著者
喜谷 暢史
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.2-14, 2013

<p>謎を引き受ける、謎を手放さない。こと村上春樹に対峙する場合、「作品は謎を回収していない」という紋切り型の批判に逃げ込まず、読み手は対象の不完全さを指摘する以前に、自らが捉えたものの精度を高めることに腐心すべきであろう。</p><p>『風の歌を聴け』の場合、多くの先行論は「この話は一九七〇年八月八日に始まり、一八日後、つまり同じ年の八月二六日に終る」という規定に縛られ、小説全体というよりも一九日間という〈物語〉に拘束されている。それは登場人物についても同じで、「僕」と「鼠」と「小指のない女」という表層のトライアングルに隠れた「三番目に寝た女の子」、「リスト」でいうなれば「得たもの」よりも、むしろ「最後まで書き通すことはできなかった」「失ったもの」に囚われなければならない。巧みな〈物語〉の搦め手から逃れることができれば、春樹作品は謎を隠蔽しているというより、ときに「説明的」ですらある。</p><p>偽作家ハートフィールドという派手な「嘘」と、「何も書けやしない」とこぼした「鼠」が拙いながらも「僕」の誕生日(クリスマスイブ)に送りつける小説と、この回想自体を構造化することが、〈物語〉から〈小説〉への解放(「象」が平原に放たれる)に繋がる。</p><p>タイトルの「風」とは、「鼠」の語る理想の小説論の中にある言葉である。それは「蟬や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって宇宙を流れていく」というもので、この「風」は謎や空白というよりも、それらを全て包んだ虚無や虚空と呼ぶべきものである。春樹の文学は宇宙に吹く「風」という「虚空=void」(了解不能性)にはじめから対峙しており、本作を問題にするのは、膨大な作品群を読み説くための基点としたいがためである。</p>
著者
藤木 直実
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.25-37, 2005

「テクスチュアル・ハラスメント」-女性に対するテクスト上の性的いやがらせ-のケース・スタディとして森しげの例を取り上げる。彼女の被った<暴力>は、以下の三つに分節することができる。(1)鴎外「半日」における「奥さん」の造型およびその波紋 (2)しげの創作活動をめぐる批評言語 (3)鴎外がしげのテクストに施した「校閲」。本論では主として二点目、すなわち、批評史が遂行的にひとりの女性作家を抹消するに至る過程を再審する。
著者
網谷 厚子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.39, no.5, pp.24-31, 1990

『竹取物語』の作者が読み得るだけの漢籍を読み、当時の現実もふまえ「仏の御石の鉢」がガラス製であるとイメージし、そこから「石つくり」の名を考えついたこと。また、大伴のみゆきの大納言がかぐや姫のために用意した家は、奈良時代から平安時代にかけてあり得るものであったこと。「羽衣」は中国においても「天上的」なるものの象徴であり、『竹取物語』の作者の独創とは言い難く、「天の羽衣」は「尼の羽衣」でもあったのではないかということ。以上三点について論じてみた。
著者
鈴木 健一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.10, pp.2-11, 2011-10-10 (Released:2017-05-19)

江戸詩歌史を構想するに際しては、上限を一六世紀初めまで遡らせ、下限を一九世紀末まで引き下げることも十分検討に価しよう。また、最も重要な結節点は一八世紀中頃から後半にかけてにあると考えられる。つまり、江戸詩歌は上品で優雅な作品に加えて俗の要素が拡張する前半期と、日常性が台頭し、口語化、大衆化の促進する後半期に分けられるのである。そのような中、ジャンルの越境も相俟って、和漢や雅俗の区別が曖昧になり、渾然一体となったところに、近代となって新たな対立軸の洋が生まれてくる。
著者
増田 修
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.29, no.4, pp.29-38, 1980-04-10 (Released:2017-08-01)

It has been said that "A Lemon" is a difficult work for teaching in class, because there are some students who never have the same sensibility as author's and they cannot understand the story. But this view depends upon the author's sensibility too much. We should analyze the structure and words of the story in detail. The fist words "a mysterious and ominous soul" have an important meaning, and the whole structure of the story is related to the relevancy between those words and a daydream of a bomb in Maruzen. This point of view is significant for both comprehention of the story and teaching in class.
著者
清水 章雄
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.5, pp.10-18, 2011

<p>日本神話は、始原の時を雑霊(ぞうりょう)の活動する世界として表現した。「さばへなす」は呪力を持つ蝿(はえ)の意味で、始原世界を表す定型句である。蝿は最初の死者イザナミに集(たか)った黄泉国(よみのくに)の蛆(うじ)が変身したものである。「さばへなす」は、愛によって親を苦しめる「子ども」、皇子(みこ)の死に動揺する「舎人(とねり)」にも冠(かん)せられた。また「さば海人(あま)」は異言語を話す異人を言う諺(ことわざ)であった。雑霊の表現の特質が集合・雑音(ざつおん)・無名であることを、本論は明らかにした。</p>
著者
大原 祐治
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.29-37, 2002-01-10 (Released:2017-08-01)

<歴史認識>をめぐって議論の喧しい今日、<歴史小説>というジャンルについて考察する端緒として、本論では、従来<歴史小説>という観点からは評価されることの少ない芥川龍之介のいわゆる<歴史物>の中で、異彩を放つかに見える「糸女覚え書」を取り上げた。徳富蘇峰『近世日本国民史』という、学士院恩賜賞を授与され、売れ行き好調な同時代におけるスタンダードな<国民の歴史>に対し、芥川のテクストが持つ批評性を確認する。

1 0 0 0 言語の錯乱

著者
楜沢 健
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.63, no.11, pp.23-33, 2014

<p>一九二六年に刊行がはじまった「円本」は、「標準語=文学」とみなす日本語規範の見本となった。以後、「正しい」「美しい」日本語の名のもとに、「文学」の序列と差別、検閲と言葉狩り、言語の矯正と調教が猛威をふるう。労働者や農民や女性や異民族の「汚い」「間違った」日本語を記述することから出発したプロレタリア文学は、標準語の序列や矯正や調教に抗い、その規範に錯乱をもたらす、反日本語、反標準語、反文学、反国語の運動にほかならなかった。本論では、プロレタリア文学における日本語批判の諸相に光をあてた。</p>
著者
渡辺 匡一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.50, no.1, pp.19-27, 2001-01-10 (Released:2017-08-01)

保元の乱の敗将、源為朝が琉球国に渡り、子息舜天(尊敦)が琉球王国の人王の初めとなる物語(為朝渡琉譚)は、島津氏の琉球侵略、明治政府による「琉球処分」に至るまで、大きな影響を与えてきた。本稿では、中世後期から近世前期を中心に、日本・琉球王国それぞれが提示する為朝渡琉譚を検討し、両国間の王統、歴史認識の差異を見いだしていく。琉球王国の異質性をこともなげに同化し、領土化していく日本のあり方は、「地域の時代」を標榜する現代においても、看過できない問題を投げかけているように思われる。
著者
高橋 修
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.31-40, 2006-01-10 (Released:2017-08-01)

明治期には多数の『ロビンソン・クルーソー』の翻訳がなされた。それらは、どれも過不足なくコードとコンタクトを理解したうえで正確に翻訳されたものはない。しかし、いずれの翻訳も明治の読書空間のなかでそれぞれのメッセージを伝えており、何らかの対話を始める契機となっている。本稿では、翻訳/加工をパフォーマティブな社会的行為と捉え直し、そこでいかなるコミュニケーションがなされているかを考えてみた。
著者
佐野 正俊
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.8, pp.1-8, 2000-08-10 (Released:2017-08-01)

「カンガルーの赤ん坊」を見たい、という「彼女」の希望を叶える「僕」という人物の誠実さへの共感という、作品の「プロット」をなぞることによって生じた初読の<読み>は、作品の<再読>による「<メタプロット>」の捕捉によって顕現してくる「僕」という人物の<自己合理化のシステム>と<他者の自己回収の戦略>の問題とが衝突し、読み手のうちに葛藤を生じさせる。その葛藤こそが読み手の既存の価値観にゆさぶりをかける<小説の力>である。
著者
品田 悦一
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.1-13, 2002

『万葉集』のことばは、それを使用した古代人にとっては決して国語ではなかった。それは畿内の貴族たちのことばであり、また倭歌という特殊な文化を背負う言語であって、古代国家の版図の津々浦々に通用するような性格は持ち合わせてはいなかった。明治中期に過去の諸テキストから国民の古典が選出されたとき、それら諸テキストの使用言語は過去の国語として追認された。とりわけ『万葉集』のことばは、国語の「伝統」の栄えある源泉として仰がれ、この観念のもと、万葉調の短歌がさかんに創作される。興味深いのは、近代短歌の使用言語が、古代語そのものでも、それと現代語との混融物でもなかったという点だろう。伝統の復興であるべきものが、その実、いまだかつて存在しなかった言語を新たに作り出してしまったのだ。その言語は、しかも、歌壇の外側にはほとんど通用しないという点で、事態を導いた「国語」の理念を裏切ってもいた。素朴で自然で、原始的生命力に満ちていて、そのうえ意味不明な言語。こいつはいったい、なんという鵞鳥だい。
著者
中沢 弥
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.42, no.9, pp.45-55, 1993

梶井基次郎の作品は、その独自の美意識が高く評価され、時にはボードレールと比較されたりしてきた。しかし、その美意識には一貫した規範が存在するというよりは、飛躍した主観性を帯びている。本論では、「檸檬」を表現主義映画「カリガリ博士」と重ね合わせて読むことを手始めに、画家のカンディンスキーを中心とした梶井を取り巻く芸術的な背景や梶井自身の表現意識を点検して、二〇世紀芸術の大きな流れである「表現主義」の方法との類縁性を探ってみた。
著者
樋口 佳子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.42, no.8, pp.36-43, 1993-08-10 (Released:2017-08-01)

"人間のエゴイズムの醜さがもたらすものは、自己の破滅である"-ここに主題がおかれ、これ迄にも道徳教材の一つとして広く読まれてきた『蜘蛛の糸』であるが、果たして、本当に芥川龍之介は人間のエゴイズムの醜さを主題に話を展開させたかったのだろうか。釈迦の態度や極楽の無頓着な様子などから、道徳教材としては扱い得ない、作者の批判の眼があるように感じられる。道徳教材化を拒む、読みの可能性を、文体に着目する事で考えたい。
著者
宮崎 三世
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.58, no.8, pp.33-43, 2009

「道化の華」は、小説の登場人物である葉蔵と、その書き手である「僕」が重ね合わされるようにして書かれている。「僕」は、葉蔵の小説を書くことによってそれを生き、自らの抱える問題の答えを求めようとしているのだと、作品そのものに示されているということではないだろうか。それは、葉蔵と同様に心中相手の女を死なせて一人生き残った男である「僕」が、これからどのように生きていけるのか分からないということである。「僕」は結局、そのことに解決や救いが与えられることはないと認め、葉蔵が女の死を忘れずに引き受けていく他ないと示す結末を書く。「僕」は小説を書く理由を「復讐」と答えるが、「僕」が怒りを向ける相手とは、自分自身をおいてはないだろう。本作品では、小説を書くことによって強烈な自意識に付きまとわれ続ける男、つまり書き手の「僕」自身の姿が、まるで地獄に閉じこめられるかのように描かれることとなったのである。