世良田新六郎貞暁 (@OW6eGnKkItZyqgU)

投稿一覧(最新100件)

RT @eixWtmVHx7yPXk2: 参勤交代の目的について話題ですが、時代が下ってもこんな事例が。 諸大名が参勤交代の際に大名行列の行列道具を華美にすることで、自らの武威を示したがっている様子が見られます。 山本英貴「江戸幕府の政務処理と幕藩関係 ー家斉期の行列道具を素…
RT @sayonosuke: この鬚切来由記については、鈴木先生の論文があります。 https://t.co/3hQD6KJKnZ
RT @hana76781232: 今情報をいただいたので、ご説明いただいた文章と共に転載させていただきますね https://t.co/A2qlo8Zsto 「昭和8年のプロレタリア戯曲の「五稜郭血書」に「蝦夷共和国」の文字が見えます。著者は久保栄。左翼の幻想の中にあったので…
RT @admiral_wakky: J-STAGE Articles - 一九〇一年のドイツへの清朝「謝罪使」の派遣 : 「謝罪使」観と謁見儀礼問題を中心に https://t.co/KqvCc53WRy 興味深い話だった…

12 0 0 0 OA 維新史八講

RT @itaru_ohyama: 「全体幕府衰亡といふ意義は武家の全滅である、江戸のみが亡びて諸藩が残る道理は無い、倒幕論者は当時何と考へて誤解して居たか知らぬが、薩長が之に代ると云ふことも誤解である、維新史は幕府と諸藩の共倒れを物語るのです」 吉田東伍 述『維新史八講』p8…
RT @mamesiba195: @letssaga3 実際のところ、劉淵はただ内地に入った匈奴を率いたということで、羯などのかつての匈奴従属部族もなかなか組み込めず、それほど有力な勢力ではなかったようですね。 この論文でも劉琨に圧されていて、洛陽の方が攻めやすかったとなって…
RT @a_ri_no_ri: 加賀本多家といえば、このへんが参考になる。 加賀藩における本多政重登用の再検討https://t.co/ST3M6MbUC6 保科正之後見期の加賀藩についてhttps://t.co/nsbmGhzN5h 本多政重家臣団の基礎的考察--その家臣団構…
RT @a_ri_no_ri: 加賀本多家といえば、このへんが参考になる。 加賀藩における本多政重登用の再検討https://t.co/ST3M6MbUC6 保科正之後見期の加賀藩についてhttps://t.co/nsbmGhzN5h 本多政重家臣団の基礎的考察--その家臣団構…
RT @a_ri_no_ri: 加賀本多家といえば、このへんが参考になる。 加賀藩における本多政重登用の再検討https://t.co/ST3M6MbUC6 保科正之後見期の加賀藩についてhttps://t.co/nsbmGhzN5h 本多政重家臣団の基礎的考察--その家臣団構…
RT @QmHSxpgqThzrxfk: 家康が直接織田家に人質に送られたかどうか、というのが話題になっているので、とりあえず出典論文置いておくなどします ネットで読めるものなので、とりあえず読んだ方が早い 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学会論叢』1号 201…
RT @a_ri_no_ri: 本多先生の本にも書かれていたし、確か、ciniiで検索したときにダイレクトにそういうタイトルの論文があったハズと確認してきた。 CiNii 論文 - 仮説 三方原の戦いと浜松城 : 徳川(家康)は大敗していなかった! https://t.co/…

10 0 0 0 OA 華族大系

RT @kishimoto_yoshi: 明治2(1869)年に華族制度が始まったときは427家。同17(1884)年に公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位が定められた時には509家まで増加。昭和22(1947)年の制度廃止までに1011家の華族が誕生した。  この華族のルーツを…
@Wakiya_Teishu 以下のような興味深い論文を見つけましたので紹介させて頂きます。 「太平記」における大館氏と江田氏の考察 https://t.co/OUHTSeQcl0 「太平記」における岩松経家一族の考察 https://t.co/xLldjpwv7B あらためまして、御教示誠にありがとうございました。
@Wakiya_Teishu 以下のような興味深い論文を見つけましたので紹介させて頂きます。 「太平記」における大館氏と江田氏の考察 https://t.co/OUHTSeQcl0 「太平記」における岩松経家一族の考察 https://t.co/xLldjpwv7B あらためまして、御教示誠にありがとうございました。
RT @Fransisco1530: ネットで読めるオススメ資料 今後いい感じの資料に出会ったら検索しやすいようにこのツイートのリプに追加していきます。 皆さんもオススメ論文等あればこちらに追加していただけると助かります!! (サンプル) 1 「足利一門再考 : 「足利的秩…
RT @yougoha: で、この矛盾を「元常の養子」に変えることで世代的には矛盾を無くしたのが18世紀成立の「御家譜」だったようなのだけど、それで思い出したのがこの藤孝の出自の移り変わり詳細に示してるこの論文 CiNii 論文 - 細川幽斎の出自について https://t…
RT @a_ri_no_ri: J-STAGE Articles - 豊国大明神号の創出過程に関する一考察 https://t.co/3psg4UwA7T 秀吉の神号が新八幡ではなく豊国大明神となったのは、後陽成天皇、徳川家康、豊臣(羽柴家)の3者の都合によるという説。明との冊…
RT @urakkun26: 1997年のこの論文では豊臣政権内での源氏徳川将軍萌芽が見られる可能性が言及されているが同時に北条領平定の尖兵として豊臣政権が徳川に源氏を名乗らせた可能性についても触れられており、当方としては後者の意味しか無かった様に思う。 https://t.c…

4 0 0 0 OA 江戸三百年

RT @na_mitsuki: 明治時代の小説『江戸三百年』で既に築山殿の名前は瀬名と設定されていたようだ https://t.co/jylpsB1ID4
RT @na_mitsuki: 築山殿を「瀬名姫」と呼ぶのは山岡荘八の小説からだと思っていたが、史疑徳川家康の方が先だった。この分だと幕末ぐらいまでは遡れるかもしれない https://t.co/hCJ5yWOhv6
RT @ieyasu_freak_22: 小牧長久手の戦い前後に家康と秀吉が対立関係に突入する前に織田権力の立場として、秀吉が家康に東国の安定化と関東惣無事を要請している点は、谷口央氏が論文を発表していますが、今回の講義もそれを踏襲する内容でした。 https://t.co/i…
RT @a_ri_no_ri: CiNii 論文 -  結城秀康文書の基礎的研究 https://t.co/sP221qOHwm #CiNii この論文だと秀康は秀吉没後、直ぐに秀朝から秀康に戻してる。結城晴朝の「朝」を止めて家康の「康」に戻している時点で、「結城」を捨ててる感…
RT @a_ri_no_ri: CiNii 論文 -  天正年間における家康への近江在京賄料について https://t.co/5jrqc1jCvB #CiNii 先ほどRTした本はこの方のですね。読みたかった「長丸=秀忠」についての論文も入っている。
RT @a_ri_no_ri: CiNii 論文 -  結城秀康文書の基礎的研究 https://t.co/sP221qOHwm #CiNii この論文の段階では黒田先生も秀康が徳川を名乗ったかどうか不明としていたけど、史料が見つかったんだな。
RT @a_ri_no_ri: CiNii 論文 -  本多政重家臣団の基礎的考察--その家臣団構成について https://t.co/zfRulfdux7 #CiNii 上杉は禄高が減った後もリストラをしてはいない?が、追い出しはしているらしい…。

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参勤交代の目的について話題ですが、時代が下ってもこんな事例が。 諸大名が参勤交代の際に大名行列の行列道具を華美にすることで、自らの武威を示したがっている様子が見られます。 山本英貴「江戸幕府の政務処理と幕藩関係 ー家斉期の行列道具を素材としてー」 https://t.co/oWAkpcRX5b
今情報をいただいたので、ご説明いただいた文章と共に転載させていただきますね https://t.co/A2qlo8Zsto 「昭和8年のプロレタリア戯曲の「五稜郭血書」に「蝦夷共和国」の文字が見えます。著者は久保栄。左翼の幻想の中にあったのでしょう。」
この鬚切来由記については、鈴木先生の論文があります。 https://t.co/3hQD6KJKnZ
J-STAGE Articles - 一九〇一年のドイツへの清朝「謝罪使」の派遣 : 「謝罪使」観と謁見儀礼問題を中心に https://t.co/KqvCc53WRy 興味深い話だった…

12 0 0 0 OA 維新史八講

「全体幕府衰亡といふ意義は武家の全滅である、江戸のみが亡びて諸藩が残る道理は無い、倒幕論者は当時何と考へて誤解して居たか知らぬが、薩長が之に代ると云ふことも誤解である、維新史は幕府と諸藩の共倒れを物語るのです」 吉田東伍 述『維新史八講』p81 https://t.co/Qb4xd0PjLY
@letssaga3 実際のところ、劉淵はただ内地に入った匈奴を率いたということで、羯などのかつての匈奴従属部族もなかなか組み込めず、それほど有力な勢力ではなかったようですね。 この論文でも劉琨に圧されていて、洛陽の方が攻めやすかったとなっていました。 永嘉の乱の実像 https://t.co/ANIgaYqFHf
加賀本多家といえば、このへんが参考になる。 加賀藩における本多政重登用の再検討https://t.co/ST3M6MbUC6 保科正之後見期の加賀藩についてhttps://t.co/nsbmGhzN5h 本多政重家臣団の基礎的考察--その家臣団構成についてhttps://t.co/3dgEGj0u5J
加賀本多家といえば、このへんが参考になる。 加賀藩における本多政重登用の再検討https://t.co/ST3M6MbUC6 保科正之後見期の加賀藩についてhttps://t.co/nsbmGhzN5h 本多政重家臣団の基礎的考察--その家臣団構成についてhttps://t.co/3dgEGj0u5J
加賀本多家といえば、このへんが参考になる。 加賀藩における本多政重登用の再検討https://t.co/ST3M6MbUC6 保科正之後見期の加賀藩についてhttps://t.co/nsbmGhzN5h 本多政重家臣団の基礎的考察--その家臣団構成についてhttps://t.co/3dgEGj0u5J
家康が直接織田家に人質に送られたかどうか、というのが話題になっているので、とりあえず出典論文置いておくなどします ネットで読めるものなので、とりあえず読んだ方が早い 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学会論叢』1号 2015年) https://t.co/fGkkftd1vV
本多先生の本にも書かれていたし、確か、ciniiで検索したときにダイレクトにそういうタイトルの論文があったハズと確認してきた。 CiNii 論文 - 仮説 三方原の戦いと浜松城 : 徳川(家康)は大敗していなかった! https://t.co/JimpmYReS7 #CiNii

10 0 0 0 OA 華族大系

明治2(1869)年に華族制度が始まったときは427家。同17(1884)年に公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の爵位が定められた時には509家まで増加。昭和22(1947)年の制度廃止までに1011家の華族が誕生した。  この華族のルーツを詳しく記した文献としては『華族大系』がある。 https://t.co/r1fEPeQhmB https://t.co/Dk13Hz3XR2
張振甫のWikipediaの項目だと「王族」としか書いてなくて、いまいち分からなかったから調べたら、80年前の1940年に善鄰社という方が『淮王常清之研究』を書いていて、それが国会図書館にあったので、無事系図が分かりました。明の仁宗(洪熙帝)の子である准靖王の子孫みたいですhttps://t.co/o3hU15NrUp https://t.co/iDy0lpL4nO
ネットで読めるオススメ資料 今後いい感じの資料に出会ったら検索しやすいようにこのツイートのリプに追加していきます。 皆さんもオススメ論文等あればこちらに追加していただけると助かります!! (サンプル) 1 「足利一門再考 : 「足利的秩序」とその崩壊」:谷口 雄太 https://t.co/NPYjIyDNB7

1 0 0 0 OA 維新史

@OW6eGnKkItZyqgU 調べていったら明治書院『維新史』の「諸藩一覧附藩名索引」というものが国会図書館のネット閲覧可能なことを見つけることができました。 ありがとうございます。 https://t.co/vNpll1UA0m
J-STAGE Articles - 豊国大明神号の創出過程に関する一考察 https://t.co/3psg4UwA7T 秀吉の神号が新八幡ではなく豊国大明神となったのは、後陽成天皇、徳川家康、豊臣(羽柴家)の3者の都合によるという説。明との冊封関係から考察されてる。
1997年のこの論文では豊臣政権内での源氏徳川将軍萌芽が見られる可能性が言及されているが同時に北条領平定の尖兵として豊臣政権が徳川に源氏を名乗らせた可能性についても触れられており、当方としては後者の意味しか無かった様に思う。 https://t.co/q5wqnI3vhy
花園天皇はその学問から「末代の賢主」として高く評価されていますが、彼の置かれた立場と学問との関係を見直して、その高評価を相対化する興味深い論文として、市沢哲「花園天皇日記にみる学問のはたらき」があります。 https://t.co/nGZ94EnCdk
で、この矛盾を「元常の養子」に変えることで世代的には矛盾を無くしたのが18世紀成立の「御家譜」だったようなのだけど、それで思い出したのがこの藤孝の出自の移り変わり詳細に示してるこの論文 CiNii 論文 - 細川幽斎の出自について https://t.co/nma6aCXcCY #CiNii
小牧長久手の戦い前後に家康と秀吉が対立関係に突入する前に織田権力の立場として、秀吉が家康に東国の安定化と関東惣無事を要請している点は、谷口央氏が論文を発表していますが、今回の講義もそれを踏襲する内容でした。 https://t.co/ijdfSuOc7m
CiNii 論文 -  結城秀康文書の基礎的研究 https://t.co/sP221qOHwm #CiNii この論文だと秀康は秀吉没後、直ぐに秀朝から秀康に戻してる。結城晴朝の「朝」を止めて家康の「康」に戻している時点で、「結城」を捨ててる感じがあるような…?
CiNii 論文 -  天正年間における家康への近江在京賄料について https://t.co/5jrqc1jCvB #CiNii 先ほどRTした本はこの方のですね。読みたかった「長丸=秀忠」についての論文も入っている。
CiNii 論文 -  結城秀康文書の基礎的研究 https://t.co/sP221qOHwm #CiNii この論文の段階では黒田先生も秀康が徳川を名乗ったかどうか不明としていたけど、史料が見つかったんだな。
CiNii 論文 -  本多政重家臣団の基礎的考察--その家臣団構成について https://t.co/zfRulfdux7 #CiNii 上杉は禄高が減った後もリストラをしてはいない?が、追い出しはしているらしい…。

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