著者
鶴 田格
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.70, pp.51-62, 2007-03-31 (Released:2010-04-30)
参考文献数
29
被引用文献数
1 2

本論文の目的は, アフリカと東南アジアというふたつの地域の農民経済をめぐる議論を比較することをとおして, アフリカ農民の経済の特質を検討することである。ここでとりあげるのは, アフリカ的文脈で構想されたG. ハイデンの情の経済論と, 東南アジア農村社会を舞台に議論されたJ. スコットのモラル・エコノミー論である。どちらの概念も既存の政治経済学からはみおとされがちな共同体的なネットワークや価値に焦点をあてており, その背後にある家族の再生産の物質的基盤 (サブシステンス) の重要性に注目している, という共通点がある。他方で, 両者のあいだには, それぞれの概念の内容が検討された事例地の歴史的・文化的なちがいにもとづく, 微妙な差異があった。その差異は基本的に, アフリカ農民の道徳的規範はサブシステンスの問題と密接にむすびついているのに対し, 東南アジア農村ではこの両者が分離してひさしい, というちがいに由来しているとかんがえられる。情の経済とモラル・エコノミーが示唆する共通の方向性に注目しながら, 同時にそれぞれの概念がもつ文化的な固有性を考慮することは, 地域固有の文化と自立的な経済にもとづいたオルタナティブな社会開発のあり方 (内発的発展) をかんがえるための有力な手がかりとなるだろう。
著者
遠藤 貢
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.71, pp.107-118, 2007-12-31 (Released:2012-08-13)
参考文献数
31

本稿の目的はアフリカの現代的文脈において国家をめぐって生起している現実とそれに対する認識とが有する意味を読み解く作業を行うことである。敷術すると、国家は現代世界においていかなる条件、いかなる理由のもとで国家でありうるのか(また、ありえないのか)という問いをめぐる問題を検討することである。その作業を行うに当たり、「国家」と「政府」を便宜的に腔分けし、また国家の亜型とでもいう形で出現している「崩壊国家」(collapsedstate)と「事実上の国家」(defactostate)が並存するソマリアを事例にして検討する。ここでは、国内統治と国際関係、言い換えれば「下からの視角」と「上からの視角」、あるいは内と外の論理の交錯するところに生起する問題系としての国家を位置づける視座から取り上げようと試みるものであり、国家の変容が、内なる論理ばかりでなく外の論理の変化を伴う形で生起していることが示される。
著者
古川 哲史
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.72, pp.75-81, 2008-03-31 (Released:2010-04-30)
参考文献数
32
被引用文献数
1 1

近年, 日本-アフリカ交渉史に関する研究は, 日本やアフリカ, 欧米諸国などの研究者によって増えつつある。しかし, 歴史学的な観点から見ると, 未開拓な分野, 着手されていないテーマはまだ多い。私は今まで1920年代-30年代の日本とアフリカの交渉史に焦点を当ててきたが, 本稿ではまず私自身のアフリカや本テーマとの係わりを述べる。それは, その事例自体が, 日本人のアフリカへの係わりの時代的諸相の一側面を反映していると思われるからである。次に, 先行研究を概観し, 時代区分の問題や対象地域への視座の問題を論じる。そして, 私自身も未検討な, あるいは推測の域を出ていない事柄も含めて, 今後の研究課題としていくつかの問題を提示する。最後に, 日本-アフリカ交渉史研究における方法論的枠組みのさらなる議論や, 国際的かつ学際的な共同研究の必要性を指摘する。
著者
松村 圭一郎
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.70, pp.63-76, 2007-03-31 (Released:2010-04-30)
参考文献数
25
被引用文献数
1 1

本稿は, アフリカの農村社会が直面する現代的状況をふまえ, 本質主義的なモラル・エコノミー概念を超えて, 複雑化する農民の経済行動を理解するための動態的視点を提起することを目的とする。とくに, 非市場経済の領域で論じられることの多かったモラル・エコノミー的な経済行動が, 商品作物栽培が拡大してきた農村社会のなかで, どのような位置を占めているのかに焦点をあてる。それによって, モラル・エコノミーか, マーケット・エコノミーか, という二者択一的な図式を相対化し, より動態的なモラル・エコノミー論の可能性を示す。エチオピアの農村社会の事例からは, 人びとが「モノ」・「人」・「場」とそれらの関係で構成されるコンテクストに応じて, 作物などの富の売却や分配を行っていることがわかってきた。人びとは「商品作物」と「自給作物」という属性に応じて経済行動を選択しているわけではなく, むしろ相互行為のなかで, それぞれの作物やそれをめぐる社会関係を「分配すべき富/関係」と「独占される富/関係」として位置づけあっている。市場経済が浸透した農村社会において, モラル・エコノミーは強力な原則として社会を覆っているわけでも, まったく別のものに置き換わってしまったわけでもない。それは, 市場での商品交換とは明確に区別されるひとつの行為形式として存在し, 人びとの相互行為のなかで顕在化したり, 交渉されたりしているのである。
著者
鶴田 格
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2002, no.60, pp.53-63, 2002-03-31 (Released:2010-04-30)
参考文献数
18

タンザニア本土部で長く人気を保ってきたダンス音楽を演奏する「ジャズ・バンド」は, 地域における長期的な文化動態とつねに密接に関連しながら発展してきた。植民地期に都市部に叢生した初期ジャズ・バンドは, 19世紀半ば以来の沿岸スワヒリ文化の内陸への浸透と, その基盤のもとに20世紀初頭に進展したダンス結社 (beni ngoma) の全国的展開を踏まえて, 各都市の住民による社交クラブとして発展したものである。この「ジャズ・クラブ」は, beni ngoma 結社と同様に, 相互扶助的色彩をもつ超民族的な組織として形成され, 都市コミュニティーの内部では集団間のライバル関係の表現手段となるとともに, 外部においては他都市のクラブとのネットワークを形成した。独立後の社会主義政権による政治経済機構の一元化は, 党や軍隊などの政府系機関や公社公団に所属する多数の「公営バンド」を生みだした。公営バンドは, 国営ラジオ放送を通して愛国的な歌を流すとともに, 所属機関の宣伝や国家の政治キャンペーンに頻繁に動員され, 1970年代のジャズ・バンドの主流を形成した。こうした歴史的経緯により, 1980年代以降政治経済の自由化が進展し, 商業的な音楽活動の中心が民間部門へと移行した現在でも, 一部の公営バンドは, いまだに従前の国民的な人気バンドとしての地位を保っている。

1 0 0 0 OA 序論

著者
塚田 健一
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2002, no.60, pp.35-39, 2002-03-31 (Released:2010-04-30)
参考文献数
59
著者
落合 雄彦
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.71, pp.119-127, 2007-12-31 (Released:2012-08-13)
参考文献数
10
被引用文献数
1

2002年に内戦終結が宣言されたシエラレオネでは,分権化を含む地方制度改革が「紛争後の課題」として注目を集めている。2004年には地方自治法が成立して地方選挙が実施され,32年ぶりに地方議会が復活した。本稿の目的は,そうしたシエラレオネの地方制度改革への理解を深めるために,その植民地期の史的展開を概観することにある。それはまた,シエラレオネという分枝国家の形成史を紐解く営みでもある。1896年に成立したシエラレオネ保護領では当初,パラマウント・チーフら伝統的指導者が植民地政府行政官の監督下で200以上のチーフダムを慣習法にもとついて個別に支配するという間接統治が行われていた。しかし,1937年には地方行政の近代化を図るために原住民行政システムが正式に導入され,パラマウント・チーフを中心とする部族当局が地方政府として初めて位置づけられるようになる。また,1950年代に入ると,やはりパラマウント・チーフを中心とする県議会に対して地方行政の一部権限が付与されるようになった。このようにシエラレオネ保護領における地方行政制度の形成は,伝統的指導者の存在をその重要な基盤として展開されてきたのであり,そうした特徴は植民地遺制として独立後の同国における地方統治のあり方にも大きな影響を与えた。
著者
吉野 圭子
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.1969, no.9, pp.19-29, 1969-11-30 (Released:2010-04-30)
参考文献数
27

The most significant political change in Uganda is its colonization under the British Government. Despite the very rapid change in the political systems brought about by the British through their colonial policies, the traditional values that the people of Uganda possessed have changed very gradually.In this study, I intend to describe how the nature of the nationalism in Uganda is related to the conflict between traditional forces and modernizing forces which have been triggered by the pressures of British Colonialism. These tensions and conflicts were crystalized in the political actions of traditional chiefs in three stages, namely traditional society, colonial situation and in the rise of nationalism.On the eve of the invasion of British Colonialism, in the area now corresponding to the present Uganda there were four Kingdoms and many tribal territories. Among these kingdoms Buganda was the strongest and had a hierarchical political organization. The British selected Baganda as a major indegenous administrative force to assist them. Thus the British and the Baganda conquered other kingdoms, Bunyoro, Toro, Ankole and many other tribes, such as Busoga, Acholi, Teso, etc.The point that has to be considered here is that in the Colonial Uganda there consisted a dual relationship in rule, one between the colonial government and Buganda and another between Buganda and other kingdoms and tribes, former corresponded to the typical “indirect rule”, which was the characteristic of the British colonial policy. The latter was more complex, because outside Buganda the system of administration was nearly equal to “direct rule” by the British, using Baganda chiefs and the Ganda political system which had been adapted to suit the particular district.Bunyoro, one of the rival kingdoms of Buganda, had a part of its land annexed to Buganda Province, and consequently most of the Bunyoro people had an enmity towards the Baganda.Teso, the second largest tribe in Uganda, and traditionally organized on a segmentary basis, was also ruled by Baganda chiefs and their repulsions against Buganda were latent.Baganda chiefs were forced to work as colonial officials under the Protectorate Government but they still retained, in their spirit, their traditional values, namely their loyalty to their king, Kabaka. So once this traditional value was rejected, the chiefs protested furiously against the Colonial Government. Both the Bunyoro and Teso chiefs feared that the dictatorship of Buganda would affect them.From the facts mentioned above, the Uganda nationalist movement is characterized by a stuggle between the forces of Buganda and non-Buganda rather than a struggle against British Colonialism. The chiefs often took leadership of this movement, they joined political parties and pursued their tribal interests.After independence, Buganda separatism still remains, Uganda's future depends on how the people form a national consensus for unity.
著者
ブージッド オムリ
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.73, pp.49-56, 2008

イスラーム世界の中では西欧型の近代化を推し進めてきたチュニジアであるが、都市に住み、比較的教育の機会に恵まれやすい女性たちがいる一方、地方に住み、教育を受ける機会が少なく、社会的に低い位置に押しとどめられている女性たちもいることは事実である。本研究では、教育を受ける上で都市と地方の女性の間には、どのような格差の構造があるのかを以下の点から明らかにした。(1) <b>家事労働にかかる時間</b> 地方では、しばしば水道が引かれておらず、生活のための水汲みに時間がかかることがある。(2) <b>経済格差</b> 地方の多くの貧困家庭では、授業料は無料であっても就学のための隠れた出費 (教科書や教材代など) を兄弟全員分負担することができず、その結果男児が優先されることになる。(3) <b>学校までの距離</b> 地方では小・中学校ですら、何キロも離れたところにしかない場合もあり、女児を通学させることに難色を示す親が多い。(4) <b>マスメディアの普及</b> 地方ではテレビなどの普及率が低く、政府の女性に対する政策を知る機会がない。(5) <b>慣習</b> 地方では女児に対する慣習が残っており、女児に対する教育、また外で就労させることに消極的である。
著者
六辻 彰二
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2002, no.60, pp.139-149, 2002

シエラレオネ内戦は複雑な経緯を辿ったが, それは主に武力行使に関与する国内アクターが離合集散を繰り返したことと, 政権が目まぐるしく交代したことによる。内戦発生以後のほとんどの政権に共通することは, 独自の紛争対応が困難であったため, 民兵や民間軍事企業に依存したことである。これらのアクターは革命統一戦線 (Revolutionary United Front: RUF) との軍事的対決に有効な機能を果たしたが, 必ずしも政権の管理下になかったため, 交渉の推進には消極的で, 内戦を長期化させる一因ともなった。他方, 当初平和維持活動以上の介入をみせたナイジェリアは長期の派兵に耐えきれず, 交渉の進展に積極的な対応をみせた。結果的に2002年1月の内戦終結宣言は, 紛争ダイヤモンド輸出と武器輸入の規制と並行した, 交渉促進のための国際的な取り組みに大きく負っている。しかし主な内戦発生要因のうち, 社会的不満を表明する手段の欠如は民主的政府の設立にともなう異議申し立ての機会の確保により, そしてRUFを支援する紛争支援国の活動は国際的監視により大きく改善されたが, 政治腐敗と結び付いた資源配分や地方の生活環境は未だに深刻であるため, 内戦が再燃する危険性は払拭されていない。
著者
Takahiko SUGIYAMA
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
Journal of African Studies (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.1980, no.19, pp.97-108, 1980-03-30 (Released:2010-04-30)
参考文献数
26

It is unfortunately true that many people in Tanzania are still suffering from malnutrition despite of the vast expenditure of time, money and effort in attempts to improve the nutritional status. Today, to eradicate malnutrition is, therefore, recognized as one of major aims to be urgently achieved in the national development plan in Tanzania. Thus it could be worthwhile to review the nutritional status and its influential factors in Tanzania in order to understand the entire problem correctly.Various clinical and dietary survey data clearly show that the nutritional status of Tanzanian people is generally considerably low as compared to that of those in developed countries and that the incidence of various types of malnutrition is high in the country. Among different nutritional disorders existing in Tanzania, Protein-Calorie Malnutrition (PCM) appears to be the most important disorder because of its wide distribution, its vulnerable group which is mainly children who are the future capital, and its complexity of causation.Influential factors on nutrition discussed in this paper are summerized as follows.From the demographic point of view, as commonly seen in developing countries, the rapid increase of population is a considerable problem especially in relation to the demand and supply of food. High dependency ratio in the population undoubtedly affects the nutritional status particularly of children under five years and, pregnant and lactating women owing to their low social status.With regard to dietary factors, it is noticed that Tanzanian diet is not necessarily less nutritive but insufficient in amount. It is, therefore, thought that the nutritional status could be substantially improved by simply increasing the daily food intake of individuals. The dietary improvement not only in quantity but also in quality, is, however, certainly desirable to improve the nutritional status particularly for those whose staple foods are banana and starchy roots.In connection with the population increase, the per capita food production of Tanzania tends to decline in recent years despite of the increase of gross food production. Taking this fact and population increase into consideration, it is obvious that paying more effort to increase the yield per unit area under cultivation of food crops is inevitable in the long run. In addition to raising the food production, the proper conservation of food currently produced is considered to be of great help to increase the amount of food available resulting better nutritional status. Concerning the food production, it should be added that the land tenure system of Tanzania which enable people to obtain farming land readily is acting an important role to increase the food availability of individuals.From the socio-economical point of view, though there is not a remarkable gap between the rich and the poor, the presence of unequal intra-family distribution of income tends to create the malnourishment of dependent group in a family. It is also noticed that with economic development people do not always improve their nutrition. Food habit based on long established cultural patterns is often limiting the food availability of a certain group of the population in Tanzania. As a matter of fact, that socio-economic factors, particularly poverty and ignorance as primary causes of malnutrition, underlie most other causal factors makes the improvement of nutritional status difficult.In view of environmental factors, it is observed that inadequate water supply in quality and quantity is highly related to lowering the nutritional status. The availability of water in Tanzania is actually one of the most important factors to limit agricultural production as well as human life. It is noticed that as a result of “villagisation”, the social environment in rural area has been considerably improved particularly in terms of the access to medical and educational facilities. The
著者
小山 直樹 相馬 貴代 市野 進一郎 高畑 由起夫
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2005, no.66, pp.1-12, 2005

マダガスカルのべレンティ保護区において, 1989年から2000年までの11年間, ワキツネザルの人口動態の研究をおこなうために, 我々は14.2ヘクタールの主調査域設定した。環境変化を研究するために, 主調査域を含む30.4ヘクタールの広い調査域も設定した。主調査域においては, 群れの分裂や追い出しなどの社会変動によって, 群れの数は3から6に増加した。その結果, 一つの群れの行動域の大きさは縮小した。広域の調査域には9科14種に属する大木が475本あった。最も豊富な樹種はキリー (<i>Tamarindus indica</i>) (n=289) で, 2番目がベヌヌ (<i>Acacia rovumae</i>) (n=74), 3番目がヴォレリ (<i>Nestina isoneura</i>) (n=66) であった。これら3種は全大木の90.3%を占めていた。大木の個体群密度は1ヘクタール当たり15.6本で, キリーのそれは10.3本であった。1989年, 14.2ヘクタールの主調査域内には, 1ヘクタール当たり12.7本のキリーが生えていた。<br>2000年に我々はキリーの大きさを再測定した。14.2ヘクタールの主調査域内のキリーの密度は, 1ヘクタール当たり11.2本に減少した。この減少は死亡したキリーの数が新規参入数より多かったためである。対照的に, 1才以上のワオキツネザルの数は1989年の63頭から2000年の89頭へと増加した。その結果, 1個体当たりのキリーの数は2.8本から1.8本に減少した。群れによって1個体当たりのキリーの数には大きな変異があった。CX群は最も豊かな地域を占めていて (1個体当たりのキリーの数は4.7本), T2群は最も貧しい地域を占めていた (1個体当たりのキリーの数は0.6本)。一方, キリーの果実の量は一本一本の木, 地域, 年により変動するだろう。たとえば,キリーの果実の収量は2000年は非常に少なく, CX群のキリーの果実の豊富さの得点は, 主調査域の平均得点より低かった。チャイロキツネザル (<i>Eulemur fulvus</i>) の数も増加している。チャイロキツネザルの採食習慣はワオキツネザルのそれと非常に類似しているので, ワオキツネザルにとって食物をめぐる種内と種間の両方の競争が激しくなってきているようだ。
著者
多田 功
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.1972, no.12, pp.15-20, 1972

The Ethiopia highland is surrounded by desert and tropical forest-rain areas, and the highland itself surpass 2, 000m in average from sea level. Because of this geographic feature, miscellaneous infectious and parasitic diseases are seen in this country depending on the individual locations. There is not only a plenty of oral and respiratory infections of bacterial, rickettsial, protozoal and helminthic diseases, but also various arthropods-transmitted diseases which are scattered widely by various insects vectors. The shortage of medical facilities and staffs in this country prolongs unfortunately prompt improvement of the present situations. It should be moral obligation for the so-called developed countries to relieve inhabitants from these infectious and parasitic diseases. It seems that those who love Ethiopia and Ethiopians should frankly suggest and recommend people the possible means for the improvement from medical and administrative view points. It does not only mean to help the people under miserable conditions, but it does mean to help ourselves, because all of us are equally involved in mankind.
著者
松本 尚之
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2014, no.85, pp.1-12, 2014
被引用文献数
1

本論文では,在日ナイジェリア人のライフストーリーを,特に来日から現在に至る就業の変遷に注目しながら詳述する。特に,在日ナイジェリア人のなかでも多数派であるイボ人を事例とし,彼らの経済活動の多角化,トランスナショナル化の傾向を明らかにする。それによって,日本に暮らすアフリカ系移民の定住化とトランスナショナルな移動の関係性について論じたい。<br>来日したイボ人たちの多くが,工場や建設現場で働く非正規労働者として日本での就業を開始する。しかし,「出稼ぎ外国人労働者」としての生活は,ナイジェリアから日本にやってきた移民たちの一面を表すに過ぎない。本論で取り上げるどの事例からも,在日イボ人たちの就業が一種に集約することなく,複数業種を跨いで多角化していく傾向が見て取れる。さらに,就業の多角化は,日本国内だけでなく複数のローカリティにまたがってトランスナショナルに展開していく。本論文では,経済活動の多角化,トランスナショナル化の傾向が,在日イボ人たちの滞在期間の長期化,高齢化と結びついた現象であることを論じる。それによって,日本人配偶者との結婚や永住権の取得といった,一見すると「定住化」ともとれる現象が,トランスナショナルな移動を促す契機となっていることを明らかにしたい。
著者
南谷 貴史
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2004, no.65, pp.19-35, 2004
被引用文献数
1

近年, 西アフリカではコメの需要が増加の一途をたどっており, 輸入米への依存度を強めている諸国が大半を占める。コートジボワールでも供給量の40%に当たる78万tを輸入に依存している。陸稲栽培に対し, 比較的高い単収が期待される灌漑稲作栽培の展開は, 内陸小低地を利用した大規模開発を中心に進展されてきたが, 基準となる栽培技術の普及や設備の維持管理等の諸問題により, 依然として生産を安定させるには至っていない。<br>本稿ではコートジボワールの内陸小低地に点在する灌漑稲作地域においての現地調査を通し, 農民の行動を左右する自然的要因及び社会経済的要因の特徴を開発形態別に明らかにするとともに, 灌漑稲作を基幹作物とする農村における諸問題の解決に向け, 内発的・持続的であるかといった視点に立ち, 導入可能な適正技術を検討し, 農民参加型での事例検証を行った。<br>自然資源利用型の政府主導による大規模開発地域に対し, 内発的開発形態としての農民自らの開墾地域は, 持続性・自立発展性において優位性が認められ, また, 小規模機械化に伴う農民組織化は灌漑稲作を進展させるひとつの適正技術になり得ると考えられる。<br>農村社会の生活向上のためには, 農民の持つ開発能力の進展 (エンパワーメント) を図ることが重要であり, 人的資源・社会資源を再評価し, それを活用する環境を如何に整えるかが課題となる。
著者
藤井 千晶
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.72, pp.43-51, 2008

本稿の目的は, これまで十分に記述されてこなかったザンジバル (タンザニア) における預言者ムハンマドの生誕祭の様子と, この生誕祭でのタリーカ (スーフィー教団) の活動を報告することである。預言者生誕祭は, ムスリム (イスラーム教徒) にとって最も重要な行事の一つである。また, この行事ではイスラーム世界の大部分のタリーカが一斉に活動する。<br>19世紀後半, ザンジバルには様々なタリーカが到来し, 沿岸部や交易路における民衆レベルのイスラーム化に大きく貢献してきた。東アフリカに預言者生誕祭を持ち込んだのもタリーカであったが, 先行研究では預言者生誕祭やタリーカの活動実態については, ほとんど明らかにされてこなかった。<br>筆者がおこなった参与観察によると, ザンジバルの預言者生誕祭は預言者の生誕日から約3週間, 島内各地で開催された。各生誕祭は, 基本的に地域の有力者主催の儀礼と, その後に複数のタリーカがそれぞれ主催するズィクリ (神の名を繰り返し唱える修行) の2部構成であった。また, 先行研究には言及されてない新たなタリーカの存在も明らかとなった。