著者
松浦 由美子
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.57-69, 2020 (Released:2021-08-25)

「自己決定権」の概念は、人工妊娠中絶へのアクセスを求めるフェミニズムの主張の論拠として1980年代後半以降広く使われてきたが、日本のフェミニズムは「権利」の語の使用には積極的ではなく、それはしばしば忌避され、ときには棄却されてきた。フェミニストたちは、自己決定することは胎児の生命の価値を否定するものではない、女性の「自己」とは胎児と別個に存在しているのではない、と繰り返し論じてきたが、「権利」のないその「自己決定」は「決定」の名に値するものなのか。はたして「権利」は中絶をめぐるフェミニズムの言説において本当に必要ないのだろうか。これらの問いに答えるために、カール・シュミット、ジャック・デリダ、エルネスト・ラクラウらの議論を参照して主体と決定との構成的な関係を考察する。それによりフェミニズムが用いてきた自己決定権の主張がはらむ問題点を明らかにし、これまで避けられてきた「権利」概念の必要性を論じたい。
著者
飯島 祐介
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.57-69, 2007 (Released:2020-03-09)

ハーバーマスの公共圏論は、既に様々な文脈で取り上げられ、厳しい批判にも晒されている。しかし、それがハーバーマスの理論体系の中でいかなる位置を占めるのかという点については、必ずしも十分な検討がなされていない。本稿ではこの点について検討し、ハーバーマスにとって公共圏論は主著と自他ともに認める『コミュニケイション的行為の理論』に生じた課題への応答であることを明らかにしたい。さらに、この課題はいわゆる「新しい市民社会論」にも生じうるものであり、ハーバーマスは公共圏論によって現代の社会理論に重要な貢献をなすことを明らかにしたい。すなわち、ハーバーマスの公共圏論は、システム的連関に対して市民的と形容しうる社会領域の現存を図ろうとするときに、しかもシステム的連関に一定の合理性を認めながらそうしようとするときに、きわめて有益な洞察を含んでいるのであり、たしかに多くの問題を内包しているとしても、彼の理論体系の中で枢要な位置を占めるのである。
著者
澤田 唯人
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.41-53, 2013

本稿は、感情社会学批判の文脈のなかで主題化されてきた「生きられた感情」の存在論的地位を明らかにし、その行為論的意義を提示するものである。感情社会学は、人間の内なる「自然」とされてきた感情現象に働く「集合的な管理や規則」の存在を可視化することで、感情の「社会性」を謳ってきた。けれども、こうした営みが(同じく自然科学の枠組みである)「刺激-反応図式」のもとで理解されてきた「感情的行為」類型の再定式化へと向けられることはなかった。それは、個々人に「生きられる感情」という問題圏の浮上と無関係ではない。感情社会学の理論構成における行為主体は、意識的に自らの感情から距離をとり、それをものとして管理することのできる「理性的な強さ」を負荷されてきたのである。しかし、我々はむしろ自らの感情を直接的に生きること、すなわち感情的であることを余儀なくされた存在でもあろう。現象学的理解によれば、意識それ自体の「情感性(affectivité)」とは、世界内存在の根本様態であり、それは身体と意味世界との「隠喩的な接触関係」において成立している。こうした地平から、ハビトゥスに基づく習慣的行為を「身体と意味世界との図式的な調和関係」として捉えるN. クロスリーの議論を参照するならば、感情的行為とは、馴染みの無い現実に直面し、意味世界との身体図式的な関係が不協和に陥ることで体現される、有意味な「隠喩的行為」であることが示唆される。
著者
河村 賢
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.80-93, 2013

「ルールに従うこと」は社会的現実の基礎をなす原初的行為として、多くの社会学者たちの関心を捉えてきた。そこで焦点となったのは、ルールに従うことはルールによって因果的に引き起こされた行動として記述できるのかという論点であった。本稿はルールに従うことの因果的描像を最も一貫した形で提示した哲学者であるジョン・サールの社会哲学を批判的に検討することによって、この古典的な議論に決定的な結論を与えることを試みる。サールは、現実に存在する様々なルールを区分するための理念型として、統制的規則/構成的規則の二分法を導入した上で、構成的規則の持つ「新たな行為可能性を作り出す」という性質こそが、社会制度に関わる諸事実の基盤であるとした。この統制的規則/構成的規則という区分は、1950年代にロールズが「二つのルール概念」論文で展開したルールの要約的見方/実践的見方という区分を着想の源としている。だが、サールとロールズの間には、ルールとそれによって描かれる行為の関係を因果関係として捉えるか、ルールを人々が用いて様々な活動を営むという実践的関係として捉えるかという差異が存在する。そして本稿はサールのような外在的・因果的記述の立場ではなく、ロールズのような内在的・実践的記述の立場を取ることによって、社会的現実が編成される場面を、その場面に外的な装置を持ち込まずに分析することが可能になると論ずる。
著者
堀田 裕子
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.119-132, 2010 (Released:2020-03-09)

テレビゲーム体験は、M.メルロ=ポンティの理論からどのように考察できるだろうか。彼は「奇妙な」空間に関する考察で、異なる空間への「投錨」とそのための「投錨点」の必要性を論じている。投錨は「構成的精神」によるのではなく、身体が新たな空間内の諸対象を「投錨点」として、そこに住みつくということである。だがその投錨(点)は対象ではなく地であり、異なる空間を同時にとらえることはできない。 テレピゲームにおける「客観視点」は、「主観視点」とは異なり、画面上にキャラクターが登場しそれを操作するプレイヤーの視点である。この時、キャラクターの身体は投錨点となり、プレイヤーの動きに応じてキャラクターは同時に動く。この現象を「同期」と呼ぶ論者もいる。だが、この考え方は二重の空間把握と物理的身体を前提しており、身体はその特質からしてまず「潜勢的身体」としてとらえる必要がある。 また、奥行の考察からは、対象同士、そして対象と身体もけっして並列的な関係にあるのではなく、互いに他方を導き入れる「含み合い」の関係にあることが示される。そして、この「含み合い」を「投錨」の観点から理解することで、ゲーム体験においてはプレイヤーの身体とキャラクターの身体とがまさしく「含み合い」の関係にあることが分かる。そして、過去・現在・未来もまた「含み合い」の関係にあるとともに、地となり時間を湧出する、潜勢的身体のもつ非反省的な主体性は、ゲーム体験によって解体されることはない。
著者
河村 裕樹
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.83-95, 2019 (Released:2020-03-09)

近年、精神医学的な知識や医療をめぐって大きな変化が生じている。ひとつには地域移行が、もうひとつには精神医療の参与者と精神医学的な知識とのかかわり方の変容があげられる。本稿ではこうした変容を受け、社会学は精神医療や精神医学的知識について、どのように記述することができるだろうかという問いのもと、これまでの精神医療に関する社会学的研究を跡付けながら、一つの記述のあり方としてエスノメソドロジー研究を提示する。そこで、精神医療と社会学的視座とが補い合う形で変容してきたことを次の3つの段階にわけて論じる。第一に反精神医学とそれを理論的に支えたラベリング論である。第二に、ナラティヴに着目するナラティヴ・アプローチと社会構築主義である。第三に近年精神医療の臨床において大きな影響を与える当事者研究である。当事者研究は半精神医学と呼びうる考えで、知の布置連関の転換をもたらす可能性を有する。本稿では、ラベリング論や社会構築主義とは異なる理解可能性をもたらす視座として、エスノメソドロジーのアイデアを提示することで、知の新たな布置連関を記述する、一つのあり方を示す。
著者
喜多 加実代
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.111-123, 2009

本稿は、スピヴァクのフーコーに対する批判を検討するものである。スピヴァクは、フーコーが『知の考古学』で否定した主権的主体を再導入しているとして批判した。その批判の主眼は、抵抗する主体や語る主体になりえない者についてフーコーが十分に考察していないということにある。スビヴァクの議論は、人々の沈黙や発言を、特に被抑圧者とされる人々のそれをどのように考えるべきかについて重要な問題を提起している。本稿は、批判の趣旨は評価しつつ、しかしこうしたスピヴァクの解釈とは逆に、フーコーが被抑圧者の発言を無媒介に入手可能でその意図に近づけるものとして扱ったわけではなく、スピヴァクの提案をむしろ先取りする形でその分析方法を提示していた可能性を示す。
著者
野尻 洋平
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.124-136, 2009 (Released:2020-03-09)

本論の目的は、D. ライアンの監視社会論の方法的背景を探ることである。その方法として、ライアンの「監視の両義性」テーゼに着目し、その成立過程と方法的背景を検討していく。本論であきらかとなったのは、ライアンの「監視」概念および、監視の両義性を主軸とする監視社会論が、キリスト教的な社会倫理に基づいた方法および視座から導出されているということである。以下の論述は、監視の両義性テーゼが析出される場面を見届けたうえで(2章)、そのテーゼが導出されるような方法および視座が、1980年代後半におけるかれの情報社会論においてすでに現れていたことを検証し(3章)、さらに70年代半ばから80年代前半までのライアンの初期の仕事を跡付けることによって、ライアンの倫理的・思想的背景がキリスト教的社会倫理に基づくことを確認する(4章)。最後に、そのような方法的・思想的背景を携えたライアンが、現代における社会の監視化にいかなる「解決」を与えているのか、さらにはライアンの問いをいかなるかたちで定式化することができるのかについて考察し、結論を述べる(5章)。ライアンは、これまで監視を論じるうえでさまざまな論者によって引用・言及されてきた。しかしながらかれの議論の方法的背景まで検討をくわえたものは存在しないため、上述のような観点からその思考を跡付けし、理論内在的な検討をおこなう必要があるだろう。
著者
柳原 良江
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.102-114, 2016 (Released:2020-03-09)

本稿は、日本の質的研究において要請されている、質的な社会調査と社会理論との連結を図る上での一つの試みとして、英語圏で普及し日本では文化社会学とも訳される社会理論「カルチュラル・ソシオロジー」の概念とその系譜を紹介する。本概念を、まず日本における既存の文化研究や質的調査の理論的位置づけと比較し、次に英語圏におけるカルチュラル・ソシオロジーの現状を説明し、最後に日本の実証研究理論との対応関係を述べる。 カルチュラル・ソシオロジーはアメリカ人のアレグザンダーにより提唱され英語圏で普及した。現在、イギリスでは文化全般を扱う社会学として再定義され、アメリカ国内でも諸派が存在する。一方、提唱者のアレグザンダーは「構造解釈学派」とよばれる理論を構築し、そこで「文化の自律性」を重視した「強いプログラム」を採用している。 日本でもこれまでに文化的問題を意識し、遡及的にカルチュラル・ソシオロジーに分類される営みがなされてきた。一方で、その理論的営みが実証研究の現場と十分に接続できていたとは言い難く、理論の不在は時に現場で分析手法の混乱を引き起こしてきた。とりわけ構造解釈学派に対応する理論に欠け、潜在的に本理論を要請する状態にある。この現状を打開するためには、構造解釈学派を援用した理論構築を実証現場の個々の理論と接合していく作業が有効になろう。
著者
岸 政彦
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.14-22, 2017

この論考(エッセー)で私は、質的調査に携わる社会学者の視点から、現在の社会学理論に欠けているものが何かを考えたい。具体的にいえばそれは、少数の事例を一般化して現実の社会問題について分析するための方法と、人びとの行為の理由や動機や欲求などを、社会的な状況のなかで考えるための理論である。私たちは、構築主義を乗り越え、再び社会学と実在との間の結びつきを回復させる必要がある。
著者
森山 達矢
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.50-62, 2012 (Released:2020-03-09)

本稿は、身体という対象を社会学的に理解するための、認識論と方法論について検討するものである。このテーマについて、ローイック・ヴァカンの身体社会学の根幹をなしている「肉体の社会学」(carnal sociology)を検討する。彼の肉体の社会学は、師であるピエール・ブルデューの反省的社会学を実践するものであり、認識論と方法論とを反省的に問い直す過程において提出されたものである。肉体の社会学の特徴は、「身体の社会学」と同時に「身体からの社会学」となっているということである。「身体からの社会学」が意味していることは、社会学者の身体を、対象を理解する手段とするということである。しかし、ヴァカンは、フィールド・ワークにおける身体性と反省性について十分に検討していない。この点にかんして、本稿は、リチャード・シュスターマンのsomaesthetics(1)の議論を検討する。シュスターマンは、反省-前反省的領域という図式には含みこまれない、感性的な反省の存在を指摘し、この感性的な反省の学術的可能性を論じている。こうした議論から、筆者は、社会学者には、方法論として「感性社会学的反省」が必要であることを主張する。
著者
鈴木 弥香子
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.55-67, 2014 (Released:2020-03-09)

現在、グローバリゼーションの進展によって様々な変容が社会に対して迫られ、多方面で弊害が生じており、それに対してどう対応するかという新たな社会構想を描く必要性が増しているが、その試みはこれまで進展してこなかった。本稿では、新たな構想としてコスモポリタニズムに着目し、それがアクチュアリティを持つ考えであると同時に、実践するにあたってはある困難性を有していることを明らかにする。コスモポリタニズムは、近年グローバリゼーションの進展に呼応するようにヨーロッパ圏を中心として盛んに議論されている一方で、日本においてはその検討が不十分であるのが現状である。そこで第一に、コスモポリタニズムの中でも政治的な変革に関連する議論を、「規範的」なものと「記述的」なものに区別し、整理する中で、そのアクチュアリティを明らかにする。第二に、同概念をより具体的な実践として考えるため、政治的な変革に関わるコスモポリタニズムの議論の多くがコスモポリタンな実践の条件となるグローバルな連帯の存在を自明視、過大評価しているという問題について検討を行う。その中で、連帯を「弱い連帯」と「強い連帯」に分けて考える必要性を提起し、グローバルなレベルでは「弱い連帯」は見られるものの「強い連帯」の構築は困難であることを指摘し、コスモポリタニズムの実践における困難性を明らかにしながらも、EUにおける金融取引税という事例から新たな可能性についても素描する。