著者
加須屋 誠
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.49, no.7, pp.17-28, 2000

十二世紀末に制作された絵巻物『病草紙』は病苦を浄土教的な無常感から主題化し、それを写実的に描いた絵画作品であるとこれまで美術史では位置づけられてきた。しかし、文学作品研究に倣い、その画面の構造分析を試みると、『病草紙』は決してそのような絵画でないことが明らかとなる。むしろ、それは古代/中世の時代の移行期にあった皇族貴族たちの動揺する価値観や抑圧された欲望あるいは不安に満ちた予感が投影された、まさしく《終末イメージ》の表象として解読される。
著者
縄手 聖子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.9, pp.10-20, 2011-09-10 (Released:2017-05-19)

『梁塵秘抄』三一九番歌で「太子」とうたわれる人物は、『列仙伝』の王子喬を典拠としている。だが、王子喬という固有名詞ではなく、「太子」という呼称を用いていることから、「太子」は院政期の東宮ではないかと考えられる。その他に王子喬自身が日本の礼楽思想と深く関わっていること、三一九番歌でうたわれる遊ぶ鶴亀という風景の基底には、王権への祝いがあることなどを起点として、三一九番歌を読み解いていく。
著者
宮脇 真彦
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.60, no.10, pp.12-21, 2011-10-10 (Released:2017-05-19)
被引用文献数
1

俳諧の季語は、一句の季感を決定するものとして、一句の題に準じて考えられてきている。そのため、一句に季語が二つ以上詠み込まれる季重なりなどの場合、句の中心となる季語を選び出して季感を決定するという手続きが取られても来たのである。こうした一句の季に関する考え方は、現代俳句での季語に対する考え方の反映として、無意識に俳諧の発句に向き合ったための手続きでは無かったろうか。本稿では、芭蕉が積極的に編集に参加した『猿蓑』所収「春風にぬぎもさだめぬ羽織哉」の一句を取り上げ、その前書「露沾公にて余寒の当座」を手がかりに、蕉風俳諧における題と言葉、季題と季語の関係について考えてみた。そこからは、俳諧の発句が、現代俳句のような季語を詠み込むことにおいて季題を提示する方法ではなく、題を表現しようとして一句の季語を用いてゆくという、むしろ和歌的な題詠の方法が見えてくる。
著者
小助川 元太
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.11-20, 2015

<p>高校時代に古文が嫌いだったという大学生は多いが、大学受験をしない生徒を含む現役の高校生になると、その数はさらに増えるであろう。その原因は様々であるが、突き詰めていえば、教室で読む「古文」に魅力がない、面白くない、というのが一番の理由であろう。ところが、「古典文学」というコンテンツそのものが今の若者にとって全く魅力のないものかといえば、実はそうでもないようである。たとえば、百人一首をテーマとした漫画『超訳百人一首 うた恋い。』などは高校生や大学生の間でかなりの人気を博している。実際には、現代を生きる若者の心にも響く魅力的な「古典文学」は多く存在しているのだが、教材として教科書に掲載できる(あるいは掲載を求められる)作品には、教育現場における制約(教育的配慮・受験への配慮、分量、配当時間など)があり、その種類が限られてしまうというのが現状である。今後「古典文学」の魅力を若者に伝えていくためには、今や若者たちと「古典文学」との唯一の出会いの場となっている、教科書の「古文」の内容や扱い方を見直していく必要があるのではないか。</p>
著者
清水 潤
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.9, pp.32-41, 2005

泉鏡花「龍胆と撫子」は「黒髪」と題して雑誌連載が始まったが、連載誌の変更や連載中断を経た後、前半部分のみが『りんだうとなでしこ』と題して単行本化された。この未完に終わった大作について、本論では複雑な成立過程も考慮に入れた上での作品読解の可能性を探る。成立過程での作品世界の変質や作中人物の役回りの問題(例えば、重要人物であるべき毛利が冒頭部分にしか登場しないこと)も検討しつつ、後期の鏡花文学の中での本作の存在意義を巡って再考察を試みた。
著者
安藤 恭子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.46, no.11, pp.21-33, 1997-11-10 (Released:2017-08-01)

明治三十年代に新たなカテゴリーとして設定された<少女>は、大正期においてどのように表象されたか。この問題を考察することは、ジェンダー構成はもちろんのこと、不断に規定される他者/境界の交錯を問題化することでもある。吉屋信子『花物語』第一〜七話を具体的に分析し、近代日本という国家が自らを主体化するように規定したさまざまな境界が、どのように互いに関係付けられ、互いを規定し合うのか、その際<少女>はどのように表象されたのかを明らかにした。
著者
高橋 重美
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.26-37, 2007-02-10 (Released:2017-08-01)

少女小説批評は、長らく『花物語』の美文の「抒情性」を少女の本質に由来する特質としてきたが、近年の研究は抒情が少女の占有物ではなく、同時代の文学ヒエラルヒーの中で広く共有された感性であったことを明らかにした。本稿はそれを踏まえた上で、少女の抒情がどのように別枠化されていったかを、少女フィクション形成時の、規範が物語として構成される過程に注目して分析し、近代少女表象の根本的な逆説性について考える。
著者
大杉 重男
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.61-70, 2005

保田与重郎の戦後最初の評論「みやらびあはれ」において、その標題になっている「みやらびあはれ」という語は、第二次世界大戦の敗北によって日本の領土から沖縄が暴力的に奪い取られたこと、引いては日本の敗戦そのものに対する保田の表象不可能な「断腸」の思いの合言葉として展開されているが、それをよりテクストに密着して解釈を進める時、この合言葉は保田の意図を超えた複数の様々な暴力の合言葉として読めて来ることを論じる。
著者
錦 仁
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.53, no.7, pp.1-10, 2004-07-10 (Released:2017-08-01)

平安文学において<音>は、どのような場面に、どのような意義を付与されて表現されているだろうか。本稿は、そうした問題について基本的な考察を試みる。具体的には、『古今和歌集』仮名序の冒頭部にあらわれる「花に鳴く鶯、水に住むかはづの声」をはじめ、『紫式部日記』冒頭部にあらわれる「不断の御読経の声々」「例の絶えせぬ水のおとなひ」といった<音のある風景>をとりあげる。そして、これらの<風景>が、当時の貴族の屋敷と庭園に込められた思想を色濃く反映していることを明らかにする。
著者
平田 英夫
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.61, no.7, pp.11-21, 2012-07-10 (Released:2017-11-22)

勅撰和歌集の「序文」は「和歌」をどのように記述したのであろか。本論では、序にて示される和歌にまつわる情報のなかでも、その始まりや起源をどのように記述しているのかについて注目し、検討していく。特に古今集仮名序における「この歌、天地の開けはじまりける時よりいできにけり」という天地開闢時に和歌が出現したとする啓示のような文言に、中世勅撰集の序文がどのように向き合っていくのかについて考察した。
著者
今関 敏子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.41, no.2, pp.43-55, 1992-02-10 (Released:2017-08-01)

現行の解釈に拠れば、『古今集仮名序』の「花になくうぐひす、みつにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるもの、いづれかうたをよまざりける。」のうたをよむ主体は、鶯、蛙を代表とする動物ということになる。本稿では敢えて、この古註以来の解釈に、文脈上及び論理整合上の理由で疑問を提示する。そして、うたをよむ主体をめぐって仮名序の言語意識を探り、"人"と"ことば"を中心に展開される和歌観について考察する。
著者
重田 みち
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.55, no.2, pp.9-17, 2006

複雑な成立過程を持つ世阿弥の能楽論『花伝』のうち、応永十年前後に成立したと推測される、当初の「奥義」(後に書き加えられた約半分を除いた部分。本文は現存せず)について、その本文を推定し、執筆の契機と意図について考察した。すなわち、その執筆の契機として、先行する歌論の十体論を世阿弥が知り得たことが挙げられ、その執筆の意図は、当時の自座の役者が古来の大和猿楽の藝風だけに固執しがちなことを批判し、他座の藝風をも視野に入れたすべての藝風を身に付けるべきことを主張することにあったと推測した。
著者
松井 健人
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.65, no.5, pp.63-72, 2016

<p>重明親王の日記『吏部王記』と大江匡房の言談集『江談』を用いて考察すると、橘成季による説話集『古今著聞集』における、第三話の「邪気」・第四五話の「火雷天神」・第五九三話の「衣冠着たる鬼」の正体は、すべて菅原道真であることが分かる。巻を越えたこれら一連の説話は連関しており、繋ぎ合せると、一〇世紀に重明親王の付近で語られていたであろう、失われた天神譚の記録として復元できると結論付けた。</p>
著者
渡瀬 淳子
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.62, no.7, pp.27-36, 2013

<p>中世において粗末な家を描写する際にしばしば用いられる言葉に「松の柱」がある。 これは白居易の詩句から出た表現であったが、白居易の活躍した中国において、「松柱」が特別な意味を持つことはなかった。しかしそれがなぜか日本においては、ぼろ家の描写に定型句のように用いられることとなった。この現象を探るため、散文韻文の用例を検討した結果、この現象の根底には『源氏物語』の流行があると考えるに至った。さらに『源氏物語』享受を通して白居易の詩を須磨巻の内容に即して理解した結果、極めて日本的な解釈が成立していた可能性を指摘した。</p>
著者
石川 巧
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.65, no.4, pp.13-24, 2016-04-10 (Released:2021-04-30)

「羅生門」が国語教科書の定番教材になったのは一九七三年から高等学校で実施された新課程以降のことだが、当時の指導書をみると、その前後に「羅生門」に関する解説内容が大きく変化していることがわかる。たとえば、一九六〇年代から「羅生門」を継続的に採録していた筑摩書房版の教科書指導書では、吉田精一の『近代文学注釈体系 芥川龍之介』(有精堂出版、一九六三年)を校訂、注釈、解説の下敷きとし、「この下人の心理の推移を主題とし、あはせて生きんが為に、各人各様に持たざるを得ぬエゴイズムをあばいてゐるものである」という吉田精一の把握を「スタンダード」としている。だが、当時の研究状況においては、「彼ら(下人・老婆)は生きるためには仕方のない悪のなかでおたがいの悪をゆるしあった。それは人間の名において人間のモラルを否定し、あるいは否定することを許容する世界であるエゴイズムをこのような形でとらえるかぎり、それはいかなる救済も拒絶する」(『現代日本文学大辞典』明治書院、一九六五年)と主張する三好行雄の論が新風を巻き起こしていた。「羅生門」がいかに読者を深い読みの迷路に誘発する作品であるかを主張する三好行雄の作品論が浸透するなかで、「羅生門」は定番教材へとのぼりつめていくのである。また、近年の教材研究では、「下人のあらかじめ所有していた観念を観念として保証させるものの無根拠さを説き」「下人の生きる観念の闇というアポリアに立ち向かう」のは〈語り手〉であり、「羅生門」はその〈語り手〉が批評の主体を獲得していく物語であるとする田中実の論考(「批評する〈語り手〉――芥川龍之介『羅生門』」、『小説の力――新しい作品論のために』所収、大修館書店、一九九六年二月)がひとつの読解コードとなっているように思う。今回の発表では、「法・倫理・信心」というキーワードをもとに「羅生門」を精読し、この作品がなぜ定番教材としての人気を誇っているのかを検討したいと考えている。膨大な先行研究の間隙を縫うような論じ方ではなく、教室という場でこの作品が果たす〈ことばの機能〉そのものを考察するつもりである。
著者
木股 知史
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.47, no.11, pp.12-21, 1998

『たけくらべ』の結末に描きこまれている「水仙の作り花」については、(1)信如の境遇についての暗示的表現 (2)信如の内面(美登利に対する感情)の暗示的表現 (3)信如と美登利の関係性についての暗示的表現 (4)投影された美登利の内面の暗示的表現 (5)テクストの外から持ち込まれた語り手の介入的メッセージの暗示的表現、というように多義的に理解することができる。多義性をまとめあげるために、<恋愛>という枠組が必要とされ、そのことが理解を拘束していることを検討する。
著者
榊原 理智
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.46, no.3, pp.39-49, 1997

太宰治『斜陽』には、<語り手>かず子の語る行為が語りそのものを変えていくさまが、明確にあらわれている。刻々と変容するかず子は、従って<語り手>という言葉でくくることのできないものである。「語る行為」についての小説であるという側面を、テクストに即して見ていくことによって、「道徳革命」の評価という従来の『斜陽』論と、欧米のナラトロジー理論への批判の契機となることを目指した論文である。