著者
山本 圭
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.86-98, 2009 (Released:2020-03-09)

ラディカル・デモクラシーという現代民主主義理論のー潮流には、それ自体の内部においても多様なパースペクティブが存在しており、そのなかでも本稿が焦点を当てるのは、エルネスト・ラクラウの政治理論である。ラクラウの政治理論はこれまで、今日のアカデミズムへの甚大な影響にも関わらず、主題的に論じられることはあまりなかった。したがって本稿の目的は、ラクラウの提示した民主主義理論の可能性を検証するためにも、彼がどのように自身の政治理論を醸成させていったかを明らかにすることである。そこで手掛かりとなるのが「主体」の概念である。つまり『ヘゲモニーと社会主義戦略』において主体は、構造内部の「主体位置」と考えられていたが、後に精神分析理論からの批判を取り入れることにより、それを「欠如の主体」と捉えるようになったのである。そしてこの主体概念をめぐる転回が、ラクラウ政治理論を脱構築との接合や普遍/個別概念の再考などの新しい展開へと促したことを示すことにしたい。最後にこの「欠如の主体」の導入が、ラクラウの民主主義理論をどのように深化させたのかを議論し、ラクラウが提唱するラディカル・デモクラシーが何たるかを明らかにする。
著者
大貫 挙学
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.90-102, 2018 (Released:2020-03-09)

本稿の目的は、J. バトラーの「倫理」概念を、パフォーマティヴィティ理論から導出される「他者性」に着目して考察することにある。 1990 年代のジェンダー・パフォーマティヴィティに関するバトラーの議論は、彼女をフェミニズム理論家として知らしめることになった。一方2000 年代以降、彼女は、従来以上に、エスニシティやナショナリティの問題に焦点をあて、国民国家による暴力についても直接的に論じるようになった。バトラーによれば、現代社会においては主権と統治性の共犯関係によって、私たちの「生」は不安定なものになっている。そして、「生のあやうさ」が格差をともなって配分されているという。かかる現状にあって、彼女は「生の被傷性」を指摘するとともに、「自己の倫理」を主題化する。近年のバトラーについては、ジェンダー・パフォーマティヴィティから倫理一般への「回帰/転回」が指摘されてきた。 これに対し本稿では、「倫理」をめぐる彼女の議論を、パフォーマティヴィティ概念との連続性のなかで考察したい。こうした作業によって、「他者」についての社会理論と政治的実践との関係も再考できると思われる。また、現代社会における権力批判のあり方にも言及する。すなわち本稿は、バトラーについての学説研究であると同時に、後期近代の権力論を模索するものでもある。
著者
額賀 京介
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.115-127, 2016 (Released:2020-03-09)

エーリッヒ・フロムは、フランクフルト社会研究所在籍時に、権威主義に対する批判的考察を行っている。この考察は、フロム独自の自我理論と疎外‐ 物象化論として把握可能である。この権威主義研究の際、フロムはフロイト自我理論への批判を、フロイトの概念である超自我、自我、エスという自我三層構造論を踏襲しながら行っている。自我が弱い時、彼は、「内部世界と外部世界」を生活充足の対象とする人格的課題を、超自我が担うことを認めている。しかしこの時、超自我が精神を支配し、この過程内で抑圧という心的機制が生じる。この抑圧によって自己は消耗し、自我の能動的行為編成機能と現実検証機能が低下するのである。そして、この超自我は権威との相互的な再帰的構造化過程を形成する。超自我は、自己の精神的エネルギーを権威対象へ投影する。さらに投影、備給された精神的エネルギーが、権威の命令を内化することによって、超自我に回帰していく。この諸過程によって、権威への合理的批判は抑制され、自我機能の低下が起こる。さらに、これは社会的相互作用として成立しているため、社会文化領域での物象化が生じるのである。最終的に、この超自我による物象化‐ 疎外現象は、次の四つの具体的事象へと帰結する。それは①精神的なエネルギーの譲渡=疎外、②自己関係の疎外、③自己による自己産出過程の物象化された超自我と権威への譲渡=疎外、④自己関係内部にある、権威対象以外の他者からの疎外である。
著者
栗田 宣義
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.3-13, 2015 (Released:2020-03-09)

本稿の目的は、経験科学としての計量社会学に固有かつ内在する諸視角から仮説確認の批判的検討を試み、簡明な数式と初歩的な手順のみを用いて、その陥穽について具体的に論じることである。その第一は、近似式導出の誤謬、第二は、全変動に占める僅少な割合に過ぎない説明力の低さ、第三は、木を見て森を見ずに陥る妥当性を欠いた理論モデルだ。推測統計の過信に起因する、かくのごとき陥穽の克服無しには、社会学における一般理論は成し難い。
著者
山本 圭
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.86-98, 2009

ラディカル・デモクラシーという現代民主主義理論のー潮流には、それ自体の内部においても多様なパースペクティブが存在しており、そのなかでも本稿が焦点を当てるのは、エルネスト・ラクラウの政治理論である。ラクラウの政治理論はこれまで、今日のアカデミズムへの甚大な影響にも関わらず、主題的に論じられることはあまりなかった。したがって本稿の目的は、ラクラウの提示した民主主義理論の可能性を検証するためにも、彼がどのように自身の政治理論を醸成させていったかを明らかにすることである。そこで手掛かりとなるのが「主体」の概念である。つまり『ヘゲモニーと社会主義戦略』において主体は、構造内部の「主体位置」と考えられていたが、後に精神分析理論からの批判を取り入れることにより、それを「欠如の主体」と捉えるようになったのである。そしてこの主体概念をめぐる転回が、ラクラウ政治理論を脱構築との接合や普遍/個別概念の再考などの新しい展開へと促したことを示すことにしたい。最後にこの「欠如の主体」の導入が、ラクラウの民主主義理論をどのように深化させたのかを議論し、ラクラウが提唱するラディカル・デモクラシーが何たるかを明らかにする。
著者
野尻 洋平
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.67-79, 2013 (Released:2020-03-09)

本稿の目的は、「子どもの見守り」技術としての監視技術の導入・受容をおもな題材として、後期近代における監視社会の特質を個人化論の観点から検討することである。監視社会と個人化はともに、1980 年代半ば以降に現代という時代のメルクマールとなった社会現象である。前者についてはD. ライアンが、後者についてはU. ベックやZ. バウマンが精力的に議論を展開してきた。当初これらの現象は個別に論じられてきたが、近年の日本では三上剛史が監視社会と個人化の関連性を指摘している(三上 2010)。だが、かれの指摘は抽象的もしくは断片的なものにとどまっている。現代における監視社会形成のメカニズムは、個人化の内的論理と密接に接合することによってより明瞭になると考えられるため、上記の課題を検討することが必要である。本稿では、2000 年代以降の日本社会において社会的な注目をあつめた「子どもの見守り」を題材に、監視社会が出現する社会的なメカニズムを、個人化論の諸概念をもちいて理論的に説明することを試みる。
著者
森山 達矢
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.150-162, 2009 (Released:2020-03-09)

身体化された実践をいかにとらえるのか。本稿はこの間いをめぐるものである。ピエール・ブルデューの研究が明らかにしたように、再生産においては日常の前反省的な実践が重要な役割を果たしている。しかし、そうした実践は意識しておこなわれない行為であるがゆえに、その行為主体ですら言語的な説明が困難なものとなっている。本稿では、そのような実践をいかにとらえるのかという視点から、ニック・クロスリーの身体論を検討する。ブルデューが実践やハビトゥスの前反省性を強調するのに対し、クロスリーは実践の反省性や再帰性を強調する。クロスリーは、モーリス・メルロ=ポンティ、マルセル・モース、G.H.ミードらの議論を摂取しながら、実践や身体技法における精神的側面と社会的側面の両方をとらえる「再帰的身体技法(reflexive body techniques) 」概念を提出している。クロスリーはこの概念によって、行為主体の精神的側面を強調すると同時に、ハビトゥスや実践が機械的なものではないということを主張し、そして日常的な実践や身体技法を、言説と行動のどちらにも還元しない研究のあり方を指し示そうとしている。クロスリーのこうした議論は、主観性にも客観性にも還元できない身体的生をとらえようとするものであり、身体論に関して新たな視点を提示している。
著者
河村 裕樹
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.42-54, 2017

本稿の目的は、エスノメソドロジーの創始者であるガーフィンケルのパッシングの議論を再考することで、ゲーム的な分析では捉えきれないパッシングの内実を明確化することである。すなわち、ガーフィンケルによれば、ゲーム的な分析枠組みを用いるゴフマンのパッシングの論理ではパッシングの内実について捉えられない側面があるという。その側面とは相互反映性や状況操作、継続性である。ここでゲーム的な分析が可能なパッシングとは、エピソード的性格、事前の計画、実際的な規則に対する信頼という特徴をもち、ゲーム的な分析では捉えられないパッシングとは、人びとが自明視し、背景となっているルーティンに埋め込まれた当たり前のことを達成することが課題であるような実践のことである。これらを考慮に入れることで改めて検討し直すと、ゲーム的な分析枠組みでパッシングを分析することは可能ではあるが、一方でガーフィンケルによるパッシングの論理を用いることで、自明視され背景化している「普通であること」を達成することこそが、パッシングを行う者にとっての第一の課題であるということが明らかとなる。この両者の構造上の不一致を確認したうえで、後半では一つの事例を用いて、ガーフィンケル的な分析をすることにどのような意味があるのかを例証する。そのことにより、エスノメソドロジーの立ち上げにおいて重要な役割を果たしたアグネス論文を再評価し、その意義を確認する。
著者
皆吉 淳平
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.100-112, 2008 (Released:2020-03-09)

R. C. フォックスによる「生命倫理の社会学」という構想の可能性を検討することが本稿の目的である。社会学は経験科学として、価値判断を行わず経験的記述を目指すという自己規定を有している。けれども、生命倫理やバイオエシックスと呼ばれる問題群は価値判断を抱え込んでいる。経験的記述という自己規定と価値判断を抱え込んだ対象との間で、フォックスによる「生命倫理の社会学」は、バイオエシックスを社会文化的現象として捉える。その上で、3つのアプローチが示されている。歴史記述、エートスの記述、そして二重の相対化である。フォックスが目指した「生命倫理の社会学」が有する大きな可能性は、二重の相対化という方法にある。それはバイオエシックスと社会、その両者を相対化し検討する。バイオエシックスだけではなく、社会の分析であるからこそ、「生命倫理の社会学」は社会学として大きな可能性を有しているのである。
著者
大貫 挙学
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.128-140, 2016 (Released:2020-03-09)

本稿の目的は、D. コーネルの法哲学における「自由」について、社会理論的な再検討を行うことにある。 コーネルの提示する「イマジナリーな領域」という概念は、自分が何者であるかを自由に再想像できる「心的空間」を意味する。彼女は、フェミニストの立場から、リベラリズムにおける自律した「主体」という想定を否定したうえで、より根源的な意味での「(性的)自由」の擁護を試みている。「イマジナリーな領域」は国家への権利ともされているが、一方で彼女の議論は「心的」な側面のみに焦点を当てているとの指摘も受けてきた。これらの批判は、コーネルがアイデンティティの「脱構築」を強調しすぎていることに向けられている。 そこで本稿では、コーネル理論の再解釈を通して、「心的」な領域でのアイデンティティ再想像が、社会構想のあり方といかなる関係にあるのかを改めて考えたい。その際、J. バトラーの「パフォーマティヴィティ」概念がひとつの手がかりとなるだろう。コーネルとバトラーの比較については、これまでも研究がなされてきたが、本稿は、それらの議論を受け継ぎつつ、「イマジナリーな領域」概念を、社会秩序の「外部」を否定したものとして位置づけ直すものである。かかる作業によって、シティズンシップをめぐる「普遍性」と「差異」の問題にも新たな視点を提供できると思われる。
著者
権 永詞
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.76-88, 2011 (Released:2020-03-09)

本稿は、多様性の保護と画一化の促進というモダンデザインの二面性についての理解を援用することで、「生活の形」の創造としてのライフデザインの現代的な意味を考察している。1960年代に普遍的価値として追求された「生活の質」は、70年代中頃からは個人による「自己実現」を意味するようになる。既存の「良い生活」を示す定型は失われ、個人は「生活の形」を自ら探し求めなければならなくなる。 そこで必要とされたのがライフデザインという概念である。ライフデザインは、一方では個人を集団規範から解放して多様性を促進するが、他方では人々の生活を社会指標によって画一化・細分化された生活の部品の構築物へと変容させる。ライフデザインのこの二面性は、前者は集団からの解放という意味で、後者は断片化された人生を操作する主体の確立という意味で、個人の「自立」を規範化する。 だが、個人を「自立」へと駆り立てる規範としてのライフデザインは、個人の責任を過剰に追及するあまり現存する社会的不平等を個人のライフデザイン能力に帰してしまう危険性がある。そこには、ライフデザイン能力自体における不平等を問題化する視線が欠けている。本稿では、以上の課題を乗り越えるために個人史に着目したライフデザインの方法論の転換を示唆する。
著者
坂井 愛理
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.111-124, 2019 (Released:2020-03-09)

ケアの目的が患者の生を支えることであるならば、老いや麻痺を抱える身体とともにある苦悩や嘆かわしさは、ケアがかかわる重要な領域の一つである。その一方で、こうした身体のままならなさは、専門家の提供する技術を通しては完全に取り除くことができないものとしてある。では、患者は、病める身体のままならなさを、自らをケアする専門家に対してどのように訴えるのだろうか。本稿は、患者が訴えのために用いることが可能な方法を、訪問マッサージの相互行為を例に考察することを目的とする。施術中に患者が身体にかかわる問題を訴えたとき、施術者は、部位の特定、問題の是認と対処を行うことによって、患者の訴えを、施術の対象としてサービスの手順の中に組み込むことができる(問題の施術化)。患者による苦悩や嘆かわしさの訴えは、こうした施術者が進行する問題の施術化から、相互行為の展開を差別化することによって行われる。患者の抱える身体のままならなさが、サービスの対象となり得ないものとして訴えを分節化することによって記述されるのならば、マッサージによって解決可能な問題と、患者の抱える苦悩や嘆かわしさといった問題とは、訪問マッサージの場面において非対称的に存在していることになる。ただしこの非対称性は患者の語りや経験を抑圧するものではない。マッサージサービスの手順的進行性は、患者がままならなさの訴えを組織する際にリソースとして利用可能なものである。
著者
津田 翔太郎
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.70-82, 2019 (Released:2020-03-09)

本論は、自己の社会適合性を強調した多元的アイデンティティ論と、不適合性に焦点を当てた統合的アイデンティティ論の分断を乗り越え、今日的なアイデンティティを包括的に捉えうる理論の構築を目指す。アイデンティティ概念は当初、統合的な近代的自己が理想とされ論じられていたものの、社会状況の変化に応じて構成性や多元性が強調されるようになっていった。その一方で近年は、流動化が進展した社会から廃棄される不安や恐れの増大や、心・脳・生物学的身体などを参照する自己観など、統合的アイデンティティを志向する心性の台頭も指摘されている。 このような、多元的でありながら統合的でもあるアイデンティティを説明しうる視座として「自己物語論」、「身体論」、「多元的循環自己概念」が挙げられ、これらを参照すると今日的なアイデンティティは、身体を源泉とした「すでに自己構成した語り手」によって存立し、社会構造の流動化への適応度合いに応じて統合的/多元的性質を獲得すると考えられる。 この文脈における統合への志向性は、単に流動化に不適合な心性というだけではなく、他者関係の中でふいに立ち現れる、主体性に基づいた〈統合的アイデンティティ〉の萌芽として捉えることができる。しかしこの〈統合的アイデンティティ〉は、理想化された行為者が前提とされているために、現実社会においていかにそのようなアイデンティティが実現可能かについて模索していく必要がある。
著者
安部 彰
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.30-42, 2011

ケアにおける承認について考える。そのさい本稿はケアとパターナリズムの関係を軸にその考察を進める。ケアにおいて承認されるべきはケアされるひとの自己決定である、多くのひとがおそらくそう思っている。だがケアという相互行為は、いわばその構造的な必然として、パターナリズムとわかちがたくむすびついている。そしてそのパターナリズムは、ケアされるひとの「存在」を承認する場合、つまり自己決定がそのひとの「存在」の不可逆的な毀損をまねく場合には正当化されるといわれ、それは支持できるように思える。しかるに、まさにそうしたケースであるはずの「安楽死」を我々は容認することがある。とすれば、これは矛盾であるようにみえるが、「存在」理解を吟味すると、その消息があきらかになる。我々は快苦を「存在」のきわめて重要な契機と考えているのだ。だからその「存在」を承認するがゆえに「安楽死」に道をひらくことになるのだ。だが、そうしてみちびかれる帰結は、死の自己決定を認めることとおなじではある。かかる帰結の是非を本稿は問わないけれども、ケアにおける承認の問題をさらに追究するうえですくなくとも考慮にいれておくべき論点を最後に提起する。
著者
河合 恭平
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.106-118, 2010

本稿は、『人間の条件』においてアレントが展開した世界疎外に至る論理を考察し、そのうえで彼女の公共性論の再解釈を試みたものである。<br>考察された世界疎外の論理展開の要点は次の三点である。第一に、近代世界に生じたヒトの生命過程という内省的な円環は、その無世界性と必然性という性質と、両者の相補的な結びつきによって世界疎外をもたらしていたということが言える。第二に、〈仕事〉が、機械の製作によって生命過程を作り出すことを可能にしていたことが挙げられる。これにより、〈仕事〉は、自らの特徴を喪失させ、製作的世界を破壊してしまっていたのである。第三に、近代の歪曲された〈活動〉を挙げることができる。それは、コントロール不可能な過程の〈始まり〉というかたちで、〈世界〉を破壊に導くものとして〈現われ〉ていた。以上の考察によって、我々はアレントの公共性論における、公共性の困難と〈始まり〉への志向という葛藤に直面することになる。そこで本稿では、『人間の条件』で世界疎外が取り上げられた意図を〈理解〉という彼女の概念に着目して読み込むことによって、この葛藤の理由を明らかにし、それがアレントの思想に内在的なものであることを提示する。以上から、アレントの公共性論とは、公共性の困難とそれに対する〈始まり〉への志向という葛藤を含むものとして解釈することが妥当であると結論づけた。
著者
多田 光宏
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.89-100, 2011

社会を「一種独特の実在」とするエミール・デュルケムは、通常、創発主義的なマクロ社会学理論の代表的な人物と考えられている。だが彼の社会実在論的な主張の手がかりとなったのは、じつは個人心理学であった。彼は、意識の特性が脳生理学には還元できないこととの類比で、社会は個人には還元できないと考えたのだった。ただ彼の場合、類比以上の適切な裏付けは欠けていた。ニクラス・ルーマンによって展開された自己準拠的な社会システムの理論が、創発主義に理論的基礎を与えうる。コミュニケーションからコミュニケーションへの接続という社会システムの自己準拠性の指摘は、社会的水準の還元不可能性を明確にした。もともと自己準拠概念は意識哲学的な伝統を含んでおり、自己準拠的な社会システムの構想も、意識に関する知見を社会的領域に一般化した帰結だと考えられる。ただデュルケムとは違い、このシステム理論は意識哲学的な認識論までも社会システムに適用し、社会システムが固有の環境を独自に認識する主体だとしている。そのためこの理論は、デュルケムが社会を存在論的表象のもとで「モノのように」観察したのとは異なり、社会システムを自律的な観察者として観察するという認識論的課題を掲げている。社会システムとはいわば一種独特の観察者だということである。