著者
馬渡 玲欧
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.68-80, 2017 (Released:2020-03-09)

本稿はH. マルクーゼ『エロスと文明』に焦点を当てながら、マルクーゼのエロス的文明論をギリシャ哲学由来の「伝統的存在論」に対する批判という観点から再構成することによって、マルクーゼがM.ハイデガーの「死へ臨む存在」論の限界を乗り越えようとしたことを示す。方法として、マルクーゼがハイデガーの弟子であり、後年まで密かにハイデガー思想が彼に影響を与えていたことを踏まえながら、両者の議論を比較する。ハイデガーとの共通点とは西欧哲学の伝統的存在論に対する批判である。ただし社会変革の主体を探求するマルクーゼはハイデガーの基礎存在論ではなく、より直接的に人間存在の本質を探求する考察に向かう。その際マルクーゼは、フロイトをプラトン哲学の延長に位置づけることで、フロイトの欲動論に人間存在の本質としてのエロスを見出す。また、ハイデガー存在論においては「時間」が考察の手がかりとなり、「通俗的時間概念」が批判された。ロゴスだけではなく、直線的時間意識も同様に人間存在の本質を規定する思考様式である。ハイデガーは「死へ臨む存在」の関心に通俗的時間概念を乗り越える視座を見出す。他方マルクーゼはこの時間意識を批判するために、「永劫回帰」の思想を取り上げる。「永劫回帰」によって、人間のエロスに対する「意志」は肯定される。人間の死を合理的に解釈する実存哲学を批判し、人間の非合理的な死ではない「生物学的な自然死」を強調するマルクーゼは、「死へ臨む存在」が人間の本質であるとみなすハイデガーを乗り越えようとした。
著者
安達 智史
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.6-18, 2020 (Released:2021-08-25)

「多文化主義は女性にとって害悪か」。この疑問は、多文化主義に投げかけられる根本問題である。多文化主義はマイノリティの文化に承認を与えるが、その結果、承認を受けたコミュニティの内部で個人の権利が制限される。そして、そうした権利を制限される個人は、多くの場合、女性なのである。だが、ムスリム女性について分析をおこなった本稿は、多文化主義をめぐるこうした支配的ディスコースと異なる知見を導きだしている。それによると、多文化主義は、女性たち自身の手による宗教的探求を促すことで「イスラームを人間化」し、その結果、市民社会の価値との両立を実現するとともに、彼女たちのより広い社会への参加を可能にしている。本稿では、イギリスの移民第二世代ムスリム女性のヒジャブ着用/未着用をめぐる態度についての分析を通じて、女性の自律と信仰の関係とともに、多文化主義、イスラーム、西洋社会への統合との間にあるより積極的な結びつきについて議論をおこなう。
著者
岡沢 亮
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.29-41, 2017 (Released:2020-03-09)
被引用文献数
1

日本における図画のわいせつ性をめぐる裁判に関しては、その恣意性が批判されてきた。ただし、それらの批判は、わいせつ裁判が必然的・蓋然的に恣意的になることを主張するものであり、個別具体的な判決のどの部分がいかなる意味で恣意的なのかを分析・考察する方向性は開かれていなかった。そこで本稿は、図画のわいせつ性をめぐる裁判に関して、その恣意性を考察するための準拠点を析出する分析方針を提示することを目指す。 まず、裁判の恣意性を指摘する既存研究を批判的に検討する。第1に、図画をわいせつである/ないと見ることは必然的に恣意的だとする立場が、法的判断の恣意性の分析を目指すためには有益でないと論じる。第2に、法的判断が恣意的か否かという問題は、裁判官が判決を形成した際の動機を推測することによってではなく、判決の正当化の論理を分析することによって検討されるべきだと論じる。 そのうえで、法的判断の正当化の理解可能性を支える概念の論理文法を分析するという方針を提示する。同方針のもとで、具体的事例として愛のコリーダ事件一審判決を分析し、解明された概念の論理文法を参照するかたちで、当の法的判断の恣意性を考察する。結論として、図画のわいせつ性をめぐる法的判断の正当化の理解可能性を支える概念の論理文法を分析することが、その法的判断の恣意性の考察にとって有益であると主張する。
著者
三井 さよ
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.3-15, 2011 (Released:2020-03-09)

本稿は、多摩地域における知的障害当事者への支援活動に基づき、ケアや承認を論じる際にしばしば取り上げられる、「決定」「介入」と「帰属」「分配」について考察を加える。知的障害の当事者には決定が困難だとみなされがちだが、実際には、当事者による決定を周囲が理解できなかったり、決定に必要な情報を周囲が当事者に伝えられなかったりするとも言える。当事者の自己決定を尊重するというとき、その決定プロセスに支援者や周囲がすでにどう介入してしまっているのか、それ自体を相対化することが必要になる。このことは、分配や帰属という制度レベルにも影響している。その人の主体性をそれとして尊重するためには制度的分配が必要だが、制度的分配を活用するためには当事者をよく知る支援者によるきめ細やかな支援が必要である。決定と介入の割り切れなさはひとつの関係性の内部では解決不能なため、多摩地域では複数帰属という手法に取り組んでいる。
著者
萩原 優騎
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.3-15, 2013 (Released:2020-03-09)

2011年3月11日に発生した大地震と原子力発電所事故以降、これまでの社会の前提を問い直そうという動きが活発になった。その中で、地域社会の再生が今後の重要課題として提示され、現状における復興の在り方を疑問視する主張も多い。一例として、ナオミ・クラインの言う「ショック・ドクトリン」への批判がある。この批判は、災害前のコミュニティを元通りに再生することの支持に等しいのだろうか。多元性を重視し、特定の基準を一律に適用する政策を批判するからといって、以前のコミュニティが当該地域の人々にとって最適のものであったということを、必ずしも意味するわけではないはずである。 八ッ場ダム問題は、地域の多元性の在り方を考えるための事例となる。この地域では、長年の対立を通じて、住民の人間関係は悪化の一途を辿り、人々は疲弊した。その末にダムを受け入れたにもかかわらず、最近になってダム建設の中止が宣言された。それに対して、地元からは多くの反発の声が上がった。ここには、環境保護という理念と、地域の個別的事情が対立するという困難が見られる。このような場合、当事者たちの多元性を無条件に認めてよいのだろうか。意思決定過程において、人々が自らの諸前提を問い直し、現状とは異なる選択肢を創出する可能性を支えるための参照枠として、社会学をはじめとする諸理論が機能し得ることを、本稿では提示する。
著者
竹中 克久
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.107-119, 2017 (Released:2020-03-09)

本稿は、批判的経営研究(Critical Management Studies [CMS])を、組織文化研究のオルタナティブとして正当に位置づける試みである。そのために、既存の組織文化研究を4つのセルに分類し、CMSによる組織文化研究の意義と可能性を強調する。組織文化は一般的に“組織成員によって内面化され共有された価値、規範、信念のセット”と考えられてきた。そこでは、企業をはじめとした組織の競争力の源泉として、組織文化がもたらす忠誠心の強さや組織成員の一体感が強調される事が多かった。その後、E. H. シャインにより、組織文化概念の重層的なモデルが示されることによって、過度の実践性は薄れ、理論の科学化・精緻化が進んでいった。その後、このモデルは組織シンボリズムのG. モーガンや、組織美学のP. ガリアルディらによる批判を経て、組織文化は組織成員によるシンボルの多様な解釈の対象として位置づけられた。 このような組織文化に対して懐疑的なアプローチをとるのが本稿で詳述するCMSの立場である。M. アルベッソンを嚆矢とするCMSは、文化が権力者によって強制的に組織成員にすり込まれることによって、自らの組織文化を当然視し、神格化し、果てにはその組織文化に強く依存するメンバーである文化中毒者(cultural dopes)を産み出す危険性を指摘する。文化中毒者は、既存の文化を本質的で合理的かつ自明のものとみなし、ほかのオルタナティブな社会的現実を作り出すことを控える(Alvesson [2001] 2013: 153)。昨今、企業をはじめとした組織の不祥事は後を絶たない。その原因に組織文化があることが指摘される場合が多いが、CMSを除く既存の組織文化研究では組織文化の「負」の側面についてアプローチできないことを本稿において明らかにする。
著者
河村 裕樹
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.83-95, 2019

近年、精神医学的な知識や医療をめぐって大きな変化が生じている。ひとつには地域移行が、もうひとつには精神医療の参与者と精神医学的な知識とのかかわり方の変容があげられる。本稿ではこうした変容を受け、社会学は精神医療や精神医学的知識について、どのように記述することができるだろうかという問いのもと、これまでの精神医療に関する社会学的研究を跡付けながら、一つの記述のあり方としてエスノメソドロジー研究を提示する。そこで、精神医療と社会学的視座とが補い合う形で変容してきたことを次の3つの段階にわけて論じる。第一に反精神医学とそれを理論的に支えたラベリング論である。第二に、ナラティヴに着目するナラティヴ・アプローチと社会構築主義である。第三に近年精神医療の臨床において大きな影響を与える当事者研究である。当事者研究は半精神医学と呼びうる考えで、知の布置連関の転換をもたらす可能性を有する。本稿では、ラベリング論や社会構築主義とは異なる理解可能性をもたらす視座として、エスノメソドロジーのアイデアを提示することで、知の新たな布置連関を記述する、一つのあり方を示す。
著者
森 千香子
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.19-30, 2020 (Released:2021-08-25)

本稿は「ポスト多文化主義時代」のフランスにおいてマイノリティをめぐる状況にどのような変化が生じているのかを考察した。これまで多文化主義は、「共和主義」を国是とするフランスには馴染まない、あるいは反発を引き起こす、という観点から捉えられてきたが、実際には新たな動きも観察されている。「セクシュアル・デモクラシー」に見られるような新たな排除の論理が広がる一方で、反差別運動の内部から差別被害者だけのセーフ・スペースを求める「ノン・ミクシテ」という実践が展開されるようになった。それはマイノリティの権利擁護の運動に新たな地平を切り開くと同時に、従来のフランス型共和主義の発想と対立するものであることから、激しい批判や攻撃を引き起こしている。さらに「ノン・ミクシテ」運動やムスリム女性のスカーフ着用をめぐる「選択」の問題には、少数者が団結して抵抗するというコングリゲーションの論理と、社会が少数者ごとに隔離されていくというセグリゲーションの論理という、解釈をめぐる対立が浮かび上がっている。
著者
廣田 拓
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.54-66, 2015

本稿は、イギリスの社会学者A・ギデンズのモダニティ論で言及されている、専門家と非専門家の出会いの場を意味する、「アクセス・ポイント」という概念を検討する一論考である。アクセス・ポイントとは、モダニティを生きる人々が、特定のコンテクストを共有する(専門家などの)集団に所属すると同時に、そこを離れたところでは一般人として生活しているという両義性が顕在化する場でもある。本稿ではこのことを、自他の対面的/非対面的相互行為に現れる人称代名詞の観点から議論している。対面的な相互行為において、自他はともに双方の呼びかけに応答する〈あなた〉として現れると同時に、この関係性は相互了解的な〈ワレワレ〉性を帯びている。他方、各種マス・メディアなどを利用した非対面的な相互行為において、自己は他者を〈彼/彼女〉として対象化する一方で、この他者にとって、自己はその他大勢の中の一人として〈ヒトビト=大衆〉性を帯びて現れる。ギデンズのアクセス・ポイント概念は、こうした〈私〉の中に含まれる〈ワレワレ〉性と〈ヒトビト〉性を結びつける接合点としての意味をもつ。モダニティを生きる諸個人の実存的不安は、その実存の無根拠性を露わにする〈ヒトビト〉性を解消するべく〈ワレワレ〉性に人々を接近させる。ギデンズの議論は、それがモダニティを生きる現実から目を逸らす結果となることに注意を喚起し、この問題を乗り越えるための概念を提示している。
著者
山本 崇記
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.72-85, 2009 (Released:2020-03-09)

近年の社会運動とその研究の(再)活性化に比して、社会運動研究においてこそ問われるべき課題が十分に深められていない状況がある。その課題とは第一に、実践的問題意識を持ちながらも社会運動との緊張関係を通じて研究を練成する方法論とはどのようなものかという点である(課題①)。第二に、現実に生じている社会運動の背景にある具体的な歴史的文脈をどのように対象化するのかという点である(課題②)。これらの課題は、かつて日高六郎が社会運動研究の社会学的課題として指摘した点と重なっており、社会運動とその研究が活性化していた1970年代にこれらの課題に否応なく取り組まざるを得なかった研究史に遡及する必要性をも示している。本稿では、似田貝香門と中野卓による「調査者一被調査者論争」をその参照点として位置付ける。「論争」の過程で、似田貝が活動者の「総括」という行為に「調査モノグラフ」を通じて参与する「共同行為」を研究者の主体性確立の条件としたことを、課題①を深めた議論と評価する。また、中野のライフヒストリー研究を、集団ではなく個人生活史を通じて社会を捉え返すことで課題②に応じつつその先に進んだものと評価する。それ故に逆説的にも研究と運動の担い手が固定化し、理論(研究者)/実践(活動者)及び活動者(中心)/生活者(周縁)という認識枠組が再生産され、社会運動の実態から研究が議離する危険性を抱えていったのだと論じる(課題③)。
著者
鈴木 弥香子
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.32-44, 2019 (Released:2020-03-09)

本稿は、ウルリッヒ・ベックのコスモポリタン理論を「新しいコスモポリタニズム」と関連させながら論じることで、その特徴と意義、問題性を明らかにし、批判的継承への方途を探る。「新しいコスモポリタニズム」の議論では、コスモポリタニズムが現代的文脈に照らし合わされ、批判的/反省的に再構成されてきた。そこで重視されているのは(1)ローカル/コスモポリタン二分法批判、(2)アクチュアリティの強調、(3)ユーロセントリズム批判の三つの観点である。ベックのコスモポリタン理論にもこれらの観点は色濃く反映されており、第一の観点については「コスモポリタン化」概念の提示、第二の観点については「現実(real)」というキーワードの強調がそれぞれ対応している。第三の観点、ユーロセントリズム批判に関しては、ベックはユーロセントリズム批判を展開する側であると同時に、ユーロセントリックだと批判される側にもなっていると言える。例えば、バンブラはベックのコスモポリタニズムがユーロセントリックだと批判し、その理由として帝国主義と植民地支配の歴史の軽視を挙げるが、これはベック理論における一つの問題だと言える。また、もう一つの問題と考えられるのが、ベックは「コスモポリタンな現実」を過大評価することで規範的/倫理的な問いを回避する傾向にあることである。こうした問題に対応するためには、ポストコロニアルな思考を取り入れ、差異や歴史的な文脈に注意深く目を向けながら、他者とどう向き合うべきかという問いについて取り組んでいく必要がある。
著者
早川 洋行
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.28-40, 2015 (Released:2020-03-09)

今日、実証データを示すことは、学問の世界のみならず世間一般でも重要視されている。しかし、実証すること自体が価値を帯びたり、データが捏造される事件も起きている。本稿はそうした現状を踏まえて、社会学史における実証研究に関する議論を整理し、社会学研究(社会学者)と「実証すること」の関係について考察したものである。 コントは、社会学は形而上学的段階から実証的段階に進化すべきだと考えていた。その際、重視されるのは何より「観察」だった。J. S. ミルはコントの主張に対して、概念が客観的世界から遊離してしまう点と、眼に見えない心理的なものの観察方法が示されていない点を批判した。またドイツ実証主義論争において、アドルノは、内容に対する方法の優位、方法の多様性による社会の全体性の解体、イデオロギー化を指摘するとともに、哲学の復権を主張し、一方、ポパーは、主観による観察の構築を指摘して、批判的合理主義を主張した。 以上4人の議論を見田宗介が用いた言葉を再定義して整理すれば、「引出されたデータ」に固執する問題、「引出されたデータ」「見出されたデータ」「未知のデータ」の関係の問題、「引出されたデータ」の恣意性の問題に整理できる。結論として、社会学者は「見出されたデータ」の世界に身を置きつつ、「引出されたデータ」と「未知のデータ」に関心を保ち続けることが大切であると主張する。