著者
林 研
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 = Journal of religious studies (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.621-645, 2014-12

ジェイムズの学説「信じる意志」は、情的本性に基づく信仰を正当化する試みだが、何でも好きなように信じてよいということではない。想定されているのは「生きた」仮説を信じるか疑うかの葛藤状態であり、そこでの実践倫理が問題なのである。人間心理において、蓋然性と望ましさは分離し難く、証拠なしには信じない態度も実は誤謬への恐怖に基づく。その一方で、人間本性には証拠がなくとも信じる暗黙の合理性がある。それならば倫理的基準としては証拠よりも、プラグマティズムが要請する帰結の整合性の方が相応しいとジェイムズは考える。さらに、宗教は「事実への信仰がその事実を生み出す助けになりうる」命題であり、その真理性を検証するにはまず信じなければならない。つまり、ジェイムズの言う「信じる」は盲信ではなく、整合性を検証しつつ真理を生み出すことである。この場合、救いを求める者にとっては、信じることが懐疑に優越すると言うことも可能になる。
著者
輪倉 一広
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.119-142, 2008-06-30

岩下壮一(一八八九-一九四〇)はカトリック思想家であり、一九三〇年からl九四〇年までの約一〇年間へ神山復生病院の第六代院長(邦人初)として救癩事業に従事した。本稿は、患者と国民国家との関係をおもに権力論でとらえた既往の近代日本救癩史研究の知見を踏まえつつも、その副次的な位置にある患者の日常生活における直接的で対他的な関係史の視座から、岩下に投影された患者像を探ろうとしたものである。岩下は、恩師ヒューゲルが示した対立概念の相関的把握という中世哲学がもつパースペクティヴの有用性を、全体主義が強まる一九三〇年代の現実社会の中で検証しようとしたのである。つまり、「癩」ゆえに喪失した患者の<主体>を再生させるべく、患者の主体形成の観点-すなわちへ自ら宗教的・倫理的に<内的権威>をつくること-から患者-国民国家の関係を根拠づける哲学を構築していったのである。それゆえ、岩下を再評価すれば、国家主義的な救癩政策に加担していたとする従来の評価は妥当ではないといえよう。
著者
芝田 豊彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.47-70, 2008-06

田辺の<死の哲学>は、他者としての死者を対象としている点で画期的な意義を有する。しかしながら田辺の<死の哲学>の問題点として、<絶対無の働き>と<死復活という行>との不可逆の関係が曖昧なこと、および死者が絶対無にどのような仕方で入れられているのかが不明であること、この二点を指摘できる。フランクルの「過去存在」の思想では、人生における人間のすべての営みが過去存在として永遠に保存される、と主張される。滝沢においては、死者は過去存在として絶対無に入れられており、フランクルとの大きな類似が見出される。滝沢の思惟の根底には常に「神人の原関係」があり、「死ぬ」ということも神人の原関係から、或は神の空間(絶対無)から脱することなどではあり得ない。死者を絶対無における「過去存在」として捉えることによって、死者と死者の記憶は区別され、さらに幽霊現象も視野に入り得るのである。最後に幽霊現象を扱ったベルゲングリューンの珠玉の短編が紹介される。Es ist sehr bemerkenswert, dass es sich in Tanabes ,,Todesphilosophie" um die Toten als Andere handelt. Aber in seiner "Todesphilosophie" ist es nicht deutlich, in welchem Verhaltnis das "Shi-hukkatu" (das Sterbe Auferstehen) des Selbst zu dem Wirken des Absoluten Nichts steht und in welcher Weise die Toten zum Absoluten Nichts gehoren. Bei V. E. Frankl und K. Takizawa wird es behauptet, dass alle Werke eines Menschen als "Vergangen-sein" ewiglich im Protokoll der Welt (Frankl) oder im Raum Gottes (Takizawa) aufbewahrt sind. Es gibt also hierin eine grosse Ahnlichkeit zwischen Frankl und Takizawa. Takizawas Denken wird immer im Grunde vom Urverhaltnis zwischen Gott und Mensch bestimmt. Auch wenn ein Mensch sturbe, konnte er sich nach Takizawas Theologie nicht aus dem Urverhaltnis oder dem Raum Gottes herausziehen. Im Gedanken des "Vergangenseins" konnen die Toten vom Gedachtnis der Toten unterschieden werden, und ausserdem konnte man nuchtern sogar den Spuk als eine Erscheinung der Toten behandeln. Zum Schluss wird eine Spukgeschichte von W. Bergengruen vorgestellt.http://ci.nii.ac.jp/naid/110006792648
著者
谷山 洋三
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.347-367, 2012-09-30

災害時においては、地元の宗教者がチャプレンとして、スピリチュアルケアや宗教的ケアを通して被災者(=悲嘆者)に対応することが、欧米では当然のこととして理解されている。東日本大震災に際し、宗教者はさまざまな支援活動実施してきたし、今後も必要とされている。弔いとグリーフケア、被災者の不安を和らげる祈りや傾聴活動など、様々な支援活動の中から、布教伝道を目的とせずに、宗教、宗派の立場をこえて、宗教的ケアを実践した事例を参考にして、災害時のチャプレンの可能性と課題を考察する。これからも起きるかもしれない災害に備えて、日本各地で災害チャプレンを育成しておく必要性がある。そのための課題は、ルールを共有した超宗教の組織づくり、医療者や自治体との連携のための信頼関係の構築、宗教的ケアの質や効果の検証、そして地域性を考慮した体制づくりである。
著者
磯前 順一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.2, pp.193-216, 2015-09-30

近代ナショナリズムに対する批判が、人間の歴史的真正さへの志向性を相対化することに成功し、宗教概念論という新たな研究潮流を生み出した。その背景には一九六〇年代後半に始まるフランス現代思想の、ポストコロニアリズムあるいは植民地主義を介した一九九〇年代の動きがあった。こうした流れの中で、近代を中心とする日本宗教史の言説が流布しているが、一方で近世以前の時期に対する研究は影を潜め、近代が作り出した過去の言説として、近世以前の時期は扱われるにとどまった。同時にそうした固定化された日本宗教史研究は、ポストコロニアル研究などのもつ社会に不平等性に対する批判力を抹消させ、形骸化された制度史研究に宗教概念論の批評性を無効化させてきた。本稿ではこうした近年の傾向に一石を投じるために、非近代西洋的な余白として近世の信仰世界や民俗宗教を研究する可能性を理論的に模索する。