchange in Modern East Asia: Rethinking Key Concepts
(
ISSN:09152822
)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.343-351, 2013-11-29
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Introduction : Globalization, Localization, and Japanese Studies in the Asia-Pacific Region, Volume 3
著者
BAXTER James C.
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
アジア太平洋地域におけるグローバリゼイション、ローカリゼイションと日本文化 Volume 3
巻号頁・発行日
pp.v-xiii, 2010-03-30
Globalization, Localization, and Japanese Studies in the Asia-Pacific Region : Past, Present, Future, Chinese University of Hong Kong, 2005年9月30日-10月4日
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戦後日本におけるアブノーマルなセクシュアリティと近代化/反近代化論
著者
河原 梓水
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2017-04-01
本研究はこれまで研究対象とされてこなかったアブノーマル性風俗雑誌『奇譚クラブ』の1950年代のテクスト群を主たる分析対象とし、サドマゾヒズムを媒介とすることで行われた近代化論・反近代化論の展開を明らかにすることを目的とする。本年度は、研究実施計画に基づき、第2の課題に関する検討を進めた。年度前半は前年度に収集した『あまとりあ』、『生心リポート』、『夫婦生活』、「キンゼイ報告」に言及する雑誌記事等と、ヨーロッパ精神医学の動向を照らし合わせ分析を行なった。来年度は本成果を論文として取りまとめる予定である。次に、これまでに明らかにした村上信彦によるサディズム論が、1980年代以降米国で展開したフェミニスト・セックス戦争におけるいくつかの論点を大幅に先取りしていることを踏まえ、米国で最も大きな争点の1つであった女性のマゾヒズムについて、村上がいかに論じているのかを検討し、その議論に対するマゾヒストからの批判を分析した。論文としてとりまとめ、現在査読の過程上にある。上記の検討から、村上は愛好当事者でありながら、サディズムを野蛮な原始本能、女性のマゾヒズムを抑圧によって生じた病とみており、サディズム・女性のマゾヒズムがいずれも前近代性と結びついていたことが明らかになった。サディズムとマゾヒズムはフロイト学説以降しばしば一対の概念とみなされてきたが、戦後日本においては全く起源の異なるものと理解されていた。とするならば、加害行為ではなく、封建制の残滓でもない男性のマゾヒズムは、これらとは根本的に異なる概念であったと考えられる。そこで次に、戦後の男性にとって、マゾヒズム概念とはいかなる役割を果たしていたのかという点について、沼正三「家畜人ヤプー」の分析を通じて検討した。本成果は論文集の1章として執筆し、現在印刷中である。
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<書評>ジュリー・ネルソン・デイビス『版画におけるパートナーズ――芸術世界の共同制作と浮世絵マーケット』
著者
石上 阿希
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
(
ISSN:24343110
)
巻号頁・発行日
vol.60, pp.255-257, 2020-03-31
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日本における「科学技術」概念の成立
著者
金子 務
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
東アジアにおける知的交流──キイ・コンセプトの再検討── = Intellectual Exchange in Modern East Asia: Rethinking Key Concepts
(
ISSN:09152822
)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.287-301, 2013-11-29
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