著者
河村 裕樹
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.42-54, 2017 (Released:2020-03-09)

本稿の目的は、エスノメソドロジーの創始者であるガーフィンケルのパッシングの議論を再考することで、ゲーム的な分析では捉えきれないパッシングの内実を明確化することである。すなわち、ガーフィンケルによれば、ゲーム的な分析枠組みを用いるゴフマンのパッシングの論理ではパッシングの内実について捉えられない側面があるという。その側面とは相互反映性や状況操作、継続性である。ここでゲーム的な分析が可能なパッシングとは、エピソード的性格、事前の計画、実際的な規則に対する信頼という特徴をもち、ゲーム的な分析では捉えられないパッシングとは、人びとが自明視し、背景となっているルーティンに埋め込まれた当たり前のことを達成することが課題であるような実践のことである。これらを考慮に入れることで改めて検討し直すと、ゲーム的な分析枠組みでパッシングを分析することは可能ではあるが、一方でガーフィンケルによるパッシングの論理を用いることで、自明視され背景化している「普通であること」を達成することこそが、パッシングを行う者にとっての第一の課題であるということが明らかとなる。この両者の構造上の不一致を確認したうえで、後半では一つの事例を用いて、ガーフィンケル的な分析をすることにどのような意味があるのかを例証する。そのことにより、エスノメソドロジーの立ち上げにおいて重要な役割を果たしたアグネス論文を再評価し、その意義を確認する。
著者
鵜飼 大介
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.84-99, 2007 (Released:2020-03-09)

ヨーロッパにおける近代的な言語経験を特徴づける一事象として、普遍言語の構想と運動が挙げられる。「普遍性」は「特殊性」との関係において意味をもつように、普遍言語も特殊言語との関係においてこそ、はっきりと姿をあらわしてくる。本論は「普遍言語」と「特殊言語」との関係性の様態を、歴史的にたどるべく、反・普遍言語(論)の変容を見ていく。普遍言語と対をなす特殊言語とは、実際のところ「俗語」または「国語」のことである。17世紀以降、普遍言語において見込まれる〈超・普遍性〉は退縮していき、19世紀末以後にエスペラントが「国際共通語」「国際補助語」と称されたように、既存の諸国語に大幅に譲歩し、〈間・特殊性〉とでもいうべきものへと変容していく。反面、特殊言語たる国語のほうは、次第にその言語的「厚み」が見出され、意義と重要性を高めていく。そうした動向のなか、18世紀におけるフランス語、19世紀における印欧祖語、20世紀における英語など、それぞれ様態は異なるものの、特殊言語が普遍性に近づいたり、それを擬態したりする事態も見受けられた。
著者
エリオット アンソニー 片桐 雅隆 澤井 敦
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.67-92, 2010 (Released:2020-03-09)

本論文は、三つの主要な目的をもっている。第ーに(第1節~第3節)、金融、メディア、ハイテク業界などのニューエコノミーにおいて、とりわけ顕著にみられる、地球を席巻する新しい個人主義についての理論を再検討し再呈示すること、そして、この立場が、社会学的なアプローチという点で、他の影響力の大きい立場(ここでは特に、フーコーと彼の継承者によって精綴化された「自己のテクノロジー」の理論と、アンソニー・ギデンズなどによって輪郭が示された「再帰的な個人化」というとらえ方を扱う)とどのように異なるのか、を問うことである。第二に(第4節)、この新しい個人主義の理論の構図を、より一般的に、日本の社会や社会(科)学における展開と関連づけることである。そこではとりわけ、私化や原子化をめぐる従来の議論、公と私の関係をめぐる議論に焦点をあてることになる。そして最後に(第5節)、現代の日本において進行中である社会経済的な変容を検討することで、新しい個人主義のひろがりがもたらすさまざまな矛盾について考察する。そこでは、新しい個人主義の理論が、日本の社会や経済に変化をもたらしている現在のグローパルな変容の内実をいかに有効に問いうるか、を検討する。
著者
高艸 賢
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.55-67, 2017

本稿の目的は、A. シュッツにおける学問と生の区別と連関の論理を明らかにすることである。シュッツによる理解社会学の基礎づけの議論は日常知と科学知の関係づけを模索するものとして捉えられてきたが、常識と科学の二分法の下では、シュッツの論じる生の論理的重層性が見えにくくなるという問題がある。そこで本稿は、ウィーン時代に書かれた著作および草稿を扱い、シュッツが生における体験次元と意味次元という区別を導入していることに注目する。ベルクソンに依拠したこの概念化は、人間の思惟の基盤を分析するという点で、科学知への批判的視点と日常知に埋没することへの警戒を同時に含意している。シュッツは主著『社会的世界の意味構築』において、両次元の区別に基づいて社会的世界の機制を解明している。意味次元についてシュッツは、他者理解が所与の知識に基づく意味付与として遂行されるという「自己解釈」の機制を明らかにし、他方で体験次元については、他者の体験の連続的生成を見遣るという「持続の同時性」を論じている。体験次元と意味次元は日常的行為者においては主観的意味という形で統一を形成しているが、「主観的意味連関の客観的意味連関」としての社会科学は必然的に体験次元を欠く。理解社会学の認識限界を踏まえたシュッツは、生きられる日常における体験と意味の統一に、純粋に哲学的な思惟や社会科学的分析によっては得られない社会学的反省の基盤を見いだしている。
著者
畠山 洋輔
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.159-170, 2011

本稿は、専門職論のレビューを通して、ある職業を「専門職」として名指すことをめぐる実践を検討するための方法を提示することを目的としている。近代社会において、分業の進展と、自律性を特徴とする職業の専門職化とが並行した。専門職の定義に終始する専門職論は、定義だけではなく、その専門職がおかれている社会的な文脈を見るべきであるとして批判されてきた。そこで、専門職や専門職のおかれている文脈を検討するために、専門職として自己呈示すること、ある職業を専門職として記述すること、そして、そのような職業を専門職として承認する過程を、専門職カテゴリー化として捉えることを提案する。また、近年、専門職論では専門職の成立の前提として信頼が重視されていることを踏まえ、関連アクターからの信頼を維持・獲得しようとする専門職の実践や、専門職論による記述を信頼獲得プロジェクトとする。このように捉えることで、専門職の正しい定義をめぐる議論が抱えるに問題を回避しつつ、専門職を考察することができるようになる。記述の例として現在も様々な定義が提示される社会福祉士を取り上げ、このアプローチの可能性について提示する。
著者
村上 潔
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.160-172, 2010 (Released:2020-03-09)
被引用文献数
1

本稿は、戦後日本社会において、女性の「労働」のありかたについてなされた最初の論争である「主婦論争」の意味を捉え返し、その課題と、論争が保持していた潜在要素一一現在的な問題の源泉ーーを抽出する作業を行なうものである。「主婦論争」とは、1955年に始まり1970年代前半まで段階的に生起した、「主婦」のありかたーーその立場・役割や労働の評価一ーをめぐる論争である。本稿では、「主婦論争」を内在的に読み解き、主にその対象となる層を念頭におきながら論調を図式的に分類していくことで、①論じられていたことが実際にはどのような現象としてあったのか、②それらはどのような関係を取り結んでおり、いかように力関係を保ってきたのか、③現状の課題と照らし合わせた際、改めて力点を置かれるべき立場はどこにあるのか、を検討した。その結果、従来論争における主要な論点とされてきた「働くべき」vs. 「働くべきでない」という論調の対立構図が、実は同じ(中間層以上の)階層の主婦層を対象とした「選択Jの問題にすぎず、そこからは「働かざるをえない」層の主婦たちの存在が不可視化されていることが明らかになった。そのうえで本稿では、「「地域/生活のための運動や協働を担う」立場の主婦たちと「働かざるをえない」主婦(ならびにその周縁の女性)たちによるこれまでの自律的な実践の成果を確認し、両者の協調的進展の模索にこそが今後の展開の試金石であることを指摘した。
著者
犬飼 裕一
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.14-27, 2015 (Released:2020-03-09)

科学をめぐる語りは、社会学においても決定的な役割を果たしてきた。「社会」について科学的に語ることは長年にわたって重視されてきた。ただし、社会について語る社会科学者自身については多く語られてこなかった。「社会科学者」は、しばしば透明な存在であり、「社会」から距離を取って「客観的」な立場で論じていると主張してきた。本稿の課題は、その種の「語り」や「主張」を自己言及として問い直すことである。それは「客観性」を自称しながら、実際には「社会」に対して大きな影響を及ぼしている社会科学の現状を、問い直すことでもある。「社会」について論じる当人はどうなのか。自己言及的に問うことによって、自己言及を排した「科学」とは異なった形の議論が可能になる。ただし、それはたんなる暴露学ではない。むしろ、問題は社会科学全般について、それが「社会」に対して果たしうる役割について問い直すことに向かう。それは社会についての「語り」そのものを主題とする社会修辞学なのである。
著者
石川 洋行
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.81-93, 2014 (Released:2020-03-09)

J. ボードリヤールの消費理論において余暇と自由時間の不可能性が繰り返し論じられているのは単なるニヒリズムからではない。『消費社会』をはじめとするその初期の仕事では、外部性を喪失した自己準拠的システム、超越性の解体、記号的なコミュニケーションの跋扈、そして構造=関係的因子の過剰による主体性の消滅といった問題点が呈示され、その各々に貨幣、記号論、人類学、精神分析などの諸理論が援用されることで、多様な思想史的射程を背景に消費社会のシステム論的読解が試みられる。翻ってこれらの問題は、余暇領域において時間の強迫観念的な交換価値化、「気遣い」の過剰、主体性の裂開という様々な矛盾をもたらすことになる。逆に言えば現代的な余暇活動に積極的意義を見出すならば、そのような単一な自己準拠的システムからの脱出が試みられる限りにおいてに他ならないのである。ボードリヤールは、資本=科学の駆動があらゆるモノを可換化し、人間学的に形成された様々な象徴秩序を解体させていく様子をその外側からリアリスティックに描こうとする。それは、聖俗の秩序が完全に消失し、平板化した記号的現実の日常のもとに演ぜられる、擬態的なシミュレーションの世界の到来を予測させるものであった。
著者
堀田 裕子
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.119-132, 2010

テレビゲーム体験は、M.メルロ=ポンティの理論からどのように考察できるだろうか。彼は「奇妙な」空間に関する考察で、異なる空間への「投錨」とそのための「投錨点」の必要性を論じている。投錨は「構成的精神」によるのではなく、身体が新たな空間内の諸対象を「投錨点」として、そこに住みつくということである。だがその投錨(点)は対象ではなく地であり、異なる空間を同時にとらえることはできない。<br>テレピゲームにおける「客観視点」は、「主観視点」とは異なり、画面上にキャラクターが登場しそれを操作するプレイヤーの視点である。この時、キャラクターの身体は投錨点となり、プレイヤーの動きに応じてキャラクターは同時に動く。この現象を「同期」と呼ぶ論者もいる。だが、この考え方は二重の空間把握と物理的身体を前提しており、身体はその特質からしてまず「潜勢的身体」としてとらえる必要がある。<br>また、奥行の考察からは、対象同士、そして対象と身体もけっして並列的な関係にあるのではなく、互いに他方を導き入れる「含み合い」の関係にあることが示される。そして、この「含み合い」を「投錨」の観点から理解することで、ゲーム体験においてはプレイヤーの身体とキャラクターの身体とがまさしく「含み合い」の関係にあることが分かる。そして、過去・現在・未来もまた「含み合い」の関係にあるとともに、地となり時間を湧出する、潜勢的身体のもつ非反省的な主体性は、ゲーム体験によって解体されることはない。
著者
冨田 和幸
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.94-106, 2014 (Released:2020-03-09)

「認識による自由(解放)」を社会学の使命とするBourdieuにとって、「意識の覚醒(prise de conscience)」は象徴暴力に抗する武器であり続けていた。しかるに、この「意識の覚醒」に対し、特に『パスカル的省察』(1997 年)、『男性支配』(1998 年)の段階において、一転してBourdieuはその限界を執拗に指摘し始める。ある論者は、こうした彼の姿勢の変化の背後に「象徴暴力論のもうひとつのヴァージョン」が控えていると主張する。本稿は、このような主張に対し、この彼の姿勢の変化は、彼の象徴暴力論の質的変化と何ら関係するものではなく、主知主義(intellectualisme)、具体的には、「表象を変えることで現実を変えることができる」という考えと、彼自らの立場(特に象徴権力という考え)との差異化を図ろうとする過程の中で生じたものであることを示すものである。また、最後に、「認識による自由(解放)」という彼の社会学の使命それ自体と、主知主義との関係性をめぐる疑問点を提示して本稿の結びとする。
著者
歐陽 宇亮
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.141-155, 2008

この研究は、「場」という概念装置を導入しつつ、現場でのフィールドワークを主要な方法とした、日本の「美少女ゲーム」のオーディエンスのアイデンティティと相互作用を分析し、「場」という概念装置の再検討をおこなう文化消費研究である。差異化・卓越化を図る文化消費の圏域として、ピエール・ブルデューによって提起された「場」は、日本では南田勝也によって応用され、関与対象の「文化的正統性」をめぐる象徴闘争によって参与者の卓越化が図られると論じられた。本稿は日本の美少女ゲームの文化消費をめぐる議論を通じて、メディアとオーディエンスという二つの文化消費研究の概念を用いた場の論理の精微化を例示する。日本の「美少女ゲーム場」において、メディアとオーディエンスが断絶し、文化的正統性をめぐる象徴闘争は卓越化が図りえない状況において展開する。このような対外的にのみ同一化する場を、「不完全な場」と表現することができる。それは外部のヘゲモニーによって場の力学が部分的に撹乱された状態であり、その背景には社会空間における社会的権力関係がある。