著者
保呂 篤彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.423-446, 2014-09-30

カントによれば、宗教は人間に幸福への希望をゆるすことに本質がある。しかし、幸福に関する彼の説明は多様で、宗教が希望することをゆるす幸福を彼がいかなるものと考えていたか、必ずしも明確でない。まず彼は倫理学を基礎づける議論において、幸福を「あらゆる傾向性の満足」「自分の存在や状態への完全な充足」と規定し、それが道徳原理を提供しえない旨を論じ、人間が道徳法則遵守の意識に基づいて経験する「自己充足」も「幸福の類似物」でしかなく、これを幸福と混同しないよう警告している。つまり幸福と宗教から道徳を純化しようと努めている。ところが、希望される幸福を論じる段になると、それは「最高善」の第二要素として扱われ、道徳との密接な関係が取り戻される。ここでの幸福も相変わらず「自分の存在や状態への完全な充足」ではあるが、前述の「自己充足」を基に成立するものであり、「傾向性の満足」は捨象される(来世で希望される「浄福」の場合)か、制限される(現世の「倫理的公共体」において希望される「普遍的幸福」の場合)。また興味深いことに、この「最高善」の促進が人類の義務であるにもかかわらず、同時にその実現へ向かう同じプロセスに神の助力が希望されるともカントは考えている。
著者
橋迫 瑞穂
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 = Journal of religious studies (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.597-619, 2014-12

本稿は、一九八〇年代に主として少女たちの間で流行した「占い・おまじない」が、特に学校で人間関係を築くさいに生じる軋轢に対応するための手段を与えるものであったことを、少女向けの占い雑誌『マイバースデイ』を分析することによって明らかにすることを目的とする。従来、「呪術=宗教的大衆文化」のなかでも「占い・おまじない」は、少女が自身の立ち位置や周囲との人間関係を推し量りながら自己を定位する「認識のための『地図』」としての役割を担うものとして彼女らに消費されたととらえられてきた。しかし、『マイバースデイ』を詳細に分析した結果、「占い・おまじない」は、少女たちが学校生活に適応する過程に神秘的な意味を与えることで、学校を人間関係構築のための修養の場に作り変える働きを有するものであり、さらには、彼らに緩やかな共同体を形成する場を提供する働きをも担っていたことが明らかになった。
著者
デッセィー ウーゴ
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.1, pp.93-114, 2009-06-30

宗教はグローバル化によって、進行しつつある価値観の相対化及び技術偏重の制度に対応するよう迫られている。それは、宗教の社会倫理に影響を与えているように思われる。これら二点が宗教の社会倫理に影響を与えていると思われる。浄土真宗の社会倫理とグローバル化について、(一)政治制度及び教育制度に対する姿勢と(二)宗教的価値観の相対化及び多元主義に対する姿勢という、二つの重要な側面を分析することで、異なる立場があることが分かる。浄土真宗は多くの場合、宗教社会学者のピーター・バイヤーが仮定する、グローバル化に前向きな「リベラル・オプション」を選ぶ傾向にある。これは靖国問題、教育基本法改正に対する取り組み、多元主義の重視、自己の宗教的伝統に対する認知的アプローチにおいて明らかである。その一方で、「ヒューマニズム」批判のように、グローバル化を危険視し抵抗するために、宗教的伝統の権威を力強く回復しなくてはならないと考えている。
著者
[ナガタニ] 弘信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.27-53, 2013-06-30

蓮光寺旧蔵本『親鸞聖人血脈文集』(現大谷大学図書館蔵)には、法然が親鸞に模写を許した自らの真影に元久二年(一二○五)に「銘文」とともに記した「名の字」とされる「釈善信」の記述がある。これが法然の記名を忠実に伝えているとすれば、親鸞が同年「綽空」から「善信」と改名したことを示す決定的証拠となる。古田武彦は『親鸞思想-その史料批判』(一九七五年)においてこの記述を、親鸞が建保四年(一二一六)に性信に与え、性信が『血脈文集』を編集した際に自らが親鸞面授の直弟であることの証拠として収めた「自筆文書」の一節である、と述べた。しかし、蓮光寺本の乱丁、当該文書の文面、『血脈文集』の構成を検討した結果、筆者は、この所謂「自筆文書」は、性信没後に『血脈文集』が編集された際に挿入された偽作に過ぎないとの結論に至った。筆者は、元久二年に法然が記した「名の字」は「釈善信」ではなく「釈親鸞」であると考えざるを得ない。
著者
矢内 義顕
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.583-606, 2011-09-30

本稿は、西欧の共住修道制の父と言われるヌルシアのベネディクトゥスによる『戒律』と西欧の女子修道制にとって最も基礎的な戒律の一つであるアルルのカエサリウスによる『修道女のための戒律』をとおして、六世紀初頭の修道院・女子修道院における宗教教育を論じる。修道院の生活の中心となるのは、「聖務日課」と呼ばれる共同の祈りと労働だが、この聖務日課を充実するために、二つの戒律は、修道士・修道女が一日の一定時間を「聖なる読書」(lectio divina)にあてるよう定める。それは、世俗の書物ではなく、聖書、教父の著作、修道生活に必要な霊的な書物を読み、瞑想することによって、それらを学ぶことである。それゆえ、この「聖なる読書」の最終的な目的は、修道生活の完成を目指すことにある。そしてこの修道院を、ベネディクトゥスは「主への奉仕の学校」と呼んだが、それは、カエサリウスの女子修道院にもあてはまるであろう。
著者
阿部 善彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.645-667, 2011-12-30

本稿は、エックハルトの「ドイツ語説教八六」(以下Pr.86)における「マリア」像を考察し、それとともに、エックハルト、タウラー、ゾイゼに通底する宗教的生の理解の解明を目指すものである。伝統的に、マリアは「観想的生」、マルタは「活動的生」の象徴として解釈されてきた。その中でも、Pr.86は、「マルタ」に完全性を見る独創的解釈を提示する説教として注目される。そのため、これまでのエックハルト研究においては、「マルタ」に示される宗教的生の完全性について論じられてきた。だが、「マリア」については十分に取り上げられてこなかった。本稿は、まず、(一)Pr.86で語られる「マルタとマリア」を、その解釈の基本線である「生」(leben)の観点から確認し、その上で、(二)「マリア」に固有の宗教的生の完全性が主題化される解釈伝統を説教内部に明らかにする。そして、(三)そこに示される「マリア」像とドミニコ会修道霊性との思想連関を考察し、これを踏まえて、(四)エックハルトから、タウラー、ゾイゼに通底する宗教的生の理解を明らかにすることを試みる。
著者
澤井 努
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 = Journal of religious studies (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.3, pp.549-571, 2013-12

本稿では、江戸時代中期の市井に生きた思想家、石田梅岩(一六八五-一七四四)の思想に注目し、「儒者」と称した彼が生と死に関する実存的な問いにいかに向き合ったのかを明らかにした。従来、儒教の主たる関心事は、概して死、死者、死後の世界など死に関わる問題ではなく、現生、今現に生きている人間など生に関わる問題にあるとされてきた。しかしながら、梅岩が著したテクストを踏まえれば、生とは何か、死とは何か、という実存的な問いに対して、彼がむしろ真摯に向き合った跡を読み取ることができる。それは、具体的に「心」を知るという修行、すなわち、宇宙論的に生と死の意味を捉えなおすことによって行われた。本稿では梅岩が周〓渓による「太極」の生成論を基本的に踏襲していることを確認したうえで、彼が死後の「霊」の存在について如何に解釈したのかについても言及した。「不生不滅」の議論を踏まえれば、死後も「性」はそのままその場に止まる。また、梅岩独自の言語観(「名」が存在を存在せしめる)に基づけば、生者が死者の存在を「霊」と名づけ、その「霊」を誠意を持って祭る場合に「霊」は確かに存在するのであった。