著者
中川 憲次
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.269-294, 2003-09-30

ベギンの信仰生活は信仰と生業が絶妙に一元化されたものであった。その信仰は生活から離れたものではなかった。日々の労働へと信仰が結実したべギンの生は、中世後期のヨーロッパにおいて輝いている。一方、マイスター・エックハルトはパリ大学に学び、またそこで教えもした神学者である。エックハルトの説教において、生と学の絶妙な一致が見られる。それは、ベギンとの関わりの故であったとわれわれは考える。ベギンの労働観を、聖書やベネディクトゥス修道院規則の労働観と比較すると、その独自性は顕著である。また、ベギンの信仰と生業の一元化された有様は、妙好人 浅原才市の下駄職人としての仕事と仏教信仰の一元化された有様にも通じている。ベギンの聖体拝領に基づく信仰は、生業に誠実に勤しむという態度に結実した。それは、生業に勤しむことにとどまらず、食事や睡眠等という日常の生を丁寧に生ききるという態度にも繋がっていた。
著者
金森 修
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.329-354, 2013-09-30

科学はその偉業と覇権にも拘わらず、二〇世紀半ば過ぎ頃から、客観性、普遍性、公益性を本質とするはずの古典的科学観から部分的に逸脱し、変質し始めている。マンハッタン計画、一九七〇年代以降のバイオテクノロジー、今回の原発事故が露わにしたような原発関連科学の複合体などの諸事例が<変質した科学>を象徴するものだ。他方でエリュールの技術論は、人間主体を周辺化するような、希望のない決定論的枠組みの中に文化を押し込めるものだった。科学もその種の技術体系に倣うものなのかもしれない。この現状の中では、もはや科学の特権性はなんら自明のものではなくなった。現代社会の中でも、宗教的な成分は、人間の感情が住み着く位相や、実証を逃れる知の中にしっかりと作動している。現状の酷薄さの中で、むしろ宗教者は従来よりも一層毅然とした批判的態度を貫徹しつつ、生命の尊重や弱者への寄り添いのような独自の活動を継続すべきなのである。
著者
安藤 泰至
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.293-312, 2006

現代において「スピリチュアリティ」という語は、分野によっていくつかの異なった意味、文脈において用いられている。それらを性急に標準化しようとしたり、特定の分野における定義を固定化したりすることは、この概念がもっている豊かな可能性を損なってしまいかねない。ここではむしろ、この概念に見られるさまざまな二重性こそが、この語が用いられるそれぞれ異なった文脈における共通の背景を浮かび上がらせてくることに注目し、「スピリチュアリティ」という概念を「時代のことば」にしているそうした状況を、それぞれの理論的・実践的課題に即した形で受け取りなおすことによって、各々のスピリチュアリティ概念やその理解が内側から開かれていく可能性を探ってみたい。そのためには、「スピリチュアリティ」という概念を用いる各々の専門職や学問・実践領域の間の越境によって、特定の領域の中に閉じられがちな(異なった)スピリチュアリティ概念やその理解を、生死をめぐる具体的な課題の中で突き合わせる必要があろう。
著者
花岡 永子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.439-463, 2003-09-30

「"生活の宗教″としてのキリスト教」を二十一世紀の現在において論究するには、キリスト教の内部だけに留まることは不可能である。何故ならば、遅くとも二十世紀後半には物理学においてのみならず各宗教においても、多元性や相補性を視野に入れざるを得ず、更には諸宗教の根源に遡って、諸宗教の始原での「根源的いのち」の経験の視座から各宗教を考察することが必要だからである。今世紀の諸宗教に通底していると考えられる「根源的いのち」乃至は「霊性」の同一経験は、各民族、各国家の文化に基礎づけられた表現やその方法の相違によって大きく相違してきたと理解され得る。そこで本小論では、仏教との比較の中でテーマが考察される。従って、一切の二元性や両極性が超脱された世俗化、更には聖俗1如の境涯が、仏教での「日常底」との比較の中で論究される。
著者
伊藤 泰信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.319-346, 2011-09

本稿はマイノリティのナショナリズムと、宗教の私事化や拡散化が絡み合う文脈に留意しつつ、先住民マオリの宗教教育について論じる。アイデンティティを求めることがスピリチュアルな旅になるといった私事的な宗教性は高度複雑社会の日本でもニュージーランドでも(ある程度までマオリにも)見られる。ただしマオリの場合、貧困や疎外から、先住民の地位を政治化し、心の脱植民地化が図られる中で、白人の知の倒立像とも言える「マオリ的なるもの」が浸透した。それは分離主義的なナショナリズムと重なり、マオリがコントロールしうる領域(制度・組織)の拡大へと繋がっている。こうした背景の下、個別の学校や大学でマオリ的なるものは組織的に教授・学習されるようになっている。マオリ的なるものを探し求めれば過去のホーリスティックな世界に焦点が結ばれるため、それが教授・学習される学校は、準宗教学校のような特異な形態を取るに至っていることを、学習実践の具体を含めて活写する。
著者
氣多 雅子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.275-297, 2012-09-30

自然災害は都市や発電所などを破壊するだけでなく、我々の内に蓄積してきた自然理解そのものにも裂け目を生じさせる。その裂け目は直ちに自然災害を説明する多くの情報によって覆い隠される。この事態は、ハイデッガーが「自然は隠れることを好む」というヘラクレイトスの箴言に読み取る事柄と深く通底している。ハイデッガーは、人間が自らの力において挫折するときに始めて自然の力の優勢が露呈されることを明らかにしている。今回の震災における原発事故において我々が経験したのは、まさに人間の力の挫折である。放射能といった種類の危険は近代化に伴い産業化のメカニズムによって不可避的にもたらされる結果であり、現代社会を破局的な社会にしている。ジャン=リュック・ナンシーは、現代世界にもはや自然的な破局はあり得ず、あるのは文明的な破局のみであると言う。自然の社会化という事態がそれを示していることは明らかであるが、それにも拘らず自然災害の経験から、我々は自然を社会内部の現象とすることに対する徹底的な異議申し立てを受け取るのである。