著者
星川 啓慈
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.1, pp.1-24, 2006

宗教学・宗教哲学の分野では、これまで「宗教の真理・奥義・核心などと呼ばれるもの-以下では<宗教の真理>として一括する-は言語でかたることができるか否か」という問題が頻繁に議論されてきた。本論文では、否定神学者としてのウィトゲンシュタイン(W)とナーガールジュナ(N)の思索をとりあげ、二人がいかにこの問題と格闘したかを跡づける。「語りうるもの」と「語りえないもの」を鋭く対置させ、自分の宗教体験をその区別に絡めながら思索した前期W。世俗諦と勝義諦からなる二諦説に立ち、勝義をかたる言語の可能性を見捨てることはなかったが、そうした言語の限界をふかく認識したN。宗教の真理をかたる言語をめぐる二人の見解には、驚くほどの共通点と根源的な相違点とが見られる。本論文は、二人の相違点ではなく共通点に焦点をあわせて、議論を展開する。二人の思索からいえることは、言語によっては宗教の真理について直接に「語る」ことはできないけれども、間接にそれを「示す」ことはできる、ということである。いわば、言語は宗教の真理を「示す」という目的のための「作用能力」をもつのである。
著者
趙 景達
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.4, pp.889-909, 2011

植民地朝鮮において、天道教(新派)は大きな役割を果たした。文化運動や啓蒙運動を積極的に行い、民族運動の主役も占めたといえる。しかし、その運動は終始協力的であった。そして、朝鮮の植民地化は他者=日本の問題ではなく、朝鮮人の民族性に問題があるとして、民族改造を唱えた。天道教の民族主義は端的にいって文化的民族主義と評価することができる。こうした天道教は文化と啓蒙に執着するがゆえに、勢い民衆の主体化をおろそかにした。そこで、一九二〇年代の終わり頃に民衆向けの通俗的な教理書である『天道教理読本』の刊行が意図された。しかし、総督府から大幅な検閲削除を受け、その刊行はならなかった。以降、天道教はますます穏健化し、戦争協力の道を進んでいくことになる。
著者
山本 伸一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.1-24, 2010-06-30

ユダヤ教の霊魂転生論は、初期カバラー以来、神秘の重要な側面と認識されていた。本論考の目的は、この教義の解釈からそこに反映されるユダヤ人の精神的状況を考察することである。そのために主として一六世紀のツファットと一七世紀のアムステルダムの事例を扱う。前者は既存の霊魂転生論をカバラーの宇宙論的な救済史のなかに適用した点に特徴がある。さらに、神話的な性質の強いこの理論が、ツファットではカバリストの戒律や慣習の遵守と関連して語られたことも見逃せない。理論と実践の両面でカバリストの精神に多大な影響を及ぼしたことはツファットに特有の現象であった。それに対して、一七世紀のアムステルダムの事例には、霊魂論の実存的解釈を見てとることができる。そこではもはや霊魂転生論の本質である戒律遵守が問題になることはなく、マラーノの救済を保証する教義として扱われるなど興味深い展開を示している。
著者
岡田 聡
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.127-151, 2010-06-30

サルトルによれば、実存主義は実存を強調するので「私が代表する無神論的実存主義はより論旨が一貫している」。ヤスパースは、どのような論理で、実存を強調するにもかかわらず超越者について語ったのか。本稿では、一性という点での実存と超越者の相即性について考察する。多なるものから一なるものを選択するという主体的で自由な決断を下す者は、自己存在を散漫状態から一性へともたらすことによって自己自身を獲得する。一性は実存それ自身の根本特徴である。また、超越者とは「あらゆるものの根拠としての一なる存在」であり、一性は超越者の根本特徴でもある。ヤスパースによれば、「私は超越者の一なるものにおいて私の本来的な自己存在を見出す」のであり、実存するとき、一性という点での実存と超越者の相即性が示される。しかし、実存の一性と超越者の一性とは本質的には異なるのであり、実存と超越者の相即性は、両者の最大の近さと最大の遠さの矛盾のうちに成り立つものなのである。
著者
土屋 博
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.963-984, iv, 2005-03-30

日本におけるキリスト教研究は、欧米の場合とは異なり、単純に「神学」と同一視するわけにはいかない。日本では、キリスト教徒であることは、どちらかと言えば例外的なことであり、キリスト教研究者をキリスト教徒に限定すると、その研究は公共性を失い、閉鎖的になってしまうからである。ところが実際には、日本のキリスト教研究はこの点を十分に自覚せず、方法があいまいなままに、多様な試みを続けてきた。その結果、本来キリスト教研究と重なり合うはずの欧米文化の研究も、深みにふれるような成果をもたらさなかったように思われる。このような問題を克服するためには、日本の文化・社会のコンテクストの中で、キリスト教という宗教現象を総体として受けとめつつ理解しようとする「キリスト教学」の可能性が探求されなければならないのではないであろうか。