著者
趙 景達
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.4, pp.889-909, 2011-03-30 (Released:2017-07-14)

植民地朝鮮において、天道教(新派)は大きな役割を果たした。文化運動や啓蒙運動を積極的に行い、民族運動の主役も占めたといえる。しかし、その運動は終始協力的であった。そして、朝鮮の植民地化は他者=日本の問題ではなく、朝鮮人の民族性に問題があるとして、民族改造を唱えた。天道教の民族主義は端的にいって文化的民族主義と評価することができる。こうした天道教は文化と啓蒙に執着するがゆえに、勢い民衆の主体化をおろそかにした。そこで、一九二〇年代の終わり頃に民衆向けの通俗的な教理書である『天道教理読本』の刊行が意図された。しかし、総督府から大幅な検閲削除を受け、その刊行はならなかった。以降、天道教はますます穏健化し、戦争協力の道を進んでいくことになる。
著者
黒田 景子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.94, no.2, pp.109-135, 2020

<p>マレー半島中部のパタニとクダーは一三~一五世紀頃にマレー半島でもっとも早くイスラーム王権が誕生したと言われる。交易都市としての繁栄は一七世紀を頂点とし、以後は辺境地に凋落する。その代わりパタニは一九世紀の末から東南アジアのイスラーム学習の拠点となった。パタニ出身のイスラーム学者シェイク・ダウドがメッカに留学して、パタニ・マレー語によるイスラームの翻訳書を多数著し、それが弟子によって持ち帰られ伝統的学習塾であるポンドックで教科書となっている。</p><p>ポンドックは現在のタイ=マレーシア国境地域にあたるパタニ、クランタン、クダーに広がっており、その影響は現在の国境の枠で考えるべきではない。ポンドックはメッカ留学のための予備教育の場として機能し「メッカのベランダ」と呼ばれる。ポンドックとメッカ間の知的ネットワークは一九世紀後半から二〇世紀前半にかけて活発になり、一般ムスリムのイスラーム実践をもより深化させた。</p>
著者
澤田 愛子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.355-380, 2006

本論文はナチ時代の医師の犯罪に焦点を当て、その動機や心理状態を分析した上で、今後への提言を試みたものである。ナチ政権が犯した主要な犯罪には、「安楽死」の名を借りた障害者の抹殺(T4作戦)とヨーロッパユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)とがある。T4作戦は「アーリア人」の血統の純化が、一方、ホロコーストは極端な人種主義が背景思想となって生じた。この各々にナチの医師達は深く関与した。即ち、抹殺対象者を選別するのみならず、殺害にも直接関与し、非道な医学実験も実施した。彼らの動機は何よりも血統の純化や人種の衛生などを主張するナチズムに深く共鳴したことで、彼らは殺人自体を医学的メタファーを用いて正当化した。しかし殺害の実施においては、「ダブリング」や「サイキック・ナミング」等の心理的装置も働いていた。彼らは狂気の思想に取りつかれていたが、気が狂っていたわけではない。全体主義社会の狂気が医師達から理性を奪ってしまった。同じ過ちが繰り返されないためにも、生命倫理教育はまず、歴史のこの最暗黒の部分を直視することから始めなければならない。

1 0 0 0 OA 「三夢記」考

著者
[ナガタニ] 弘信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.3, pp.707-732, 2010-12-30 (Released:2017-07-14)

専修寺には建長二年(一二五〇)に親鸞が末娘覚信尼に与えたとされる「建長二年文書(「三夢記」)」が伝来している。従来後世の偽作とされてきたこの文書であるが、古田武彦が『親鸞思想-その史料批判』(冨山房、一九七五年)等において真作説を提唱して以来その真偽が議論されてきた。今回筆者は「三夢記」に添えられた「書簡」の「親鸞が建長二年、覚信尼の要請に応えて『四十八願文』とともに「かたみ」として与えた」という記述に着目、検討を加え、「三夢記」が偽作であること、併せて、元久二年(一二〇五)の親鸞の改名-従来は「綽空」から「善信」への改名であると考えられていたが、筆者はこれを「親鸞」への改名であると考える-を促したとされる建久二年(一一九一・親鸞十九歳)の磯長の聖徳太子廟での夢告が史実ではないことを論証していくこととする。
著者
田中 悟
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.1, pp.139-160, 2009

子安宣邦による「国家神道」論が提起しようとした問題は、その後の議論において正当に受け止められたと言えるだろうか。本論文は、「国家」や「国民国家」といったタームを手がかりとして、「国家神道」をめぐる従来的な議論に若干の新たな認識視座を導入しようという試みである。宗教学的な「国家神道」研究はこれまで、「神道」研究(の一環)とみなされ、「国家」研究の側面が疎かにされてきた。しかし「国家神道」は、政治学的な「国家」の枠組みにおいても把握が目指されねばならない研究対象である。「神道とは何か」と同時に、「国家とは何か」が問われねばならない。「国家神道」は、両者の問いの相関として議論されねばならないのである。そこで筆者が提示しようとする「国家神道」の新たな認識視座とはすなわち、「国家とは何か」という問いをそれ自体としてまず直視し、「国家」と「神道」との相関を問う、関係論としての「国家神道」論である。