著者
安藤 勝美
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.1969, no.9, pp.36-47, 1969-11-30 (Released:2010-04-30)
参考文献数
4
被引用文献数
1
著者
小馬 徹
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.1985, no.27, pp.1-54, 1985-12-31 (Released:2010-04-30)
参考文献数
49

This essay describes and analyzes how the kimanakta-kimanagan, or a custom of lending-out/borrowing of livestock including cattle, among the Kipsigis people of Kenya has changed through the drastic acculturation they have consequtively experienced through out this century after they came into contact with the European settlers in the Kenyan “White Highland”. Moreover, this essay explains how the values of cattle have changed and survived in the Kipsigis society which is among so-called “East African cattle complex” societies, with the special reference to the kimanakta-kimanagan system.The Kipsigis have been generally regarded as a “model” East African people in that this traditionally pastoral people very successfully adapted themselves to the colonial and capitalistic economy by rapidly adopting maize cultivation with plough and by shifting from communal land tenure to private land tenure. As a result, it is claimed, they lessened their pastoral attributes in large and cattle, around which almost all the traditional values of the people had centred, descalated to a simple article of commerse which was even less valuable than maize.It may be true that some characteristics of the traditional Kipsigis culture centred around cattle declined, but it can not be denied that the kimanakta-kimanagan system survives well in the course of the acculturation and that cattle still maintain importance as multiple media through which social relations are structured.Traditionally, the kimanakta-kimanagan contract was made on individual base among age-mates, affines, relatives, clansmen etc., and a cow, she-goat, or ewe was sent out as long-termed loan so that it could supply milk and blood to drink to the debtor's family. This system contributed to reduce inequality in the number of livestock, which were the then primary means of survival, held by individuals as well as possible discontents among the people, and therefore to maintain the unity of the acephalous and non-segmental Kipsigis society.Researchers are apt to underestimate, or even neglect, the significance of the existence of the highly transformed modern kimanakta-kimanagan system, judging form the descalation of the relative economic value of cattle. The system has been flexibly amended and developing new variations of practice in accordance with the needs derived from the modernization. But thus, all the more, it makes for minimizing the inequality not only in cattle holdings but also in their economy as a whole in the modern Kipsigis society. This may be the very reason the system survives the radical changes of their life style. In other words, it achieved its involution in this way.
著者
高林 敏之
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2010, no.76, pp.31-38, 2010-03-31 (Released:2013-10-20)
参考文献数
15

本稿は,日本にとって最も近い隣国でありながら,ほとんど研究がなされていない朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の対アフリカ関係に関する試論である。その特異な国家体制ゆえに,また日本を含む先進諸国との疎遠ないし敵対的な関係ゆえに,北朝鮮は「国際社会において孤立した国家」であるといった安易なイメージで捉えられがちである。しかしながら北朝鮮は,「第三世界」の一員として,国際社会において一定の地位を確保してきた。とりわけ,北朝鮮と最も緊密な関係を築き,同国外交における最有力の基盤であったアフリカとの関係を分析することは,北朝鮮外交をより実際的に理解するうえで有益であろう。しかしながら,北朝鮮の極度に独裁的かつ閉鎖的な体制ゆえに,同国の外交について実証的に研究するのは容易なことではない。本稿ではまず,筆者が2007年および2008年に訪問した,同国妙香山に立地する「国際親善展覧館」における,アフリカ諸国と北朝鮮との関係に関する展示内容について紹介する。その展示内容から,北朝鮮が対アフリカ外交政策において,「新家産主義」的ないし「個人支配」的権威主義体制,さらに民族解放運動との緊密な関係を重視していたことが読み取れよう。次に北朝鮮の対アフリカ関係の発展を4期に区分して概観し,その盛衰の背後にある要因を検証する。
著者
梶 茂樹
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2021, no.99, pp.13-20, 2021-05-31 (Released:2022-05-31)
参考文献数
8

現代スワヒリ語では,ndiyo「はい」とhapana「いいえ」は比較的よく使われる単語である。hapanaの由来は,ha-pa-na(動詞の否定標識-クラス16の主語接頭辞-「共に」を意味する小辞)であることは容易に分る。つまり,「(その)場所にはない」>「いいえ」というような変化である。それに対し,ndiyoは現代スワヒリ語の知識では分析することができない。筆者は,このndiyoは,例えばニョロ語のndíyôに相当する表現がかつてのスワヒリ語にもあり,そこから来ていると推測する。n-ri-yo(私-be動詞-「そこ」を意味する接語)「私はそこにいる」である。ニョロ語ではこの表現は人を訪問して,Olíyô?「(あなたは)いますか。」と訪われた時の返事「私はいます。」としてよく用いられる。本来,自分自身のその場での存在を示すndiyoが,スワヒリ語では,1) -li~-diの交替の不透明さ(形態音韻的交替),2) 欠如動詞-liの使用の極端な制限,さらに3) 接語-yoの不使用と相まって分析不能となり,たんに「はい」という肯定だけを表すようになったと考えられるのである。
著者
松浦 直毅 戸田 美佳子 安岡 宏和
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2021, no.100, pp.29-33, 2021-12-31 (Released:2022-12-31)
参考文献数
16

アフリカにおける生物多様性保全の歴史は19世紀後半にまでさかのぼり,時代ごとの社会背景や国際情勢を反映して理念や方法が変化してきた。近代以降のアフリカは保全という問題とつねに対峙してきたといえ,生物多様性保全というテーマは,現代のアフリカが直面している課題を分析し,将来を展望するうえで不可欠であるといえる。そこで本稿では,要塞型保全から住民参加型保全,そして新自由主義的保全という保全パラダイムの変遷についてまとめるとともに,保全政策の名のもとでおこなわれる土地収奪や地域住民への暴力行為などの保全をめぐる現代的問題について述べる。アフリカの保全政策がかかえる課題として,地域住民の生活や文化が軽視され,政府や国際機関が主導するトップダウン型の構造が維持されてきたことが挙げられる。この課題を解決し,効果的な保全活動を進めるためには,「順応的管理」の理念にもとづき,「参加型モニタリング」の手法による自然資源管理の体制を構築することが重要であり,現場に根ざした地域社会の深い理解とその実践への応用を特徴とする日本のアフリカ研究が果たす役割は大きいといえる。
著者
西﨑 伸子
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2017, no.92, pp.43-54, 2017-12-31 (Released:2018-12-31)
参考文献数
26

2000年以降に大規模な開発事業がはじまったことで,エチオピア西南部にマスツーリストを受け入れる一大民族文化観光地が形成された。本稿は,この地域で民族文化観光が発展する背景を地域開発との関係から明らかにし,ホスト側社会がいかなるアクターとの関係性のなかでゲストを受け入れているのかを,ガイドの役割に焦点をあてて明らかにすることを目的とする。その結果,この地域で長く観光に関与してきた農牧民だけでなく,「他民族ガイド」や農耕民アリが新たに観光業に参入していること,一部の人々が観光資源の発掘や観光業に積極的にかかわり,一定の経済的利益を得ていること,ガイドの積極的な関与で,観光空間が拡大していることが明らかになった。今のところこの地域の人々は,農牧業を軸に,観光業をうまく副業にして生活していると考えられる。その一方で,国家による地域開発事業にともなう土地収奪によって,観光業だけでなく主生業に負の影響が出ることが危惧される。
著者
平林 淳利
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2020, no.97, pp.1-11, 2020-05-31 (Released:2021-05-31)
参考文献数
21

シエラレオネで1991年から2002年まで続いた内戦の要因の一つに,伝統的指導者であるパラマウント・チーフによる不公平な統治や権限乱用があげられている。内戦後の2004年にシエラレオネ政府が施行した地方自治法では,地方議会を復活させ,パラマウント・チーフの権限を制限し,民主的な統治および地方開発を推進する動きが見られる。本論文では,シエラレオネの地方自治法が規定する地方開発体制と仕組みに準じて実施した,日本の技術協力「シエラレオネ地域開発能力向上プロジェクト」を事例とし,同プロジェクトリーダーを務めた筆者が,現地の聞き取り調査およびプロジェクト報告書などをもとに,地域活動におけるパラマウント・チーフの関与の実態とその仕組みを分析する。そのうえで,シエラレオネの地方自治制度が意図する民主的な地域活動の状況を考察する。
著者
金子 満雄
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.1969, no.8, pp.66-69, 1969-05-30 (Released:2010-04-30)
被引用文献数
1 1
著者
八塚 春名
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2017, no.92, pp.27-41, 2017-12-31 (Released:2018-12-31)
参考文献数
22

タンザニア北部に居住するハッザの狩猟採集生活は,1990年代以降,観光の対象になってきた。観光客はハッザの居住キャンプを訪れ,ハッザと狩猟に行き,射的やダンスを体験し,手作りのみやげものを購入する。ハッザは,入村料と個人のみやげものの売り上げという2種類の収入を得る。本稿では,ハッザが観光とどのように付き合っているのかを考察するために,他民族との関係,個人の移動,みやげもの販売に伴う収入の個人差の3点に焦点を当てて,観光を含むハッザの生活を包括的に分析する。ハッザに関する先行研究のなかで,観光はハッザに対してネガティブな影響をもたらすものだと評価されてきた。しかし本稿では,観光収入によって他民族とのあいだに新しい関係性がつくられていること,個人が頻繁な移動を広域に繰り返すことによって,観光への接続や観光からの離脱を自由に選択していること,みやげものの売り上げには個人差が生じているが,収入の多くは酒のような消えモノの購入に使われ,居合わせる全員で消費されていることが明らかになった。ハッザは観光に対して過度な期待をしておらず,観光は複数ある生計手段の選択肢のひとつとして捉える態度こそ,ハッザの観光との関わりの根幹をなすと考察した。
著者
村田はるせ
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2018, no.94, pp.73-83, 2018-12-31 (Released:2019-12-31)
参考文献数
38

本稿では,『プレザンス・アフリケーヌ』誌の諸論考と,コートディヴォワール出身の現代女性作家ヴェロニク・タジョ(1955-)の『イマーナの影』(2000)を読解し,1956年に開催された第1回黒人作家芸術家会議で表明された黒人文化人の意思を,タジョがどのように引き継いでいるかを明らかにする。この会議では,黒人の諸問題を解決するため,黒人作家・芸術家は創作によって役割を果たすべきであると表明された。それから約50年後,タジョは2003年に『プレザンス・アフリケーヌ』に寄せた論考のなかで,アフリカ大陸での紛争を防ぐため,作家は今こそ自らの作品でアフリカを書き,書いたものを通して読者と対話するべきであると主張した。1994年のルワンダでのジェノサイドを取り上げた『イマーナの影』は,この主張の実践であったと考えられる。彼女は文学の表現を通してこの出来事を書き,起きたことを,ルワンダを超えた人間全体の問題として提示している。こうしてタジョは,現代のアフリカ人作家として,アフリカの問題に対する役割を果たそうとしているのである。
著者
大門 碧
出版者
日本アフリカ学会
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2016, no.89, pp.15-27, 2016-05-31 (Released:2017-05-31)
参考文献数
31

21世紀初頭,ウガンダの首都カンパラにおいてエンターテイメント「カリオキkarioki」が開花した。カリオキは,夜間のレストランやバーのステージで,若者たちが音楽を使用して披露するショーである。もともとアメリカ音楽に夢中になった高学歴エリートの大学生たちの楽しみであったパフォーマンスが,数年ののちに盛り場でおこなわれる大衆的な人気をほこるエンターテイメントとして確立した。本論では,このカリオキという一部の若者たちに受容された文化がいかに大衆に共有されるポピュラー・カルチャーとして栄えるようになったのかを明らかにする。まずカリオキのパフォーマンス内容,公演場所や客層について検討し,カリオキの流行を支える時代背景があったことを確認する。次に若者たちの実践を追う。若者たちが学校から盛り場へと公演場所を移すことによって公演がビジネスとして行われるようになり,カリオキが単なる娯楽から現金収入の手段にもなるとともに担い手の若者たちが多様化し,大衆的に人気を誇るカリオキへと変貌していった過程を検討する。最後にこの発展を可能とした技術的環境の変化にも触れる。これにより,大学生以外の若者たちが従事し,また幅広い年齢層や所得階層の人びとを惹きつけるエンターテイメントとなった背景を明らかにする。